地上に天国をというけれど

よく宗教上のイデオロギーにて地上に天国を作ろうといったニュアンスのスローガンを耳にすることがあります。

理想の世の中を現実に築いてゆこうというわけです。

宗教によってその天国的な世界観に違いはありますが、少なくとも現実を超越したアチラ側の世界を現世に顕現させようというわけです。

スピリチュアル的な視点でいえば、上部霊界をヒナ型として顕現化されることで現世にて実現するといったところでしょうか。

確かに考え方自体は素晴らしいと思うのですが、得てしてこのこと実現する手立ての部分に問題があるケースがあるようにも思えます。

問題とは何かといえば、顕現化におけるもっとも基本的な制約事項を理解していないという点です。

例えば、ある宗教上のイデオロギーにそって教義を守り、その霊的なあるいは現世における実践を積み重ねれば地上に天国が訪れると説いているのが概ねの趣旨であることが多いようなのですが、実際はそう単純ではありません。

なぜならば、霊界の様相が顕現化される際には必ず媒体となるものを通して行われることになるからです。

媒体は色々とありますが、その中で大きく影響を及ぼす媒体は人間自身です。

私達人間が現世で行う活動を通して、霊界のありようは顕現化へと向かうことになります。

霊界が現世のヒナ型ならばなぜ、現世と霊界との間に齟齬が生まれてしまうのでしょうか。

この答えは人間の中にあります。

素晴らしい上部霊界が存在するならば、もっと現世は素晴らしい状態になっていてもおかしくないはずですよね。

でも、そうなっていない。

一部はそうなっていてもそうならない部分も多いわけです。

これは、いくら上部霊界の素晴らしい影響を人間を通して顕現させようという働きがあったとしても、その人間自身のレベル、霊覚、霊格を越えて、あるいは社会的な実力、備わった能力、見識を越えては顕現させられないというボトルネックが存在するところに原因があります。

例えば、東大を主席で卒業した大変賢い家庭教師が目いっぱいの情熱を注いで指導したとしても、実際に教わる生徒の実力を越えて影響を与えることはできないということにも似ています。

東大出の家庭教師が難しい問題集を解けるということと、その教え子に問題集を解かせることができるかどうかということは、意味が異なるのと一緒です。

霊界にどれだけ素晴らしい霊人がいようとも、どれだけ素晴らしい上部霊界が存在し、そこと感応できたとしても、現世への顕現化はその媒体となる人間の能力をバーターとしてしか現れないという霊界と現世との間の法則があるのです。

だから、どんなに素晴らしいイデオロギーを奉じても、私達は現実にそれを適応させるための実力、能力を同時に磨かなければ、地上に天国を顕現させるというスローガンを奉じてみても実現は難しいわけです。

私はこのブログの中で常に心掛けなければと思っていることがあります。

それは、霊界思考からなる霊的なお話を10するならば、現実思考における社会的、現実的な心構えを10お話する必要があるということです。

だから、少し、霊的で不思議に感じるお話があったり、ちょっと固いけれど現実的、社会的なお話をすることもあります。

このバランス感覚を持つことが顕幽神一体となったスピリチュアルな道を歩む不可欠な要素となることを覚えておいて頂ければ幸いです。



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守護霊が与える方便と試練

仏教経典である法華経譬喩品(ひゆぼん)には、三界火宅(さんがいかたく)と呼ばれる例え話が記されています。

三界とは欲界、色界、無色界のことを指しますが、これらは凡夫(ぼんぷ)*1が輪廻転生を繰り返すとされている迷いの世界であり、苦しみが充満する安んずるところがない世界だとされています。

まるで火だるまになった家(火宅)に住むようなものだということで、三界火宅という例えをしているわけです。

三界を細かく定義すると厳密な意味があるのですが、簡単に要約すると欲界は食欲や淫慾といった人間の本能に根ざした煩悩の世界であり、色界は、動物的本能は乗り越えて理性的ではあるけれど、まだ、現世での物質的なものへのこだわりがある世界、そして、無色界は、物質的な世界へのこだわりは乗り越えたけれども、自分自身の作り出した精神的作用に囚われている世界といえるのではないでしょうか。

あくまでかなり端折った要約なので、詳しく知りたい方は仏典をひもといてみてください。

さて、仏陀となり悟りを得たお釈迦様は、三界を超越していたわけですが、凡夫はこの三界に囚われて苦しんでいると仏教ではされています。

逆に言うと三界に囚われているからこそ凡夫だと定義されているのかも知れません。

お釈迦様の慈悲とは、この三界から抜け出して涅槃寂静へと導いてあげることを指しています。

ただ、言うは易し行うは難しです。

凡夫を導くためには、方便が必要となります。

この方便についてお釈迦様が説いている例え話があります。

ある時、村一番の富を築いた男がいました。

その男が留守の間に家が火事になり段々と火の手が回り始めていました。

そこへ男が帰宅をしてくると、家の使用人たちは既に屋敷から離れて非難していましたが、その男の子供達はまだ家の中で遊んでいました。

驚いた男は、家で遊ぶ子供達に叫びました。

「お前たち!何をしているのだ!家が火事になっている早く出てきなさい」

必死に男は叫びましたが、子供達は遊ぶのをやめません。

子供達はまだ幼く火事の恐ろしさが全くわかっておらず、遊びに夢中で父親の言うことを聞こうとはしませんでした。

そこで、男は、屋敷の蔵から、珍しいお菓子やおもちゃを取りだして、子供達に語りかけます。

「お前たち。そろそろ家で遊ぶのも飽きただろう?こっちにくればお菓子やおもちゃも沢山あるよ」

男の前に広げられたお菓子やおもちゃを見ると子供達は喜んで家から飛び出てきました。

こうして、子供達は火事で命を失うことなく、危難より脱することができたということです。

これが法華経に現わされている三界火宅の例え話のあらましです。

このお話のポイントは、大人であれば誰でも危険と認識していることでも、無知である子供はわからないことがあるという点と危険を理解できないから、そこから逃れようとも思わないという点にあります。

お釈迦様からすれば、苦しみに満ちている現世の欲望や迷いに囚われて捨てられずにいる凡夫である衆生を救うためには、正面からその危険を説いても説得することは難しいと感じておられたのかも知れません。

さて、以上は仏教の説話ではありますが、実は、守護霊という存在もお釈迦様に近い立場にいらっしゃるといえます。

守護霊からしたら、人は現世という火宅の中で危うい状況で日々を送っていると感じているところがあるようです。

もちろん、私達にしてみれば、現世での幸せやある程度の欲望を満たすことは必要不可欠な要素でもあります。

しかし、守護霊はもっと本質や先行きを見て判断をしています。

守護霊アドバイスなどでも一応、現世的な悩みや葛藤に答えてくれることはありますし、人としての欲望に理解を示してくれることはあります。

ただ、それは一つの方便であるということは、覚えておいた方がよいのかもしれません。

大事なことは守護霊アドバイスの先にあるということですね。

また、守護霊はあえて試練を与えることもあります。

これは一見、意地悪のように見えることもありますが、本当の絶望的な状態を回避するための慈悲による働きであるといえます。

だから一見、私達の人生の中で絶望的で悲惨極まりない状況に見える一幕があったとしても、実はもっと魂がリカバリー不能になるような根源的な間違いを犯してしまう前に気づかせるためという場合もあるということです。

守護霊の守護やアドバイス、導きというものは、入口であり、方便である。

今一度ここを踏まえた上で、スピリチュアルな道を歩む上で守護霊との交流を深めていかれることを願っています。


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【重要】守護霊アドバイスご依頼の山●様

山●様


天心です。

ご本名と思しきお名前でのお申し込みでしたので、一部伏字にさせて頂いております。

昨日、守護霊アドバイスの取次をご送信したところ、メール送信エラーとなってしましました。
(TO:y********4@******.ne​.jp ※セキュリティ上、伏字となっています)

おそらく、フィルタリング設定、ドメイン指定などの設定等がされているのではないかと考えられます。

鑑定結果が到着しているかどうかをご確認いただき(迷惑フォルダも含む)、されていない場合には設定等をご確認頂ければと思います。

ご確認後、一度、メールにてお返事頂ければ幸いです。
(コメント欄等ではセキュリティ上問題があるかと想いますので、必ずメールにてお願い致します)

宜しくお願い致します。


天心 拝


守護霊のサインの受け取り方

守護霊が私達に実に様々なサインを送ってきてくれていることは、今更言うまでもなく今までの記事で散々にお話してきた内容でもあります。

しかし、意外に守護霊からのサインというものを少し特殊なものであると誤解されている方も多く見受けられます。

守護霊やスピリチュアルなんていうととても特殊で不可思議な事柄を思い浮かべてしまいがちですが、意外にそうでもないのです。

実はとても自然なことであり、逆にいえば自然すぎてサインがわからなかったりすることもあるくらいです。(笑)

なので、サインが奇跡的な事柄や特別で不可思議な形をとって現れてくると思いこんでしまうとサインを見逃す可能性も高くなります。

もちろん、奇跡的な事柄や特殊な本当に神妙な現れ方をするケースもありますが、そうでない場合も多いのです。

曹洞宗の開祖である道元禅師「遍界不曾蔵(へんかいかってかくさず)」という言葉を残していますが、これは「世の中には隠された真理などはない。すべては明らかにされている」といった意味です。

真理等と言うと何か特別で秘匿された神妙なものを想像してしまいますが、道元禅師は、すべてこの世の中に明らかにされているとおっしゃられているわけです。

何か隠されている真理を難解な書物や経典から学ぼうということではなく、この世の中にある当たり前で普通の出来事を通し、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)していくことを道元禅師は示してくれているのかもしれません。

わかりやすく解釈すると、何気ないところの中から悟り、自ら気づいていくことが大事だということです。

さて、道元禅師の言わんとしていることと、守護霊のサインを受け取ることと何か関係があるのでしょうか。

ここで言いたいのは、守護霊のサインも本当に何気ない、いつも起こっている事柄の中に見出されるという法則があるということです。

毎日、当たり前のように繰り返している日常の中でふと気付くと自分の課題に対する答えとなるようなものを発見してしまうことがあります。

実際に起こっている事象は珍しくともなんともないことです。

例えば、いつも乗車している窓から何の気なしに窓を見ていたら、偶々いつも見かけているはずの看板に書かれた文字が自分の現状打破になるようなヒントになっているという場合なんかがあります。

看板はいつだって見ていたはずですし、いつも乗る電車であれば、いつ見ていてもおかしくないものかもしれません。

でも、なぜかその時は看板の文字に意識が向いてしまうようなことが起こったりします。

このような何の気ない出来事が守護霊からのサインである可能性は高いということです。

現世で起きている事柄は現世での原因があり、それが結果として現れていると私達は想ってしまいがちです。

看板が立っているのは、その所有者が自分の業務で仕事を取りたいという営業意志の結果に過ぎないかも知れません。

ただ、お客さんに見えやすいように電車の線路の近くに偶々、看板を出したに過ぎないかも知れません。

現世的な理由はそんなものです。

しかし、現世に起きるすべての事には裏側の意味があったりするものです。

それを読み解けるようになると、現世の中で起こっていることでも、現世的な解釈を越えて、スピリチュアルな世界からの意志、守護霊のサインを受け取ることができるようになるのですね。

万有引力の法則を発見したニュートンも熟した林檎が木から落ちるのを見ただけです。

いつだって、熟した林檎は木から落ちていたに違いありませんし、現実的にはそこに意味などないでしょう。

でも、ニュートンの守護霊は彼に万有引力の存在をサインとして知らしめたということができるのです。

この感覚を養えるようになると現実の世界に起こる出来事をそのまま額面通りに解釈することはできなくなってくることでしょう。

守護霊のサインを受け取るには、まさにこの感覚を磨くことにかかっているといえるでしょう。


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できそう!のフィーリングを培う

物事を為し得てゆくためには、様々な要因があります。

その中でも特に必要と思われる要因の一つに「できそう!」というフィーリングがあります。

通常は今現在の状況や自分自身の能力、持っている資産的なプラス面を考慮して具体的に物事に取り組んでいくことになります。

その時に最初の一歩を踏み出せるかどうかを決めているのは「できそう!」というフィーリングかと思います。

どんなに事実関係を洗い直し、データをそろえて、環境や状況を整理してお膳立てを作ったとしても、自分の中にある「できそう!」のフィーリングがないと何事も始まらなかったりします。

逆にいえば、たとえ逆境や現実的には難しく見える状況であっても、「できそう!」のフィーリングがあれば、前に進めてゆく勇気も湧いてくるものです。

このフィーリングを培ってゆくためには、まずは、本当に自分ができることを探してゆくことが近道になることがあります。

やるべき課題ばかりに目をやってしまうとその大きさに勇気がなえてしまう場合がありますので、まず、足元から観てゆくわけです。

例えば清潔な部屋には運気が宿るというようなお話を聞いた時に、「早速、部屋を徹底的に大掃除しよう!」と意気込むと「時間がかかるな・・」とか「ちょっと疲れているから今度にしよう・・」等とヤル気がなえてしまうこともありますよね。

そういう場合は、玄関だけちょっと綺麗にしようとか、自分の机の上だけかたずけみるというようにして、実際に「できそう!」というフィーリングが生まれるまで、ブレイクダウンしていくことが有効になってきます。

このブレイクダウンをしていくことで「できそう!」のフィーリングを常に醸成し続ければ、少しずつでも、目標に向かって近づくことができるはずです。

一歩進めず、色んな夢や理想、目標を諦めてしまってきた方は、まずは、自分の中のフィーリングをコントロールすることから始めてゆくことをお勧めします。


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スピリチュアルとフィーリング

私はこのブログではなるべく論理的にわかりやすくスピリチュアルな世界についてお話をしているつもりです。

私たちが基本的にコミュニケーションをとり、想いを伝えてゆくためには、言葉という道具立てを使う必要があります。

もちろん、言葉以外にも映像や音楽、ジェスチャーで表現するという方法もあります。

しかし、すべてを映像や音楽、ジェスチャーで伝えるのは難しいと思います。

特に具体的な事柄や詳細事項は、言葉を使わないとほとんど伝わらないはずです。

時々、漫画やアニメで難しいことをわかりやすく伝えるという技法が試みられることがあります。

これは確かに難解なことをわかりやすくしてくれるため、スッと心に入ってくるようにするための工夫としては有効かも知れません。

しかし、例えば、ニュースを伝えるのにすべて、ドラマティックにストーリー仕立てで伝えようとすると膨大な時間がかかりますし、却ってわかり難くなる可能性があります。

言葉ならば三行で論旨明確に意図を伝えることも可能となります。

言葉は、私達のコミュニケーションをする上で最も重要な道具であるといえるでしょう。

言葉が古来より言霊といわれているのは、まさしく、いかなる道具立てよりももっともインパクトがあり、使いこなすことで様々なムーブメントを起こしていくことができるところに霊妙さを感じるゆえんだと思います。

さて、言葉の重要性について散々、語ったあとに言うのもなんですが、スピリチュアルな世界を伝えるために言葉も非常に多用しているわけなんですが、どうしても伝えにくい部分もあったりします。

それがフィーリングの部分です。

もちろん、フィーリングを言葉で表現することは可能ですが、それは言語化されたフィーリングの表現に過ぎません。

例えば、「甘い」という感覚にしても千差万別でいろんな種類があると思います。

チョコレートのような苦みのある甘さだったり、ほんのり、花の香りの甘さだったり、大福餅のような餡子の只管甘い感じだったり色々あります。

もちろん、同じチョコレートでも甘さというフィーリングはこれまた千差万別です。

言葉ですべてを現わすのはとても難しいところがあります。

スピリチュアルとは一つにはフィーリングを重要視する側面があります。

だから、言葉を伝えたいわけではなく、本来は言葉の奥にあるフィーリングなのです。

このフィーリングを伝えたいがために一生懸命、言葉を尽くしているのですね。

なので、ブログを読む時にはもちろん、内容はしっかりと理解はして欲しいのですが、そこにある息吹となるフィーリングを培って欲しいなという気持ちがあります。

概念だけでスピリチュアル世界を理解するとわからなくなることが多いかと思います。

論理と言葉とそして、最期はフィーリング。

三つそろって初めて正しく、スピリチュアルな世界を体得することができるのではないかと思っています。

このブログがその一助になれば幸いです。


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守護霊とのつながり

守護霊が私達を守ってくれるのは、霊界で迷う霊人をなるべく出さないようにとの想いがあり、使命感によるところが大きいということを以前、ブログ記事にて少しお話したことがあります。

守護霊の導きは損得勘定を越えた愛と使命感なんですね。

現世に生きる人間は霊界のことを感知しずらいという難点があるため、ともすると道を見失ってしまう可能性が高いわけです。

本当に霊覚や霊格が高い神霊は、愛でしか動かないので、現世の損得勘定を起点とした発想しか持たない人からは、不思議でいぶかしい行動原理を持っていると映るかも知れません。

守護霊の行動原理を理解し、心から納得するためには、同じく愛のある人でなければ難しかったりします。

現世は霊界と違い、物理的な制約事項や様々な次元が混在しているある意味不安定な世界でもあるため、愛だけで生きていくというわけにはいきませんが、それでも、守護霊と心を寄り添わせて生きるためには、自分の中に愛の心を培ってゆく必要があるといことです。

まだまだ、守護霊という存在には謎も多い部分があります。

そもそも、守護霊が私達を導く行動原理や思いはわかったとしても、私達と守護霊との間には一体どんなつながりがあるというのでしょうか。

この点については、結構謎なことが多いです。

一つには、私達の遠きご先祖様が霊覚、霊格を霊界にて向上されて、守護霊団に入ってくれるケースがあるようです。

守護霊団に入れなくても自分自身の子孫に対する愛情から背後霊となって守るという場合もあるようです。

でも、どう考えても、先祖系ではないですよね?っていう方も多くみられます。

この場合は、過去世で自分を導くお役を担っていた師匠であったり、逆に自分が恩義を与えた方が守護霊となって今生では守ってくれている場合もあるようです。

ただ、ややこしいのが、ご本霊(本魂)は霊界にて守護霊となり、今生、現世では別人としての生を分魂が送っているなんてケースもあるようです。

このあたりになると現実思考なロジカルや物事を直列に考えることになれている人にしてみれば、もうわけわかんない!となってしまいます(笑)

以前、質問にも上げられたことがありますが、自分自身もご本霊から派生した分魂であり、自分の御本霊が守護霊となって導いているなんてこともあるようです。

もちろん、厳密にいえば、魂から派生した時点で別人なわけなので、これは自分自身の一部という発想よりも、別人格、別霊格と考えるのが妥当ではないかと思っています。

このように考えてゆくとどんどん、わけわからん世界に思えてきますね(笑)

ちょっと脱線したのでもとに話を戻しましょう。

守護霊とのつながりで過去世以外にも、守護霊の使命と合致するような天命を持っていたり、志を抱くとその霊波動に合う守護霊が守護を担当してくれる場合もあります。

だから、縁もゆかりもなかったとしても、志を立てて邁進すれば、新しい守護や導きの可能性も出てきますね。

また、人の魂は究極的には、神様と直結しているので、その神様(守護神)と同等の霊統の守護霊がついてくれるというケースもあるでしょう。

あげてゆくときりがないですし、説明すればするほど、たぶんわけわかんなくなることと思います。

ですから、普段はあまり詳しく説明し過ぎないようにざっくりとわかりやすい部分だけをチョイスしてお伝えしているのです。

今回、触れてみたいと思ったキッカケは時折、守護霊についての様々なご意見やご感想、疑問や質問を頂くことがあったので、一度、お話してみても良いかなと思った次第です。

これでも、大分、端折っているので、これがすべてだというつもりはありません。

途方もなく広大な霊界をすべて知ることは難しいのです。

それは守護霊という存在一つとっても同じことがいえますね。

なので、今後も謙虚に研究させて頂き、皆さんのお役に立ちそうと思えるところは、随時、お話させて頂いていこうかと思っています。


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学びの意義とは

世の中には多くの書籍や見識を持つ素晴らしい方々がいらっしゃいます。

書籍は有用な知識を与えてくれますし、深い見識を持つ方は、今まで知らなかった世界へと導いてくださることもあるでしょう。

講演会に出かけてみたり、様々な交流を持つことで学びも深まることもあります。

ただ、最近、学びとは何であるのか少しずれてきている気風があるようにも感じることがあります。

例えば、私のブログも様々な事柄についてご紹介し、私なりの意見を発信し、取次なども行っています。

ありがたいことに毎日、ブログを読んでくださる読者の方も少しずつ増えている状況です。

拍手やコメント、アメブロではペタなんかをしてくれる方もいらっしゃいます。

本当に感謝しています。

それゆえにこのようなことを言うと混乱されてしまう方もいらっしゃるかも知れないと躊躇する想いもあるのですが、私のブログをいくら読んでみても、それだけでは学びとはならないということです。

こんなことを言うとがっかりされるかもしれませんが、一度、学びとはどのようなことをいうのかについてお話していく必要があるのかなと感じましたので、今回のテーマとさせていただきます。

私のブログに限らず、様々な書籍を読んだり、見識のある方の講演会に出向かれたことがある方も多いかも知れませんね。

参加することで、知識を得られたり、感動したり、癒されたりすることもあるでしょう。

それはそれとして、意義の深いことではありますし、何もせずに止まっているよりは余程、アグレッシブであり、素晴らしいことであります。

しかし、それは意義のあることであっても学びとは言わないのです。

学びとは何か。

それは、「鍵を使い扉を開けて道を進むこと」です。

これはもちろん、例え話でありメタファーです。

このメタファーについて少しお話させてください。

このメタファーで言っている「鍵」とは、いうなれば私達が書籍や講演会、様々な見識を持つ方から教わった内容であり知識、見識であります。

世の中には様々な「鍵」があり、いろんな形をしているものです。

「鍵」はもちろん、扉をあけるための道具であり、扉を開けて初めて鍵としての意義があるわけです。

どんなに意匠を凝らした素敵な鍵であっても、材質が純金であったり、宝石で彩られていようと鍵は扉をあける道具なのです。

扉を開けないと鍵の使命は果たされません。

ところが、ともするといつの間にか鍵自体に注目が集まり、いつしか鍵自体に興味の対象が移ってしまうようになったりします。

「私の鍵は荘厳で伝統的な趣のある鍵よ」
「なんだそんなもの俺の鍵はプラチナでしかもオシャレなデザイナーが作った今人気のやつだぞ!」
「そんなものなんだって言うんだ私のはなんていっても宝石がちりばめられていて時価総額で1億をくだらないんだ」
「いやいや、そんな形ばかりじゃ意味ないよ。僕の最新式のディンプル錠で絶対に複製が不可能な技術的に優れた鍵なんだからね」


知らぬ間に鍵の品評会となり、どの鍵が優れた鍵なのか、一体どんな鍵を次は手に入れようか。

鍵の意味するところも忘れて、観点がずれてきたりすることがあるのです。

もちろん、私は鍵集めが趣味なのでほっておいてくださいという意見もあるでしょう。

だから、それ自体を否定するつもりも、ダメだというつもりもありません。

しかし、本当に学びを意義深いものにしたいと願う場合には、これではダメだと言わざるを得ないのです。

鍵は、扉を開けてこそ意義があるのですから。

さて、では鍵が知識や知恵や技術、ノウハウといったものとするならば、「扉」は一体どこにあるのでしょうか。

それは個々人の身体、心、人生すべてに扉は存在しています。

この扉を開けてさらに道を進めていくことが学びであるわけです。

もちろん扉は簡単に開けられるもの、鍵もかかっていないようなものもあるでしょう。

しかし、重要な人生を左右する扉は得てして鍵がかかっています。

この扉をあけるために必要な鍵を見つけることは学びの一環ではあるでしょう。

扉の前で「誰かこの扉を開けてください!」と泣き叫んでみても「扉をあけるには鍵が必要だよ」と言われるだけなのです。

嘆きの壁のように扉の前で泣き崩れていても、もちろん学びにはなりません。

鍵を求めて旅をして、そしてその鍵を持って扉をあける。

もちろん、時には鍵が合わないこともあるでしょう。

人生の扉はいくつもあるものです。

鍵も沢山必要になるかもしれません。

鍵が合わなければ、新たな鍵を探しにでかけるか、あるいは鍵をメンテナンスして扉に合うように変えてゆく等の工夫が必要になるでしょう。

いずれにせよ、私達が学びを行うためには、自らの扉を開けてゆく必要があるわけです。

鍵を使い扉を開け新たな人生の道を一歩進めてゆく。

これこそが学びの意義といえるのではないでしょうか。

扉を開けてゆくごとに人は成長し進化していきます。

現世における成長にせよ、霊的な進化にせよ、私達の旅はこれからも続いていくことになるでしょう。

学びと共に。



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嗜好を越える

何度やっても同じようなことの繰り返しになってしまう。

そんな経験をしたことは誰でもあるのではないかと思います。

いつも同じことで失敗する。

仕事でも結婚でも病気でもなぜか同じことが繰り返されることがあります。

何回、職場を変えても同じように人間関係で苦しくなり止めてしまったり、恋愛してお付き合いしても、なぜか同じような理由でわかれてしまう。

健康も同じことで不具合がでてしまう。

なぜか繰り返してしまうその理由の背景にはその人の嗜好すなわち好き嫌いによる影響というものがあります。

人は何かを選択する前に理屈で考える前にまず、感情が動くことが多いものです。

どんなに論理的に考えているつもりでも、その論理の前提となっている行動の起点は感情であり、主に好きか嫌いかであることが多いのではないでしょうか。

もちろん、折角の人生ですから生きる上で好きなことだけして生きてゆきたいと願うのも当然のことかも知れません。

好きこそものの上手なれという言葉もありますから、好きなことを追求していくのも悪くないでしょう。

ただ、問題があるのは、自分が好きと想っていることの中にどうしょうもなく自分を困った状況に追い込んでしまう要素が混入している場合があるのですね。

つまり本当に自分が幸せになれることを好いているのであれば、問題はないですし、どんどん好きなことをすればいいのです。

しかし、人の心は得てして様々な歪みやねじれを持っています。

本当は好きでもないものを好き思いこんでいたり、自分が困ったことになるのにその原因となることを好きになってしまうことがあるわけです。

自分の感性には向かない職場なのにどうしょうもなくその仕事に関心が向いてしまう。

借金まみれで浮気症、誠意のかけらもない男になぜかぞっこんに惚れ込んでしまう。

惚れてしまえばあばたもえくぼとなり、そこから先はひどく困難な人生が待ってたりするわけです。

病気も糖尿病で絶対、糖分は控えなければならないのにチョコレートやあんこが大好きで止められないなんていうのも典型的な歪みやねじれなんですね。

どうしても人は自分の好きなものには積極的になりますし、もちろん、積極的になれるならば前向きな努力もしていきやすいために物事を成し遂げる原動力にもなります。

だから、基本は好きなことを追求するというスタンスで良いと思うのです。

しかし、時として歪みやねじれの罠が私達の嗜好の中に含まれていることにも留意した方が良いということです。

好きなものは時として、真実から目をそむける役割をしてしまうことがあります。

その点を鑑みて嗜好を越えた判断をするということも時として行う必要があるということは覚えておいた方がよいかも知れません。

自分の嗜好を越えて物事を判じることができるようになる時、失敗の繰り返しから逃れることができるのかと思います。


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日枝神社

私は時折、様々な学びや調査のために国会図書館を利用することがあります。

国会図書館は主に議員が政策などの作成で、資料調達、研究する、また国民にその資料を提示することなどの役割があります。

国会図書館は基本的にすべての資料や文書の収集に努めているため、絶版本や通常の書店や地方図書館では閲覧が難しい書籍を読むことができます。

なので、折角なので活用させて頂いています。

特に古神道などの昔の霊覚者たちに書籍に触れられるのは、とても貴重なことでもあります。

書店は、最新本を手に入れるには適していますが、ベストセラーやロングセラーでもないかぎり、すぐに棚から消えてゆくのが宿命です。

その点、国会図書館は資料収集が使命の一つなので、書店から消えた本を探すにはうってつけなのです。

さて、私は最近、国会図書館にて資料調査を行った帰りがけ、少し健康上ウォーキングをすることにしています。

永田町からひたすら歩いて、浜松町まで歩きます。

結構時間がかかりへろへろになりますが(笑)、時々、身体を動かすことは気の巡りをよくするためには必要です。

そんな道すがら、よく参拝させて頂く神社が、日枝神社です。

赤坂に鎮座していまして、主祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)様です。

元々は比叡山より勧請されて建立された社で、社格は旧官幣大社です。

現在は、非常に近代的なビルに囲まれた立地で、ちょっとびっくりしますが、長い長いエスカレーターが設置されています。

以前から存在は、存知ていて気にはなっていたのですが、あまり参拝をしたことがありませんでした。

一度だけご挨拶にいった時には場所柄なのか、少し邪気に当てられてしまって、しばらく遠のいたことがあります。

でも、しっかりと黒い和服の烏帽子のようなものをかぶり、少し公家のような顔つきの御神霊が大きなお顔でずっと街を覗きこんでいるようなものが見えます。

何をなさっているのかとお尋ねしてみると、行政、官庁の仕組みを管理し、しっかりと見張っているとのことでした。

どうやら何かそのあたりにお役割がある神社なのかも知れません。
(神社の由来では山川を司る神様との御説明があるようです)

最初は手を合わせるだけでも、少し邪気がやってくるので、禊祓いをしながら、何度か連続でお参りしていると最近は大分、清々しくなってきたように感じます。

この神社では、自分のことや、あまり具体的な現世における個人の内容は祈ってはいません。

そのかわり私達の今後の将来や現状の生活に直結する行政や官庁の在り方がしっかりと国民にとって正しい方向に導かれていきますことを祈念させて頂きました。

色々と不安な情勢が続く世の中です。

少しでも明るい方向に日本の国が向かって頂ければと思っています。

さて、この神社の宝物殿の近くに珍しいものが安置されています。

細石(さざれいし)です。

細石とは、日本の国歌*1たる「君が代」の中で歌われている「細石の巌となりて、こけの蒸すまで」の細石です。

おそらくあまり見たことがない人も多いのではないかと思います。

私も昔は、「君が代」を歌いながら、「細石って何?」って想っていたくらいです。(笑)

細石とは、細かい小さな石が、寄り集まって一つの岩のようにより集まって凝結しているものを言います。

もちろん、細かい石が一つに凝結するには途方もないくらいの時間がかかります。

だから、非常に稀有であり、なんとも尊い感じがするのです。

実物を見るとわかるのですが、本当に雷おこしのように粒粒の表面を持つ巌となっているのです。

非常に神妙な存在であるため、日枝神社でも神聖なものとしてしめ縄で結界を張っています。

ちょっと脱線しますが、「君が代」というと軍国主義やら天皇崇拝主義のような歌であるというイメージを持っている方がいるようですが、本来は、そういう意味ではないようです。

「君が代」の「君」とは、必ずしも天皇陛下を指すとは限らず、あらゆる意味で年長者や親愛なる「君」へという意味合いがあるようです。

「君が代」の詩の内容を簡略に説明すれば、「親愛なる君の人生が細石が一枚の岩なるのにかかるくらいの長い長い時間をかけて栄えてゆくように、さらにその岩に苔がびっしりと生えるくらいの年月だけ君の人生が栄えてゆきますように」という祈りが込められた詩なのですね。

普通国歌というと、自分の国がどれだけ素晴らしいかを歌いあげる誇らしげな歌であることが多いようにも感じますが、「君が代」は、どこまでも相手に対する愛の詩であり祈りなんですね。

あまり、言い過ぎると天心は右翼か何かかと誤解をされそうなので、このあたりでやめておきましょうか(苦笑)

ともかく、日枝神社での参拝は今後も続けていこうかなと思っています。

皆様も時には鎮守様などで魂のリフレッシュをされるのも良いかと思います。

*1 「君が代」に対する評価は異論や想いがそれぞれの方にあるようなので、あくまで天心の認識として「君が代」は国歌であると定義させて頂いています。


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熟成するための時間

少し季節はずれな話題になりますが、皆さん、自宅で梅酒を作られたことはありますでしょうか。

まだ青くて固い梅の実を瓶に詰めて氷砂糖と焼酎で漬け込み、待つこと数カ月。

梅の実が柔らかくなりエキスが焼酎と調和する時、ほんのり梅の香りが漂う美味しい梅酒ができあがりますよね。

美味しい梅酒を作るコツはこの熟成させるのにしっかりと根気よく時間をかけることにあるかと思います。

私が学生時代にとある事務所でアルバイトをしていた時のことです。

その事務所の所長さんのお知り合いの方から梅酒のビン詰めを事務所の皆様にということで頂いたことがあったのです。

差し入れですね。

その事務所の所長さんは大変お酒が好きな方で(笑)、それを知っているから、自家制梅酒を持ってきてくれたわけです。

ただ、その梅酒、まだ熟成が途中なので、しばらくの間はふたを開けずに、熟成してから召しあがって欲しいとことづけられていました。

まだ、つけ込んで日が浅かったわけです。

しかし、お酒大好きな所長さんはそれが待てずに、その日のうちに開けてしまいました(笑)

夕方になり仕事も終わり、事務所を締めて、その日はアルバイトや社員さんも含めての梅酒による宴会状態になったのです。(笑)

私もその時はご相伴にあずかり(というかこの所長さんのお酒の御誘いは当時とても断り辛いところがあって、それほど、酒に強いわけではない私も梅酒ならと参加したのです)、梅酒を飲んでの酒宴に参加することになりました。

さて、一口、梅酒をすすると、なんとも苦い味がします。

正確には苦くて甘い、表現にこまる味なのです。

所長さんはともかく、お酒が飲めて上機嫌でしたが、私は、その梅酒の中途半端ななりかけ酒を無理やり飲み込みながら、内心、「これは本当に梅酒なのか。。?」と(笑)、ちょっと気持ち悪くなるのを我慢しながら宴会をやり過ごしたのを覚えています。

さて、梅酒の作り方はとても単純ですし、特別に技術がいるわけではないでしょう。

レシピを理解して作り方を間違えなければ、ほぼ、誰にでも作れるはずです。

でも、本当の美味しい梅酒を作り上げるためには、熟成のための時間が必要なわけです。

梅酒にかぎらず、人生においても何かを作り上げようとか、事を為そうと思う気持ちが誰にでもあると思います。

そんな時、人はついつい急いでしまいたくなるものです。

時間をかけるべき時に、その時間を縮めたいと考えてしまうのですね。

しかし、時間というものは必ずしもショートカットすればよいというものではないのですね。

時間というものそのものが、私達の人生を熟成させ、志をほんのり香る麗しい梅酒のようなものにしたててくれることがあるわけです。

ですから、時間というものはよくよく考えて活用することが大事かなと思います。

スピード社会と言われていますが、なんでも早ければ良いわけではないのですね。

自分の人生を味わい深いものにしていくためには、時間をかけてゆっくり醸成していくことも大切だということを知ることは意外に重要なことではないでしょうか。


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天心について

鑑定依頼のフィードバックを頂き、その時にご質問を頂きました。

非常にご質問の内容が個人的なことに帰属するものなので、どうしようか迷いましたが、同じような疑問を持つ人もいるかも知れないということで、思い切ってブログ掲載することに致しました。

ご質問をされた方もブログにてとのことでしたので、そうさせていただこうかと思います。

ご質問者様のお名前は非公開とさせていただこうかと思います。

また、ご質問の内容に個人名、特定団体名が記載されているので、こちらもフィルターをかけさせて頂きます。

なぜかというと、いかなる表現をするにせよ、特定の名前を出してしまうと先方に迷惑をかける可能性があるからです。

本当は、ご質問者様に直接のメール回答として終わらせようとも思いましたが、思い切ってブログ公開致します。


----以下、ご質問の内容----

天心様は以前 「○○○」という団体に所属していたり

「△△△」なる人に弟子入りしたりしていましたか。

-----------------


まず、一つお断りしておきたいこととしては、私の現在の活動はいかなる宗教団体や人物とは関係がありません。

何か背景となる組織があり、勧誘や別の思惑があってのことではないことを言っておきたいと思います。

ご質問では特定の団体や個人を出されていますが、これについては言及を控えさせて頂きたいと思います。

なぜならば、私が関係していたしていないにかかわらず、私が言及することによって、なんらかのご迷惑が先方にかかる可能性もあるからです。

ただ、私は10代の頃より、様々な心霊、スピリチュアル、宗教などの様々な著書や神道、仏教、儒教の古典などを読んだり、いろんな霊的な方々の講演会に言ったりして学ばせて頂いたという経緯はあります。

自分の体験体感や様々な見聞をすることで、学ぶことも多くありました。

本当に素晴らしいと思える思想や考え方もあれば、これは少し違うのではないかという、では、どうするのが一番良いのだろうかなどと自分なりに試行錯誤して、自分の中で真実を固めてきたという経緯があります。

ご質問の団体、個人のことはともかく、私の見聞したこと、体験したこと、確信したことをベースにブログ等にてお話をさせて頂いている次第です。

「我以外皆師なり」という吉川英治の言葉がありますが、まさに今まで学ばせて頂いた方々は皆師であるといえましょう。

そのような理由で私のお話している内容には、様々な方々と共通する面もあるでしょうし、全く違うというところもあるでしょう。

今まで学ばせて頂いた方の様々な息吹がそこには生きているからなんですね。

世の中の霊能者と呼ばれたり、宗教にて教えを説いている方なども、その内容はすべてがオリジナルというわけではなく、様々なその方が学んでこられた人からの息吹を継承していると思うのです。

もしかするとそういったところで、何か思うところがありご質問が出てきたのかなと感じました。

ものすごい長々とお話させて頂いて恐縮なのですが、実は、このようなことをお話したのには理由があります。

以前、私のもとに突然、「あなたは○○ですか?その関係者ですか?」という一方的で唐突なメールを頂いたことがあります。

その時に指摘された方は全く存知ない方でしたし、突然、なじられるような内容のメールに戸惑ったことがあります。

その後、話は平行線で、その方は、○○という方の関係者だという思い込みを解くことはできず、私の事をボロカスに言って去ってゆかれました。

私は本当に深く傷つき、しばらくげんなりして、一時的に落ち込んでしまったことがあったのです。

未だになぜそのようなことを言われなければならなかったのかわからないでいますが、おそらく想像するに私のブログなりでお話している内容から共通点を見出し、そのように思われたのかなと思っています。

もう二度とこのようなことは経験したくありませんし、誤解をされたりしてその方を傷つけたくもありません。

もちろん、ご質問者の方は別に私をなじったりしてこのような質問をされているわけではないと思ってはいます。

どういったご趣旨でのご質問かは計りかねるところではありますが、もし、万が一、何か誤解や勘違いから疑念を抱かれていたら、私としては哀しいことこの上ありません。

なので、ちょっと過敏に反応してしまっている部分があったのならば、お許しください。

私のブログは私の個人の見聞と体感によるごくごく一部の内容をご紹介させて頂いているにすぎません。

その中には、謹んで学ばせて頂いた方のエッセンスも含まれていることはあるかも知れません。

ですから、個人的な経緯などで、読者の方に参考になるようなことは、随時、ご紹介させて頂いていることもありますが、あまり意味のない個人的経歴は、最小限に控えていく所存です。

ご質問のことに直接の回答とはなっていないかも知れませんが、ご推察頂けると幸いです。

また、繰り返しになりますが、この活動はいかなる宗教団体、個人とは関係ございません。

私のつたない活動にご賛同し、興味を持ち、心から納得された方に対してささやかな取次をさせて頂くものです。

この点、ご理解頂けると嬉しく思います。

長々とお話にお付き合い頂きましてありがとうございます。



天心 拝


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反応する心

私達は日々、生活する中でありとあらゆる選択をすることを求められて生きています。

お仕事で商談を受け入れるかどうかの判断や、今晩のおかずは何にしようか等に至るまで、あらゆる場面で選択を行います。

あるいは、今日一日、どのように行動しようかということも考えなければならないでしょう。

あらゆる選択や行動を決めているのは心であるわけなんですが、一番大切なことは、主体的な意志による選択にあり行動にあるということです。

主体性こそが私達が神様より授かった魂の根幹をなしていると言っても過言ではないでしょう。

しかし、時として人は、この意志を放棄してしまっていることがあります。

どういうことかといいますと、本来は自分の意志を明確にして行うべき選択や行動をあらゆる状況や環境によって心の反応にしたがって行ってしまっている場合があるということです。

世の中不景気だから自粛しよう、友達皆が左にくというのなら、長いものには巻かれろと言わんとばかりに左になびいてしまうことがありますよね。

得をするならやるけれど、損をするならばやめておこう。

一見合理的な判断をしているように見えますが、時として、それは事なかれ主義日和見主義を生んでしまうことになる場合があります。

損得や環境、状況を越えて、自分は今、何がしたいのか、何を理想とし、何を志として掲げて生きてゆくのか。

主体的意志が輝く時、結果はどうであれ、魂は輝きをまします。

逆にいえば、あらゆることに反応しその状況にとらわれて、動けば、どんどん魂の輝きは失われてしまうであろうということです。

私達は何のために生きているのか。

合理的で損の少ない人生を歩めばそれでいいのでしょうか。

無難でやるべき与えられたことのみを護持して生きればそれでいいのでしょうか。

もちろん、生き方は様々あってよいのですが、スピリチュアル的な生き方をなさろうと思うならば、常にこの命題を持って考えて進む必要があるのかも知れません。


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正負のバランスシート

正のエネルギー負のエネルギーの関係性については、過去記事においても様々な角度からお話をさせて頂いてきました。

簡単におさらいするならば、正のエネルギーは発展性や豊かさ、幸せをもたらし、負のエネルギーは破壊や収縮、暗く重い方向へ引っ張ってゆこうとする力となります。

いろんな表現ができますし、一概に定義ができないのが正負のエネルギーの働きなのですが、とりあえず、幸せになるためにどのように工夫していくことが大事なのかを正負のエネルギーの理論を持ってお話していきたいと思います。

よく聞かれることで、一生懸命、正のエネルギーを蓄えるように努力しているのだけれど、なかなか運も開かず物事がうまくいかないとおっしゃられる方がいます。

その一方で、正のエネルギーを蓄えるような努力をすると必ず証やサインのような形で良いことが訪れるという方もいらっしゃいます。

不思議なのですが、同じように努力をされているのに方や証やサインを沢山受け取り、方やさっぱり現状が変わらない。

こういう現象が起きてくることがあります。

なんだか非常に不公平な感じがして、なかなか現状が改善されない方は、ヤル気が失せてしまう方もいらっしゃるかも知れませんね。

なぜ、このような違いが起こってくるのかをわかりやすくするためには、正負のエネルギーをバランスシートという道具に当てはめて考えてみるとよいでしょう。

バランスシートとは、経理のお仕事をしている方や事業を経営している方ならば、多少の心得があるかと思いますが、いわゆる財務諸表の一つであり、別名、貸借対照表と呼ばれる資産状況を現わす帳簿のことであります。

このバランスシートを記載することで、自分や会社の資産状況を把握することができるわけです。

バランスシートは、主に三つの部門で成り立っています。

一つは、資産です。

これは、簡単にいうと自分の持つプラスのものを現わしています。

経理でいえば、現金とか銀行に預けている預金だとか、あるいは、誰かにお金を貸していて返してもらう権利を持っている場合は、これもプラスの資産ですね。

あるいは、商品を売って、その代金の支払いを受ける権利も資産になります。

ともかく、自分にプラスになっているものは、全部、資産なわけです。

この資産を仮に正のエネルギーを当てはめて考えてみましょう。

一生懸命、正のエネルギーを蓄えるために善行をしたり、想念を明るく前向きに転換したりすれば、この資産としての正のエネルギーはたくわえられてくるわけです。

バランスシート上で考えれば、資産である正のエネルギーが増えているので、幸せになれるポテンシャルは上がっているといえるでしょう。

「じゃあ、なんで俺はこんなに頑張ったのに運が開かないの?」

とおそらくここでご質問が来ることかと思います。

さて、バランスシートに話を戻しますが、この帳簿には、資産の他にもう一方の概念を現わす事柄があります。

それは負債です。

負債とは、借金であったり、何か物品を購入したり、サービスを受けたりしているけれど、まだ支払いが済んでいないもの。

それと、毎日のお家賃とか水道ガス光熱費なんていう支払わなければならないけれど、まだ支払っていない費用なんかも負債に入ります。

この負債を負のエネルギーに置き換えてみましょう。

資産がいくら沢山あるように見えても、実際には負債もあるのが事業経営であり、事業を運営していくためには、時には負債も増やすことがあるのは、世の常です。

ですから、資産の多さだけに着目してしまうと、実際の自分の持っている真実の財産の姿を見誤ってしまうことがあります。

カードローンを使ってキャッシングをすれば手元に現金は入りまして、資産は増えますが、同時に借金という負債が増えるわけです。

なので、実際に自分の自由になる真の財産を知るためには資産から負債を差し引いた部分を見なければならないわけです。

この差引分のことをバランスシートでは資本と言います。

正負の関係でいえば、自分自身の持つ正のエネルギーから負のエネルギーを差し引いた部分が大きければ大きいほど、大きな幸せを短期間で得ることができるようになるわけです。

正のエネルギーを蓄えても、なかなか運が開いてゆかないという方は、得てして、負のエネルギーの大きさが正のエネルギーを上回っているか肉薄している可能性があるわけです。

あるいは、正のエネルギーを蓄えているつもりでも、同時に負のエネルギーも蓄えてしまっている可能性があるのです。

まず、一つ言えるのは、正のエネルギーが負のエネルギーを上回るようにしていくようにして、資本の部分である余剰の正のエネルギーを大きくしていくことが運を開き、幸運への道に繋がっていくことになります。

そこで、バランスシートを使った経営コンサルティングならぬ、開運コンサルティングを行ってみたいと思います。(笑)

単純に考えれば、資本の部分を大きくするためには、正のエネルギーを蓄え、負のエネルギーをなるべく減らしていくことが基本となるでしょう。

身も蓋もないですが、これは事実です。

しかし、人生とはそう単純にはできていません。

事業経営で考えれば、無借金で売り上げだけを上げてゆこうとするのがどれだけ大変なことか、経営者の方であるならばおわかりになることかと思います。

人生も同様で、人間が生きる上で、どうしても負のエネルギーを蓄えてしまう状況や場面というものはあるものです。

あまりにも負のエネルギーをため込むことを怖れ過ぎれば、人生に対し、消極的になり過ぎて、罪も少ないけれど、功も少ないという全般的に豊かになれないスパイラルに陥ってしまう可能性があります。

時には負のエネルギーを積むことがあっても、怖れずに積極的に正のエネルギーを蓄えられる自分へと成長するために様々な経験を通し学びを深めることは大切なことです。

一方で、正のエネルギーを蓄えようと頑張ろうとしても負のエネルギーが大きいと中途挫折しやすかったりします。

負のエネルギーが前向きな努力を阻害し、ヤル気を消滅させようと動くからです。

だから、無理やり正のエネルギーを蓄えようとして難しいと思う方は、まず、負のエネルギーを返済し、ある程度軽くなった時点で少しずつ正のエネルギーを蓄える努力をする。

このような調整とバランスを鑑みた努力をしていく必要があるわけです。

また、正のエネルギーの使い道ということも考える必要があるでしょう。

事業経営でいえば、売り上げがあがり、資金が充実してきた際、どのように資金を運用していくのか。

「売上が上がった!新しいゴルフクラブが買える!」なんて有頂天になり、放漫経営をしてしまう経営者は、得てして折角の蓄えもなくなり、いつしか事業不振に陥ってしまうことになる可能性が高いでしょう。

先見の明がある経営者であるならば、得た資金を利回りのよい証券などに投資するなり、あるいは、設備投資を行ったりさらなる事業繁栄に備えるはずです。

正のエネルギーも蓄えた途端に自分の個人的な幸せを満喫することに惰眠をむさぼれば、たちまち、枯渇してしまい、その分、残った負のエネルギーが動くために、調子が悪くなったりするのです。

そのようなことを鑑みれば、正のエネルギーを蓄えてある程度、状況が改善されてきたならば、より一層の正のエネルギーを蓄えるための自分自身の成長や学び、善行に努めるべきところであるわけです。

ちょっと開運してすぐにまた、不調になる場合には、開運時にこそ、さらなる飛躍を求めて、より純粋な気持で学びと実践をしていく必要があることをわきまえた方がよいということです。

正負のエネルギーは常に動いています。

ですから、動いてゆく人生の中でできるかぎり余剰の正のエネルギーを生みだす努力をしていくという視点で見ていくことが結果的に幸多い人生に繋がっていくことになるのかも知れません。



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【守護霊問答】健康であるためには

今回の記事は【守護霊問答】を行ってみたいと思います。

テーマは、「健康であるためには」ということでお尋ねしてみたいと思います。

私達が人生で学び研鑽していくためには、その基礎となる健康状態というものがネックになる場合もあります。

ですから、健康であるためにどのようなことを心がけてゆくべきかについてお話を伺ってみたいと思います。


天心:「守護霊様。本日は健康についてお伺いさせて頂きたいと思います」

守護霊:「健康とは偏りなきことを言う」

天心:「偏りなきとは、生活態度のバランスとか食生活とかのことでしょうか?」

守護霊:「それも重要である。なれど肝心要は気が円満なることにある」

天心:「気?ですか。」

守護霊:「気は巡りであり、気は万象を整う」

天心:「気の巡りを良くすることが健康に繋がるということですか?」

守護霊:「その通り」

天心:「気の巡りをよくするには何が必要なのでしょうか」

守護霊:「土の気が母体なり。土の気と水の気が合わさりて木の気生まれる。木の気ありて、活力の元生まれ火の気が生ずる。木火そろいて土の気生まれ、土の気より金の気生ずる。金の気より水の気生ずる。」

天心:「いわゆる五行の流れですかね。五行の気が偏らないように注意することが健康に繋がるということで宜しいでしょうか?」

守護霊:「いかにも」

天心:「具体的には何を心がけたらいいでしょうか?何かアドバイスはありますでしょうか?」

守護霊:「根菜類を取るべし。なるべく常温の水を取り、心情を鎮め、筋骨をゆるやかに動かすことなり。」

天心:「なるほど、なかなかシンプルですね。でも、中々、根菜類は考えてみれば取ってないかもしれませんね。飲み物は、冷たいのが好きです。」

守護霊:「肉食中心なるは、欲望の炎大きすぎればなり、心情鎮めれば、おのずと土の気の必要性がわかる。火の気が強く、それを制する水の気が少なくなれば枯れ果てるなり。根菜類は水土木を帯びて、火の気と金の気を鎮めるなり。しかれば心情鎮まるなり」

天心:「確かに欲望の炎を燃えたぎらせて、頑張ろうと思うと肉類沢山食べてバイタリティをつけようとして、その結果、無茶をしたりして結果的に健康害することになったりすることがありますね。でも、現代社会においては多少のバイタリティをつけることは必要だとは思うのですが」

守護霊:「ゆえに偏りなきと申して居る」

天心:「ああ、なるほど!根菜類を取ることは健康であることに繋がるけれど、それにこだわり過ぎてもいけないということですね。社会性とのバランスや自分の状態を観が見ながら中庸を目指すことが真の健康ということでしょうか。」

守護霊:「その通り」

天心:「わかりました。今回もお諭しありがとうございました」


以上が守護霊問答になります。

健康も大切だけれど、ある程度、社会生活とのバランスを考えながら、時には五行の気のバランスを取るために根菜類と水分と運動に気をつけてゆきたいと思います。


天心 拝


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ネガティブからの出発

ポジティブシンキングという言葉をよく耳にするようになってから久しく時がたったように思います。

今や、誰もが前向きに明るく考えることは、物事を好転させる重要なポイントであると認識されるようになってきているように思います。

自己啓発や宗教関係の本、スピリチュアルな本をひもといても大抵は、このポジティブシンキング、すなわち物事を前向きに考えるという発想を説いていることが多いように見受けられます。

もちろん、この考え自体には異存はないのですが、時として、このことは多くの人に誤解を与えているという側面があるとも感じます。

ポジティブシンキングと言われると、どうしてもネガティブに考えてしまう方にとっては、苦痛に感じてしまうことがあるのではないでしょうか。

そもそもポジティブシンキングできるくらいなら、ネガティブになんかならないと言いたくなったりすることもあるのではないかと思います。

かくいう私自身も過去にはネガティブな心に支配されていた時期もあります。

なにかとすべてに疑い深くなり、どうしても一歩進めない状態にあったこともあります。

そんな時にポジティブシンキングを進められるとどうしても、抵抗したくなるのです。(笑)

明るく前向きに考えろ!なんて上から目線で言われると余計に「そんなことできん!お前に俺の気持ちはわからん」と反発心が湧いてきたりするわけです。

素直になれないんですね。

だから、ネガティブから抜け出せないと想っている方の気持ちはなんとなく察しがつくのです。

私自身も経験があるわけで(笑)

でも、だからといって、ずっとネガティブでいるのが良いとは思えませんよね。

それはどこかで、わかっているからこそ、余計にポジティブシンキングを勧められると、罪悪感を感じてしまったりして追い詰められてしまうわけです。

では、ネガティブに支配されてしまっている状態から抜け出してゆくためにはどうすればよいのでしょうか。

まず、物事は大抵、ネガティブからの出発がほとんどであるとういことを理解するところから始めましょう。

人間は、自分の状況を改善しようとか進歩向上しようとか思う時にはキッカケというものがあります。

順風満帆に人生を歩んでいる方は幸せで楽しいかもしれませんが、自分に対する問題点や課題、改善点を見いだそうという気持ちが生じ辛いものです。

今が幸せだとそれを変えようとは誰もしないのですね。

苦境や悩み、ネガティブな気持になるくらいでないと人はあえて向上しようなんて思ったりしないものなのです。

ですから、ネガティブとは本当は、光を求めて旅立つ時のサインのようなものなのです。

変な理屈に聞こえるかもしれませんが、ネガティブとはポジティブに転じる好転反応のようなものなのですね。

ネガティブは悪い、よくないと皆さん想われる方も多いのですが、本当は、ネガティブでい続けることが問題なのであって、ネガティブが現れること自体は自然な反応なのです。

なので、まず、ネガティブな心が湧きあがったからといって自分を責めないことです。

ネガティブな心を一つのサインとして受け止め、新しい息吹を入れてゆくべき時にきたのだなと受け止めてみることがまず最初に必要になることなのです。

ネガティブはいけないことだから、ポジティブになろう!と意気込んでうまくいかない人は、どこかで自分を責めてしまっている場合が多いと思われます。

自分を責める必要はどこにもないということを覚えておいて欲しいと思います。

さて、ここで究極のネガティブからの出発を果たし、最期は超偉人として人類史に名を残した方をご紹介しておきましょう。

それは、お釈迦様です。

お釈迦様といえば、誰もが知っている仏教の偉人ですよね。

悟りを得て、衆生の救済のために仏法を説いた方です。

このお方は、はじめから「衆生を救うぞ!そのために前向きに修行し立派に生きよう!」なんてポジティブに生きた方ではありません。

もともと、お釈迦様という方は超ネガティブな方でありました。

王族に生まれ、将来を約束されているにも関わらず、いっつも憂えた顔付きでため息をついて過ごしていました。

王族なんだから、やろうと思えば楽しいこといっぱいできるはずです。(笑)

でも、お釈迦様は「なんかむなしい・・」と非常にネガティブです。

お釈迦様が生きた時代は、カースト制度という本当に厳しい身分制が敷かれていました。

一番下の階級はスードラといって奴隷階級です。

自由もなければ、満足のいく暮らしもできません。それに比べればお釈迦様の属していた階級であるクシャトリアは最高のバラモンから二番目の恵まれた階級なのです。

スードラの階級の方からすれば、お釈迦様の悩みや憂えなど「ふざけるな!」と言いたくなるようなものだったことでしょう。

しかし、お釈迦様のネガティブはさらにエスカレートしていきます。

美しい女性を見かけても、「今は美しいかも知れないけれど年取れば皺皺の老婆になるじゃないか」とネガティブです。

病人を観れば「健康な人でも病にかかれば、苦しむんだな」とあくまでネガティブ。

葬式に出くわせば、「ああ、人はどんなに富を築いたって最後は死んじゃうんだな」ともう取りつく島もありません。

そして、お釈迦様は色々と悩んだあげくに家出・・じゃなかった出家してしまうわけです。

どうですか?

凄いネガティブではありませんか?

ちょっとデフォルメして仏典の内容を表現しておりますが、冷静に分析すると非常にネガティブであることがわかると思います。

しかし、お釈迦様はそこから大楽に至る悟りの道を発見し体得されるわけです。

だから、尊いのであり、素晴らしいわけですね。

お釈迦様が本当に素晴らしいのは、究極のネガティブから究極の悟りへと到達できたところにあります。

このことからもわかるようにネガティブとは出発点であり、大きく人生を転換していくべきサインであるということがお分かり頂ければお話をしたかいがあるというものです。

ネガティブは進歩向上の産みの母なのかも知れません。

どんなにネガティブになってもそこからが出発です。

ネガティブからの出発で新しい旅へと向かっていく方が増えていくことを願っています。


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過程を楽しむ心

昨今の世の中の情勢は、スピード社会などと言われていまして、ともかく何でも早く実現することがよいことのようにもてはやされています。

どうやったら、目的地に早くつくことができるのか。

どうすれば、合理的に目標を達成することができるのか。

いつの間にか、いかに素早く合理的に事を進めるかばかりに目が行ってしまうような世の中になってきているように感じます。

目標を持つことやそこに至るためのプロセスの合理化や最速化、最適化を図ることはもちろん、悪いことではないのですが、あまりにも目標を達成すること(結果)を重視し過ぎると、肝心の人生そのものの妙味を失うことになってしまいます。

そもそも、人生の目的や目標とは何を指しているのでしょうか。

人は、裸で生まれて、そして、何も持たずに死んでゆきます。

目的や目標を持たずに人生は始まり、その執着点は死なのです。

こう考えると私達が目的、目標といっているものは、仮の目印のようなものだといえるのかも知れません。

スピリチュアル的な見解でいえば、人はある程度、天命や運命の基軸となる流れを持って生まれてきています。

その中には自分が生まれてくる前にこのようなことをしてみたいなという希望のようなものを持って生まれてきている人もいます。

このようなことを言うと「では、その使命のようなものを早く合理的に達成したほうが賢い生き方ではないか?」という発想を持つ人が出てくると思います。

しかし、守護霊も神仏も別に合理的にスピーディにこなすことを評価してくれるわけではありません。

一つの個性としては、合理的でスピーディな才覚というものは、必要であるとみなしてくれるけれど、実際のところ、そこはあまり重要ではないのです。

ですから、たとえ人生が長かろうが短かろうが、素早く目的を達成できようが、その過程の中でどれだけ魂を輝かせたかだけを守護霊や神仏は観てくれているわけですね。

評価の対象というものは、どれだけ自分の本性を発揮して、人生を味わえたのか。

そして、その証として人生における成果や目的達成というものが備わってくるわけです。

私達は、目的のためにプロセスがあると思っていますが、守護霊や神仏の見解は逆なのです。

プロセスが純一な魂からの発露に根ざしているものであれば、結果は喜びと幸せで満たされるはずなのです。

逆にいうと目的をどんなに素早く、達成できたとしても、プロセスの中の味わいを理解できないと意義が薄いものになってしまうわけです。

目的、目標とはあくまで方便であり、魂を磨く手段なのです。

そこをわきまえて、今生の人生を歩むことが実は、結果的に幸せをつかむ一番の近道になったりします。

早さを求めれば求めるほど、成果は遅くなり、着実に味わい深く過程を歩めば、どんどん早くに成果にたどり着き目標を達することができます。

物事は何でも裏側、反対側に真実が隠されているのかも知れません。


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守護霊のオーラ

守護霊という存在は概ね高次元であるため、霊人といっても、通常の霊人よりも輝いて見えます。

後光というかオーラをまとっているのですね。

それもひときわ大きく、まぶしかったりします。

和光同塵(わこうどうじん)という言葉があるように私達の前に姿を現してくれる場合には、少し光を和らげて対応してくれるわけですが、普段はものすごい、眩かったりします。

霊層や属する霊界の種類によって、大きさ、まぶしさ、色合いは異なりますが、正守護霊などは本当に大きなオーラと霊体で、さながら巨大ロボのようです(笑)

もちろん、伸縮自在なので、小さくもなれますが、時々、ものすごい、守護霊の度アップの顔が見えることがあります。(笑)

「守護霊様。近すぎます」と突っ込むと姿を変えてくれたりまします。(笑)

さて、今回の守護霊カテゴリのテーマとしては、守護霊の持つオーラについてお話してみたいと思います。

あまり、最初は気にしたことはなかったのですが、オーラの色彩によって、守護霊の得意分野が示されていることが多いことに気づきました。

まだまだ、研究不足な面もあるので、すべてを解明はできていませんが、少しご紹介してみようと思います。


1.赤色系のオーラ

このオーラをまとう守護霊は、情熱的でパワフルな推進力を持った才覚を持っている方が多いようです。

ですから、とにかく物事を推し進めてゆきたいと思った場合には、このオーラを持つ守護霊にお願いすると力添えをしてくれることになりますね。


2.紫色系のオーラ

このオーラをまとう守護霊は、生前、信仰深く教養と品格を備えた方が多いようです。

もちろん、守護霊であればある程度、教養も品格も信仰も持ってはいますが、紫色系のオーラが色濃く出ている場合には、このような特徴があるようです。


3.青色系のオーラ

このオーラをまとう守護霊は、純一さ、真心の澄み切った方が多く、神仏へ帰依する方が多いですね。

主に心の穢れやメンタル的なケアに優れた霊力を持った方はこの色のオーラになります。


4.オレンジ色系のオーラ

このオーラをまとう守護霊は、癒し系でヒーリング能力が高い方が多く、心や体を癒してくれる働きをしてくれる場合があります。

疲れている時には、この守護霊が降りてくると一瞬で癒されて元気が回復します。



以上、簡単ではありますが四つのパターンをご紹介してみました。

オーラは必ずしも単色とは限らずある程度、複合的に重なり合っています。

働きに応じて色を変えたり、色合いの濃い薄いなどによっても能力の高低が変わってくるようです。

他にもいろんなオーラの色によって意味は異なってくるようなので、単純には割り切れませんが、一つの目安にはなるかなと思います。

守護霊もいろいろと研究してみると面白いものです。(笑)

あまりジロジロ観察してやろうなんて思ってしまうと姿を消してしまわれるので、露骨にはしませんが、守護霊様との交流や観察によって、霊界事情などもわかってくることもあるので、これも一つの学びでもあります。

ということで、今後も守護霊様からは色々と教えて頂いてゆこうと思っています。

許された分は、ブログでのご紹介しお話してゆければと思っています。


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価値観を築くための学び

鑑定依頼などで時々、ご相談を受けるのが、「自分が何をすればいいのかわからない」「自分の夢や目標が持てない」という内容のものがあります。

私は、単純に楽しいこと、自分が幸せに思えること、理想や希望を描いて幸せ霊界を作るようにお勧めしているのですが、これがなかなか難しいようです。

なぜならば、幸せ霊界の元となる理想や夢、自分にとっての幸せというものが見えなくなってしまっているからです。

これは、夢や目標があり、理想に向かって日々を努力している人からみると奇妙に映ることもあるかもしれません。

しかし、実際には、このように自分の向かってゆくべき方向性が見えないと悩まれている方は意外に多いのです。

かくいう私自身も若い時に一時、このような状態に陥ったことがあります。

20代の頃のお話ですが、毎日毎日、働きアリのように会社に通い、業務をこなし、大抵は残業しなければ終わらないほどの案件を抱えて、アフターファイブなんていう言葉は、なんだか自分とは無関係な世界の出来事のように感じる日々を送っていました。

もちろん、それなりに仕事をこなしていれば充実感もありましたし、特に若い頃は自分の社会的な実力をつけようと必死な面もありました。

若いのだから、働くのは当たり前。

仕事は大変なのが当たり前。

ともかく自分に与えられたミッションをこなすことが私にとって最重要な事柄になっていたのです。

大抵、真面目に働いていて、それなりの成果を上げていれば、周囲はそれなりには評価してくれます。(もちろんそうでない場合もありましたが)

概ね満足のいく日々を送っていました。

ところが、やはり時折、魂が悲鳴を上げるんですね。

自分は何のために生きているのだろう?自分は何がしたいのだろう?

時々、自問自答を繰り返してみても、答えはぼやけてわかりません。

夢や希望や理想、達成したら本当に自分が幸せに感じる目標など全く思い浮かばなくなっていたのです。

せっかく休日があっても何をしていいのかわからない。

そんな状態に陥ったことがありました。

時折、友人から「今の仕事にやりがいを持ってる?」と聞かれる時がありました。

私はなぜか自分の迷いを見透かされたような気持になりムキになって「やりがいとかそんなことじゃ食べていけない。生きてく為には働くしかないだろ!」とぶっきらぼうに返事をしてしまったこともあります。

おそらく、友人から観た私は、とても苦しんで、人生を楽しんでいるようには見えなかったことでしょう。

私は、自分は生きていくために必要だから、「楽しい楽しくないなんて問題じゃない」と言い聞かせ自分自身の魂の叫びとは向き合わずに目前のミッションをこなすことにのめりこんでいきました。

その結果、私は一時、体調を著しく崩し、精神の均衡も取れなくなってきてしまったのです。

この時の私の霊界は本当に重く、暗く冷たい波動に満ちていたことでしょう。

今考えるとゾッとしますが、現在は脱却できたのでよかったですが。(苦笑)

さて、私とは多少異なっているものの、結構、現代社会にはこの時の私のように自分の理想や夢や目標を持てない、幸せ感覚が持てないという方は多くいらっしゃるのではないかと想像しています。

その理由としては、私たちは、子供のころから、ある教育をされているからです。

それは、「自分の好きなこと楽しいことを放棄して、お金や成功を得ることが幸せである」という呪縛観念です。

例えば、学生の頃ならば、学校で授業を受けて勉強をするわけですが、私達は好きか嫌いか、興味があるかないかに関わらず、決められたテキストを受け入れるように教育を受けることになります。

もちろん、私達が社会に出て快適に過ごすためにはある程度の基礎知識や常識、ルールを身につけることは必要でしょう。

読み書きそろばんは、ある程度できないと社会に適応できないこともあるでしょうし、常識もわきまえないと人との関係性も築けません。

ですから、教育を受けられるということは素晴らしことでもあります。

しかし、同時にその教育の中には(というより教育の中での思い込み)、人の魂を呪縛してしまう要素があったりいたします。

どういうことかといいますと先ほども言いましたが、自分の自由な意思や楽しさ、理想、希望といったものを放棄することで、将来の自分の幸せが保証されるという錯覚があります。

例えば、「頑張って勉強して一流大学に合格すれば人生が約束されている。」

こんなふうに思われていた時代もありました。

そのため、一生懸命、頑張って受験を通り、一流大学を目指して教育がなされていました。

もちろん、それがいけないというつもりはありません。

本当にそれが自分の幸せだと感じて頑張るのであれば、全く問題はないのです。

確かにある程度、世の中の仕組みからすると学歴がある人の方が有利なのは確かです。

一流大学を卒業した人は、それだけ努力をしたわけですし、その努力は素晴らしとは思うのです。

ただ、あえて申し上げればそれでも、一流大学に入ることと人生を幸せに生きられることはイコールではありません。

どんな学校に入ろうとどんな一流企業に勤められようと、どんなにお金持ちになろうとそれは幸せとはいえないのです。

おそらく、多くの反論を持つ人はいることでしょう。

「お金が会った方が幸せでしょ?」「実際、有名学校を出た方が就職に有利です」「一流企業の方が福利厚生もしっかりしているし、絶対幸せだよ!」

どの意見もうなずけるものかも知れません。

でも、あえて言います。

それらは幸せのキッカケ、外見上のことに過ぎないのです。

過去記事でも何度も言っていますが、幸せとは感覚なのです。

それゆえに魂の叫びを無視した幸せの形は、本当の幸せには結びつかない場合が多いのです。

そして、何より、自分の魂からの発露である、自分にとって楽しいこと、幸せに感じることを放棄して、頑張って頑張って得た幸せの形(この場合は虚構)にたどり着いてしまうと、自分にとって何が幸せで何が楽しいことであったのかわからなくなってしまうのです。

私達は、知らぬ間に「人生楽しいことばかりじゃない、むしろ歯を食いしばって頑張ってやりたくないことでも定められたミッションをこなせる人間が素晴らしい人間だ」という一種の呪詛をかけられています。

そして、自分の夢や理想を語ろうものなら、「自分勝手」「そんなに世の中甘くない」と否定されてしまうことが多いのではないでしょうか。

私が会社勤めをしていた頃は、ほとんどの同僚は夢を語りませんでした。

ただ淡々と業務をこなし、時々、飲み会などで憂さ晴らしする程度です。

上司の悪口を言ってみたり、自分の抱えた案件の大変さ不満などをお互いにぶつけあったりしていました。

そこに夢や希望の入り込む余地はなかったのです。

このような日々を続けていれば、自分の方向性や夢や希望、自分にとっての幸せがわからなくなるのも当然でした。

もちろん、私と他の方とは状況も人生の歩みも違うので、すべてが一緒だとは言いません。

しかしながら、自分の幸せがわからない、楽しいことがわからない、理想を描けないという理由の本質は魂を無視した日々にあることは間違いありません。

ですから、自分の幸せがわからなくなってしまった場合には、今までの呪縛観念を打ち祓い、新しい価値観を築く学びを行っていく必要があるでしょう。

今回の記事は少し極端なお話をしているように感じる方もいらっしゃるかも知れません。

しかし、あえて、今回は、反論、異論もあることを重々承知の上で、お話をさせて頂くことに致しました。

新しい価値観を築いてゆくためには、まず、自分の中にある微かな幸せ感覚を否定しないこと。

常識や周囲の意見で魂の叫びを抑圧しないことから始めましょう。

このブログでも常識とういことはある程度は踏まえてお話していますが、時としてその常識が自分の魂を締め上げる呪縛となっていることに気づいてもらうための非・常識的なお話もしていきます。

このブログが皆様の呪縛から抜け出すキッカケとなることを願っています。


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【2012年2月度】神田明神への参拝

昨日、2月度神田明神様への月参りをご奉仕させて頂きました。

先月は、お参りが遅くなってしまったために、今月は神気極まる朔日(ついたち)の日に時間を作り、参詣させて頂いた次第です。

毎度のことながら、献灯をさせて頂きました。

賽銭箱には、皆さまからして頂いた真心からの寄付金を一部奉納させて頂きました。

義援金箱はなぜか見当たらず(撤去されたか異動された?)、仕方ないので他寺社かしかるべき場所で別途させて頂くことにしました。

今回はFGSの会メンバー向けの祈願串も奉納させて頂きました。

祈願串とは、御日供祭といって日々、神職様達がお務めをして神様をお祭りする祭事であり、神田明神では、この祭りの時に祈願串という木材に願意を書いてお焚きあげするようです。

川崎大師などで行われている密教の護摩祈願に似ていますね。

神道式の護摩祈願といったところでしょうか。

これから最低でも毎月一度、それ以外にもお参り時にはできるだけ奉納させて頂いておこうと思います。

さて、今回のお参りもしっかりとご祈願をさせて頂きました。

日本のことや世界経済のことをまずお祈りさせて頂きました。

神田明神は大手町の近くということもあり、日本の金融機関集う場所も産土神様としての守備範囲となります。

多くのビジネスマンも仕事初めにはスーツ姿でお参りにくるほどです。

まずは、金融について、経済について日本の国家、国民がもっと安らかに幸せに暮らせる状態になっていけますようにとお祈りさせて頂きました。

それから、頂いたご寄付に込められし真心を神田明神様に取次をして、それから、このブログを読んでくださっている読者の方々の幸せ、FGSの会メンバーの幸せ、今までご相談を承ってきた方々の悩みや課題を越えてゆけるようにとお祈りさせて頂きました。

また、道名授与者の天命が全うできるようにともお祈りさせて頂きました。

お参りにいくたびに願意が増えてゆくので、ご祈願時間も長くなってきます。(笑)

でも、お祈りしている間は常に神田明神に降り足る神霊達と繋がっていて霊流を受けるのでとても、心地の良い安らかな瞬間でもあります。

毎月お参りさせて頂くのは、一番には感謝の心を伝えるためですが、それ以外には私がご縁を頂いた方々には少しでも幸せな時間を持つことが叶って欲しいという願いからでもあります。

もちろん、願えばすべて叶えてくれるわけではありませんが、少しずつ、幸せ霊界を神様のお力添えで作ってゆこうとしているわけです。

小さな試みではありますが、できることからやってゆこうと決めています。

もっともっと、自分自身も精進して、より善なる影響を与える人になれればと思っています。

今は小さな存在です。ほとんど無力に近いかもしれませんが、その志は忘れずにいこうと思っています。

志という火種が消えなければきっといつの日か大きな情熱の炎となって、良き霊界は広がってゆくのではないか。

夢想しながら、神田明神での参拝を清々しく終えさえせて頂きました。

皆様におかれましても、今月も益々、発展向上の月になりますことお祈り申し上げます。


最後に神田明神様からのメッセージ


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炒った豆より花が咲く

無限の大地に根を下ろし

真白き一厘梅の花

花を開くは希望なり

希望はやがて確信となる


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炒めてしまった豆から芽がでることはありえないのですが、ここでは、ありえないことが起こることを意味しているようです。

無限の大地とは、無限の可能性を秘めた真実の世界としっかりと繋がってゆくようにということです。

そして、美しくほのかに香る梅の花のように花開く瞬間が来るけれど、そのためには、希望を持つことが必要であるということです。

最初は希望という形のないものだけれど、いずれはその希望が確信に変わる瞬間が来るということです。

ちょっと、このメッセージが現わしていることが具体的に何のことなのかはわかりませんが、簡単な解説としては以上になります。


天心 拝


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難題こそ人生の妙味

人生は順風満帆で進む時期もありますが、必ず、難題にぶつかることがあります。

人は、難題にぶつかることを壁にあたるなどと表現して、あたかも不運であるかのように嘆くことが多いように感じます。

確かに気持ち良くスイスイと進めていく道は軽やかで楽しいことかも知れません。

しかし、全く、摩擦のない人生というのは、同時にどこかさびしいものです。

美しい宝石も元々は原石があり、原石の時は光などほとんどなく美しくもなんともない状態であることが多いはずです。

多くの不純物を含み、デコボコして表面もざらざらです。

でも、山から雨で流され川に流れ勢いよく流れる水の流れに運ばれてあちこちの岩や砂などとぶつかり、段々と丸みを帯びてきます。

そして、さらに、その原石を火花を散らすようなカッターで削られて美しい宝石の形にカットされるわけです。

摩擦があり、火花の散るような研磨があればこそ、ただの石ころは宝石と呼ばれるものになるのですね。

人生に起こりうる難題とはまさに原石が宝石となるための摩擦に他なりません。

難題とは何かというと自分のレベルを越えた事象であり、自分にとって未知なることなのです。

レベルを越えているし、未知なることなので、もちろん不安はあるはずです。

どうしたらいいのかもわからないはずです。

でも、それでいいのです。

そういうどうしたらいいのかもわからないような事態こそが、自分の魂を磨くための大事な摩擦なのです。

人は摩擦を嫌がり難題を避けようとします。

もちろん、あえて難題の方に行く必要はないかもしれませんが、それでも、本来は難題とは自分に不足する要素を授かるチャンスでもあります。

優しいことばかりを求めれば、それは、楽かも知れませんが、魂が磨かれることはないのです。

そして、楽な道ばかりを選んでいるとそのうち楽な道が苦に感じるようになります。

楽が極まれば苦が待っているのですね。

逆に苦を究めれば、すなわち自分のレベルが上がり、苦は苦でなくなり楽へと転ずるわけです。

この法則を踏まえておくと、難題に遭遇した時の心構えとなるかもしれません。


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Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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