息吹に触れる

先日、上野の東京国立博物館で開催されていた「空海と密教美術展」という催しものに行って参りました。

非常の多くの方が来客されていて、現代においても、未だ衰えぬ弘法大師空海の人気を垣間見た気が致しました。

東寺や高野山といえば、仏教に興味がなくても一度は耳にしたことがあるのではないかと思えるほど、民間での信心の対象とされる弘法大師空海。

衆生とともに生きて、どこまでも衆生を救うために一生をささげたお方であるだけに未だに人気の衰えを知らないわけですね。

そんな空海の密教に関する美術的かつ歴史的にも価値があるという展示品が上野の博物館で公開されているわけです。

これはもう一度は観に行かなくては(笑)と思い、時間を作って行ってきました。

様々な空海に関する解説が述べられたパネルが並び、それを読む人だかりにもまれながらの、中々大変な混雑の中であったため、あまり落ち着いては見られなかったのですが、空海が書いたとされる書物の巻物を観た瞬間にぐいぐいと引き込まれる感覚を覚えました。

とても不思議な感覚です。

そもそも、全て漢文で書かれているため、意味は読んでいてもわからないはずなのですが、なぜか目が離せなくなるのです。

おそらく表面的なだけの鑑賞であれば、空海の達筆で美しい字体には目を奪われることと思います。

しかし、実際にはそれだけでなく、弘法大師空海の息使いや、息吹をそこから感じることができます。

何を思い、何を志、何を願って書かれたものなのか。

こういうことを考えながら鑑賞をしていると、そこに宿る霊威を感じるのです。

だから、読んでも意味はわからなくとも、その息吹に触れることで、その霊流を受けているわけで、とても幸せな気持ちに包まれながら、空海の世界を感じることができました。

私たちは、どうしても目に見えること音に聞こえること、言葉としてあらわされていることに気を取られてしまいがちです。

表面的なことに囚われてしまう傾向があるのではないかと思うのです。

ですから時として、こうして理屈を抜きにして本当に優れた方の残したものに触れて息吹を頂くことは、霊的にもプラスになることがあります。

良き運気を持つ人や優れた人格、霊格を持つ人、あるいは神霊と触れあうことの意義を考える時、この息吹に触れるという発想は持っておいた方がよいでしょう。

そうしないと、形に囚われてしまうことになり、本質を体験、体感できずに終わってしまうことになるかも知れません。

今回の空海と密教美術展では、そのようなことを感じさせて頂く機会となり、有意義な時間を頂けたことに感謝をしたいと思います。


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人智を超えるコツ

人それぞれに目標があり、叶えたい夢や希望があることと思います。

人生のストーリーも理想があり、なるべくそうありたいと想えばこそ、人は努力をするわけです。

誰でも皆、煎じつめれば、十人十色に見える人生も同じように皆、理想に向かって一歩一歩、歩みを進めているという共通点を見いだせるのではないかと思います。

しかし、時に人は、大きな壁に当たり、到底、自分では越えられそうにないと思えるような課題に遭遇することがあります。

これもまた、人それぞれの人生の色合いはあっても、共通したところであるといえるのではないでしょうか。

壁にもぶつからず、課題も問題もないという人生は、ありそう見えて、実際はないのです。

どんな人にも種類やタイプは異なっていても、必ず、「不可能」という三文字が頭をよぎる瞬間というものはあるのです。

だから、人は皆、そういう意味では平等に生きているといえます。

不平等に見えるのは、人の生み出す幻想に過ぎません。

隣の芝生は青く見えるという例えがありますが、人は、自分の人生というものは、自分の中の狭い尺度でしか評価できません。

同じ苦しみでも、他人が味わっている苦しみよりも、自分が味わっている苦しみの方が大きいと評価してしまいがちなのが人の性というものです。

だからこそ、隣の芝生は青く見えてしまうのです。

全ての感覚というものは、自分という狭い尺度から生まれています。

霊的な見方をすれば、その人の持つ霊界の尺度で決められています。

自分の霊界を越えて、人は物事を評価することができない傾向にあります。

だから、今の自分の知恵、あるいは人の考え出した人智という名の知恵で全てを図ろうとする時、それは今までの自分の殻を破れない状態である自分の浅い知恵で全てを評価してしまっていることに他なりません。

では、どうしたら、自分の尺度を越えて、霊界を越えて、物事を正しく評価していくことができるようになるのでしょうか。

それは、人智に囚われない、自分自身の身に付けた知恵や経験に囚われない生き方をするしかありません。

具体的にいえば、「不可能」という言葉が浮かんだ時に、その「不可能」と判断した評価を行った自分というものは、小さな人智に囚われた、自分の過去の経験に囚われた自分に過ぎないとうことを自覚するところから始まります。

「不可能」という考えもまた幻想なのです。

世の中で不可能と呼ばれているものの大半は、まだ、実行したことがないことであるか、実行したけれど、まだ成功という結果を導けていないというだけの事に過ぎません。

「不可能」というものは、人間が限界をどこかで設定した瞬間から生まれてしまった観念なのです。

この観念が霊界の大きさを無限から有限に制限しています。

だからこそ、自分の知恵や経験から無理と判断してしまった時には、人智は超えてゆくことができるという信念を持たなければ、そこに魂の成長はありません。

魂の成長とは、自分の中の不可能という観念を越えてゆくところにあります。

ただ、当たり前の常識の中だけで止まってしまえば、それは、単なる日常生活を送る上では問題はないかも知れませんが、魂の成長にはならないわけです。

不可能という言葉が頭をよぎった時にこそ、魂の成長が促進されるヒントが隠されている。

このような考えを持たなければ、魂の成長を第一義として生きているスピリチュアルな生き方とはいえないでしょう。

ぬるま湯から脱して、情熱と志を持って生きる。

魂の成長に繋がるのは人智を超えていくところにあるといえるのかも知れません。



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現世に止まる霊の居場所

あまり、霊障について語るのは、気が進まないのですが、多くの方から霊障判定・簡易修祓や、遠隔浄霊でお話する機会も多くなってきたため、一度、ブログでもお話しておいた方がよいかなと思いまして、お話させて頂くことに致します。

いわゆる霊障といいますのは、良くない意味で現世に干渉を与えてくる霊物の存在のことを指したり、良くないこと自体を指したりします。

この霊物は一体、現世のどこに止まっているのでしょうか。

もちろん、本来の霊は霊界に旅立っていて、許可もなく現世に止まったり、干渉したりすることは許されていません。

というよりも、ちゃんと導かれてあるべき霊界に逝くことができていれば、現世に影響を与えて、生きている人間を困らせたりすることはないはずです。

でも、自分の行くべき霊界もわからず、フラフラしている不成仏霊というものが存在しているのも事実です。

霊界に帰属せずに現世に執着しているために、現世に止まってしまっているわけですね。

こういった類の霊障は、ケースバイケースで居場所が異なります。

特定の個人にこだわりを持っている霊の場合は、その個人に憑こうとします。

先祖霊や、祟りの霊などは、個人に憑く場合が多いですね。

では、無縁仏の霊は、一体どこに居場所を構えているのでしょうか。

そのベスト3を紹介したいと思います。

順位は常に変動しているので、わからないのですが、一番多いパターンについてお話します。

一つは、神社・仏閣です。

これは意外に思う方も多いと思いますが、実際には多いんですね。

神社・仏閣というと聖なる場所だから不浄な霊は近づけないと想っている方も多いのではないでしょうか。

確かに、しっかりと神霊が降りていて、眷族神などが守護している神社は、神域の中に邪霊が入ることはないといえましょう。

しかし、あまりにもエゴでの自分本位のお祈りをする参拝客が増えてくると、神社・仏閣も穢れてくることがあります。

そうなると神域の結界効果も弱まり、邪霊の巣窟になってしまう場合もあるのです。

「でも、なんで不成仏霊が神社になんか来るの?」と疑問に思うかも知れませんが、これは、よく考えてみるとわかることです。

もし、読者の皆さんがお亡くなりになった後、どうしたらいいかわからない、とにかく助けてもらいたいと考えた場合どうされるでしょうか。

まずは、霊となった身で、身内を頼るかも知れません。

しかし、身内もおらず、頼るべきところがなかった場合、少しでも信心の気持ちがある霊であるならば、神社、仏閣にとりあえずいってみようということになるわけです。

生きている人間でも、困った時には神頼みしたくなるものです。

当然、困っている霊も神社や仏閣に向かう確率は高いといえるでしょう。

実際、遠隔浄霊などでも、神社や仏閣からつけてきたと思しき霊物をつけている方も多く見られます。

なので、清々しい神霊がいます神社に詣でる時でも、その入り口近辺には、神域に入れずにたむろしている不浄な霊もいることがあるので、エゴや悪意を抱いて、想念を曇らせていると憑かれてしまう場合もあるのです。

だからこそ、神社、仏閣に向かう時には、かならず神霊や神仏に意識を向けて、感謝と真心の気持ちを忘れずに詣でないと、余計なモノを頂いて帰るだけになってしまいかねません。

気をつけたいものです。

続きまして、二番目の場所としましては、いわゆる歓楽街、繁華街などが多いといえます。

これも理由は神社・仏閣と同じで、霊の思考をたどればわかります。

助けて欲しいと信心のある霊が思えば、神社、仏閣に向かうわけですが、そんな気持ちもなく、行くあてもない時、霊はどこへ向かうのでしょうか。

自分が生前、楽しいと想っていた場所なんですね。

大抵、不成仏霊は、その日暮らしや、刹那的な快楽に身を委ねていきていた場合が多いので、そういった楽しい場所にいこうとする確率が高いですね。

風俗とか、飲み屋街、娯楽施設の集うところ、遊園地、等ナド。

ともかく、楽しいところは、また行ってみたいと想うものなので、そういった場所で霊になっても遊んでいるんですね。

だから、こういった場所に頻繁に出入りしたりしていると、その人自身も刹那的で快楽に流されやすくなったり、向上心がなくなってしまったりします。

これは、同じ霊波動を持つ不成仏霊に憑かれてしまうから、同じような性質になってしまったりするわけです。

もちろん、心を入れ替えて、向上心を持って、刹那的な快楽から脱却して、頑張りはじめると段々とこのような霊は離れていきます。

最後の三つ目に関しては、いわゆる事件や事故があった場所、心霊スポットと呼ばれているような場所ですね。

これは、事故のようなあまりにも衝撃の強い亡くなり方をした霊は、何が起こったのか悟れずにその場に止まり続けたりする場合があるわけです。

だから、事故にあった時の霊波長に合わさる形で、そのような場所は事故が起きやすくなったりするものです。

遊び半分で心霊スポット巡りをする方もいらっしゃいますが、あまり度が過ぎれば、ろくなことにはならないので、気を付けた方がよいでしょう。


以上、三つあげさせて頂きました。

正直、これを読んだ方が、必要以上に霊を怖がったり、気にしたりはしてほしくありません。

なぜ、今回、このような記事にてお話させて頂いたのかといいますと、霊というのは、そこかしこに居場所を作って存在しているものなので、気にし始めるときりがないということです。

それは、家に溜まる埃を一々、気にしてヒステリックになってしまうのと同じことなのです。

もちろん、定期的なお掃除と清潔感を保つことは大事なことです。

しかし、一つ一つの霊障を追いかけてしまい過ぎると、家に溜まる塵一つに戦々恐々としてしまうのと同じような状態になってしまい、人生のもっと大切な魂を磨くというテーマを見失ってしまうことになります。

ですから、霊障もある程度のお祓いや浄霊などの清めは時々にしていくことは大切かと思いますが、こだわりすぎるのは止めましょうというのが、この記事の本当の趣旨です。

以上、本来の趣旨が伝わり、皆様の何か参考になれば幸いです。


天心 拝


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言葉にできない真実

スピリチュアルな世界のことをブログでお話させて頂いていますが、時折、もどかしく感じることがあります。

言葉を尽くし、様々なたとえ話や、表現方法で伝えようとしていますが、目に見えない体感の世界というものは、完全に伝えることが難しいものです。

そこで、FGSの会などでは、体感できるような教材になりそうな音源や未公開の取次なども行ったりしています。

それでも、やはり、実践を積み重ねて、継続していかないと、本当のところでは体得できないのが真実です。

知識や言葉だけでは、本当の意味で体得は難しい。

ならば、なぜ、ブログを書いたりFGS会報メルマガを書いたりしているのか。

自分でも以前、自問したことがあります。

そうすると心の中にふと、ある禅の言葉が浮かんできたのです。

「不立文字(ふりゅうもんじ)」

これは、禅というものの本質を表す言葉であります。

意味は「禅というものは言葉や理屈ではわからない。文字で表すことはできない」という意味です。

この言葉は守護霊が私の自問に対する答えとして教えてくれたものでもありました。

禅は、形でないもの。自らの中にある仏性(ぶっしょう ※仏様としての性質)があることを悟ること。

これを見性成仏(けんしょうじょうぶつ)と禅では言います。

この見性成仏というものは、理屈では計れないし、説明したとしてそれを理解できたと想ったとしても、それだけでは見性したとはいえないのです。

だから、禅とは言葉や理屈ではわからないものですよと警告しているわけです。

そうしないと、経典の言葉や様々な仏説を勉強してわかったつもりになってしまい、本来の禅を体得できなくなってしまう惧れがあるからです。

しっかりと座禅公案(こうあん ※見性成仏できているのかをチェックする禅問答のお題)といったものに取り組み、自ら体得するように心がけるのが禅の修行なわけです。

しかし、言葉や論理で表せないというわりには、禅宗における書物の数は、他の宗派に比べても群を抜いて存在しています。

臨済録(りんざいろく)、碧眼録(へきがんろく)、六祖壇経(ろくそだんきょう)などの有名な禅の書物を始め、曹洞宗開祖道元禅師が記した正法眼蔵(しょうぼうがんぞう)臨済宗中興の祖と言われた白隠禅師遠羅天釜(おらてがま)など上げていけばきりがありません。

文字では伝わらないといっているのにもかかわらず、これだけ書物が多いのも不思議なものです。

私は、自分に問いかけた時、ハッとその答えがわかったのです。

私は、ヒントやキッカケを提示しているにすぎない。

主人公は、私ではなく、ブログを読んでいる読者の方なのだということに思い至ったのです。

だから、私がブログで色々書いたり、会報メルマガで色々とお話したりするのは、何か真理を伝えているというよりは、皆さんの中にある真理に気づいてくださいねという想いでしていることです。

一方的な考え方や思想を押し付けるのではなく、その方の中にある真理に気づいてもらう。

そのための様々なメタファーを提供しているにすぎないということです。

だから、これを活用して、そして、継続して、時には道がずれていないかを学ぶことが大事です。

最近、気付いたことがあります。

人には大きく分けて二通りの傾向があるようです。

一つは、尻切れトンボのように途中で挫折して、投げ出してしまうパターン。

もうひとつは、間なく断なく、継続して、少しずつでも取り組むことに対する理解や体感を深めて、継続して行うパターンです。

継続していくことで、人は段々と学びが深まるものです。

継続を止めれば、そこで道は終わりです。

目に見えない、わかりずらい世界のお話をしていますが、今後も継続して続けていけることを願っています。


天心 拝


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新説・霊界ストーリー 【霊界探索-青天明界】

☆初めて読む方はコチラからお読みくださいね!
☆前回の新説・霊界ストーリーはコチラをクリックしてくださいね!


初めてこの記事を読まれる方は、一番上のリンクをクリックすれば、一番最初の記事を読むことができます。

前回記事は二番目のリンクをクリックでページが切り替わります。


<前回までのおさらい>


月天宮(つきのあまみや)を守護する月天妙光龍神と遭遇しました。

霊層を縦横無尽に行き来する龍神様で、霊人達も新しい霊層へ進む時にはお世話になるようです。

霊層は一つ上がるだけでも、同じ霊界が違って見えてしまいます。

霊層を上げてゆくことも、一つの大事な修行の眼目であるようです。


<続き>

前回の霊界探索から少し時間が空いてしまいましたが、月天宮から、次は、別の上部霊界に位置する、「青天明界(せいてんめいかい)」へ移動して探索して参りました。

大分、霊界移動も慣れてきたせいか、守護霊様は、入口やゲートに移動をさせずに瞬間的に移動させてくれるようになってきました。

おそらくは、霊界探索ということなので、あえて、最初は入口やゲートを見せてくれていたのかと思います。

探索する霊界は、守護霊様まかせです。

何が見えてくるのか、どこへ連れていかれるのか。

ドキドキしんがらも、楽しみにしていたりします。

青天明宮は、本当にその名の通りに透明感、青々とした広がりを持つ霊界です。

丁度、山頂から雲がたたずむ下界を見下ろした感じの時のような爽快感と、澄み切った感じがします。

月天宮と違って、浮遊感よりも清涼感の方が強く感じます。

霊人達も軽やかで、澄み切った感じがします。

サバサバとして、こだわりはなく、執着心もあまり感じません。

こだわりがないので、簡素な感じも致しますが、月天宮が悪くて、青天明界が良いということでもなく、逆に青天明界が質素しぎて、月天宮が良いということでもありません。

そこに優劣のようなものはないのですが、ただ、特徴として違いがあるだけです。

月天宮のような神秘的な金色の光よりも無色の透明な、どこまでも抜けるような、まるで芝生に寝転んで空をずっと見続けていた時のような、なんともいえない感覚です。

月天宮の時のように真ん中には何か建物がそびえたっています。

なんでしょうね。

これは、ヨーロッパの古城のような感じのたたずまいです。

月天宮のような現実ばなれした、存在感ではなく、この霊界ではクラッシックな感じの風景が多いようにも見えます。

ただ、いえるのは、とても「軽い」ということです。

重さが感じないんですね。

おそらく、この霊界に感応する人というのは、こだわり少なく、それでいて、いつも爽やかな感覚を忘れない、スッキリとした性格の方なのかも知れません。

私は、守護霊の導きにより、真ん中の古城に向かって吸い寄せられるように近づいていきました。

なんだか移動も音もなくスーッと言う感じ(笑)でなめらかに移動します。

移動する時にもミントのような香りの風を感じます。

古城の中は、赤い絨毯の魅かれた広間があり、やっぱりお城のような光景です。

そこには、大きな、本当に大きなご神霊がいらっしゃいました。

お髭をたくわえた、まさしく、これも王様のような感じのいでたちです。

あまり派手な衣装というわけではないのですが、冠のようなものだけは、かぶっています。

顔つきは好々爺な優しく皺だらけで、目を細めて頬笑みかけています。

天心:「あなた様はこちらの霊界の主催されているご神霊でしょうか」

青天龍王:「わしは、霊界の主催にして守護する龍王である」

天心:「龍王?」

青天龍王:「青天龍王(せいてんりゅうおう)と申す。龍体を持ち、自在にして天空を管轄す」

天心:「人の姿をされていますが、龍神様なのですか?」

青天龍王:「象徴として、あるいは、天命を取次ぐ際には人の姿をかりそめとする。天空を自在に操る時には、龍体となりて動くなり」

天心:「なるほど。お働きに応じてお姿も変わられるわけですね」

青天龍王:「いかにも」

天心:「この霊界はとても軽やかで心地が良いですね」

青天龍王:「いらぬものを捨て去り、真白き心となれば、誰もが清々しい心地となろう」

天心:「月天宮でも執着心を捨てよと学びましたが、ここでも同じことを教えているのでしょうか?」

青天龍王:「菩薩の道は仏界に近い。我が主催する霊界は偏りなきもの。無限を感じることが主なり」

天心:「少し、違いが難しい感じもしますが、月天宮は菩薩様の修行であるという意味あいが強く、こちらではそこにこだわってはいない広義の意味での執着心を捨てるという意味に考えてよいでしょうか」

青天龍王:「概ね宜しい」

天心:「わかりました。ありがとうございます」

青天龍王様の教えとしては、この霊界にはあらゆるものを生みだす根本となるもの、フィールドが存在しているということみたいです。

無限の可能性を秘めた、何かを作り出していくための原点となる心根を体得していくためには、この霊界のことを少し、学んでいく必要があるようです。


☆新説・霊界ストーリー【霊界探索-青天明界】へ続く


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霊格と霊覚

こんにちは!

天心です。

霊格霊覚について、ご質問を受けましたので、ブログにてお話してみたいと思います。

結構、頻繁に使っている言葉でありましたが、あまりしっかりと解説をしている記事がなかったようなので、改めてお話してみたいと思います。

さて、この二つの言葉ですが、それぞれ読み方はレイカクと読みます。

同じ発音なので、言葉に発しているとどっちの意味か混乱しますが(笑)、それぞれ一応、意味が異なります。

あくまで表現上の定義の違いに過ぎませんが、今後も頻繁に出てくる単語であると思いますので、ここで一つ定義しておきたいと思います。

まず、「霊格」の方でありますが、これは、一番、わかりやすのは「人格」との対比ですね。

霊格≒人格という図式は成り立つかと思います。

霊格とは、霊的存在のパーソナリティであるということもいえるでしょう。

但し、イコール(=)ではなくニアリーイコール(≒)として表現しているのは、通常、人格というと性格的なことを指す意味合いが強くなるためです。

霊格は性格という一面もありますが、それ以外にもどれだけ、自分の意志の統合がなされているか、振る舞いや想念の基となる魂の部分がどれだけ調和されているかということも意味しています。

俗にいう人格者も、自分の感情や振る舞いが倫理や道徳に照らして考えても、麗しく、謙虚であったり、懐が深かったりする人を指してそのように呼ばれることもあります。

霊格が高いということは、霊人としてのパーソナリティがしっかりとしていること。

学問や教養、芸術などもしっかりと統合、調和されている存在であることを指しているのです。

決して、摩訶不思議なことができるとか、霊力が強いことが霊格の高さには比例していません。

だから、霊格を磨きたいと想ったならば、何よりも、しっかりと自らの性質や意志を調和がとれた状態にしていくための学問を積んだり、教養を磨いたりしていくことが大切なのです。

昔の人は、論語を読んだり、孟子を読んだりして、人間とはどのような考えを持ち、振る舞いを正していくべきかについて学ぶことが多かったようです。

守護霊のお話などを聞いているかぎりでも、良き人格を形成していくためには、良き人格を持つ人のあり方を説いている書物を読んだり、あるいは、それが実践できている人(論語や孟子などの古典では聖人と呼ばれている)について学ぶことが重要なポイントになるといえるでしょう。

想えば、私たちの性格や人格が作られている過程を考えれば、よくわかります。

最初は親の影響を受けて、言葉を覚えたり、性質のようなものが後天的には定まってきます。

それから、親以外の他人とのかかわりあいや、本を読んだり、学校で教育を受けたりしながら、知識や教養を得て、少しずつ人格というものは陶冶されてくるものです。

誰でも生まれながらの人格者というのはいませんから、後天的な学びで人格は磨かれていきます。

霊格もまた同じで、現世で学んだこと全てが霊格を作り出していますし、霊界に旅立った後の様々な活動や学びを得て、さらに霊格は向上していくことになります。

最近の人は読書量が減少してきているということが、社会問題として、昔から言われてきていますが、これは少なからず霊格の高い霊人が、なかなか育たない、生まれにくいことも示唆しています。

いくら、霊的な事柄に鋭かったり、知識があるだけでは、霊格の研磨には足りません。

そこから人格的な悟りと立ち居振る舞い、言葉使い、風格などすべてが改善されることが霊格の本当の意味での研磨なのです。

だから、霊的な修行をして、霊格が高いということを称している人がいる場合は、まず、その人の人格を審神してみる必要があります。

常識性、マナー、教養、普段の振る舞い、言葉使い、社会性、知性などの聡明さ等ナド。

これらをしっかりと鑑みた上で、霊格の高低を見極めないと、本当の意味での霊格の高さは測れないはずです。

さて、霊格については、以上でなんとなくわかっていただけたのではないかと期待します。

次に霊覚についてです。

これは、霊的な覚醒度合いについて示す言葉であります。

つまり、霊界にどれだけ感応して、どれだけ霊界法則を自在に操ることができているか。

これが霊覚というものを定義するならば、一つの基準かなと思います。

単に感応するだけであるならば、それほど、霊覚が高いとはいえません。

霊界法則を知り、体得して、ある程度、霊界で自由自在に動いたり、顕現化する力、創造力を得るようになると霊覚は高まってきているといってよいでしょう。

現世に生きる私たちの場合も、一つの霊覚を図る尺度として、物事を顕現化する力が強い人は、霊覚が高いと表現することもできるでしょう。

ですから、必ずしも霊的に鋭敏な方でなくても、霊覚が高い方はいるものです。

同時に、霊的な感性の鋭いという方面で霊覚の高さを持つ人もいます。

つまり、霊覚を磨くということは、これらを総合的、複合的にみて、どれだけ霊界法則になじみ、体得しているかという点で図っていくことになるわけです。

しかし、霊覚が高いからといって必ずしも良いことに結びつくとはかぎりません。

なぜならば、いくら霊界法則を体得して、自由自在に操れたとしても、それを取り扱う人、または霊の霊格がしっかりとしていないと不幸、不運を呼ぶ場合もあります。

「キ○ガ○に刃物」なんていう表現がありますが、人格が備わっていない人に刃物を持たせるととんでもないことになってしまうことを意味しています。

しかし、板前さんが刃物を持てば、絶品料理を作り出す、素晴らし道具になりますし、しっかりと人格を備えた武士や侍が持てば、やたらと刃物を振り回すような真似はしないはずです。

このような理由から、霊格と霊覚は大抵、一対か、あるいは状況の説明に応じて使いわけてきたところがあります。

しっかりとした説明がなかったので、ピンとこなかった人もいらっしゃったかと思いますが、今回の記事が一つの参考になれば幸いです。


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事を分けるということ

神社参拝といいましても、色々な状況で詣でる人がいらっしゃることと思います。

観光地で旅行の途上、有名な社があれば、詣でる人もいるでしょう。

温泉に入り、由緒正しい歴史ある神社があれば日本人ならばちょっと、立ち寄ってみようと思っても不思議ではありません。

本来は、神社という場所は神聖なる場所であり、神様と感応道交して、交流を図る場所でありますが、観光名所と一体化してしまっている場合もあるため、どうしても観光気分でお参りしてしまうこともあるでしょう。

その場合に一つ気をつけて欲しいことがあります。

それは、たとえ観光参りであったとしても、観光のついでにという気持ちでお参りなさらない方がよいということです。

もちろん、そうはいっても、観光は大切な命の洗濯にもなる行為であるので、観光地にいって、そのまま有名な社に詣でることがあったとしても、それは仕方のないことではあります。

なるべくならば、神社に参拝する場合には、心を神様に向けて、一心に参るのが基本になるのですが、近くに温泉があるのであれば、立ち寄ってリフレッシュしたいと思うのは人情です。

そこで、大切になってくることがあります。

それは、事を分けて行うということです。

人間の都合であり、観光気分のまま、「ついでに」神社に詣でるというのは、非常に神様に対して失礼な心根であるといえましょう。

真剣に神様と向き合って交流するべき場所にフワフワした定まらない心で詣でると神様も真剣には向き合ってくださいません。

では、どうしたらいいのかというと、神社に詣でるという行為と観光という「事」を「分ける」必要があるわけです。

一番、確実なのは、日を改めて、観光すべき日は、観光して楽しみ、温泉にも入ってゆっくりすればいいのです。

次の日は、気持ちを切り替えて、神社に詣でて、この時には観光気分を少し一新して、詣で参るのが事を分けることになります。

これは、例えば、自分の勤める会社の社長宅を訪れる時のことを考えてみましょう。

何かお願いごとがあって、それをきちんと申し上げねばならない時に、「旅行帰りのついでに、近かったんで寄りました!実はお願いごとがありまして!」なんていわれたら社長はどう思うでしょうか。

わざわざ、立ち寄ってくれたのは、嬉しいけれど、お願いごとをするのについでにとは、どこまで本気でいっているのだろう?と社長もいぶかしく想うことでしょう。

真剣味も伝わり難く、誠意を感じ辛いと思いませんか?

これにかわって、菓子折り持参のうえで、まっすぐに社長宅を訪れ「実は、今日は折り入ってお話がありまして」と切り出せば、社長もその立ち居ふるまいから誠意を感じ、真剣に耳を傾けてくれるというものです。

もちろん、旅行帰りに近くだったから寄ってみたというのがいけないということではありませんが、本気で神様にお働きして頂きたいと思う時には、意義を正して、事を分けて詣でるという姿勢をつくることが大事だということです。

なんでもついでにいっしょくたにして、合理的に進めていくことは、現実的にはメリットがあることかも知れませんが、神様に対する誠意、人に対する誠意という観点からいいますと、必ずしもいいこととは限らないというわけです。

さて、日を改めることで、事を分けることをお話しましたが、日帰り旅行などで、どうしても近くの神社にも参りたいと思う時があるかと思います。

時間も限られていて、滅多に詣でることができない神社であれば、折角、近くに立ち寄ったのに詣でないのはもったいないと感じてしまいますよね。

そこで、言霊を使った事を分ける方法についてお話したいと思います。

本来、観光が目的で、その旅すがら、有名な神社があることがわかった場合のことです。

観光のついでに神社に詣でようと思うことが不敬なわけです。

そこで、発想を転換させるために以下のように言霊にて事を分けるお祈りをいたします。

「本日、私、○○は、△△のお社に詣でるためにはるばると清々しいこの神域に参じさせて頂きました。ありがとうございます。・・・ここは具体的なお祈り・・・ 色々、お祈りを聞いて頂きましてありがとうございます。また、近くに観光名所の○○などがございますので、こちらの方にも参らさせて頂きますことをお断り申し上げます」

これは、一つのお祈りの文言の例に過ぎませんが、大事なことは、きちんと神社参拝が主であり、あくまで観光は従であり、観光の方がついでですよということを事を分けて申し上げることが大事です。

これが、言霊を使った事を分ける方法であります。

もし、観光をして神社参拝もするということがあれば、参考にしてみてください。


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祈りと霊能力

突然ではありますが、皆さま、守護霊様にお祈りをされていますでしょうか?

のっけから何を言い出すとお思いかも知れませんが、折角、このブログを読んで守護霊の存在が近くに感じられていることと思いますので、今日はもっと近くに守護霊を感じるために「祈り」についてお話したいと思います。

FGSの会では、守護霊に対する祈りの方法の正式版をお伝えさせて頂いておりますが、守護霊様に対してお祈りすればするほど、守護霊との霊線が強くなってくるので、受ける加護も強くなってくるということがいえます。

こうして、ブログを読んだりして守護霊の存在のことがわかってくるだけでも、意識は近づくために霊線は強くなりますが、やはり、積極的にお祈りしてゆく方が、より意識は守護霊に繋がっていきます。

いつも元気でいたい、運を良くしたい、必要な時にアイデアやヒラメキを得たい。

こう考えているならば、なおさら、お祈りは重要になってきます。

霊能力の基本となる全ての要因は、中間役の霊(ここでは守護霊)にいかに動いて頂くことができるかがポイントになります。

守護霊という存在は一つの法則がありまして、それは、勝手にやたらと動いたり、生きている人間に対して越権行為となるような働きはしないというものがあります。

つまり、必要最低限の働きしか通常はしてくれないわけです。

例えば、仕事で業績をあげたいと思っているとして、普通に頑張っている時は、守護霊も普通に守護してくれています。

最初は間接守護ですが、一生懸命、頑張っていれば直接降りてきて守護してくれることにもなるでしょう。

しかし、これでもまだ、守護霊は自分の守備範囲の中で、通り一遍の守護だけをしている状態であるといえます。

その働きの中に、守護される当人の意見は反映はされていないわけです。

よくある勘違いとして、「守護霊はなんでもわかっているので、何も言わなくてもこちらの言い分通りに守護してくれる」というものがあります。

これは守護霊の法則から言いますと、少し、違っていると言わざるを得ないでしょう。

どのように守護してほしいのか、何を不安に想っているのか、何を悩んでいるのか。

これをしっかりと言霊でお伝えして祈ることで、初めて守護霊は、当人の意見を取り入れた形での守護に切り替えし始めるのです。

もちろん、全てを叶えてくれるというほど、守護霊は甘くはありませんが、祈りによって、守護霊を動かす、あるいはお働き頂くことこそが、霊能力の一つの基本となります。

私の取次も全てはこの原則にのっとって行っています。

だから、守護霊が動いてくれないと何もできません。

守護霊を動かすためのキーワードは「祈り」です。

しかし、どうやって祈るべきかといいますと、できうるかぎり言霊にしっかりと発音して出すということがいえます。

但し、やたら大きな声で奏上する必要はありません。

小さな自分だけが聞こえるか聞こえないかくらいの声で十分です。

ブツブツとなるべく軽快な感じで言霊を数珠のようにつむいていくのがよいでしょう。

あまり間延びしてしまうようなお祈りだと守護霊様もあくびしてしまいます。(笑)(冗談です)

なるべく、言霊の表現方法、バリエーションは豊かである方がいいといえます。

そして、一番大切なポイントは、愛と真心を起点とした祈りをするということです。

具体的には、自分だけが幸せになれればよいという発想を止めて、自分と関係するすべての人の幸せを祈る。

ここがポイントになります。

とても大事なポイントなので、繰り返しておきたいと思います。



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先祖供養の基本

こんにちは!

天心です。

随分、ブログの更新に日が空いてしましましたね。

先日、送り盆も終えて、夏場も半ばのターニングポイントを終えた感があります。

ただ、まだ暑さは厳しさが残っていますので、熱中症にかからないように体調管理は必須事項ですね。

お盆の時期も近かったことから、遠隔浄霊も先祖供養としてのお申し込みも何件か頂いておりました。

全てつつがなく取次完了しています。

もちろん、それぞれの申込をされた方には個別にお知らせしていますが、今一度、お盆も終わりを告げたということで、改めてお話をさせて頂きました。

さて、先祖供養に関していつくかの質問やコメントを頂いておりました。

本来、お盆の時期を終える前にお話しておきたかったのですが、中々ままならないところではありまして、これから少し、先祖供養の基本についてお話したいと思います。

私は、様々な記事にて、お盆の供養やその他先祖供養、ご先祖様との関係性についてお話してきました。

そのため、少し誤解を与えてしまっているのではないかなと最近、感じるようになりました。

私がお話する先祖供養のお話は、あくまで私の見聞した霊界のことをベースにお話させて頂いています。

特に先祖供養に関しては仏説がベースになっていることが多いです。

檀家などに所属していれば、お寺からお盆や彼岸の時期になれば、先祖供養のお知らせや案内が届くかも知れませんね。

所属していなくても、お寺に参れば、先祖供養の案内のパンフレットなどが置いてあるかも知れません。

先祖供養と一口にいっても、やり方は宗派によっても様々です。

唱えるお経も違えば、供養を行う式次第も違うことでしょう。

仏教でなければ、先祖供養という発想すらない場合もあります。

日本人の場合、仏教を信じていたご先祖様の数はかなりのウェイトを占めているはずなので、仏説に従ったやり方で供養をしてあげたほうがご先祖様もしっくりくることが多いため、私も、例としてお話させて頂いているのは、仏説がベースになっていることが多いのです。

具体的に方法論まで触れている記事もあります。

このためか、「自分の供養方法はあっているのか不安」「家族が先祖供養がないために行っていない大丈夫なのでしょうか?」といったご質問を頂くことがあります。

正しい先祖供養とはなんなのか。

このような疑問が浮かぶのは当然のことなのかも知れません。

同時にここに少し、先祖供養の誤解があるようにも感じているわけです。

仏説をあくまで正しいものとして考えるならば、お寺で申込、僧侶の方にとり行って頂くことが正しい先祖供養であるといえなくもありません。

実際、そうされている方もいらっしゃることでしょう。

長年、そのように続けてこられた方は、どうぞ、まずは、そのやり方を続けていくことが一つの基本になるかと思います。

ご先祖様も毎年のことになるために、今までされていた先祖供養になじんでいらっしゃるため、急にやり方を変えたりすると戸惑われることもあるからです。

ご先祖様のお気持ちを考えるのであれば、今まで通りの心を込めたやり方を通すということは間違っているとはいえません。

さて、問題は、今まで、先祖供養をしてこなかった、あるいは、したいけれど、家が狭いので仏壇がおけない、金銭的な理由で本格的にはできない、どうしても、忙しいので、お盆の時期であっても、正式にはやりずらい。

あるいは、家族の理解がない、やってはいるが正式なお寺で行っているような式次第ではない等など。

色々な諸事象があり、先祖供養がきちんとできていないのではないかと心配してらっしゃる方も結構いらっしゃるように感じるのです。

しかし、あまりご心配しないで頂きたいと今日は申し上げたいと思います。

私は先祖供養のお話をする上で必ず、付け加えていることがあります。

それは、人生は先祖供養をするために存在しているわけではないということです。

私たちは先祖を供養するためだけに生まれてきたわけではないわけです。

生きていれば、諸事情により、いわゆる仏説の正式なやり方で供養をすることができない場合もあります。

お寺から僧侶の方をお呼びして、お経をあげてもらうこともできない場合もあるでしょう。

むしろ、多忙を極める現代人であれば、なかなか昔のように仏説に乗っ取ったやり方をできる方は減少しているのも無理もないことです。

だからこそ、ブログでも簡易式の供養方法や、先祖供養に良いとされる仏閣や仏様についてお話させて頂いたり、遠隔浄霊にて、その方と絆の強いご先祖様の霊界、霊層向上の取次を行ったりすることで、先祖供養のフォローをしているわけです。

かくいう私も、実家に仏壇があり、現在の家には仏壇を置くスペースがどうしても取れないために、お盆の供養は浅草寺にて、観音様の霊法の取次を行い、自分の父方家系、母方家系、後、奥さんの父方、母方を中心に浄霊を行い、供養を行っているのです。

本来であれば、立派な仏壇と僧侶の方を及びして正式にやった方が、より強力な取次をすることも可能なのですが、現状、それはままなりません。

だから、できるかぎりの供養を形に表して取次を行っているのです。

先祖供養の基本はご先祖様に対する感謝と真心の気持ちを持つこと。

そしてそれをどう形に表していくのかが基本なのです。

日本人であれば仏説に従った方がご先祖様に喜んで頂けるので、仏説をベースにお話をしているわけなので、たとえキリスト教でもユダヤ教でも、本来は、基本は同じです。

ただ、供養という概念がないだけで、感謝と真心を持って、それを形に表していくことで、それが先祖霊に伝わっていくことになります。

その真心の霊波動が先祖は嬉しいわけですね。

ここが基本になるのです。

宗門宗派、宗教の違いというのは、枝葉の部分であり、そこだけをこだわってしまうと先祖供養の本質を間違えてしまことになるわけです。

やり方が少々、仏説とは違っても、そこに真心と感謝があり、それをちゃんと形に表しているという点が大事なのです。

仏壇がないならば、お寺にいく、お墓にいく。

お墓がない、あるいはどこにあるかわからない場合でも、霊界では真心と感謝の念は伝わります。

でも、心で想っているだけだとその念は弱くなるため、できるかぎりの形に表して供養することが必要なのです。

遠隔浄霊も、申込をして、ご寄付をする真心の中に先祖への気持ちが込められているならば、その心は先祖霊に届いています。

浄霊の場合は、霊界、霊層向上ももれなくついてくるので(笑)、先祖にとっては、さらに嬉しさ倍増です。

家族の理解がなくとも、自分だけはできることをする。

その真心が先祖供養の基本であると心得ることで、先祖供養への取り組み方が変わってきます。

何か災いのタネを取り除こうとか、戒告を受けたくないから供養をしようなどという戦々恐々とした気持ちでは先祖供養にはならないのですね。

ですから、形にこだわり過ぎることなく、精一杯のやれることをやっていく。

これが正しい先祖供養への向き合い方といえるでしょう。



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言霊と顕現化の関係

今まで霊界法則を様々な角度からお話して参りましたが、その中で度々、登場してきた言葉に「顕現化」というものがあります。

昔からの読者の方は、説明しなくてもわかるかも知れませんが、これは、霊界からのフィードバックを受けて、現実に影響を与え、形つくられるプロセスのことを指しています。

霊界にあるヒナ型が現実の世界に現れ始めることを顕現化といっているわけです。

この顕現化と実は密接に関係しているものに言霊というものがあります。

スピリチュアルな世界に関心があり、少し勉強したことがある方ならば、一度は耳にしたことがある名称ではないかと思います。

簡単に言ってしまえば、言葉には霊力が込められているという思想から、言霊という名称はなりたっています。

この言霊について少しお話したいと思います。

私は鑑定をする場合には、メールにてご相談の内容を記載して頂くことにしています。

記載してくる内容は人それぞれで異なるわけなんですが、大きく分けると二通りのパターンがあります。

詳細な内容で事細かな事情が記されており、相談したいポイントが明確なパターンが一つ。

もうひとつは、ざっくりとした内容の相談内容であるパターンです。

もちろん、どちらでもその人なりの考えや個性があるわけですから、私は誠心誠意、取次を行い回答をさせて頂いております。

ただ、同じ相談するにしても、きちんと悩みの相談を的確に詳細な形でして頂く場合と、ざっくりな場合とでは、実は、守護霊からのアドバイスや浄霊に関しての結果が少し異なってくる場合があります。

例えば、「結婚したいんです!どうしたらいいですか?」と単純に守護霊にお伺いを立ててみると、守護霊の方も単純に「結婚するためには~」という感じで、守護霊の結婚に対する考えや意見、提案を述べてきます。

しかし、「私は以前、こういうことがあり、かくかくしかじかで、今現在はこう考えていて、○○について悩んでいます。どうするのがよいでしょうか?」というような感じで、詳細に守護霊に問いかけると守護霊の方もそれを踏まえた上で答えようとしてくれるわけです。

「守護霊なんだから何を言わなくても全部わかるでしょ?」

以外にこのように思われている方もいらっしゃるようですが、守護霊だってはっきりと何をその人が求めているのか、あるいは事情や考えている想いを言霊に出していわないと、コメントをくださる際の前提が違ってくる可能性があるのです。

また、言霊に出すことで、意識がより具体的で詳細なものを前提として向けられることになるために、より深く考えて守護霊が答えてくれることになるのです。

言霊に出すということは、それだけ霊界に感応しやすくなります。

守護霊は、やたらと守護する人の心の奥まで覗いたりはしないのです。

本人が望み、強く願うこと。そして言霊に出されたことに対して、必要最低限のことだけを伝えてくるのです。

そう考えれば、ざっくりとした相談の内容の場合と、詳細な場合で守護霊の対応が違うのは明白なわけです。

これが一つの言霊と顕現化の関係性でもあります。

守護霊メッセージという現世に言霊という形で伝えられるものが、相談者の発する言霊によって影響を受けているわけです。

もうひとつ浄霊の場合を想定してお話してみましょう。

例えば、よく質問されるのが、「私、何か霊がついてますか?」という漠然とした質問があります。

人間、生活をしていれば時として、あまり綺麗でない浄化されていない場所に赴くこともありますから、霊の一体や二体ついてないほうが珍しいのですが、単純に表面的なことを霊視だけすると、浮遊霊や邪気などが見えてくるだけです。

わかりやすく憑き立て?(笑)のほやほやのものが見えてきたりします。

しかし、例えば、「今、○○の持病があって、これに関する霊障は何かありますか?」というようなある程度の具体的な言霊で審神し始めると、それに関連する霊障がようやく見えてきたりするのです。

なので、一概に霊視といっても、ただ見ただけで、全てがわかるわけではないのです。

霊障は様々な現実的な現象にリンクしている場合もあるため、深く潜伏しているものは、普通に霊視しても見えてこないこともあります。

だから、本来、浄霊をする場合は、必ず、細かい事情を知った上でやらないと、完全には浄霊できないことになります。

もっとも、あまりにも詳しくやり過ぎると余計な霊障まであぶり出してしまうことにもなるので、キリがなくなってしまいますし、霊障ばかりを追いかけるのは、現世に生まれた人生の本義から離れてしまいます。

ですから、詳しくやり過ぎるのも問題です。

しかし、やはり、単に、霊視して見えるものだけを浄霊をするというスタイルだと、一番、その方が気になっている問題に関連する霊障を浄化できない場合もあるのです。

だから、ここでも言霊によって、しっかりと言上申し上げることが現実への影響力を強める顕現化の働きに密接に関係してくるのです。

よくシッティングという何も聞かずに状況や経緯を言い当てる手法がもてはやされていることがありますが、本当は、シッティングでわかるのは、表面的なことだけなのです。

もちろん、その霊能者や占い師などの霊感力にもよるでしょうけれど、それでも、しっかりと言霊に出して、問題を申し上げる方が、言霊の力により問題解決に近づく機運が作られるのです。

黙って座ればぴたりと当たる(笑)

これは、何も相談内容を言わなくても言い当てることができてすごいと。

すごい易者さんの代名詞ではありますが、ぴたりと当ててくれなくても、相談する内容は言えばいいのですから、わざわざ、言い当てる必要はないと思うのです。

それよりも言霊に出すことで問題点へのフォーカスと顕現化が発生するのだから、もっと積極的に言霊を利用していくことの方が結果的に有意義に働くことになるのです。

だから、お祈りする時もできるだけ具体的に噛み砕いて、事細かな言霊で言上申し上げる方が、守護霊も神仏もより現実的に顕現しやすく力を発揮してくれることになります。

言霊と顕現化の関係性。

これを一つ念頭に置いて頂ければと思います。



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挑戦するということ

人間が一番、魂を輝かせる瞬間というものがあります。

キラキラと輝き、胸うち躍る時とは、平平凡凡な型にはまった生き方から抜け出た時であるといえます。

人間は、知らず知らずのうちに、自分の心の中にパターンを作ってしまう生き物ともいえるでしょう。

最初はときめいていた恋人との逢瀬も、回を重ねると段々と熱が冷め、味気ないものに感じてしまう瞬間がやってくるものです。

仕事もそうです。

最初はやりがいを感じ、充実した日々を送っているように見えても、段々とやはり、気力を失ってきます。

慣れてきてしまうわけです。

自分で作り出してしまったパターンの型にはまり、抜け出せなくなった時、情熱も気力もときめきもなくなってしまうのです。

このパターンを打ち破るために必要なこととはなんであるのでしょうか。

それは、ひとえに挑戦する心を常に喚起し続けることといえます。

新しい息吹を入れ、自分の習慣的なこと、日常化してしまったことから、脱却するためには、時には安定、安泰な日々から抜け出すようなチャレンジを行っていく必要があります。

挑戦を止めた時点で、自分の中のパターンは、自分自身の魂の輝きを消してしまう働きをするのです。

どんなにエネルギッシュで情熱的な人であっても、息吹が枯れてくれば、全てが味気ないものに感じてきてしまいます。

パターンから抜けるのは時として、不安や恐怖を感じることもあります。

パターンは安心、安定を与えてくれる働きもあるからです。

人間だれしも安全地帯から抜け出そうとするのは、勇気がいることです。

しかし、いつしか人は勇猛心を忘れてしまえば、安泰、安住の中に堕してしまい、魂は腐ってゆくのです。

常に挑戦すること。

常に自分のパターンを越えてゆく目標を立て続けること。

これ以外に魂を輝かす方法はないのです。


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守護霊の華麗なる?生活

守護霊様は普段、何をしているのだろう。

こんな疑問を持つ方もいらっしゃることでしょう。

私も不思議に思います。(笑)

一日24時間つきっきりの守護をしている場合はともかく、そうでない間接守護の場合は、一体、何をしておられるのか。

一言でいえば、自らの属する神霊界で学び、修行し活動されているわけです。

ただ、その詳細は謎のベール(笑)に包まれていて、はっきりと教えてはくれません。

でも、それだとちょっとイメージが湧きずらいということもあり、ほんの少しだけ守護霊様が明かしてくれたことをお話してみたいと思います。

守護霊様は普段は、本当に忙しくしておられます。

生きている人間のように睡眠をとることはありません。

超過密スケジュールのビジネスマンよりも忙しく動いています。

ある意味、隙がない生き方です。

浄玻璃の鏡(真澄の鏡)を通して、常に現世にて生きる自分が守護する人間を見てチェックに余念がありませんが、同時に神霊界で決められた役割をこなしているのです。

守護霊という役割もその役割の一つに過ぎません。

神界から降ろされる指令や方向性を受けて、霊界を創造したり、現世にそのフィードバックを行う役割も守護霊は担っていることが多いのです。

本当にパワフルで忙しく、霊格、霊覚が上がるほど、その役割は大きくなり、忙しさも倍増なわけです。

現実社会の会社勤めでも出世して役職になると忙しさが増すのと似ています。

とてもじゃないけれど、つきっきりで守護している暇などないのです。

じゃあ、そんなに忙しいと倒れたりしないんですかと(笑)

想うかも知れませんが、倒れたくても、倒れようがないのが霊界です(笑)

守護霊は額に汗をしながらも、自分に課した使命、与えられた使命を全うしているのです。

正守護霊になれる位の神霊は、とても大きな魂を持っているために分魂を作り出すことができます。

まるで、忍法分身の術のようです。

いくつものブラザーソウルを作り出し、事にあたっているのです。

これを観音位に達した神霊といいます。

この正守護霊はこの霊覚レベルにいることが多いです。

なので、同時に様々な要件をこなすことができるわけです。

直接、守護といっても分魂を派遣している場合も多いのです。

本霊は、神霊界で活躍中ということもあります。

なんとも不思議な話ではありますが、現実と霊界はそのあたりの感覚が異なります。

現実思考では計り知れないのが霊界の実相でもあるわけです。

もっとも、魂が輝くほど精進努力をしていないと、分魂すら派遣してはくれませんが、逆に精進極まり、その志が大きければ、正守護霊といえど、降りてきて協力な守護をしてくれます。

守護霊合一という状態になり、自分の魂と守護霊が一体になるわけですね。

この状態になると、ほとんど向かうところ敵なし状態になります。

何をやっても成功させてしまうような人は、この状態になっていることも多いです。

守護霊合一の状態を作り出すための秘訣は、守護霊と志を同じくするくらいの、大目標を立てることです。

そして、力のかぎりその目標に向かい、目いっぱい努力すること。

そうすると正守護霊と霊波長があってきますので、段々、距離が縮まり、一体化するわけです。

いくら忙しい正守護霊といえども、全ての役割、すべきことの優先順位を鑑みて、守護するに値する人間であると認定した場合は、とるものもとらず駆けつけてくれるようになります。

忙しい守護霊をどれだけ味方につけておけるのか。

ここが開運のポイントであるともいえるでしょう。



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没我没入で魂は輝く

人は良く物事を善と悪とで分けて考えたがるものですが、善でも悪でもないものが世の中にはあります。

その一つとして、「情熱」というものがあります。

情熱はエネルギーであり、パワーでもありますが、人のため世のためによかれという善なる心で物事に向かう時も、恨みやねたみ、自らの欲望を満たすだけ等の悪意で物事に向かう時も情熱というものは存在します。

この情熱というものですが、善悪を越えて、魂を輝かすためには必要不可欠な要素であるといえます。

例えば、マラソン選手が一生懸命に走っている時、どんなことを心に止めているのでしょうか。

最初は、優勝したいとか、あるいは、応援している人のために頑張ろうとか色々な想いが去来していることと思います。

しかし、走り始めて、走るそのものに集中し始めた時、おそらく、それらの想念を越えて、ただ、走るそのものに集中し始めているのではないかと思います。

ただただ、走ることに情熱を傾ける。

実は、この状態はとても魂が輝きわたる一つの要素を満たしています。

中途半端に自分の想いにとらわれて、物事を行っている時は、まだまだ、魂は少しだけ光っているだけです。

眩く輝くためには、情熱を持って、物事を執り行うことそのものに没頭する必要があるのです。

これを没我没入といいます。

没我とは我が没していると書きますが、自分という意識が消えて、ただ自分が向かっている対象に入っていくこと。

すなわち、我が没した後にその対象に入り込んでしまうこと。

これが没我没入です。

この境地の時には、「この先、何かいいことあるかな」とか「○○を手に入れたい」などの煩悩ともいうべき想念は存在していません。

善と悪という考えも、消えてなくなっています。

そして、「自分」という意識すらも感じなくなってくるのです。

これは、丁度、霊体という心の壁を越えて、心の奥に鎮座している自分の御魂(みたま)様が現れている瞬間であるともいえます。

ですから、本当に魂を輝かせようと思ったならば、必ず、行動をきわめてゆく必要があるのです。

漫然と本を読んだり、人から聞いた魂の話を頭で理解しただけで、魂が輝くことはないのです。

例え魂の話などわからなくても、自分のやるべき、あるいはやりたいことに没我没入して行動していくことで、魂は輝きを増していきます。

だからこそ、どんな人でもその気にさえなれば、魂を輝かすことはできるのです。

今の生活、今の仕事、今の趣味、なんでもかまいませんが、没我没入で向き合ってみると良いでしょう。

心の壁を越えて己の神なる部分を表現する。

このことも生まれてきた意味の大切な一つであることを忘れないようにしたいものです。



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霊界における万有引力の法則

ニュートンが林檎が木から落ちるのを見て、発見したとされる万有引力の法則

これを科学的に正確に表現すると非常に難しい数式や、表現で表すことができるわけですが、誰で簡単にイメージできるように優しく説かれている定義があります。

それは、「物質は互いに引き合う。そして距離が近まれば、その力は強くなり、質量が大きくなればその力は強くなる」というものです。

非常におおざっぱで、正確ではない表現ではありますが、簡単に言うとこういうことではないかなと思います。

私は、科学者、物理学者ではないので、万有引力の法則の科学的アプローチは良くわかりませんが、霊界法則も実は、この万有引力の法則によく似ているなと感じることがあります。

なぜならば、霊界もまた、引きつけ合う存在であるからに他なりません。

霊界は様々なものがありますが、その大きさや現実界に与える影響力の強さなどは、それぞれ異なります。

霊界は、多くの思念が集まってできていますが、より多くの人の思念が集まっている霊界ほど、大きくなり、引きつけ合う力は強くなります。

また、霊界との距離が近くなればなるほど、影響を受けやすくなります。

霊界との距離が近づくとは、意識が近くなることを指しています。

なので、大きな影響力を持つ霊界に意識を向けると大きさ×距離の分だけ影響力が強まることになるわけです。

いつも不運ばかりを引き寄せてしまう人は、不運を引き寄せてしまう元となる霊界の大きさが、他の幸運に繋がる霊界の大きさを勝っているか、不運を引き寄せてしまう霊界に意識が向き過ぎているか、あるいは、その両方である可能性が高いといえます。

逆に幸運が訪れることが多い方は、幸運の元となる霊界が大きく、その霊界との距離が近いといえるわけです。

不運なものを引き寄せる霊界の特徴は暗くて、冷たくて、重くて、苦しいといったネガティブな霊波動に満ちています。

幸運なものを引き寄せる霊界の特徴は明るくて、暖かく、軽やかで、楽しいというポジティブな霊波動に満ちているわけです。

あくまで、特徴のポイントであり、霊界はそう単純ではありませんが、いつも、この特徴に当てはまるような心根を感じている人は、それぞれの特徴にあった霊界に感応しているといえるでしょう。

単純に考えれば、幸運の霊界を大きく持ち、意識を強く向ければ、現実にも幸運が近づいてくるともいえます。

だからこそ、守護霊や神仏といった良い霊波動を持つ存在と交流したり、意識を向けてゆくと、段々と幸運の霊界へと向けて導いてくれることになります。

現実にとりまく嫌な面、不運だった過去などに意識を向ければ、益々に不運の霊界は大きくなり、距離は近くなり、影響力も強くなるために益々、不運を呼び寄せるわけです。

私は時々、霊界見取り図というものを自分で書いてみることがあります。

自分の心の中にある想いをまず、紙などに書き出してみるのです。

想いの中には、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあるでしょう。

しかし、それを正直に書きだしてみるのです。

そして、かきだした想いのキーワードを抜き出し、まるで囲んでみます。

囲む時には、その想いにどれだけ思い入れがあるのかを基準にして、〇の大きさを決めます。

紙の上には、色んな大きさの〇が描かれることになります。

そして、〇をつけたごとにポジティブである内容か、ネガティブである内容かを色分けするのです。

例えば、ネガティブであれば青色で塗り、ポジティブであれば赤で塗ります。

こうして、ネガティブとポジティブの〇の数と大きさの相関関係をヴィジュアル化してみるのです。

そうすると、自分の中にある霊界がどんな種類の霊界であるかが見えてくるのです。

少なくとも、不運を呼ぶ霊界であるのか、幸運を呼ぶ霊界でわるのかは、誰がみてもわかるようになります。

まずは、〇の大きさを比べて、ポジティブな〇の方が、ネガティブな〇を上回っていれば、大分良い状態であるといえます。

〇の大きさが得てして、数の多さよりも力を発揮する割合が大きいからです。

小さい〇が多いのも良いのですが、やはり〇の大きさを巨大化させることの方が影響力は大きくなるのです。

ネガティブな〇の方が大きかった場合は、どんなにポジティブな〇があっても、どこか心が重い、苦しいという現象が現れてきます。

こういう場合は、無理やりにでもポジティブな〇を大きくすべく意識を向けてゆくか、もっとポジティブの〇の数を増やしてゆくようにします。

こうして、常にポジティブな霊界の数と質量が大きくなり、距離を縮めていくように心がけてゆくと、霊界は、幸運な方へと傾きはじめることになるでしょう。

一つの方法として、ご紹介させて頂きますので、ご活用頂ければ幸いです。


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【8月度】神田明神にて祈願【ご報告】

夏真っ盛り。

蝉の鳴き声も響く中、アブラゼミは夏の情熱的な面を、ヒグラシは、焼き付けるような暑さも収まり涼やかな夕暮れ時を彷彿とさせています。

そんな中で、一人、お茶の水の聖橋を渡り、神田明神への参拝に行って参りました。

なんどもブログの中で、神田明神についてはお話をさせて頂いておりますので、細かいことは、ここでは申しませんが、一応ご報告として、今まで鑑定(取次)などでお心から頂いたご寄付の一部を玉串として奉納させて頂いてきましたことをお話させて頂きます。

また、献灯も引き続き継続させて頂いています。

日頃からお世話になっている神様でありますので、必ず月に一度は、お参りして感謝のお祈りをさせて頂いています。

もちろん、月一度だけというわけでなく、必要な時にはあしげく通い、神様と交流させて頂いています。

やはり、何度もあしげく通う方が、真心も極まるというものなので、時間や状況の許す限りは、神様への真心を忘れないように何度もお社へ足を運び、感謝の祈りをするわけです。

また、ご寄付を頂いた方には、神田明神の神徳の追い風がありますようにと祈願し取次をさせて頂いています。

少しずつでも、運気が向いてくるように、そして、真心を示される方へのせめてもの奉仕として、これを行っています。

ご寄付をされていない方も、できるかぎり、神様の余徳が授かりますようにとお祈りさせて頂いています。

義援金の募金箱にもお金を投じさせて頂きました。

神田明神以外の神社、仏閣でも同じようにさせて頂いています。

これもまた、スピリチュアルな活動の一環でもあるわけです。

毎回、毎回、ブログにてお話しているのは、ご祈願をご報告させて頂くためでもあります。

神田明神ばかりの記事が目立つと思われるかもしれませんが、一応、どこかで報告をさせて頂きたいという思いからですので、ご容赦頂ければと思います。

また、暑さも厳しく、気候の変動や、集中豪雨などで各地で影響が出たりしています。

くれぐれも皆様が壮健でありますことをお祈りしております。

体調にもご自愛頂きますよう重ねてお願い申し上げます。


天心 拝


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スピリチュアルと現世利益

スピリチュアルに関して、最近、少し誤解や本道からのズレを感じ始めています。

鑑定(取次)を始め、様々なブログ記事やFGSの会などの活動をさせて頂いていまして多くの方が読者になってくれたり、入会といいますか、会報メルマガの方を読んで頂いたり、鑑定の申込をして頂いています。

人それぞれに思惑があってのことではあると思いますが、その中に少なからず「現世利益」というものを求めてらっしゃる方が多く見受けられます。

現世利益とは、簡単にいえば、現実的な形のある幸福、あるいは成功、または、直面している問題の解決などを指しています。

もちろん、悩みがあったり、手に入れたい幸福があるからこそ、何かにすがったり、相談したりしたいというのは、うなずけるものではあります。

結婚したい、仕事で成功したい、お金持ちになりたい、病気が心配だ、色々なことで悩みがある等ナド。

現世での関心事は様々ではありますが、多かれ少なかれ皆、これらに関心を持っていることでしょう。

しかし、あまりにもこれらの問題に注力し過ぎるのはスピリチュアルという観点においては、少しずれてくる危険性があるなと最近は感じるようになりました。

なぜならば、これらの関心事を叶えるために、もっとも有効なこととしては、現実的な努力です。

結婚したいのであれば、自分自身の魅力や異性とうまくコミュニケーションしていくための能力を高める、あるいは、良きご縁を結べるような出会いがありそうな場に怖れずに積極的に出かけてゆくということが現実的な努力というものです。

仕事で成功したいならば、もっと自分の仕事の本質について学ぶ必要があるわけです。

例えば営業マンという仕事であれば、営業ノウハウを勉強しつつ、足げく客先周りなどをする必要もあるでしょうし、成果を上げるためには、上司をうまく活用したり、同僚の手助けを得たり、立場によっては部下を指導、育成して売上につなげるような成果を上げさせる必要もあるかも知れません。

お金持ちになりたいならば、どうしたらお金が増えてゆくのか、お金について知らなければならないでしょう。

病気が心配なら、お医者様に相談する。あるいは健康を維持するためには、どういう生活態度で日々を送るべきかを勉強したり学んだりすることが現実的な努力の一つに姿ではないでしょうか。

このようなことをお話すると「そんなことはわかっている!」「ご説ごもっとも。だが、そうやってもうまくいかないから相談しているんだ!」というご意見が出てくるのは容易に想像がつきます。

そのようにおしゃりたい気持ちは良くわかります。

わかるからこそ、少しでもそれらの課題や問題を乗り越える参考やヒントになればとブログにてお話をしたり、会報メルマガを書いたり、鑑定(取次)をしているわけです。

しかしながら、これらの活動というものは、一つのメタファーに過ぎません。

別の言い方をすると方便です。

あくまで枝葉であり、表現の一つであり、本質は別にあります。

これらの活動の本道は、まず、スピリチュアルな世界があるということを実感してもらうことにあります。

それから、魂や霊性について考えて、人はなぜ生きていくのか、それはこの現世にてどこまでも魂を発展させて、自己を向上させてゆくことを理解してもらうことにあります。

スピリチュアルの本道は、現世に問題があるならば、自らの内省の糧として、それを受け入れ、どこまでも深く悟り、人間として、そして神性を持つ霊長類として脱皮、成長していくことになるのです。

ここをわきまえずに単にスピリチュアルなことを実践、あるいは何かの取次を受けたならば幸せになれると思うのは本道からズレた考え方であると言わざるを得ません。

誤解のないようにいっておきたいのですが、私は現世利益を否定しているのではありません。

これらを得ることは、現世を生きる人間が幸せを感じるためには、必要なものでしょうから、それを追求することは悪いことではありません。

結婚できて幸せになった。仕事で成功して栄誉を受けた。お金を儲けて豊かになった。病気が治り健康を手に入れた。

どれも結構なことであり、皆さまがそうなればいいなと私も願います。

しかし、それでもやはりスピリチュアルというもののと、これら現世利益とは本質的に異なるものです。

もし、現世利益だけを追求したいのであれば、スピリチュアルではなく、もっと現実的な努力や具体的な創意工夫に力を入れた方が良いと思います。

現実的な努力をどこまでも追及するのが、億劫だから超常的な力でなんとかならないかと奇跡を当てにして、スピリチュアルに救いを求めるのは、考え方として無意味であり、却って道に迷う恐れもでてきます。

スピリチュアル的な現世利益とは、内省し自ら魂を向上させるプロセスの中で、気がついたら、幸せなご縁を得て結婚がまとまっていた。

知らぬ間に職場で功績が認められたり、人間性を見込まれて出世していた。

お金もなんとか食いっぱぐれることがない位には稼げているし、日々の生活ができているし。心も豊かになっていた。

悩みがあっても悟り、越えていく力が備わったからこそ、健康も害さずに明るく日々を生きている。

このように本道をゆく道すがら、自然な形で付随してくるものがスピリチュアルにおける現世利益というものであることを今、ここで正しておきたいと思います。

様々な活動をしていると、知らぬ間にその枝葉の活動にとらわれて、本質を見失うことがあります。

常に本質を忘れないように私自身も心がけてゆきたいと思います。


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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
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