【超略解シリーズ】 老子 -古えの善く道を為す者-

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天心です。

【超略解シリーズ】としまして、早速、老子道徳経の内容についてお話していきたいと思います。

初回は二度にわたり、老子序章として、概略をお話してきました。

まだ、読んでない方は、そちらを最初に読まれてから、当該記事を読まれることをお勧めします。

【超略解シリーズ】 老子 -序章-
【超略解シリーズ】 老子 -序章2-

また、当該シリーズの老子道徳経編のバックナンバーは以下になります。
合わせてお読み頂ければ幸いです。

【超略解シリーズ】 老子 -道の道とすべきは-
【超略解シリーズ】 老子 -天下みな美の美たるを知るも-
【超略解シリーズ】 老子 -賢を尚ばざれば-
【超略解シリーズ】 老子 -道は沖しきも-
【超略解シリーズ】 老子 -天地は仁ならず-
【超略解シリーズ】 老子 -谷神は死せず-
【超略解シリーズ】 老子 -天は長く地は久し-
【超略解シリーズ】 老子 -上善は水の若し-
【超略解シリーズ】 老子 -持してこれを盈たすは-
【超略解シリーズ】 老子 -営魄を載んじ-
【超略解シリーズ】 老子 -三十の輻-
【超略解シリーズ】 老子 -五色は人の目を-
【超略解シリーズ】 老子 -寵辱には驚くが若し-
【超略解シリーズ】 老子 -これを視れども見えず-


それでは、老子道徳経の解説に入っていきたいと思います。


◆◇ 古えの善く道を為す者 ◇◆


【原文(書き下し)】

古(いにし)えの善く道を為す者は、微妙玄通、深くして識(し)るべからず。
夫(そ)れ唯(た)だ識るべからず。
故に強いてこれが容(よう)を為さん。
予として冬に川を渉るが若(ごと)く、猶(ゆう)として四隣(しりん)を畏れるが若く、儼(げん)として其(そ)れ客の若く、渙(かん)として冰(こおり)の将(まさ)に釈(と)けんとするが若く、敦(とん)として其れ樸(ぼく)の若く、曠(こう)として其れ谷の若く、混(こん)として其れ濁れるが若し。
たれか能(よ)く濁りて以(もっ)てこれを静かにして徐(おもむろ)に清(す)まん。
たれか能く安らかにして以てこれを動かして徐に生ぜん。
此の道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。
夫れ唯だ盈つるを欲せず、故に能く敝(やぶ)れて而(しか)も新たに成る。


【超意訳】

昔の道を心得た者は、とても神秘的で高次元であるためその働きや能力を深く推し量ることは出来ません。
推し量ることは出来ないのですが、あえて表現するならば以下のような感じです。
冬の冷たい川を渡る時のように慎重で、ゆっくりとあたりを観察し、厳粛な礼節をわきまえた客人のごとき気品があり、それでいて、氷のように溶けてしまえば綺麗さっぱりその形を止めることはない、削られる前の素朴な丸木のような飾り気もなく、広々として深い谷底のように懐深く、濁れる水のごとく混沌として複雑な有り様を持ちます。
濁れる水が透き通るまで静かに動かずに居られる者が他にいるものでしょうか。
ことさらに動かないで安らかな状態のまま何かを創造し続ける者が他にいるものでしょうか。
道に準じて生きる者は、満たされようとはしません。
満たされようとしないからこそ、例え滅びても新たに生まれ変わることが出来る。


【超解説】

道(タオ)を体得した人というものが如何なる人なのかということについて述べられています。
老子の特徴的な点として、「道(タオ)」は人智では推し量れないとしている点ですが、その言葉はそのまま老子道徳経という言葉がつづられたものをも否定してしまいます。
そのあたりの苦悩というか矛盾を承知の上で何かを紡ぎ出そうとする熱意のようなものをこの文からは感じますね。

あえて道を体得した聖人の特徴は、大きなくくりで言えば、とても消極的な人に見えるということです。
冷たい川は渡らないし、周囲に気を配って容易には動かない。
それでいて、素朴で派手さはなく、谷底のように懐が深い、そして混沌としている。
一見すると単なる臆病者で自分のことに無頓着な人という印象ですね。

でも、人は見かけにはよらないということでしょうか。
一見、消極的なように見えて、どこまでも物事を創造するエネルギーと働きを持っているというのです。
何もしなくても創造されていく、満たされようとしないけれど、いつでもエネルギーに満ちている。
そんな人が昔から言い伝えられている聖人というべき人だと老子は言っています。

満たされようとしないからこそ、そこに無限のエネルギーが湧いてくる。
丁度、引き寄せの法則のように無限のエネルギーそのものに自身がなってしまい、感じることが、創造における全ての原初であると言えるのかも知れません。


以上、老子道徳経の超略解になります。

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【超略解シリーズ】 老子 -これを視れども見えず-

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【超略解シリーズ】 老子 -序章2-

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【超略解シリーズ】 老子 -谷神は死せず-
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【超略解シリーズ】 老子 -上善は水の若し-
【超略解シリーズ】 老子 -持してこれを盈たすは-
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【超略解シリーズ】 老子 -五色は人の目を-
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◆◇ これを視れども見えず ◇◆


【原文(書き下し)】

これを視れども見えず、名づけて夷(い)と曰(い)う。
これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。
これを塼(とら)うるも得ず、名づけて微(び)と曰う。
此の三つの者は詰(きつ)を致すべからず、故(もと)より混じて一と為る。
其の上は皦(あきら)かならず、其の下は昧(くら)からず。
縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物に復帰す。
是を無状の状、無物の象(しょう)と謂い、是れを惚恍(こつこう)と謂う。
これを迎うるとも其の首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うとも其の後(しりえ)を見ず。
古(いにし)えの道を執りて、以て今の有を御すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。
是れを道紀(どうき)と謂う。


【超意訳】

どんなに視ようとしても見えないもの、それをあえて名づけるならば夷(い)と呼ぼう。
どんなに耳を澄ませて聴こうとしても聞こえないもの、それをあえて名づけるならば希(き)と呼ぼう。
どんなに頑張って捕まえようとしても捕まえられないもの、それをあえて名づけるならば微(び)と呼ぼう。
この三つに関しては、どんなに突き詰めてもその全体像はこれ以上にはわからない、元々は一つに混ざり合ったものでもある。
これ以上は明らかにできないし、この他に何かを隠すようなものもない。
ぼんやりとして名づけようもなく、いずれは無に帰ってしまう。
この有りようを表現するならば、姿のない姿、形のない形、恍惚としてはっきりとしないものとしか言いようがない。
迎え入れようと準備していても、その正面をとらえることは出来ないし、後ろを追いかけてみようにも、背中を見ることも出来ない。
古くから伝わる道のありように従って、現状に活かすことを心がけることで、古くから伝わる道というものが如何なるものであるのかを知ることが出来るだろう。
これが道に従うための方策というものである。




【超解説】

老子が常に一体であることを求めた「道(タオ)」というものは、どうにも捉えどころがないものです。
確かに存在はしているのだけれど、これが道というように固定的に指さして示せるものではありません。
このことは、これまでの老子道徳経の中でも度々、示されています。
確定的に指し示すことが出来ないゆえに様々なたとえ話やあり方を説明の糧にして「道」とは何かということを老子は示そうと必死になっています。

道と一体となった政治や生き方というものを主張する老子にとって、その指し示す道というものが、ハッキリと示せない性質であることに若干の苦悩のようなものを抱えていたのではないかと感じられます。
どんなに視たくても見えない、耳を澄ませても聞こえない、捕まえてやろうと画策しても、捕まえることは出来ない。
待ち伏せしていても、その顔がどんな顔をしているのか「道」は見せてくれません。
道を追いかけても、その後ろ姿すらもわからない。

こんな曖昧模糊としたものを中心に据えて、政治や生き方を考えねばならないのは、中々、難儀なことであるわけです。
本当に偉大で、尽きることのないエネルギーは、一筋縄でとらえることは出来ないのです。
しかし、老子は、その取扱いが難しい「道」について、如何にすべきかという結論として古くからある、「道」の有りようを手掛かりに現状の自分のありように適用していくことで、段々と古くから伝えられている「道」に関する理解が深められると考えたようです。







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【超略解シリーズ】 老子 -寵辱には驚くが若し-

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【超略解シリーズ】 老子 -五色は人の目を-

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◆◇ 寵辱には驚くが若し ◇◆


【原文(書き下し)】

寵辱(ちょうじょく)には驚くが若(ごと)し。
大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身の若くなればなり。
何をか寵辱には驚くが若しと謂う。
寵を上と為し、辱を下と為し、これを得るに驚くが若く、これを失うに驚くが若し。
是れを寵辱には驚くが若しと謂う。
何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。
吾れに大患有る所以(ゆえん)の者は、吾れに身有るが為めなり。
吾に身無きに及びては、吾れ何の患(わずら)い有らん。
故に身を以てするを為(おさ)むるよりも貴べば、若(すなわ)ち天下を托すべく、身を以てするを天下を為むるよりも愛すれば、若ち天下を寄すべし。


【超意訳】

寵愛を受けるのか、屈辱的な目にあるのか皆、戦々恐々として心を動揺させる。
まるで、それは、患った大きな病を自分の健康な身体よりも大切にしているようなものだ。
寵愛されることが素晴らしく、屈辱を受けるのは、良からぬことだとして、寵愛が得られれば心が乱れ、失えばこれまた、心が動揺する。
こういうのを「寵辱に踊らされて心を乱して本質が見えない状態」というのだ。
寵愛を得るか屈辱な目にあうかが気になっていて、本質が見えないのはどういうことか。
まるで、自分の身体よりも病気を大切にしているようなものだ。
病気になるのは、身体があってのことである。
身体が壊れてしまえば、病気になることすらなくなる。
この道理にあるように病気に対し、戦々恐々とすることよりも、その本質である身体の健康を貴び、意識する人が天下を治めるようにするべきであり、自分の身体をちゃんと労われる人にこそ天下をあずけることが出来る。



【超解説】

人は誰でも、褒められたり愛されれば嬉しいですし、屈辱的な目にあいたいとは思わないものです。
寵愛されるためには、何が必要か?恥を受けないためにどうあるべきか?と考えてしまいがちです。
でも、考えてみれば、寵愛も屈辱も人の目を曇らせてしまう働きをすることが多いものです。
現に人は、愛されたいと願うあまり浮き足立ち、屈辱に心を乱されがちです。
これは、自分の本質的なあり方から心が離れて、どうにもつかみようがないような幻を追いかけているようなものなのかも知れません。

寵愛も屈辱も一時のことで、すぐに失ったり形を変えてしまうことも多いものです。
老子は、寵愛や屈辱を病気に例えています。
健康な身体があることが本来の人の幸せであるわけですが、病気はそれをダメにする要因です。
暗に老子は、寵愛や屈辱という名誉や汚辱というものにとらわれることは、病気になるようなものだと指摘しているのかも知れません。

文中では、身体と病気を同一の価値のあるものとして見ることのバカバカしさを指摘しています。
身体があればこそ、病気にもかかる。
身体がなくなれば病気にかかることすらなくなるという表現でそれを表しています。
老子は、天下を治めるべき器を持つ人は、自分の身体を労わる者だといっています。

しかし、これは、額面通りの自分の身を可愛がる人という意味ではありません。
そのような表面的な意味としてとらえてしまうと、自分勝手な人が天下の君子であるという誤った咀嚼につながります。
そうではなく、ここで老子が言いたいのは、本質を見失い、実体のない幻想のような寵愛や屈辱といったものに囚われるような器の人間には、天下を治めることは出来ないという意味合いなのですね。

また、進んで病気になるようなこと(寵愛や屈辱などの実態のない幻影)に近づいて右往左往するようなことがないように戒めているのかも知れません。
私達も風評や他人から与えられる評価や愛されるということに惑わされることが多いといえます。
そう考えるならば、私達もまた、自らの身体を大事にするかのように本質を探究し、何が本当に大切なことなのかを理解することが必要なのかも知れません。





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【超略解シリーズ】 老子 -五色は人の目を-

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◆◇ 五色は人の目を ◇◆


【原文(書き下し)】

五色は人の目をして盲(もう)ならしむ。
五音(ごいん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ。
五味は人の口をして爽(たが)わしむ。
馳騁畋猟(ちていでんりょう)は、人の心をして狂を発せしむ。
得難きの貨は、人の行いをして妨げしむ。
是(ここ)を以て聖人は、腹を為して目を為さず。
故に彼を去(す)てて此れを取る。/span>

【超意訳】

煌びやかな色彩になれてしまうと人は本質的に良いものが見分けられない盲人のようになっていまう。
様々な音律で奏でられる音楽にふけると、本当に麗しい自然の織り成す音楽が聞こえない聾者のようになってしまう。
味わいがきつい食事ばかりをしていると口が肥えて、自然の中にある本当の味わいがわからなくなってしまう。
乗馬をしたり狩猟に明け暮れると興奮して自分の心を見失ってしまう。
貴重な品々に心を奪われると正しい行動を取ることの妨げとなってしまう。
これらの理由から聖人は、必要なだけ腹を満たすことを考えて、余計なものに関心を払わない。
それゆえに聖人は、煌びやかな贅沢を遠ざけて、本質的なことのみを得ようとするものだ。



【超解説】

私達は得てして、できるだけ美しい色彩のあるものやデザインを求めることが多いものです。
音楽も様々なリズムやビートを刻み、できるだけ心が揺れ動かされるものを求めようとします。
食べ物もなるべく美味で飽きてしまえば、新しい珍味に興味がわきます。
なるべく盛り上がって、楽しめるようなレジャーや遊びに興じて、わくわくドキドキする時間を楽しみます。
スマートフォンをはじめ新しい珍しいものには、敏感に反応して流行を追い求めることもあります。
はい♪殆ど、老子は全否定です。(笑)
本当に現代社会を振り返りながら老子を読むと苦笑いして出てきませんね。(苦笑)
老子は、単純に「贅沢は敵だ!」と戦中の日本人のようなスローガンを掲げているわけではありません。
共通していえるのは、目に見るもの、聞くもの、食べるもの、楽しむもの、身の回りにある品々も全ては、私達に大きな影響を与えているということを老子は指摘しています。
私達は知らず知らずのうちに目にしているものや聞いているもの、食べ物、遊び、道具など環境によって多大な影響を受けているわけです。
私達が何を嗜好し、何を思い、どこへ向かうのかも結局は外部の環境によって影響を受けます。
私達が欲しがるものは、テレビや雑誌、あるいはネットで流されている映像や情報を見て決まってしまいます。
私達がハンバーガー食べたいな♪と思ったりするのは、ハンバーガーのCMを見てるからです。
ハンバーガーのCMを見ていなければ、ハンバーガーの存在すら知ることはないので、欲しいとも思わないはずです。
私達の生きる社会は資本主義経済のもと、なるべく煌びやかに見せて、心躍らせる音楽で臨場感を盛り上げて、濃い味付けで食欲を喚起して、消費へと導かれていきます。
でも、私達に必要な栄養素や道具立てというものは、ある程度まで満たされれば十分でもあります。
衣食足りて礼節を知るといいますが、ある程度、生活に必要なものがあれば、私達が求めるものはもっと本質的なものへと向かうはずです。
消費欲求や単純に得たいと思う最低限のレベルからもっと高次元の境地で物事を見ていく方向に心が向かうはずなのです。
しかし、あまりにも過度な色彩や音律、味わいを追い続けると、私達が本来、求める高次元の喜びには意識が向かわなくなると老子は警鐘を鳴らしているわけですね。
老子道徳経の中で挙げられている例はあくまで、老子の生きた古い時代のものではありますが、実際のところ指摘されている警鐘は、現代を生きる私達にもそっくりそのまま当てはまってしまいます。
贅沢に身をゆだね、感覚がマヒしてくると本当に自分が求めていた魂の欲求が何であったのかわからなくなるものです。
それを古い時代にすでに喝破して指摘している老子は、ほとんど「神」ですね。(笑)



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◆◇ 三十の輻 ◇◆


【原文(書き下し)】

三十の輻(ふく)、一つの轂(こぐ)を共にす。
其の無に当たって、車の用有り。
埴(つち)を挺(う)ちて以て器を為(つく)る。
其の無に当たって、器の用有り。
戸牖(こゆう)をうがちて以て室(しつ)を為る。
其の無に当たって、室の用有り。
故に有の利を為(な)すは、無の以て用を為せばなり。/span>

【超意訳】

車の車輪は三十本のスポークが軸に集まって作られている。
車輪の中心には何もない空間があるが、その空間があることで車輪として利用をすることができる。
泥をこねて丁度、くぼみがあるように器は作られている。
器というものはそのくぼみの何もない空間があればこそ、器として利用することが出来る。
扉や窓、壁を囲んで何もない空間を創造することで部屋は作られている。
何もない空間を創造することで、部屋を部屋として利用することが出来る。
このように私たちの身近に存在して利用しているものは、「なにもない」という働きがあればこそ、その有限の働きをなすことが出来るものなのだといえよう。


【超解説】

私たちは目に見えている部分、すなわち実体がハッキリしているものに着目しがちです。
しかし、実際に目に見えていない部分によって、目に見える部分に意義を与えられていることがしばしばあるということですね。
特に今回、大事なキーワードは「何もない」という点です。
何もないから全くそこには働きはなく、意味もない。
こう考えてしまいがちですが、何もない空間に大きな意味がもたらされていることもあるのだということを老子は説きます。
車の車輪を車輪として使うためには真中に空間がなければ利用できません。
現代の車で鑑みれば、タイヤの中は何もありませんが、何もないから空気を詰めて弾力を得て、タイヤとして使えるということですね。
また、お茶碗やコップのような器も、くぼんだ空間がもし、埋め尽くされていたら、器として何の利用もできないわけです。
水も汲めませんし、お茶も飲めません。
私たちが生活をする場としての部屋も空間があるからそこで寝転んだり、食事をしたり、色々とできるわけですね。
何もないということがとてもありがたく機能しているわけです。
老子はこの何もないということすらも道の働きだと喝破していました。
有があり無がある。
有と無が調和しているからこそ、私たちは様々な恩恵を受けています。
有には意識が向きやすいものですが、老子はあえて無を強調することで、道の働きのありように意識を向けさせたかったのかも知れません。
また、スピリチュアル的にこの章を解釈すると一つの雑念のない霊空間という場を開くとそこに満たされるべく、新しいエネルギーがやってくるという意味合いも示唆しています。
健全なスピリットを呼ぶためには、健全な純化された空間を作ることが肝要なのです。
老子は有と無の相対的な話だけをしたかったわけではないようにも思います。
私たちはもっと積極的に無の働きを考えていかねばならないのかも知れません。



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