【公開質疑応答】絶縁した親子について

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第十弾です!

ご質問は、さゆり様から頂きました。

この公開質疑応答は応募頂いたご質問に回答するという形式になっていますが、全ての読者の方にも普遍的な学びとなる内容になるようにお話しているつもりです。

個人的な質疑応答コーナーだと思わずに読んで頂けると嬉しいです。


【質問】


質問があります。生きている間に、親と子が絶縁したとします。天国では両者の関係はどうなりますか?

また絶縁した親と子が亡くなった場合、残された子孫は両方のお墓参りに行っても、両者は怒りませんか?

いつも拝見しております。よろしくお願いいたします。


【回答】


結論から言いますとたとえ絶縁という状態になったとしても、血縁がある以上は、家系としての霊線は繋がっています。

親子といえど、霊界はそれぞれの霊格、霊覚によって行くべきところは異なりますが、霊線は子孫とは繋がっているのですね。

ですから、絶縁状態となって亡くなったご先祖様にそれぞれお参りしたとしても、問題はありません。

天国(霊界)での両者の関係は、たとえ絶縁したとしても、お互いが似たような霊波動を持っているならば、同じ霊界に逝く可能性はありますが、絶縁するほど仲が悪い状態であり、根本的な価値観の相違、霊波動の相違がある場合は、やはり異なる霊界にいくことになるでしょうね。

ただ、両者が単純に骨肉の争いを好む修羅道の波動を受けていて、現世で絶縁にまで発展してしまった場合には、同じ下部霊界にて、現世と同様、親子で骨肉の争いをしているというケースもあります。

絶縁といってもそれは現世でのルールなので、霊界ではそのままは適用されるわけではないんですね。

いずれにせよ、子孫としては、両者は先祖に当たるので供養などはしておいた方が無難かも知れません。

以上を持って回答とさせて頂きます。


天心 拝


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FGS会報メルマガ発行しました。

こんにちは。


天心です。

今日は携帯からのブログ更新です。

昨日はFGSの会メンバー宛てに久方ぶりのメルマガ発行を行いました。

臨時増刊号2を発行してからかなりの期間がたってのことですので、念のためブログでも、お知らせしておこうかと思います。

さて、現在、私は江ノ島に来ております。

先程、岩屋洞窟を参詣して、奥津宮、辺津宮を参詣し終わったところであります。

その帰り道すがら携帯でブログ更新してるというわけです。

今回の参詣は実に多くのことがわかりました。

やはり江ノ島は奥が深いですね。

内容が濃いためブログでは発表はできませんが、次回以降のメルマガでは少し触れていこうかなと考えています。

本当に秋晴れの中、神気漲るよい祈願ができました。

皆様におかれましても、良い週末をお過ごし頂ければと願っています。


天心 拝

同魂異名について

最近はめっきり寒くなってきましたね。

本日(2011.10.28現在)も太陽は眩しいくらいに昼下がりの午後を照らしてくれていますが、どことなく空気には冷たさを感じます。

秋も深まり10月も終わろうとしていますが、寒さに負けずに頑張って参りたいと思います。

さて、今回の霊界事情カテゴリのお話は、同魂異名(どうこんいみょう)ということについてです。

はじめて耳にする言葉かとも思いますので、少し説明したいと思います。

この言葉の意味は、同じ魂ではあるけれど名前が異なることを言います。

神道にて祀られる神様には、同一の神様とされている別の名前をもつ神様がいらっしゃいます。

例えば大国主之命(おおくにぬしのみこと)大己貴命(おおなむじのみこと)は同一の神様であると言われていますが、名前は違います。

さらにいえば、大国主之命(おおくにぬしのみこと)大物主大神(おおものぬしのおおかみ)も同一の神様と言われています。

同じ神様なのに複数のお名前を持っているのですね。

なんとも不思議な感じではあります。

では、これらの神様は同一の神様なのでどちらのお名前でも同じなのでしょうか。

そうではないのですね。

神様の名前というものは、異なるごとに神格神威神徳が異なります。

同じ魂を持つ神様であっても、名前が異なると全く別のお働きをされて、与えてくれる神徳や霊験も異なってくるものなのです。

ですから、名前の違う神様は別の神様であると考えた方がすっきりするのかも知れません。

これは、例えば、山田太郎(仮名)さんという方がいらっしゃったとします。

山田太郎さんは警察官です。それから結婚していて奥さんと子供がいます。

この世に山田太郎さん自身は一人しかいません。

しかし、職場で働く時には山田巡査と呼ばれていまして、警察官としての職務を全うしています。

街のパトロールをしたり、怪しい人物を見かけたら職務質問などをして厳しく取り締まったりすることもあります。

一方で、家庭に帰れば奥さんがいます。

奥さんからは、太郎さんと名前だけで呼ばれているとします。

この時は、ご主人としての立場で山田太郎さんはふるまうし、考え方も一家の主人としてどうあるべきかという発想を持つことでしょう。

子供の前ではお父さんと呼ばれて、父親としてのふるまいをします。

子供の将来や成長を見守る優しい父親としての顔や、時には教育の一環で厳しく叱ったりすることもあるかも知れません。

あるいは、全くの個人として時にはプライベートな顔を持ち、趣味にいそしむ時もあるかも知れません。

この時には、一人の山田太郎さんとしての一面を見せてくれるかもしれません。

このように同じ山田太郎さんであっても、その時々の立場や求められる行動、発想によって、名前の呼ばれ方も違ってきたりしますよね。

人はいくつもの顔を持っているものです。

家では優しいお父さんであったとしても、警察官として制服を着て働いている時には、全くの別人と同じなのです。

逆に子供と遊んでいる時には、警察官としての山田太郎はどこかにいなくなっていますよね。

これと同じように神様も名前が異なると、全くの別の使命を帯びることになるため、別の神様であると考えることができるわけです。

だから、同じ神様だからといって、そのお立場を知らずに何かの祈願をお願いしても、神様の方も困ってしまうことがあるのです。

警察官として活動している時に、子供に遊んで!とせがまれたり、奥さんに甘えてこられたりしても山田太郎さんは困ってしまう(笑)のと一緒なのです。

同じ神様であっても、その神格に応じた接し方をすることが、神様とより深い繋がりを持つための一つのポイントであるということをわきまえておくとよいかも知れません。


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【公開質疑応答】魂は一人につき一つ?

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第九弾です!

ご質問は、梨寧様から頂きました。

この公開質疑応答は応募頂いたご質問に回答するという形式になっていますが、全ての読者の方にも普遍的な学びとなる内容になるようにお話しているつもりです。

個人的な質疑応答コーナーだと思わずに読んで頂けると嬉しいです。


【質問】


はじめまして、blogを楽しく見させて頂いている梨寧と申します。

魂のことについてお聞きしたくメールいたしました。

私達の身体には魂が一体につき1つ(1魂)という定義でできているのでしょうか?

2つの魂、3つの魂が混在することも有り得るのでしょうか?

もし有り得るのであればその場合、多重人格ということになるのでしょうか?

どんな意味を持つのか、教えて頂けたら嬉しく思っております。


【回答】


魂については、過去のブログ記事での何度か触れています。

そちらも是非、読んでみて頂きたいのですが、ここでちょっとだけ復習してみましょう。

魂は基本的に一霊四魂(いちれいしこん)という単位で授かっています。

一霊とは別の名前では直霊(なおびのみたま)とも呼ばれていて、全てを統括する神性を備えた魂です。

通常、私達が魂と呼ぶのはこの直霊のことなんですね。

その他に四魂が存在しています。

奇魂(くしみたま)、幸魂(さちみたま)、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)の四つになります。

(それぞれの魂の意義や説明は、過去記事を参照してみてください)

この魂のセットが大体、人には一セットずつ授かっているのが基本ではあります。

ここで、ご質問の内容に戻りまして、この魂のセット、あるいは直霊が複数存在する人は存在するのかということについて少しお話してみたいと思います。

結論から言いますと複数存在することはあり得ませんが、複合的な魂を持つ方はいらっしゃいます。

複数存在するというよりは、魂の合一状態、つまり複数の魂が合体した状態で生まれてくるという可能性があるという意味であります。

つまり、いわゆる二重人格のような状態を指すのではなく、あくまで元は単体だった魂同志が合一(合体)して現世に降りてくるという現象はありえるということです。

魂のセット、直霊はあくまで一つではありますが、複数の魂が合一して一つとなっている状態なんですね。

魂は、成長して大きくなると分魂現象といいまして、魂が複数にわかれることがあります。

これとは逆に、自分の魂の不足分を補うために他の魂と合体する合一現象というものがあるのです。

だから、必ず単体での元津御魂(もとつみたま)で生まれてくるとは限らないわけではないのです。

さらに言えば、私達が現世で活動している最中でも合一という現象は起きています。

例えば、総理大臣になって日本を良い国にするぞ!なんていう志を持って頑張り始めたとします。

最初は、単なる平凡な一市民としての生活を送り、政治や日本全体のことなんて考えたことはない人がそのような志をもったと仮定してみてください。

もちろん、志を立てただけでは、何も変わりませんし、周囲から観ても、「この人が総理大臣?無理でしょ(笑)」なんて冷ややかな目線で見られてしまうことになるかも知れませんよね。

実際、この時点ではこの人の魂にはまだ、平凡な一市民としての生活を全うするだけにふさわしい魂がある状態だといえます。

しかし、この志を継続して持ち続けて、本当に政治を勉強して、どこまでも努力を続けたらどうなるでしょうか。

一概には結果がどうなるとはいえませんが、少なくとも段々、政治を志し、総理大臣になろうとしている人の持つオーラや雰囲気を醸し出すようになってくるはずです。

俗に言う「人が変わったようだ」という状態ですね。

「まるで、生まれ変わったようだ」なんていう表現もありますよね。

これはまさに魂が生まれ変わっている状態でもあるのです。

総理大臣になって日本を良くしよう!という志と努力によって、総理大臣になるのにふさわしい霊格、霊覚の魂が応援に駆けつけてくれるようになるため、その影響を受け始めるわけですね。

そして、志と努力が極まれば極まるほど、その霊格の高い魂は近づいてきます。

最終的には霊格の高い魂とその人の元津御魂とが合一状態となり、まったくその人の過去を伺わせないほどの人物へと脱皮するのです。

これが、現世における魂の合一が発生する瞬間でもあります。

このように魂も増えたり、分かれたりするということは、ありえるといえましょう。

もし、人生の中で、自分が大きく変わったなと感じる瞬間があったとすれば、それは他の魂との合一が起こったのかも知れませんよ。

以上を持って回答とさせて頂きたいと思います。


天心 拝


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浅草寺にて参拝

先日、浅草寺にて参拝を行いました。

浅草寺は、昔ながらの下町情緒をかもしだす浅草の象徴としてずっしりと構えるように鎮座しています。

浅草観音という通称でも親しまれ、雷門の大きな提灯は有名ですね。

聖観世音菩薩様が祀られていますが、秘仏であり観ることはできませんが、しっかりと大きな金色と白色がかった巨大な光の柱が降りているのを参詣すれば感じることと思います。

ただ、日本を代表する観光地の一つでもあり、いつ行っても、人ごみは避けられません。

人によっては人ごみに酔いしれて、観音様に意識がいかない人もいるかも知れません。(笑)

仲見せ通りの商店街の誘惑にも負けず(笑)、観音様に意識を向け続けることができる人だけ、あの大いなる神気を感じることができるのかも知れません。

本当に観音様には日ごろからお世話になっています。

遠隔浄霊などで行う、先祖供養などにおいては、観音様が大活躍をされています。

どこまでも慈悲深く、人や霊の持つ想念の歪み、観念を正してくださいます。

しかも、様々なケースバイケースに対応して姿を変えて、救済の手を差し伸べてくださる有難い仏様でもあります。

どんな仏様をお参りしようかと迷ったら、観音様がお勧めですね。

日頃の感謝などを中心にお祈りさせて頂きましたが、その時、お諭しを頂きましたので少しご紹介してみたいと思います。


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最上位にあるものの苦しみとは

白髪の見えるほど

真心と慈悲を表す時の苦悩である

下賎の苦しみとは

己がことばかりにとらわれる心根にある

利己を越え利他に悩め

悩み続けるほどに

仏性は輝き

慈悲の根は深くなる


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簡単に解説させて頂きますと、自分のことを越えて、人を幸せにするためにどうすべきか、悩み続けることができることが最上位の人の在り方ですよというお諭しですね。

どうしても、人は自分のことばかりで悩んでしまいがちですが、私もとことん、人のために悩めるように心がけていきたいと思います。


天心 拝


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【公開質疑応答】養子をもらった場合の先祖との関係は?

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第八弾です!

ご質問は、キズナ様から頂きました。

この公開質疑応答は応募頂いたご質問に回答するという形式になっていますが、全ての読者の方にも普遍的な学びとなる内容になるようにお話しているつもりです。

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【質問】


ご先祖様は子孫を頼ってくると仰っておりましたが、

例えば、子供の居ない夫婦が養子をもらい、姓を継がせるなど血縁関係のない人が継いだ場合、

その人のご先祖様との関係はどうなるのでしょうか?


【回答】


養子の場合は、その養子の方が姓を変えられた時に霊線が変更された姓の家系と繋がることになります。

よって、ご先祖様との霊線も繋がることになります。

但し、霊線には濃い薄いがありますので、どの程度の影響を受けるのかはまちまちです。

ご先祖様が強く頼ってくるのは、濃い霊線が繋がった子孫のもとであります。

ですから、たとえ血縁にはなくとも、養子という形で籍を入れた場合には、祖先との繋がりができますので頼られる可能性はあるといえます。

養子以外にも結婚して相手方の姓を名乗るようになり、籍を入れると相手方のご先祖との霊線が結ばれることになるので、これと同じです。

先祖の縁とは必ずしも血のつながりだけではないのですね。

養子という精度は古くから存在していますので、ご先祖様の方でも、養子にきたものは自分の子孫として認識していることが多いので、血がつなっていなかろうと、子孫として、先祖供養の一つくらいはすべきであるという認識を持っていることが多いようです。

また、姓を変えた場合、以前の血縁関係にあった家系との関係はといえば、これもなくなるわけではありません。

但し、霊性の濃い薄いの変動は起こる可能性があるので、結婚したり、養子になることで、家系から来る正負のエネルギーの影響や先祖の影響に変化が起こることもあるようです。

結論としては、養子や結婚を通して、現実的な形式上のこと以外にも霊界においても変化があるということです。


天心 拝


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守護霊の名前

たまにご質問頂くのことに守護霊の名前に関してのことがあります。

大抵の場合、守護霊様は名乗ることがなく、本来は姿も見せずにポイントだけメッセージを下さることが多いといえます。

お願いしてお伺いをすることでようやくお姿は、見せてくれることが多いのですが、名前は教えてくださらないことがほとんどであります。

どのようにとお呼びすれば良いのでしょう?と一度、伺ったことがあります。

その答えとしては、守護霊様は、「守護霊様!」と呼びかければ大抵は、自分のことだと(笑)お分かりになるようです。

これは、街中で巡回中の警察官の方に「おまわりさん!」と呼びかければ、大抵はわかってもらえるのと似ていますね。(笑)

守護霊もこの要領で大抵はわかるようです。

ただ、どんな人なのかわからないとお祈りしにくいという方のために時折、守護霊アドバイスの取次時にお姿をお伝えすることがあります。

しかし、名前はどうしても教えてくれないことが多いので、今までお伝えしたことはありません。

私もどうして教えてくださらないのか、不思議に思い、一度、お伺いをしてみたことがあります。

理由の一つとしては、まず、生前の名前は守護霊様にとってもう遠い記憶になっているために、あまり覚えていないかあるいは、ほとんど思い起こすことがなくなっているからだということです。

守護霊は、皆さん霊名という新しい名前を皆、授かっているため、ほとんど生前の名前は忘却の彼方であり、うっすら覚えているに過ぎないようです。

たとえ、覚えていても、生前の名前で呼ばれても、守護霊としての働きには関係のない名前なので、呼ばれてもイマイチ、ピンとこないようです。

なるほど!とその時は思ったのですが、それならば、霊名を教えてくれればよいのでは?と思い再度、お尋ねしてみたところ、守護霊様が言うには霊名はやたらと明かさないのが霊界でのルールの一つとなっているとの回答ではありました。

というのは、霊名を知られてしまうと、守護霊としても非常に強く働かざるを得ない状況が生まれてしまうとのことです。

霊名を申し上げて、守護霊様をお呼びすると、強い働きかけとなり、守護霊様との絆が非常に強く結ばれることになります。

そうなると、守護霊もその霊名を口にした人の祈りに強く反応してしまうというのが霊界法則としてあるようです。

例えるならば、街中で、「おまわりさん!」と呼ぶのと、「○○巡査!」と正式にお名前と役職を呼ぶのとでは、与えるインパクトが違うのにも似ています。

守護霊様も霊名を知られるとやたらと呼びだされて、本来の使命が果たせなくなる恐れがあるために、基本は秘匿するのを原則にしているとのことでした。

なるほどなるほどと一応、納得はしてみたものの、それでも、やはり気になってしまいまして(笑)、なんとか霊名を教えて頂くことはできないものなのでしょうか?

と食い下がってみたところ、「真に誠があり、功があるならば時が来れば教えよう」というご回答でありました。

いやはや、謎に包まれた守護霊の名前の謎。

いつの日か解かれる時が来るのかも知れません。


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【公開質疑応答】芸術性を養うことについて

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第七弾です!

ご質問は、ぎょ様から頂きました。

この公開質疑応答は応募頂いたご質問に回答するという形式になっていますが、全ての読者の方にも普遍的な学びとなる内容になるようにお話しているつもりです。

個人的な質疑応答コーナーだと思わずに読んで頂けると嬉しいです。


【質問】

芸術性を養うことは、
良い気を受け、魂も向上させると拝読いたしました。
そこで音楽についてご質問させてください。

世の中には様々な音楽がございます。
おだやかなクラシックがあれば、
不協和音や騒音、ノイズだらけの実験的現代音楽もあり、
前向きで明るい歌があれば
恨みつらみを歌った歌もございます。

戦争や悪魔崇拝、過激なパフォーマンス、
トランス状態、性、麻薬…。
音楽には暗い面もあるように思うのです。

これらの音楽に親しむことも、霊格を向上させることになるのでしょうか?
それとも、負のエネルギーを負ってしまうことになるのでしょうか?

以上となります。
お手数をおかけしますが、ご教授いただければ幸いです。
何卒宜しくお願い致します。


【回答】


確かに芸術と一言で言っても様々な形がありますよね。

とりわけ音楽にも色んなジャンルがあり、それぞれの特徴や良さがあるともいえます。

ただ、魂の向上に寄与する音楽と世の中で発表されている音楽の良しあし、ジャンル分けなどは実はあまり関係はありません。

世間では、人の嗜好や時代の流行によって、良しあしが判断されますし、必ずしも魂に良い影響を与えてくれる音楽が人気があるともかぎりません。

ですから、魂の向上に寄与する音楽というものを世間的な人気度合いや、単なるジャンルで判別するのは難しいといえます。

でも、それだと、何が魂に良い音楽で、何がそうでないのかが判別つきずらいと思いますので、一つの基準を今回はお話してみたいと思います。

そもそも、なぜ音楽をはじめとする芸術に触れることが魂の向上に役に立つのでしょうか。

繊細で極微の世界を理解するというところにヒントが隠されています。

本来、芸術には良い悪しはありません。

を表現するのが、芸術であるので、良いとか悪いという判断をすることは間違っているといえます。

例えば、クラッシック音楽が好きな方がいたとして、ポップスロックなんて下品だと言い放ったとします。

そんなことをしたら、必ずといっていいほどポップスやロックが好きな方からの猛烈な反論があるはずです。

お互いに自分の好きな音楽の良さを並べ、自分の興味の薄い音楽に関しては、くだらないという感想を述べるかも知れません。

どちらの音楽が素晴らしいかを議論したところで、結論はでないはずです。

人気があって良く聞かれる音楽ならば良いといことでもないですし、歴史があって格調高く高貴な感じがするから良いというものでもありません。

逆に人気がない音楽は悪い音楽ではないですし、流行に乗ってすぐに聴かれなくなったからといって悪い音楽ではないのです。

だから、まずは音楽に良しあしをつけることはできないということは理解しておく必要があるでしょう。

その上で、音楽において魂に良い影響のあるものという点でいえば、それはなるべく繊細で様々な音の要素が組み合わさる音楽であるといえます。

そのような意味では一般的に単調でわかりやすく、大衆にも受け入れやすい歌謡曲などよりも、クラッシック音楽などのほうが、より繊細で魂にとっては良い影響を与える音楽であるといえるでしょう。

繰り返しになりますが、芸術に良し悪しはありません。

歌謡曲が悪いといっているのではなく、その単調性、わかりやすさという意味では、魂の向上という点では役に立ち辛いということなのです。

なぜ、芸術に触れるのが魂の向上に役に立つのかといえば、魂と同質の繊細で極微の非常に抽象的な世界に想いを馳せ、感応して取りこんでいこうとするところにあります。

魂の向上とは、より高い次元に感応することによって、その次元に近づいていくという法則があります。

より高い次元に感応するためにより高い次元を表している芸術の気に触れることが一つの方法として有効であるということなのです。

繊細でも極微でもない、荒々しい単調な曲やわかりやすい曲を聴いているとどうなるのかという質問に関してですが、これは魂の次元という意味では現世かあるいは波動の低い霊界に感応しやすい曲である場合もあるため魂の向上という意味ではあまり使えない音楽であるともいえます。

では、聴かない方がいいのかといえばそんなこともないのです。

もちろん、波動の低い霊界に感応しやすい曲は、あまりお勧めはできないところではありますが、通常の大衆において人気がある曲というものは、得てして人を元気にしてくれます。

これはなぜかといいますと、その音楽の持っている波動が現実に近い波動を帯びているからであるといえます。

波動が低いというと何か悪いもののイメージを持ってしまいますが、そうではありません。

例えば、魂の次元が高まってくると繊細で極微の抽象的なことが理解し感得できるようになりますが、その分、現実的には弱く、もろい側面が出てきます。

得てして、繊細な人を観てみるとわかるのですが、現実的には傷つきやすく脆い人が多い傾向にあります。

逆に現実において雄々しく、バリバリ実行力を持って生きている人というのは、若干、神経も強靭で、小さなことは気にしないというタイプの人が多いように思います。

これは、どちらが良いということではなく、現世で生きるためには後者のようなバイタリティが必要な側面は必ずありますし、より高度なものを体得して表現していくためには、前者のような方の感性を持ち、繊細なものを理解し体得する必要があります。

だから、どちらの要素も必要ということになります。

魂の向上という意味での芸術ならばクラッシック音楽のような繊細なものに多く触れることが良いといえます。

でも、現実の生活でもっと活力やパワーが欲しいと想う時には、歌謡曲やロックやポップスといったようなわかりやすく自分の心に響いてくるものを選ぶ方が良いといえるでしょう。

このバランスを考えながら、音楽を選択してゆくと良いのかと思います。

霊格の向上というものは、様々な面によって行われてゆくものであり、音楽はその一つの側面をフォローしてくれる存在であるといえるのではないでしょうか。


天心 拝


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念と気

「念」をコントロールすることが心根を変えてゆく一つの方法となるわけですが、実は「念」だけではなく「気」というものも非常に重要な意味を持っています。

「念」と「気」とは何が違うのでしょうか。

「念」は、想いであり、心の表層部分にあたります。

人間は誰でも何かを考えたり想ったりして日常を生きていますが、これは常に念を発しながら生活をしているというように言い換えることができます。

自分が今何を考えているかということは、自分が一番良く知っているはずですね。

だから、自分が今どんな念を発しているのかどうかは自分で理解することはできるわけです。

自分の心根を変えてゆくためには、まずは念をチェックして変えてゆくことで、実現することができるといえます。

しかし、実際には念のコントロールだけでは霊界を大きく変えてゆくことは難しいといえます。

霊界は念が凝結して構成されていますが、それ以外に「気」というものを帯びています。

では、「気」とは一体なんなのでしょうか。

一言でいえば、目に見えざる「感覚的なもの」という定義が出来るかもしれません。

多くの「気」と呼ばれているものは得てして実体を視覚的にとらえにくいものが多いと思います。

空気、熱気、冷気、元気、気分・・

上げていけばきりがないのですが、全て、感覚的なものを表していて、実体的にこれだ!と目に見えるものではありません。

このことから、「気」は「念」よりも自己把握が難しいところがあるといえるでしょう。

「気」は「念」のようにイメージや言葉で表現されることが少なく、感覚のみであることが多いので、「念」に比べると意識が向きずらいものであるといえます。

だから、「気」が枯れてきても、気付かないでそのまま放置してしまうことが多いのです。

気が枯れることを神道では穢れと認識していますので、気が枯れることを忌み嫌います。

気が枯れてくると段々と「念」も荒んだ状態に発展することが多く、逆にいえば「念」の歪みの初めは気が枯れることから始まっているともいえるでしょう。

最初は守護霊様と交流したり、神社参拝をしたり、良い気をもつ場所や良い気をもつ本を読んだりすることで、気は溌剌としている状態になりますが、段々と俗気が多くなり、現実の生活に押しつぶされてくると気も枯れてくることになります。

キラキラした心で守護霊に向かい、神仏や霊界のことに興味を持っていても、知らず知らずのうちに現実的なことばかりに向かいあい、俗気を多く浴びると段々と守護霊や神霊達も離れていくようになるのです。

「私は忙しいから」
「明日までに○○の仕事を終わらせなきゃいけないから、そんな暇ないわ」
「現実はそんなに甘くない。現実は辛いものなんだ」


こんな言葉や想いが出てき始めている時には、気が枯れている状態になっています。

俗気に負けて神気が不足している状態ですね。

俗気に負けない秘訣は、現実的な損得勘定から離れること、心からワクワクする理想にいつでも立ち返る時間を作ることです。

毎日、毎日が現実の大変で辛い、問題山積みの状態ばかりを眺めてため息をついていると、気は枯れてきます。

現実逃避を進めているわけではありませんが、時には現実から離れた時間を持つようにすることをお勧めします。


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【公開質疑応答】霊界のルールとは?

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第六弾です!

ご質問は、もっち様から頂きました。

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【質問】


天心様。もっちと申します。
いつも楽しくも、はたと気付かされる内容をありがとうございます。

さて、、、

公開質問の場を頂きまして、以前より疑問に思っておりました事を質問させて頂きます。

昔も今も、現世では当然様々な人がおりまして、大なり小なりコミュニティーを形成する上でルールが存在しています。
それを率先する人もいれば、定められているから仕方なく守っている人もいれば、全く無視して我欲に生きる人もいます。

これに対して『霊界のルール』はどうなのでしょうか?

私の感覚としては、自然と『守らざるを得ない』状況が存在しているように感じているのですが、現世で圧力を感じながらルールを守っている人や全く守らない人であっても、自然と従うようになるものなのでしょうか。

となると、肉体を纏っている魂と肉体を脱ぎ捨てた魂とでは別存在とさえ思えます。

多くの方々は、当然現世の記憶しか持ち合わせていないと思いますので、霊界での当たり前が分からないと思われる状況の中、質問をさせて頂きました。
この様な機会を頂きまして、ありがとうございました。


【回答】


現世も憲法や法律、条例、規則なんていう具合に沢山のルールがありますよね!

公的なもの私的なグループでの取り決め。

国家、都道府県、市区町村といった公的なものもあれば、学校、会社、サークル等ナドと私的なグループにもルールはあります。

もちろん、霊界にもルールはあるのですが、現世のルールを観てもわかるように、細かい規定を上げてゆくときりがないくらいになります。

私も全ての霊界のコミュニティごとのルールを把握しているわけではありませんが、概ね共通していると思われる霊界ルールを少しピックアップしてみました。


①現世干渉の抑制ルール

これは、完全に霊界オンリーの住人となった時点で基本的には現世に干渉してはいけないという取り決めによってなされています。

でも、あくまで抑制であって、全く干渉しないというわけではないようです。

守護霊などの特別な使命をもった霊的存在は、ある程度、現世に関わっていくことは許可されています。

それ以外の霊界住人は基本的には現世への干渉はしないルールになっていますが、但しこれは絶対ダメというレベルではなく、あくまで取りきめというレベルなのですね。

ご先祖様などでも、まだ守護霊となれる霊格、霊覚でなくても、愛と真心が極まり、子孫を思う念が強いと現世における子孫に影響を及ぼしたりする場合もあるのです。

霊界は心の世界なので、ある程度は自由度がありますし、現世のように性悪説を前提に細かく厳しく規定されているわけではないのです。

ただ、自由度が高い分、ある程度、霊人の方で節度をもつようにしないと霊界も現世も混乱してしまう可能性があるために取りきめをしているわけですね。


②上位霊界の意向が優先される

霊界にも上部と下部の霊層の差異があります。

つまり、霊格の高い存在の意向にそって霊界運営や現世への影響度合いの調整がなされています。

これは丁度、会社組織にも似ていて、まずは社長の意向が優先されて、その次が専務や常務、それから役員、各事業部の部長、課長などとヒエラルキーごとに意向の決定件があるのと同じです。

しかし、現世では、社長という役職という者に対して、意向の優先権がありますが、霊界ではあくまでその霊人のレベルに応じてなので、現世のようなミスマッチはおきません。

現世では社長の器でなくても、二世社長などが役職につき、優秀な部下が苦労するという図式がありますが、霊界では、そのようなことはないのです。

だから、上部の霊界の意向に下部のものが、嫌々従うということはなく、皆、敬意の念を持って上部の意向を取次いでいるのです。

もっとも下部でも最下部層の霊界までいくと少し事情は異なりますが、基本的にはこのような仕組みになっていることが多いようです。


③功績の原則

これは必ず霊界にて愛と真心に基づいた功績があれば、その分、神界からのご褒美が頂けるということです。

神界は霊界を越えた魂の世界であり、非常に抽象的な世界でもあります。

感覚的な世界、光と色どりだけの世界とでも表現するしかないのですが、その神界から霊人は霊功(光)を頂いて成長していきます。

神界からの霊功がないとある程度までは心構えなどを工夫し、修行することで霊覚を磨くことができますが、最上部の神霊界にはたどりつけませんし、神様に近い存在にはなれないということなのです。

霊功を頂くために守護霊などの神霊達は日夜頑張っているという見方もできるかも知れません。


以上が大きく共通する霊界のルールの一部であります。

あまり、霊界のルールを発表することは許可がでないため、この程度でご容赦頂ければと思います。


霊界のルールは現世のように守らなければならないから、守ろうとしているというよりも、霊界の住人の愛と真心を起点とした取りきめという要素が多いので、現世でのルールの捉え方と少し違うところもあるかと思います。

それから、現世同様にやはり霊界ルールを守らない霊的存在もいます。

それらは一般的には悪霊や邪霊と呼ばれています。

霊界はある程度自由度が高い空間であるわけなので、逆にいうとなかなか取り締まるのも難しいところでもあるのです。

この点は現世と同じといえるのかも知れませんね。


さて、最期に現世に生きる人達の多くは霊界の存在ははっきりと知覚できていないことが多いことと思います。

ご質問にあった霊界での当たり前がわからないという状況も普通に存在していることも確かですね。

でも、霊界のルールは基本的には霊界住人のための取りきめなので現世に生きる人達には大きくは影響しません。

但し、霊界法則(取りきめではなく法則)は、現世の人間にも影響されますので、自ら機会を得て勉強していく他はないでしょう。

また、霊界法則を知覚できない人のために守護霊というガイドが奮闘し、地上にある神社、仏閣などの聖域を通してなんとか指導しようとしているわけです。

素直な気持で日々を一生懸命生きている人は必ず神縁によって、どこかで霊界法則を学ぶチャンスを得ることが多いといえるでしょう。

以上を持って回答とさせて頂きます。


天心 拝


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母性の愛と父性の愛

愛には大きく分けると二つの種類があるかと思います。

母性の愛父性の愛です。

お母さんのどこまでも優しく、包み込むような育んでいくための愛と、お父さんのような厳しく、我が子を一皮向けさせて成長をさせようとする深淵なところから来る愛ですね。

一般的に愛というと母性の愛が取りざたされることが多いように感じます。

これは、母性の愛は普遍的で全てを育む基礎となる愛であるからに他なりません。

考えてみれば、愛を与えてあげなさいと言われて真っ先に思いつくのは、人に優しくすること、抱擁的な気持で受け止めてあげること、そういった暖かい感情をイメージすることが多いのではないでしょうか。

母性の愛がなければ人は育たないし、その愛があればこそ、人は安心を持って生きることができているということがいえるでしょう。

だから、人が最も多く、求めるのは、この母性の愛だったりします。

大抵の場合は、皆、優しくして欲しいと願うことが多いでしょうし、受け入れられたいという気持ちを持っている方が多いはずです。

しかし、母性の愛だけでは、人が魂を磨いていくためには不足が生じてくるのも事実です。

より向上しよう、より高い境地で物事をとらえていける自分に成長しようと思った場合には、父性の愛が必要になってきます。

この父性の愛というのは、ある意味とてもわかりずらい愛であるといえます。

そして、別の言い方をすると報われ難い愛であるとも言えるかも知れません。

父性の愛は、母性の愛のように人が喜んで受け入れてくれる愛の形とはかぎりません。

なぜならば、時には千尋の谷から突き落とされるようなことをされることが愛の形として父性の愛は表現されることがあるからです。

例えば大学進学の学費を我が子のためにコツコツと貯めて、将来に備えてあげるようなことをお母さんはしていたします。

これは母性の愛ですね。

お父さんはというと、「自分の将来のことだろ!自分でなんとかしなさい」と突き離したりします。

単純に考えればおそらく子供にとっては、お母さんは優しくて自分を愛してくれている、でも、お父さんは鬼のようだと感じるかも知れません。

しかし、お父さんも実は、我が子をかわいくないはずはありません。

なんでも親が用意して、道を調えてあげるのは、我が子の成長を阻害し、自ら考え、道を開く精神も気概もなくなってしまうことを怖れています。

だからこそ、あえて、突き放しているわけです。

しかし、その想いというのは、なかなか伝わりずらいものでもあります。

父性の愛とは、愛を与えたら感謝されたり、愛を返してもらえるようなわかりやすい愛ではないのです。

その分、本当の意味で見返りを求めない、あえて恨まれたり、誤解されたり、非難されたりすることを覚悟の上でなくてはできない愛の形であるといえます。

我が子に理解されず、誤解されてでも導いてあげようという気概がなければできないのが父性の愛なのです。

もちろん、単純に厳しくふるまうことが父性の愛ではありません。

単に思いやりに欠けて、ずさんで粗暴な態度が父性の愛だと思うのは大きな誤解です。

それゆえに父性の愛の表現はとても高度で、人生にて深く学び、人としての道も踏まえて、母性の愛も理解したうえでないとできないことです。

だから、母性の愛は、普遍的で基本の愛とするならば、父性の愛は高度で人を一段、脱皮して超えさせるための愛であるといえるのでしょう。

父性の愛を理解できるのは、我が子が成長し、様々な経験を経て悟り、人生を振り返ることができるようになった時です。

その時、はじめて、「ああ、あの時のお父さんの自分に対する仕打ちは自分のことを思ってのことだったのだな」と気づけるのです。

父性の愛に気づけるのは、その人の魂が脱皮し、成長を遂げた時だけなのです。

そのように考えると、必ずしも母性の愛ばかりを追い求めて、父性の愛を理解できないのでは、成長していないといえるのかも知れません。

守護霊神仏の与えてくれる愛も母性の愛と父性の愛があります。

母性の愛では、私達が生きている日常でヒントを与えて、道を調えてくれたりします。

いろんなサインも見せてくれて、楽しくて面白くてしょうがない時期というものもあります。

しかし、守護霊にも父性の愛があります。

守護する当人を脱皮させて、成長させるためには、あれこれと世話を焼いてあげることだけではダメであることを守護霊は知っているのです。

だからこそ、時として試練のようなものを与えたり(といっても試練が起こるのは負のエネルギーの顕現化によりますが)することもあるのです。

そんな時に「クソ!守護霊などいるものか!」とか「神も仏もないのか?誰も救ってくれないの?」と騒ぎ立てるのは、丁度、学費を出してくれないお父さんに噛みついているようなものなのです。

そんな時は、守護霊もどこかで心を痛めながらも、既然とした態度で守護する当人を突き放しています。

もちろん、怒っているわけではありません。

当人のためを思えばこそ、ひどい言われ方をしてもそれを受け止めて、脱皮のために心を鬼にしているのですね。

守護霊だって、感謝された方が嬉しいし、当人が喜ぶことをしている時の方が楽しいのです。

それでも、全く感謝されなくとも、恨まれようとも、報われぬ愛の形であると知っていても、本当に愛があるからこそ、それができるのです。

そして、父性の愛を実践できるほどの霊格と実力を備えているからこそ、守護霊として活動できているわけです。

私達も魂の向上のために現世にて学び研鑽する身です。

母性の愛のみならず、父性の愛を理解できるようになることで、はじめて本当の意味での愛を理解できるようになるのかも知れません。

母性の愛と父性の愛。

両方そろってはじめて本当の愛の形ができあがるといえるのかも知れません。



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努力の開花とは

一歩一歩階段を進むように物事が自分の望む姿に成長していくというイメージは、多くの人の持つ一つの誤解であるといえます。

地道な一歩はもちろん大切なことではありますが、階段を上るように目に見える形で右肩上がりに成長するイメージを持っているため、なかなか結果が見えてこないと焦ってしまうこともありますよね。

人によっては右肩上がりにスイスイと成果が見えることもあるかもしれませんが、大抵の物事というものは、そのようにはなっていません。

試行錯誤を繰り返し、毎日、努力を継続していても、なかなか光が見えてこないこともあります。

こんな時にくじけそうになってしまうのが人間というものなのかも知れません。

しかし、大切なことは、努力が成就する瞬間には法則があるということを知ることだと思います。

大抵の方が右肩上がりの成果を期待してしまいますが、得てして成果とは突然やってくるものだということを理解することが大事です。

例えば、禅の修行でも同じことが起こっています。

毎日、座禅を組み、修行を行うと少しずつ何か成長を自覚できるというわけではないのです。

厳しい修行をしていても、どんなに座禅を組む時間を長く持っていても、何年、経過していても一向に悟りを得られない僧侶の方もいます。

禅で悟りを得ることを見性成仏と言いますが、この見性というものは、ある日突然、パッと悟り、全てがわかるというものであります。

あらゆる疑問が解消し、いままでの苦しい修行が報われる瞬間でもあります。

もちろん、見性したからといってそこで修行が終わるわけではなく、悟後の修行と呼ばれる、さらなる精進を続けていくことにはなります。

でも、見性することで、今までの苦労がようやく実るわけです。

苦しい修行やなかなか悟りを得られない葛藤から逃げずに大願を成就することができた喜びは大きいことでしょう。

これはあくまで禅のお話ではありますが、全ての努力の開花というものも実は、これと同じなのです。

物事の成就はある日突然、パッと開花する。

その瞬間は、努力を止めずにどこまでも継続していく先に、一番良いタイミングで花が咲くのです。

しかし、なかなか、そのタイミングが来るまで続かないのが人情の性というものなんですね。

目に見える成長、目に見える成果。

これを追いかけ過ぎるといつしか、自分の進んでいる道が誤っているのではないかと思えてくることもあります。

しかし、大輪の花が咲く瞬間というのはいつも、長い年月を経てため込んできた正のエネルギーが顕現化する時であるといえるのです。

なので、目に見えぬ成果に心悩ませることなく、後の大輪開花を希望を持って臨む。

このような気概を持つことが大事なことなのかもしれません。



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【公開質疑応答】精神的病について

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第五弾です!

ご質問は、かぼちゃ様から頂きました。


【質問】


はじめまして、質問させていただきます。

うつ病や統合失調症などの精神病、神経症は

スピリチュアルの世界ではどういったとらえ方をされているのでしょうか。

また、霊障と関係はあるのですか?

よろしくお願いいたします。


【回答】


精神的な病気はスピリチュアル的に解釈すれば魂の傷という言い方ができるかなと思います。

思考の偏りから来る小さな穢れが積り積もると精神にも影響を及ぼすことがあるということですね。

例えば、あまり普段は気にしていないレベルの小さな不安恐怖、ねばならないといった脅迫観念哀しみ怒り、負の感情が積もると魂の傷になります。

魂の傷に一度なると中々、精神的な自由が利かなくなるため、一度、落ち込んだり、混乱したりすると立ち直りずらいところがあります。

なので、魂の傷となる前に少しずつ禊祓いを行って、リフレッシュしておくことが、精神的病にならないためのポイントでもあるかも知れません。

霊障が原因でなる精神的な病もあるかとは思いますが、どちらかというと、魂の傷により自分の霊界が曇り、そこに霊障を引き込む温床を作ってしまうというケースが多いのかなと思います。

スピリチュアル的にはこうである!と言い切れるほど、単純ではありませんが、大きな一つの原因とはいえるかも知れません。

ただ、精神的病にかぎらず病気全般について言えることなのですが、いろんな側面から観てみることで、病気というものの示す意味が変わってきます。

もっとも単純なものの見方としては、体質的な疾患ですよね。

物理的にどこかに不具合があるから、痛かったり、苦しかったり、どこか違和感があったりするわけです。

なので、なにはなくとも、まずは、体調がおかしいなと感じたならば、医療機関にて診察を受けることが大事ですね。

よくスピリチュアルな観点のみで、病気を判断して、余計に病状を悪化させてしまうケースがあります。

なので、一番、現実的に影響を及ぼしている部分を一番、現実的に効果がある治療をしてくれる医療機関、医師に相談するのが基本であるかなと思います。

その上で病気のスピリチュアルな意義や見方をしてみることが大切です。

少し、質問の趣旨からは外れてしまいましたが、蛇足ながら付け加えておきたいと想います。


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天心 拝


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毎日のスイッチを入れる

毎日毎日が学びであり魂の向上のための時間であることは、ブログを通してお話して参りました。

現世に生まれて無駄な時間というのは一秒たりともありません。

全てに意味があり、砂時計の一粒の砂がまるで砂金であるかのように感じるくらいとても貴重なものでもあります。

なにしろ限られた時間の中でどれだけ成長できるのかが問われているわけです。

どのように過ごすかは人それぞれにかねられていますが、折角、現世に生まれてきたわけなんで、是非とも有意義に過ごしたいと想うところです。

毎日が学びであるということではありますが、どうしても、ボンヤリ過ごしたり、なんとなく、今日は魂が曇った感じで過ごしてしまったなと感じる日もあるかも知れませんね。

一時、スピリチュアルに興味を覚えても、気がつくと俗世の縛りにからめ捕られて、現実思考で過ごしてしまう日も多いのではないでしょうか。

そこで、そうならないために一つの秘訣をご紹介してみたいと想います。

それは、一日の始まりにスイッチを入れるとうことです。

一体、どんなスイッチを入れようというのでしょうか。

目に見えざるスピリチュアルスイッチであります。(笑)

そのスイッチを司っているのが守護霊の役目でもあります。

朝起きた時に守護霊に対して、まずは挨拶をしてみましょう。

それから、自分が今日一日、なんのために生きてゆくのか、なんのために現世に生まれてきたのかを守護霊に語りかけるのです。

自分の目標、自分の生きる意味、一つ一つを語りかけていきます。

そうやって、守護霊と交流していくと、皆さまの中のスピリチュアルスイッチがOFFの状態からONの状態に切り替わるのです。

毎日、このようにスイッチを入れてください。

このスイッチを毎日入れ続けることができるかどうかで、毎日をただ漫然と過ごすことになるか、天命、あるいはスピリチュアル的な本義を活かした一日を生きることになるかが変わってきます。

簡単なことなのですが、行う人は少ないのです。

簡単だからこそ、基本であり、とても重要なことでもあります。

これをするのかしないのかによって、何年、何十年というスパンでみた時に成長にすごい開きが出てきます。

小さな一歩を侮れば、後には大きな差異が生まれるわけです。

小さな一歩、侮らず進めていきたいものです。


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想像力の限界を超える

人はどこまでも成長できる可能性を持って生まれてきています。

成長の可能性は無限にありますが、実際のところ人の成長には限界があるように見えてしまうものです。

無限の可能性である神性をそなえた存在である人間が、いつしか頭打ちになってしまう理由の一つには想像力の限界というものがあります。

多くの場合、日常という名の繰り返しの中で、あまり想像を越えた行動を取るという方は少ない傾向にあるのではないかと思います。

いつの間にかルーチンワークに陥り、あまり意識しなくても、効率よく物事をこなせるようになってくると想像力を使うことは極端に減少してくるといえるのではないでしょうか。

だから、時にはルーチンワークから抜け出して、いつもと違う、自分であるように想像力を働かせて、新しい息吹を入れ直す必要があります。

これだけでも、マンネリで同じことの繰り返しから脱する糸口にはなることでしょう。

しかし、これだけでは、まだ、可能性を一歩広げただけに過ぎないといえます。

なぜならば、人は常識や社会生活で培った思い込みや観念によって想像力を制限してしまう傾向にあるからです。

知らず知らずのうちに、常識の範囲内でとか、周囲の空気を読んでとか、自分の今の人間関係の中で浮かないようにとか、いろんな制約をつけて想像力を狭めてしまうわけです。

想像力は本来は無限の可能性を秘めています。

でも、それに制限をつけているのは、自分の中にあるルールだったり、お約束だったりするのです。

「こんなことできるはずない」
「非常識だと想われる」
「馬鹿だと想われるのではないか?」


いろんな思惑が頭を巡り、一歩踏み出せないという傾向がある人ならば、呪縛観念によって、想像力を制限している可能性があることを疑ってみた方がよいでしょう。

想像力を駆使することは自由です。

唯一、人間に与えられた制約のない能力であり、誰にも既成されるいわれのないものなのです。

これを自分で縛ってしまうのはもったいないことです。

想像力の限界を越えてゆくことが人の魂の成長そのものであるともいえます。

どこまでも、可能性を追いかけてゆく。

どこまでも、自由な発想を忘れない。

このことを心がけていくことが、人の成長を止めないもっとも重要なポイントの一つであると思います。



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【公開質疑応答】厄払いは必要?

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第四弾です!

ご質問は、まよねーず様から頂きました。


【質問】


今年前厄なので、いつもお世話になっている龍神様を祭っている神社(氏神様では有りませんが)に明日厄払いに行きます。

で、ふと思ったのですが、

厄払いはやっぱり必要なのでしょうか?

神社とお寺どちらの方がいいのか?とか、もし有りましたら教えてください。

よろしくお願い致します。


【回答】


厄年には厄払いを!

神社に参詣すると良く書かれている言葉ではありますよね。

厄年というのは人間の肉体的な意味でも節目にあたることから、けがや病気をしやすかったり、肉体的な老化などの変化が起こりやすいとされる歳に設定されていたりもします。

なので、縁起をかついて厄払いをしておきましょうという考え方もあるようです。

では、スピリチュアルな観点での厄年とは一体、どのような意味あるのでしょうか。

厄年とはすなわち厄難が起こる年という解釈をされる方が一般的には多いことと思います。

厄難の正体は積み上げられてきた負のエネルギーの顕現化を指しまして、自分が背負う、嫌なことや苦難を現実の形として生じさせるところにあります。

負のエネルギーが顕現化するタイミングやその大きさ、顕現化の形というものは人それぞれ異なります。

ある程度のサイクルがあり、その年月日などによって、出方が変わるわけです。

厄年とは丁度、その負のエネルギーのサイクルの一つとして、負のエネルギーの決済が行われる年であるともいえます。

つまり、人生のターニングポイントとして、今まで積み上げてきた負のエネルギーを少し減じておこうという神様の御計りによって、定められている年であるともいえるでしょう。

新たなステージへと人生を昇華させるためには、あまりにも多くの負のエネルギーを蓄積したままだと難しい場合があるため、厄という名のもとに借金を少し減らしておこうという作戦です。

このために、厄年には災いや苦難が起こりやすくなっているというわけです。

厄払いというと、なんだか厄をリセットしてくれるような意味あいにもとれますが、本来は、人生のターニングポイントを迎えるにあたって、困難があってもくじけず乗り越えてゆけますようにという誓いを立てるのが本義であります。

その上で神様や仏様が厄難をしっかりと超えていけるように守護をしてくれたり、少しだけ負のエネルギーの顕現化を調節してくれるわけです。

ですから、厄払いを受ければ厄がなくなって単純に厄難がリセットされるわけではないのです。

このことをわきまえて、厄払いを受けると、単に厄をリセットされると想って何となく受けるよりもより、厄払いの意義を実感することができるのではないかと思います。

さて、ここで一つ疑問が浮かんでくるかもしれませんね。

厄年は、負のエネルギーの決済であるということはわかったけれど、負のエネルギーがあまりない人はどうなるのであろうという疑問がありますよね。

この場合は、ほとんど、厄年といっても、厄難らしいことは起こらずに平穏無事に過ごすことができます。

むしろ、かわりに正のエネルギーの顕現化によって、この時期に人生の良い方向への転換が行われる方もいらっしゃるようです。

「厄年なんて嘘だ!自分は何も悪いことなんて起こらなかったぞ」

という方もいらっしゃいますが、そういう方は、負のエネルギーが少ない方か、あるいは、厄難の調整が後の厄年に回されているかが考えられます。

いずれにせよ、厄年=ひどい目にあう年ということではないということです。

大事なことは、人生のターニングポイントであることを自覚して、捨てるべきものは捨て、新たな人生に対する志を立てる年、あるいはそのための調整を行う年として、わきまえておくことであります。

ですから、神社でも仏閣でもそのような心構えで詣でて頂くととても良い厄年の迎え方となるのではないかと思います。

さて、最期に厄払いを受けるのは、神社が良いか仏閣が良いのかという質問に対する回答をしてみたいと思います。

基本的には、普段からお世話になっていたり、懇意にしている神社、仏閣でお願いするのが良いかと思います。

それから、そのような縁のある神社がないという方は、地域の産土神社(一宮)に詣でるか、仏閣であれば厄除け大師と呼ばれている霊場がお勧めではあります。

神社でも仏閣でも一番良いのはご縁があって詣でたところです。

真心からの祈りと厄年に対する心構えを持って望めば、基本は全て神仏に通じることになるので、頭で色々考えすぎてしまうよりも、ご縁を大切にすることが大事かと思います。

厄年を怖れずに飛躍の年となることを願っています。


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天心 拝


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【公開質疑応答】肉食について

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第三弾です!

ご質問は、のん様から頂きました。


【質問】

肉食について

こんばんは、先日の前世調査また、FGSの会に入会させて頂きありがとうございました。
公開質問を受け付けてくださるという事で思い切って最近疑問に思っている事について伺わせて頂きたいと思います。

表題にもあります、「肉食」についてですが、スピリチュアルな観点から、「肉食(四足)は避けるべきである」というそれぞれの方の神様、守護霊さまからのお言葉を諸所でお見かけいたします。
私も体調管理の観点から、また、そのお言葉を信奉する者として、ここ数ヶ月極力肉食(四足)は避けて参りました。

しかし、この世の中で、それも家族と一緒に生活していると、かなり難しいものを感じております。
母との二人暮らし、体力を維持する為に時々肉食を取り入れたい母と、避けたい私と同じ食卓で別のものを食するには難があります。また、他の方との会食で、目の前に出されてしまう場合、肉を残すことは可能であるとは思いますが、折角の命を無駄にしてしまうのでは・・・と考えてしまいます。

それらについて、どのように考えれば良いのか、また、どうするべきなのかをお教え頂ければ幸いです。


【回答】


多くの方が、誤解されているについてのスピリチュアル的見解についてお話してみたいと思います。

まず、肉食は避けた方が良いというのは、大きな誤解を含んでいます。

なぜならば、本来は肉食も野菜食も全ては、神様が与えてくださっている恵みの一つであるからです。

だから、結論から申し上げれば、バランスを考えて食するのが一番健全な食事であるといえます。

確かに、肉食を多く取るとスピリチュアル的な感性が少し鈍ってくるところはあります。

奇魂(くしみたま)を発達させてくれる食材の多くは野菜にあるといえるかも知れません。

しかし、血肉、骨などの荒魂(あらみたま)を発達させてくれる食材の多くは肉食にあります。

ですから、肉食も野菜食もバランスよく食べる方が、魂もバランス良く発達していくこととなるわけです。

ただ、このようなお話をしますと、様々な神示とよばれるメッセージや守護霊からのメッセージで肉食を否定するものがあるのは、矛盾するのではないかという疑問が浮かんでくることと思います。

これは、あくまでメッセージというものは、その時々の一番、必要なものが現れるという法則を踏まえれば矛盾はなくなります。

例えば、現代という時代は、日本において考えると昔にくらべて肉食が中心になっている時代であるともいえます。

今までは日本人は米と魚と野菜が中心の食生活でありました。

しかし、西洋の文化が流入してくるにつけて、段々と食事も西洋化しつつあります。

というより、かなり西洋化してしまって、食事もバランスがとれなくなってきているというのが現状といえるのではないでしょうか。

人が霊的にも物的にも健全でいるためには、バランスが取れている必要があります。

霊的には敏感だけど、モヤシみたいにひょろひょろの身体で病気がちであるとか、筋肉ばかり隆々たる健康体であるけれど、全く、霊性ゼロというのでは偏っていると言わざるを得ません。

守護霊や神様は、常にバランスを考えて、その時に必要なメッセージをくださいます。

神示という大きな視点でのメッセージは人類全体、あるいは国家や民族的なレベルでみて、どうなのか。

神示が出された時点で、肉食に偏っていると判断された時には、肉食を諫めて、野菜食を進めたりして、バランスを保とうとされるわけです。

ですから、神示であっても、あくまでその時点でのお諭しであり、現状や時代の流れとともに内容も本来は変わってくるはずなのです。

昔に出された神示の表面的な意味だけをなぞってみても、間違った解釈をしてしまう場合もあります。

だから常に神示も現状にあった適切なものであるかどうかの審神が必要ということです。

守護霊のメッセージも同じです。

守護霊についてもそのときの守護する対象である当人の状態を鑑みて守護霊はメッセージをくださいます。

肉食が過ぎる人には菜食を、育ち盛りならば肉食を食べるように進めるはずです。

のん様は肉食を避けているとのことですが、本当に自分にとって肉食が害になっていると実感があるのであれば、野菜食中心の食事をすることに意義はあるでしょう。

しかし、単なる○○主義みたいな、一種のイデオロギーになってしまっているのであれば、それは頭で考えて思いこんでしまっている呪縛観念となってしまいます。

肉食も野菜食も与えられたものに感謝して頂く。

何事もその時の状況に応じてバランス良く食べていく。

これがスピリチュアルな視点からみても健全な食事の在り方かと思います。



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【公開質疑応答】霊界で友人や知人と会えますか?

こんにちは!

天心です。

質問コーナーの第二弾です!

ご質問は、ねこうさぎ様から頂きました。


【質問】


霊界は、波動によって階級のようなものがあり、

亡くなる時に自分のもつ霊界に行くといわれますが、

ということは、霊界の階級が違う場合、

自分が会いたい人に、会えない場合もあるということでしょうか。

家族や、友人と、

あの世で会いたい。死んだときに迎えに来てほしい。

そう願っているのですが、必ずしも希望がかなうとは限らないのでしょうか。

よろしくお願いいたします。


【回答】


ねこうさぎ様

ご質問ありがとうございました。

霊界についての法則などは霊界事情カテゴリの記事にて詳しくお話していますが、霊波動が共鳴するもの同士が集まって霊界を形成しています。

つまり、同じ価値観や同じ心の波長をもっているもの同士が同じ霊界に属することになるので、必ずしも友人や知人、会いたいと想っている人と同じ霊界に逝くわけではありません。

逆にいえば、仲の良かった友人や、本当に心から価値観や心の波長となる気が同調している可能性が高い人とは霊界でもあいまみえる可能性は十分にあるでしょうね。

ただ、友人だったから、夫婦だったから、親戚縁者だからといって、同じ霊界に所属することになるわけではないのですね。

なので、ご質問の必ずしも会いたい人と会えるかどうかという点においては、会えないという可能性もあるというのが答えになるかと思います。

しかし、もし、どうしても霊界で会いたい人がいるという場合には、どうすればよいのかといいますと一つはその会いたい方がどのような価値観、心根を持って生きていたかを心から理解することです。

それを踏まえた上で、自分自身の霊界、霊層を上部に属するように今生で努力することですね。

上部霊界に属する霊人は、自分の所属する霊界よりも下部の霊界にも移動することができます。

つまり、ある程度は、自分の意志で霊界を移動できるというわけです。

だから、霊界で懐かしい友人、知人やどうしても会いたい人と会いに行けるくらいの霊格、霊覚を今生で備える人間になることが、一つの方法であるといえます。

霊界の階級と言っても、現世にあるような身分制度のようなものではなく、観念によってつくられた差異であるわけなので、それを越えて行けるだけの霊格、霊覚があれば、誰と会うのも自由になるというわけです。

霊界は、本来自由な空間です。

それを狭めているのは、その人の持つ観念なんですね。

だから、霊界に逝ったら階級があって、自分は自由に会いたい人ともあえないかも~!

なんて想いを募らせてしまうと却って霊界は不自由な世界になっていくことになります。

ですから、霊界はどこまでも自由だ~!

と大きな心を持って、今生では一生懸命に霊格、霊覚を向上させるように努めることが結果的に霊界での自由を勝ち取ることに繋がっていくことになるでしょう。


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【公開質疑応答】魂の年齢と生まれ変わり

こんにちは!

天心です。

先日、ブログで質疑応答を行うための公開質問の募集を行ったところ、早速の応募がありましたので、回答していきたいと思います。

ご質問は、zeruda様から頂きました。


【質問】

人間には魂年齢と実年齢があると聞いています。

この世に生まれてくる人は魂年齢が若いということなんでしょうか?

それとも、まぜこぜなんでしょうか?

どれくらいの生まれ変わりを私はしているのかとかも興味あります。


【回答】

zeruda様

天心です!

早速のご質問ありがとうございます!

魂の年齢と実際の現実での年齢は確かに同じではないですよ。

ただ、魂の場合は、あまり年齢という発想はないのですよね。

それは、魂は本当にさかのぼっていくと神代(かみよ)の時代までさかのぼれますから、ものすごい年齢になってしまいます。

何億歳とかいうレベルですね(笑)

なので、年齢という意味では、現世に生まれついた時の一つの時間の経過を表す表現の一つに過ぎないということです。

だから、たとえ現世の今、年下の人間であったとしても、魂レベルでは、自分よりも完成度の高い魂となっている方もいます。

スピリチュアル的な観点でいえば、あまり年齢の差というのは意味がないのですね。

現世では年配者は若者を観て、「この若造が!」なんて(笑)思ったりすることもあるかと思いますし、若者は「このジジイ!」なんて(笑)、侮蔑したりすることもありますが、魂レベルでみたら、どっちもかわらないわけです。

そういう意味では、スピリチュアルな発想を持つ方は、年齢で人を見くびったり、侮ったりするのは無意味であることを知っておくほうがよいでしょう。

さて、この現世にて生まれ来る魂についてですが、魂が若い人が多いとはかぎりません。

玉石混交です。

なぜならば、現世での最大のメリットとは、自分よりも霊格が上の人と交流して学ぶチャンスがあるということにあるからです。

また、自分より下の人に出会った際には、自らの慈愛を表現する機会にもなるわけです。

霊界は、霊波動が同調し、似たもの同士が集まって構成されていますので、現世のように霊格の上の人と交流して大幅レベルアップを図ることが難しいといえます。

似た者同士の人達の間では、どうしても摩擦も少なくなり、自らの足りないところや伸ばした方がよいところを悟りずらいのです。

現世では、悩みあり、葛藤あり、問題発生ありで、そのことを通して悟るわけですし、特に自分とは異なる人間との交流は霊格を向上させるためには、不可欠な要素でもあります。

そのために、様々な学びのチャンスを得るためにどのような魂のレベルにある人であっても、現世には生まれ変わってその人にあった使命を果たすわけですね。

なので、現世は玉石混交であるといえるのです。

最後に生まれ変わりの回数ですが、これはもう、気にしてもしょうがないくらい再生転生を繰り返していますので、知ってもあまり意味はないかも知れません。

そもそも、魂の分裂現象ということも含めれば、単純に回数でその人のレベルを図ることはできないことと思います。

それよりも、今の人生において、如何に使命を自ら掲げて生きてゆくのか。

ここが一番大事なポイントでもあります。

魂が何回生まれ変わろうと、その人生で何を悟り、どれだけ魂が向上できたのかが、最終的には問われてくるわけです。

そこを踏まえて今生を精一杯生きることを心がけていきたいものですね。

以上が公開質疑応答、第一弾の「魂の年齢と生まれ変わり」についてのお話でした。


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天心 拝


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ご質問募集!

こんにちは!

天心です。

秋の夜長という言葉もしっくりくるほどの落ち着いた気候と雰囲気に過ごしやすい日々を送らさせて頂いています。

本当にこの現世をデザインした神様には感謝しています。

ちょっと目を凝らせば本当に美しいもの、幸せを感じさせてくれるものは、世の中に沢山存在していますね。

ただ、世知辛くエゴの虜になって生きていると中々そのことに気づけないものですね。

時には素直な心で物事を見据える時間を作っていきたいものです。

さて、今回はお知らせです。

今までFGSの会などで実施させて頂いたプチアンケートの中で、ブログなどで質問に回答してもらうような機会があると嬉しいというものがいくつか寄せらていました。

確かに、ご質問を受けることで、色んな観点でのお話をすることができるため、内容にも広がりがでるのかなという思いもあります。

ただ、個人的なご相談や鑑定、取次は別途、守護霊アドバイスなどを行っているので、純粋なご質問ということで、かつ私が答えられる類のもの、それから、回答することで皆様の学びとなりそうなものに関しては、ブログで回答を発表してみたいなと考えています。

そこで、今回は、初の試みではありますが、公開質問を募集したいと思います。

応募条件は、以下のようなものを考えています。

・冷やかしや不真面目、ふざけ半分な内容ではないこと
・個人的な愚痴や不満など他意や批判的な内容は受付いたしません
・プライベートなご相談ではなく、純粋な疑問やご質問のみ受付します
・今までブログで掲載した内容で答えがでていると想われるものは対象外とします。
・すべての質問に回答はできないことがあります。
・公開質問なので、応募頂いた内容はブログ上で公開してしまいます。
・いつ頃回答できるか、あるいは回答として取り上げられるかどうかはお答えできないのでご了承ください


とりあえず、このような感じで考えております。

実際、どの程度、ご質問が集まるのかわからないので、企画倒れになる可能性もあります(汗)

ですが、何事もやってみないとわからないので、実験的にやってみたいと思います。


【ご質問応募方法】

件名:公開質問応募

お名前:公開されても良い名前(ハンドル名でも可能) 
※ハンドル名とはネット上でのみ使用する仮の名前のことです。(以前、質問されたので念のため記載)

ご質問:なるべく質問の趣旨がわかるように記載してください。


応募先:tensin.session〇gmail.com ※〇を@に変更して使用してください。


【募集期間】

とりあえず、2011年10月末までを区切りとして締切りたいと思います。

状況によっては延長するかまたは、途中で締め切る可能性もあります。


以上、お知らせでした。


天心 拝


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明るい人とは

人生を明るく前向きに生きましょう!

こんなキャッチフレーズは一度は誰でも耳にしたり言葉にしたりしたことがあるかと思います。

明るく生きる。

とても普遍的であまり異論の少ない生き方の表現であるともいえますが、明るく生きるとはどのようなことを指しているのでしょうか。

そもそも明るい人とは、どのような人を意味しているのでしょうか。

今回の開運コラムではこのことについて少しお話してみたいと思います。

さて、明るい人とは何かということについて、お話していくにあたり、明るさを象徴する神様についてお話してみましょう。

日本を代表する古典に古事記という書物がありますが、その中で三貴子として方らている三柱の神様がいらっしゃいます。

一柱は天照大神(あまてらすおおみかみ)、二柱目は、月読命(つくよみのみこと)、三柱目は須佐之男命(すさのおのみこと)であります。

この神々は三貴子と呼ばれておりまして、伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あわぎがはら)で禊祓を行った時に次々に神様がお生まれになり、その中でも特に尊い神様ということを表しています。

古事記では、天照大神は太陽を中心とした天を治め、月読命は、月を象徴する夜の世界を統治し、須佐之男命は、海原を管轄することを定められたと記されています。

さて、この三貴子の中で一番、明るい神様と考えられているのが天照大神様であります。

何しろ太陽は、燦々とすべてを照らして、闇を一切祓い、全てを明らかに照らす働きがあるわけです。

明るさの象徴であり、月の明るさは、闇夜を照らす一筋の光明であるのに対して、太陽は全てを明らかにする大きな光です。

明るい人と言った時に良く、「太陽のように明るい人」という表現もあるくらいですから、明るさという点ではこの天照大神の右に出る神様はいらっしゃらないのではないでしょうか。

古事記の中で語られる神話において、天照大神が携わる有名なエピソードがあります。

それは、天の岩戸開き(あめのいわとひらき)のお話です。

一度は耳にしたことがあるかと思いますが、天照大神が天の岩屋戸と呼ばれる洞窟のような岩で囲まれ、岩の扉で固く閉ざされた中におこもりになられるお話です。

かいつまんでお話すると、弟神である須佐之男命が亡くなった母神である伊弉冉神(いざなみのかみ)に会いに
黄泉の国にいくことを姉神である天照大神に一言挨拶に高天原に参上したことが、天の岩戸開きのエピソードが発生するきっかけとなったのです。

弟神が自分の統治する場所を奪いに来たと疑った天照大神は、須佐之男命に自分の疑惑をぶつけて問いただしたわけです。

そのようなことは心外であり疑われ傷つけられたと感じた須佐之男命は、一つの提案をいたしました。

お互いに身に憑けている装飾品を噛み砕き、そこからどのような神が生まれるのかによって、自分の心にやましさのないことを証明しようということです。

これは一種の審神といえる古事記の重要なくだりでもあるわけですが、おそらく、そのまま読むと何を言っているのか荒唐無稽すぎてわからないという印象を持つ方がほとんどかと思います。(笑)

説明したいところではありますが、とりあえず本筋から外れるので省略します。

話を元に戻しまして、お互いに審神をし合って、須佐之男命の潔白が証明されたわけなんですが、その後が問題なんですね。

自分が正しかったことを証明できた須佐之男命は調子にのり、高天原の様々なところで、暴れまわり、暴挙のかぎりをつくしたのです。

その様子を見て心を痛めた天照大神は、傷ついて、そのまま天の岩戸におこもりになられたというわけです。

わかりやすく見れば、弟がお姉ちゃんの部屋に侵入して、好き放題、めちゃめちゃに壊しまくって、怒ったお姉ちゃんが引きこもってしまったという図式ですね。(笑)

もちろん、古事記はそんな単純なことを伝えるために編纂されたわけではないので、あくまで一つの秘め事を物語風に伝えているので額面通りに受け止めるわけにはいかないでしょう。

ただ、ここで重要なのは、明るさの象徴である天照大神が天の岩屋戸におこもりになったことで、世の中が闇につつまれてしまったということです。

明るさの象徴である天照大神がなくなれば、暗く先が見えない暗闇が訪れるというわけですね。

実はここに明るい人のヒントが隠されています。

まず、明るい人とは、心の中に天照大神が現れている人のことをいいます。

心の中に天照大神が現れているとはどのような状態を指すのでしょうか。

いつも、理想と希望と幸せのイメージを忘れない心の状態を一つは指しています。

これは、自分の取り巻く現状がどうであるとか、人間関係に恵まれているとか、財産が豊かにあるとか、健康であるとか、愛する人が傍にいるとか、そういうこととは無関係にどこまでも自発的に自ら輝きを発しようとする力であるともいえます。

だから、どんなに周囲が闇に閉ざされていようとも、どこまでも輝き、どこまでも照らす、天照大神のような心根を忘れない人というのが、明るい人であるわけです。

そして、もうひとつは、何事もつまびらかになっている状態であることが明るい人である要素といえます。

どこまでもはっきりとした目標を持ち、それをずっと照らし続ける心。

この心根を持っている時に天照大神は、どんな人の中にも現れて燦々と光輝き続けているのです。

逆に自らの現状や取り巻く状況という中で、悶々として、「自分には希望なんてない」「未来なんてない」と引きこもってしまっている状態は、丁度、天照大神が岩屋戸におこもりになっている状態であるといえるわけです。

そんな時には、重い重い岩屋戸の扉をこじ開けて、天照大神様にお出まし頂かなければなりません。

どんなに苦境にあろうと、どんなに辛く、ヒドイ現状であったとしても、その岩屋戸からはい出て燦々と輝きわたる天照大神を表していく。

それを心がけることが明るく前向きに生きることであり、そのように生きようとする姿が、明るい人の姿であるということがいえるでしょう。

どこまでも人生を照らし、どこまでも道を照らす明るい心。

自分の中に天照大神をいざお出まし頂いて今日も生きていきたいと思います。



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【2011年10月度】神田明神への参拝

月例のことではありますが、10月度神田明神への参拝を昨日、行ってきました。

ブログでご報告している以外でも度々、参拝はさせて頂いていますし、その都度、ブログ読者の方のための祈願や、取次、鑑定者でご寄付をして頂いた方の真心の一部を奉納し、追い風の神徳祈願もさせて頂いています。

ただ異なるのは月に一度は献灯の申込をしているところでしょうか。

献灯は、神田明神様のおひざ元を照らすという行為により、感謝とその霊威をたたえるところにあります。

いかなる神様であっても、言祝ぎの言霊を発し、礼節形で表すことで、その神威や霊威を増すのです。

神田明神様も例外ではありません。

どこの神社にいっても同じです。

だから、折角参拝するならば、できるかぎりの言霊で神様の威徳を誉めたたえて、言祝ぐことが大事であります。

神様を言祝ぐためには神様のことをしっかりと学ぶ必要があります。

その神様の特質、功徳、歴史、神話、そして出来うるならばお姿や気というものがわかってくるとより深く神様と交わり感応道交することができるのようになるのですね。

単に神様!といってお祈りするよりも、どのような経緯でそこに鎮座し、神話としてどのような伝記があるのか。

お姿や気というものは、通常では中々難しいところかも知れませんが、それでも、神社の境内でしばらく、ぼんやりただずんでいると薄らと神様の気を感じることがあります。

この神気というものをよくよく味わっておくことが、神様と仲良くしていくための一つの要素になります。

社殿や建物、歴史的建造物を学術的にしかとらえないというのではなく、そこから醸し出される気を味わってみる。

こうすることで、少しずつ気とは何かというものがわかるようになってきます。

中には邪気もありまして、地雷を踏んでしまうこともありますが(苦笑)、それもまた学びの一つです。

美醜ともに体感し、体験してこそ、本当に良いものがなんであるのかがわかってきます。

だから、神様の気配や気というものを察知していこうと想ったならば、積極的にこの見えない気というものを意識していく必要があるのです。

目に見える社殿や建物も確かに重要ではありますが、それらは気を発するための一つの道具立てであるということもできます。

古代の人は、荘厳な社殿や鎮守の杜、玉砂利、鳥居などで聖俗の別を明確にすることで、これらの神気を保存し、守ってきたわけです。

どんなに立派な社殿や景観を作り出したとしてもそこに神気を感じないならば、それはただの張り子と一緒なのです。

スピリチュアルな視点での神社参拝は神気を感じてこそ意義があるということを覚えておくとよいかも知れません。

ということで、これらのお話を持って今回も清々しい神気を感じながらの参拝をさせて頂くことができましたことのご報告とさせて頂きたいと思います。


天心 拝



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静よりも動の中に真理はある

世の中をつぶさに観察しているとわかると思いますが、本当に日進月歩といいますか、めまぐるしく変わり続ける姿がそこにはあります。

昨日、もてはやされたいた事も、明日には全く評価が変わってしまうこともあります。

芸能人の方なども、いきなりブレイクを果たして、一躍有名になったかと思えば、一、二年後にはすっかりメディアに姿を現さなくなったりします。

もちろん、姿を見せなくても活動はされていることとは思いますが、世間の注目というものは、いつでもうつり気で変わりやすということがいえるのかも知れません。

政治情勢も経済状況も一刻一刻と変化を遂げています。

科学技術も常に進化を遂げて、今まで以上の便利な道具も開発されたりしています。

世の中は常に変わってゆく。

このことに気付いた人は、紀元前の昔の人、仏教の祖であるお釈迦様でありました。

仏教の教えの大切なポイントとして、四法印と呼ばれるものがあります。

諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の四つです。

別の解釈では一切皆苦を除く三つを三法印とする場合もありますが、いずれにせよこの四つのうちの最初に語られている諸行無常こそが、世の中は常に一定ではなく、変わり続けていることをお釈迦様が悟っていたことの証拠であります。

世の中が移り変わる以上、この世のことは一定して動かないものではないことは明白です。

であるならば、私達は、この動き続ける世の中でどのようにふるまいどのように生きるべきかを考える時に固定的で、動きのない発想を持っていては、いつでも判断を誤ってしまう可能性があるということであります。

例えば、今自分がどのような状況にあるのか。

そのこと一つとっても、何が正しくて何が間違いであるのかは変わってくるものです。

例えば、今、学生であり受験を控えている時に必要なことは勉強することであることはわかると思います。

しかし、今までどれだけ勉強してきたのか、どれだけ理解を深めてこられたのかによって、勉強すべき内容や事柄、注力すべき点は異なるものです。

同じように勉強すれば、同じように誰でも希望の学校に進学することができるわけではないのは、誰もが身をもってわかっていることでもあるかと思います。

これらと同様に人にも魂の学びや修行の段階というものがあり、少しずつ悟りステップアップしていくことになるわけです。

全ての人が同じように進めるわけではなく、その人にあった今の状況を鑑みたカリキュラムがあるというわけです。

不平等に見えても、向かう先は皆同じです。

遅いか早いか、あるいは歩む道筋が異なるだけで、最期には大極に向かって私達は進化をし続けています。

ですから、考え方やあるべき道筋もステップアップしていく途上でどんどん変わっていくことがあります。

よく誤解が多いのは、ずっと変わらぬ真理(この場合、現実的な事柄や実践すること)を実行し続けることが修行や学びだと理解してしまうことです。

毎日、本を読んだり、毎日、なにやら実践的なワークやあるいはお経を読んだり、お祈りをすることが修行だと勘違いしてしまう場合があります。

人生における修行や学びとはそれらのことも含めて、常に移り変わる世の中で、どう対応していくのかにあります。

何か静かに瞑想していたら霊性が向上して進化するわけではありません。

あくまで、真理は動きの中にあるのです。

活動することの中で体得していくことでしか、真理を理解することはできないのです。

だからこそ、日進月歩、たゆまず怠らず、常に変化していくことを、私達は魂の向上として目指していかなければならないでしょう。

静よりも動の中に真理はある。

このことを理解した時には、人生全てが学びであり修行であることが本当の意味で悟ることができるのかも知れません。


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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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