現状報告

こんにちは。


天心です。

現状を少し報告させて頂きます。

身体の痛みは現在も続いてはいますが、当初の激しい痛みはなくなりつつあります。

まだ、取次は休止した状態にありますが、しばしお待ち頂ければ幸いです。

それから私のためにお祈りして下さった方や癒しの霊法を取次して下さった方、ありがとうございます。

まだ、完全復帰ではないですが、峠をこえつつあるといった状況にあるのは、皆様のお祈りのお陰もあるかと思います。

今日は、月一の持病の検診の日でもあり、今、検診を終えて、歩きながらの携帯からのブログ更新なので詳しく報告はまた、後日できたらと思います。


天心 拝
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少しスローダウンします

こんにちは。


天心です。

いつもブログをお読み頂きましてありがとうございます。

本日はお知らせです。

先週末あたりから、少し身体の調子がおもわしくなく、現在も身体に痛みが走っている状態です。

原因は様々あるのですが、(霊的、物質的)そのような不調に負けるまいとブログ更新、取次鑑定とこなす日々を送っております。

しかし、先週末にくらべて多少は気力と気迫で不調を乗り越えている部分はあるものの、多少の無理が出てきているのか、段々とキーボードを打つことすらままならなくなりつつあります。

昨日はブログのアップを落してしまいました。

もう少し体調をリカバリーさせる必要があるかと思います。

なので、少しスローダウンさせていただきます。

その間、ブログのアップや取次鑑定、お問い合わせなどの返事などが滞ることがあります。

ただでさえ返事が遅れている方には大変申し訳なく思うのですが、ご容赦頂ければ幸いです。

また、ここ数日間で取次鑑定を行った方に対してですが、痛みに耐えながらの返信作業となっていたため、多少、生き届かない面があったやも知れません。

その場合にもご容赦、ご勘弁頂ければ幸いです。


天心 拝

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

何事もエッセンスが大事です2

前回の記事「何事もエッセンスが大事です」の続きになります。

前回は、少し老荘思想についてお話させて頂きました。

特に荘子は無為自然(むいしぜん)と呼ばれるスタンスを貫き、世間的な名誉や豊かさには線を引いたところがあります。

世間的な名誉や豊かさというものは、いつだって人間に備わる大切な本性を見失わせてしまう働きがあると考えていたようです。

老子もこの点では同様で、老子道徳経にある言葉に「大道廃れて仁義あり」という強力なメッセージを放っているところにも見受けられます。

この言葉に出てくる大道(おおいなるみち)とは、森羅万象を司る自然界の成り行きであり、人智を越えた霊妙な働きを指しています。

それから仁義とは、孔子様が説いた聖人の徳として「仁、義、礼、智、信」の中の「仁」「義」を現わしています。

難しく考えるとわかり難くなるのでここでは、「仁義」を思いやりの心とでも置き換えておきましょう。

さて老子の先の言葉はの意味を考えると、「大道が見失われて、はじめて仁義というものが生まれてしまった」と老子は主張しています。

「思いやりが大切です」という教えが「仁義」の教えだとするならば、そもそも、大道にそって人間が自然に調和しながら生きているならば、思いやりに満ちた世界になっているはずだから、その教えは不要のはずだと老子は言います。

例えば、幼稚園で子供達のグループが仲良く遊んでいる時には、「皆、仲良くしなきゃダメだよ!」とか「ケンカせずに楽しく遊ぼうね」というような忠告はそもそも不要のはずです。

子供達のグループの中で何かケンカとかトラブルがあった時にはじめて「良い子はケンカしないで仲良くしようね」と諭す必要が出てくるわけです。

これと同じように老子は孔子の説いた儒教が世間に流行すればするほど、世の中が荒れすさんでいることの証明であると主張したわけです。

老子の言いたかったことは、諸説があるかと思いますが、一つには「良い医者を見つけようとするよりも、そもそも健康の害になるような状態を作らず、根本のあるべき姿に帰れ」ということであったのではないでしょうか。

さて、このことからもわかるように老子や荘子は、どこか厭世的であり、根本回帰の発想が色濃い思想であります。

その一方で、対極にあるのが孔子様の聖人君子に至る道を説いた儒教になります。

儒教は、学問をすることを重んじて、この世の社会の在り方や人としての在り方を説いています。

先程も言いましたが、「仁、義、礼、智、信」の徳を磨くことで聖人になれると主張したわけです。

「仁」は思いやり、人としての根本的な心の在り方であり、「義」とはすべきこと、なすべきことを為すという理ですね。

義理固いなんていう言葉はここから来ています。

「礼」は礼節ですね。

人の持つ仁や義を形に現わしたものが礼であり、礼は形であり、仁義は心と言えるかもしれません。

「智」は智恵であり学問です。

正しいことを学び、賢くなることです。

「信」は信頼であり、裏切らないこと、嘘をつかないことであります。

このような徳目を掲げることで、人の心がける道を説いているのが孔子様の儒教であります。

老荘思想の立場から観るとこれらの教えは人為的なものとみなされて、大道から見れば不完全な教えであり、いつでも人を間違わせる可能性を含んでいると見ています。

平たく例えると「神様が定めた法則に比べれば、人間が考えた哲学や儀礼なんか不完全に決まっている」というような主張なのかもしれません。

しかし、孔子様からすれば、人間が集まり、社会を形成する中では、おのずと規範や倫理観を培うための教えは必要であると考えたのかもしれません。

いくら大道が根本の原則であり、森羅万象の動きを司るものであったとしても、私達が生きる社会においては、非常に次元が高すぎて抽象的すぎて従うことが難しいという考え方もできるかと思います。

老子や荘子のように卓越した感性を持つ人ならばともかく、一般の人間がその大道を理解し、その大道にそって生きるというのは、非常に難しかったりするわけです。

だから、そのガイドラインとして孔子様は五つの徳目を掲げて、社会や風俗に至るまで、具体的な方便を示してくださったのではないかとも思います。

長くなったので次回に続きます。


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何事もエッセンスが大事です

私は中学生位の時から様々な本を拝読させて頂いて生きてきました。

スピリチュアルな分野に限らず、文学や心理学、哲学、思想、時には科学的なもの、コンピュータの知識を知るためのIT関連の本、ビジネス分野、色々ありました。

とりわけ、影響を受けたのは古典と呼ばれる昔からの思想、哲学です。

中学生の頃に老子を読み、荘子のあのひょうひょうとした人生観に魅せられ、同時に人や社会規範である聖人への道を説いた孔子の教えを、弟子と孔子のやり取りで纏めた論語などからも大変学ばせて頂きました。

また、惻隠の情という言葉でも有名な孟子も孔子に思いを寄せて儒教の学びを行った人です。

孟子の書も本当に面白いです。

老子というのは天地自然の万象の動きを道(タオ)の働きと名付けて、その雄大な働きに逆らわず、人間の小さな知恵を振りかざさなければ、全ては完全なる道にいきつくはずだと考えていたようです。

老子道徳経を見る限りでも、ロジカルに物事が語られているというよりも、どこかポエムのような、心情を語る形で道について綴られているのです。

老子のポイントは人為を捨てて大道(おおいなるみち)に生きようよという主張であったのかと思います。

この点が荘子の説いている無為自然の教えにも共通するため、老子と荘子を併せて老荘思想と呼ばれたりしています。

荘子は、巧みな例え話を持って、無為自然の道を説いています。

例えば、荘子のところにある時、時の権力者である君主から宮仕えをするようにとのオファーがきたことがあります。

その当時、荘子は在野でもありましたので、形からすればとてもありがたいオファーであったことと思います。

丁度、失業中で先行き不安なところに大会社の社長からヘッドハンティングを受けたかのような僥倖であります。

しかし、荘子はこれを蹴ってしまいます。

その時に断る理由として提示した例え話があります。

それは、1000年生きながらえる亀を例にとったお話でありました。

1000年も生きる亀は当時、大層、霊妙な存在として貴重なものとして扱われていました。

神亀(じんき)と呼ばれて、朝廷内でも飼育されて、大切に大切に扱われたのです。

自然界の亀は大抵は泥の中で汚れながら生きていましたが、神亀は宮廷内の箱庭で時には装飾品を身につけさせられてまるで王族であるかのように大切にされていたのです。

しかし、その神亀は一体何のために飼われているのでしょうか。

実は、何か重大な決断が迫られる時には亀卜(きぼく)と言って、亀の甲羅を焼いて吉凶を占って決めるのが習わしです。

その占いをするために神亀は必要なのですね。

だから、その時までは大切に大切に扱われるわけです。

でも、結果的には亀卜の時には神亀は殺されてしまいます。

どんなに重宝されて大事にされても、結果的には殺されて悲惨な結末を迎える。

このことを例えにして、荘子は、このように言います。

自分が宮仕えをしたならば、確かに今よりは(いわゆる社会常識的に見た場合)豊かな生活になるかも知れない。

でも、最期はどうせ自由を失い、自分の本意に逆らい、道をも失ってしまうことになる。

私は、そんな一時的な豊かさのために道を失いたくはない、という理屈からオファーを断ってしまうのです。

荘子は、自由な本性を余すことなく発揮して生きる道に価値を置いていたようです。

私達も常識から全てを考えて、価値観を築いてしまうところがあります。

大会社に入社できれば、確かにお給料は沢山もらえるかもしれないし、世間的な風評も悪くはないでしょう。

しかし、同時に会社内の規律や社風、方針などに自分の本性と相いれないものがあったとしても、それは封殺されてしまう可能性は高いといえるのではないでしょうか。

そうとわかっていても、私達は荘子のように自分の本性と道を優先できるような選択なり決断ができるでしょうか。

なかなか難しい部分もあるかと思います。

さて、少しお話が長くなったので、このあたりで締めて、次回に続きたいと思います。


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霊界移動の基本

霊界について様々な観点からお話をしてきましたが、実に霊界というものは、広く、その種類も数多くあるもので、全てを把握しきれるものではないことも、過去記事において触れてきた事柄です。

新説・霊界ストーリーなどでもホンの一旦を明かしているに過ぎず、全てを把握するのは不可能と言わざるを得ません。

私達の生きる、いや亡くなったあとも永遠に変わらないテーマは魂の向上です。

魂の向上にも様々な定義やあり方があるわけですが、その一つとして、あるいは入口として自分の霊層を上げていくというものがあります。

霊層とは霊界の層であり、よりその霊界に順応して、その霊界から来る次元の高いものを会得できた時に霊層は上がっていくことになります。

例えば音楽で霊界を考えれば、最初はドレミファソラシドの基本音階を理解し始めるのが、最低次元の霊層となります。

それから段々とメロディーやリズムを理解しはじめると段々と霊層は高い次元に向かって向上していきます。

そして、最期はクラッシック音楽のような繊細で微妙な音律や調を理屈抜きでわかる次元に達するわけです。

このようにより抽象的でマクロ的で繊細なものを会得するようになることが霊層次元の向上になるわけです。

では、霊界移動とはどのようなことを指すのでしょうか。

霊界とは、すなわち別のいい方をすれば個性であるといえます。

音楽というものを一つの霊界としてとらえるならば、例えば経済という分野での霊界も存在しています。

音楽の霊界について極めていくことが音楽の霊層を高めることになるわけですが、経済という分野での霊界については、その霊界と感応して一から霊層向上をしていくことになります。

最初は生きていくためにどのように働いていくかという生業の道から始まり、最終的にはマクロな経済の流れを感得できるようになれば、経済の霊界にて霊層向上をしていることになるわけです。

さて、音楽と経済という例を出して説明をさせて頂きましたが、霊界にも次元の違いというものがあります。

霊層は霊界内での次元を現わしていますが、霊界にも次元の高低はあるのですね。

このあたりについてはFGSの会のメルマガで具体的なお話していますが、ブログでは別の観点でお話してみたいと思います。

先ほど、例として挙げた音楽や経済という霊界は、あくまで、非常に具体的で具象化された霊界です。

音楽といえば、音を紡ぎ楽しむ芸術です。

経済は経世済民というように人々を豊かにするための方策です。

これら霊界よりも上位の次元とは一体、どういったものなのでしょうか。

それは、一言でいえば、「真、善、美」というものを表現した霊界であります。

音楽とであるか絵画であるか文学であるかの具体的な違いは「美」という観点に集約されるはずです。

経済だったら「善」という観点に集約されます。

「真」は真実なので学問や学びに関する分野はここに集約されます。

「真、善、美」は非常に抽象的な概念でありますが、同時にそれゆえに次元が高いといえます。

具象化されていないために抽象的なわけですが、私達が現世において学問をしたり、音楽や文学を楽しんだり、経済活動を行ったりするのは、全て、この「真、善、美」を会得するためにあると言ってもよいでしょう。

だから、霊界移動をしていく際には、音楽から経済へという横の移動と、具象化された霊界から抽象化された次元への縦の移動の二種類があるということになります。

私達は魂の向上をしていくためには、横の移動と縦の移動が必要になってくるわけです。

もちろん、「真、善、美」という霊界もさらに次元が上がっていくと「調和」という名の霊界次元にいきつくことになります。

私達はどこまでも次元を登り、霊界の幅を広げてゆくことが魂の向上につながっているわけです。

私達の現世で経験する全てのことが修行であり学びであると言われているのは、このような霊界との関連性があるということを覚えておいて頂ければと思います。



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取次鑑定などについて

こんにちは!

天心です。

いつもブログをお読み頂きましてありがとうございます。

沢山の方からの御感想のメールやコメントや拍手、アメブロにおいてはペタやポケットなどあり難くおもっています。

毎日それを励みにブログを更新させて頂いております。

多くの方の優しい真心を感じれば感じるほど、私の元気も増してくるところではあります。

応援してくださる方に対しては本当に感謝の気持ちでいっぱいでございます。

さて、それに反して、大変申し訳ないことなのですが、取次鑑定の返信が昨今では大変お待たせしてしまう場合がある状況にあります。

とりわけ、完全無償の鑑定は、中々、真心が極まり難いので時間を頂いてしまっている状況です。

非常に心苦しいのですが、それなりの時間を頂いてしまいうことをご理解いただければと思います。

自動販売機で缶ジュースを買うようにお金を入れてボタンを押したらお目当ての商品が手に入るといった類のことと異なり、天機や霊的な準備が整わないとどうにもならないのが、取次鑑定でもあります。

大変お待たせしてしまっているのにも関わらず、「想っていたより早くて驚きました!」「半年待ちは覚悟していました」とのお言葉を頂いたりすることもあり、大変、恐縮することもあります。

一方で、どうしても、長い間、返事がこないと心配になってしまう方もいらっしゃるかと思いますので、一度、このような形で状況をお伝えしておこうかと思い立った次第です。

また、これは以前から申し上げていることの繰り返しになってしまうのですが、やはり、まだ完全に伝わっていないケースも多いため、もう一度、繰り返させて頂くことをご容赦頂きたいと思います。

まず、取次鑑定のお申し込みの際には、必ず条件、記載項目を確認してください。

項目が抜けていることが多いので取次鑑定ができない場合もあります。

項目が抜けているのを発見するたびに指摘するのは、私一人が全てを行っているという都合上、不可能になりつつあるので、記載に誤りがあった場合は、そのまま取次に入れずに埋もれてしまう場合があります。

ですから、中々、返事がこない場合には、いえ、そうでなくても、必ずお申し込みになる前には、今一度、入力の記載漏れがないことを確認して頂ければと思います。

それから、取次依頼の鑑定の内容においては、一通のメールに対して一件に絞って頂ければと思います。

複数の鑑定種別や複数の御相談の内容が詰め込まれているケースが散見されます。
(例えば、結婚のことと仕事の事、両方を記載されていたりするケースがあります)

申し訳ないのですが、その場合は、メールを分けて頂き、お申し込み件数も複数として扱うことになりますので、ご承知おき頂ければと思います。

また、初回無償の鑑定ですが、鑑定種別にかかわらず初回は無償となっています。

つまり、例えば、守護霊アドバイスを初回に無償で受けた場合は、天命鑑定を受けるのが初回であったとしても、初回無償の制度は適用されません。

この点の誤解が結構多いようなので、再度、お伝えさせて頂くことにしました。

本当にお待たせして申し訳ないのですが、様々な要件をこなす傍らにての取次鑑定であるので、この点、ご容赦頂ければ幸いです。

古参のブログ読者の方などは、耳にタコができるほど聴いている内容と思われてしまうかも知れませんが、ブログという媒体上、どうしても、新しくご縁を頂いた方は、よくわからないという方も多いと思いますので、古参の方もどうか、繰り返しの内容になりますが、ご容赦頂ければと思います。


天心 拝


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霊界フィルターの不思議

皆さん世の中を見てどう思われますか?

のっけから不躾な質問で恐縮ですが少し考えてみてください。

「いや~相変わらず不景気ですね」
「いつも仕事に追われて苦しいばかりです」
「悪いニュースばかりで犯罪が増えているように思います」
「世の中不公平だ~」


等ナド色々と感想があるかもしれません。

上記に上げたようなこと、似たようなことを考えた人も多いかもしれません。

説明するまでもないかも知れませんが、上記に上げたような感想は、全てネガティブなものであります。

では、世の中は本当にネガティブなことであふれているのでしょうか?

これは、必ずしもそうであるとは限りません。

「うっそだ~!絶対、世の中不公平だよ」と思う方もいるかもしれませんが、必ずしもそのような意見だけが聞こえてくるわけではないものです。

「厳しい時代だけど、チャンスもある」
「今まで当たり前と思っていたことを見直す良い時期」
「大変な時代には、良いサービスや商品、ムーブメントが起こることもある」


このようなポジティブな意見もあるわけです。

ここで不思議なのは、皆同じ現実の世界を共有しているはずなのに、皆それぞれ感じていることが異なるという点です。

「人それぞれ考えが違うのだから、別に不思議でもなんでもないのでは?」

と思う方もいるかもしれませんが、私が不思議に思うのは、なぜ、考え方が人それぞれに異なってくるのかという点にあります。

このことをスピリチュアル的な観点でみていくと霊界フィルターというものの存在が浮かび上がってきます。

霊界のお話は何度もブログ記事でお話させて頂いておりますが、霊界は多くの場合知らず知らずのうちに私達に影響を与えています。

その影響の一つとして、物事を見ていく時のフィルターの役割を果たしていることがあります。

丁度、サングラスをかけて外の景色を見てみると全てがちょっと薄暗く感じることがあります。

実際には、カラフルで色鮮やかな花が咲き誇っていたとしても、サングラスを通してみると全てがグレーに見えたりします。

私達も同じ現世という世界を共有しているはずなのですが、知らないうちに霊界のフィルターを通して、現世を見てしまっているということがいえるのではないでしょうか。

霊界が常に暗く哀しい波動に満ちていたりすれば、その影響を受けて現世の姿もまた、暗く哀しいものばかりを拾い集めて見入ってしまうことになります。

逆に常に霊界が明るさと軽やかさ、情熱に満ちているものであれば、同じ現世の状況においても、目にうつるものは輝いてみえるわけです。

自分の背後に背負っている霊界のフィルターはこのように私達の感じ方、見方、考え方にも影響を与えてしまっています。

なので、現世での自分の環境や状況を良くしたいと願う時には、霊界を浄化しなければ、いくら現世の物理的な空間を改定しても、結局は改定した現世から悲惨で哀しいものを拾い上げてしまうことになるわけです。

現世が悪い、現実の環境が悪い、不公平だ!という想いを募らせれば募らせるほど、益々、霊界は曇っていきます。

霊界転換というものを度々、ブログなどでもご紹介してきましたが、なぜ、霊界転換が必要であり、重要であるのか。

今一度、考えてみることが大切ではないでしょうか。


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先祖の縁(ゆかり)の品について

時々、ご質問を受ける内容に生前、父母や祖父母などに託されたものをどのように処分したらよいかというものがあります。

例えば、持ち家を譲り受けたり、土地を相続したり、あるいは仏壇を引き継いだりといったケースがあります。

もちろん、他にも色々あるかと思いますが、物品相続というものは、ひとえに亡き方との霊線の共有にもなります。

先祖代々から受けつがれてきた家、屋敷、土地などは、良いも悪いも先祖代々からの正負のエネルギーを受け継ぐ媒体となるのです。

なので、相続するということは、目に見えないエネルギーも引き受けるつもりでいた方がよいということでもあります。

イメージ的には、現実思考でいえば、相続すると資産も引き受けるけど、負債も引き受けるということになるのと同じですね。

さて、今回のテーマとしては、個人的に亡き人から物品などをもらいうけた場合にどうすべきかということですね。

人からのもらいものというものは、中々、手に余るもの時がありますよね。

結婚式のお祝品など使わないのだけれど、捨てるのは忍びないといったことは人情としても良くわかります。

くれた人が亡き人になってしまっていればなおさら、どうしていいのかわからない時もありますよね。

これは、まず、そのくれた人がその物品にどれだけ思いを持っていたかを見ていく必要があります。

すごく思い入れがあるものや大切なものを託してくれた場合には、それだけ強い霊線を繋げる媒体となっているので、やたらとポイっと捨ててしまうのは、まずい場合もあります。

逆にそれほど、思い入れがなく、何の気なしにくれて、くれた本人も全く忘れているようなものは、それほどの問題はないので、捨ててしまってもかまわないと思われます。

要は、その亡き人の想いの入れ具合などによって、判断していくのが良いかと思います。

さて、問題は、後者のケースではなく言わずと知れた前者のケースです。

例えば、父祖伝来の代々と受けつがれてきた伝統のある屋敷とか土地とか代々使われてきた仏壇とかその他物品は、それだけ積み重なった想いというものがありますので、やたらと雑に処分してしまうと問題になる場合があります。

なので、大事なことは、処分する前にしっかりとお断りをするということにあります。

私達は現世に生きる以上は、自分たちの生活があります。

生活していく上で様々な制約や事情を持っていますので、必ずしも亡き人の都合を優先して上げられないこともあります。

ですから、どうしても生活スペースに余力がなかったり、手放さざるを得ないケースもあるはずです。

その場合には、ご先祖様やその亡き人にしっかりとご報告をしてわかって頂く必要があります。

自分の今置かれている状況、そして、精一杯、あなたの大事だったものを守ろうとしたけれど、難しいという経緯、その結果、致し方なく処分をするけれど、どうか許して欲しいといったことをしっかりと事細やかに説明し言上申し上げることが大切です。

ご先祖様にせよ縁のある亡き人にせよもとは現世で人情にもまれて生きていた方です。

真心からしっかりと礼節を尽くして誠意を込めて申し上げればわかって頂ける場合が多いのです。

このように誠意を尽くさずに「亡くなった人のことなど知らん!」と言わんとばかりに処分してしまうと色々と問題が生じてきてしまうケースもあるということを覚えておいてほしいと思います。

これは人間同士の間柄を考えれば、当たり前のことですよね。

何の断りもなく、自分の気持ちのこもったものを打ち捨てられてしまえば、哀しくなったりするものです。

大事なことはこの人としての情をわかってあげること。

そして、誠意を尽くして申し上げるということが結果的に余計な霊的なトラブルを避ける一つのヒントになるのではないでしょうか。


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【呪縛観念シリーズ】計画という縛り

私達は常日頃から物事を推進する際に「計画を立てましょう」という考え方にかなりの重きを置いて生きているように思います。

考えてみれば子供の頃から計画的に物事を行うことは良いこととされて、計画性のないことは、いい加減と思いこまされてきたように感じます。

このようにお話すると大概の場合は、「そりゃそうだろう。無計画は無責任だろ!」という言われ方をします。

確かに計画的であることは、多くの人に対して信用性を獲得する際にも重要になってきます。

会社の社長さんが銀行に融資を頼む際にも事業計画書というものを作成して融資係の方に融資のお願いに行くわけです。

その際に「お金貸して~♪」とお願いされて「いいよ~♪」とそのまま貸付をしたら融資係としては失格です。

それどころか首が飛びますよね(苦笑)

そんな甘い話はないので、社長さんも事業計画書をしっかりと纏めて、融資をしてくれるように説得するわけです。

また、製造業などにおいても工程管理というなの計画は非常に重要なものでもあります。

工場での生産ラインでは、製造工程が取り決められているものですし、そのステップを無視しては、最終的に高品質の製品を作り上げることはできないわけです。

ここでも計画性というものは非常に重要な意味を持ちます。

「なんだ。やっぱり計画は大事じゃないか?」

そう思われたかもしれませんね。

確かに私は計画が全て不要で意味のないものだと言いたいわけではないのです。

計画は正しく活用すれば、非常にパワフルなツールとなってくれることもあります。

しかし、一方で誤った使い方をすれば、自分を縛る呪縛観念となってしまうことも知っておく必要があると思います。

では、計画が呪縛となる瞬間についてお話していきたいと思います。

もっとも計画が呪縛化しやすいのは、人生計画を立てようとした時にあるといえます。

先ほどの例としては、比較的、活用方法がしっかりと確立された計画の立て方であります。

事業計画にせよ、工程管理にせよ、ある程度、どのような計画の立て方をして活用すればよいかがハッキリとしています。

しかしながら、人生計画の方はどうでしょうか。

事業計画書のようなフォーマットが用意されているわけでもありませんし、工程管理のようにノウハウが決まっているものでもありません。

毎日何かを積み重ねていったならば、必ず、目的に達することができるという代物ではないのが人生というものです。

人生に計画が適用しずらいのは、人生をとりまく状況が常に動いているという点にあります。

例えば、大学に進学して、22歳で就職、25歳くらいで結婚して、子供は三人作ろう。老後は、長男と一緒に暮らして面倒を見てもらおう。なんていう計画を立てたとします。

大学進学までは、ある程度は見通しが立つかも知れませんが(厳密にいえばそれすらも不確定ですが)、就職だって、経済の状況や入りたかった会社が倒産したり、人員を募集しないこともありえます。

就職浪人という可能性だってあるわけです。

結婚も25歳でなく30歳過ぎてからになるかも知れませんし、独身という選択もあるでしょう。

また、望まずしてそうなるかもしれないし、途中で考えが変わってそのような選択をするかも知れません。

そうなれば、当初の計画は、全く成り立たなくなるのですね。

当たり前といえば当たり前の話なのですが、得てして計画というものに囚われるとそれがスムーズに達成できていないことに不幸を感じたり、いらだちを覚えたりすることがあります。

この感覚こそが呪縛の存在を立証しているのです。

身も蓋もない言い方になりますが、「計画」とは幻想なのです。

現実の環境も自分自身の心境も一定しないのが物事の真理です。

一定しない以上、糠(ぬか)の上に城を築こうとしている行為に過ぎないと言わざるをえないのです。

私達は得てして、計画通りに進めることが唯一の正解にたどり着く道しるべだと思ってしまいがちです。

そう思ってしまった時に「計画」は私達を縛り付けるのです。

まずは、ここに心致すことが大事であります。

さて、「計画」は幻想だと言いきってしまいましたが、では、人生において「計画」を立てることは無意味であり害にしかならないのでしょうか。

そんなことはありません。

「計画」は正しく認識し、活用することでパワフルなツールとなりえるものです。

「計画」の正しい認識とは何かといいますと、「計画とは夢を描くもの」という認識で取り組むことができるかどうかにあります。

「計画」というとどうしてもそのプロセスに目が行ってしまいがちになります。

一歩一歩、積み上げていくことで目的を達成するというイメージですね。

でも、先ほどもお話したように私達が歩む人生は常に動いています。

計画を立てる土台となる前提がいつだって崩れ去る危険をはらんでいます。

だから、プロセスにこだわってみても、そのプロセスが目的地に連れて行ってくれるとはかぎらないということです。

大事なことは、プロセスではなく目的をしっかりとそして豊かに描くことができるかという点にあります。

そして、目的自身もどんどん成長して新しいものになってもかまわないという発想を持つことです。

プロセスも一つとは限りません。

沢山の方法がある中の幾通りもの方法を自覚するために一つ一つ上げていく。

このようにすることで、より目的達成へのリアリティが増すのです。

計画とは自分が常に目的に向かって情熱を傾け続けることをサポートしてくれるツールなのですね。

だから計画なんていつだってかわっていいのです。

計画を立てる際に大切なことは、ワクワクしながらその目的を達する情熱を醸成していくことにあります。

自分の熱意を明文化するために計画は存在するのですね。

最初にお話しした社長さんが融資を受けられる時においても、事業計画書でいくら、何年後に融資に利子をつけて返済できる見通しの計画を言ってみたところで、考えてみれば本当にそうなるのかどうかは、全く未知数なはずです。

でも、その社長さんの熱意に融資係の人も感じて「本当にこの人ならばこの計画をやり遂げてくれるのではないか」と思うからこそ融資をしてくれるのではないでしょうか。

もちろん、ある程度は、筋が通っていないとダメでしょうし、担保を取られるとは思いますが、それでも最後にその計画に魂を吹き込むのはその社長さんの熱意なのではないでしょうか。

計画に囚われるのは呪縛となりますが、計画を自分の魂の輝きにできるように常にブラッシュアップしていくならば、計画も呪縛ではなく活用できるツールとなるでしょう。

そのことをわきまえて、計画を呪縛化せずに、自分の夢を実現さえるツールにしていくことが重要なことかと思います。


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守護霊とリーダーシップ

守護霊との交流はともすると受け身になりがちなところがあります。

何かと守護霊からの通信を待ちわびて、守護霊が何を考えているのかが気になってしまいます。

守護霊は導きを与えてくださいますが、それでも、本当は控え目な存在で、後方支援を行うことの方が本来の姿でもあるのです。

なので、最初は守護霊に引っ張り上げてもらう形で、自分の行く末をコントロールされることもありますが、本来は、現世に生きる人間サイドがリーダーシップを持って、守護霊を引っ張っていくくらいにならないと最終的にはダメなわけです。

もちろん、これは守護霊を使役するとかそういう意味ではありません。

時々、守護霊をペットか何かと勘違いされている方もおられるようですが、守護霊は人間に使役されるほど甘い存在ではありません。

ここで言っているのは、守護霊をバックアップ部隊として、自分自身がリーダーシップを持って活動する時に守護霊はいつだってサポートに回ってくださるということです。

仰ぎ見るだけの存在から、自分の意図する方向へ逆に守護霊をリードしていくという形での守護霊との交流があるということを覚えておいて欲しいと思います。

もちろん、そのようになるためには、自分自身の魂を磨き、霊覚、霊格も高めていく必要があります。

教養も身につけて、人としてのあり方や振る舞いも修めてゆくと、守護霊との合一も起こりますし、他の守護霊団の方々も喜んで、守護する人に従うようになるのですね。

私も時々、遠隔浄霊の時には、その分野に強い守護霊に助けてもらっています。

後、街中でふいに邪気や邪霊に急襲された時にも守護霊に頼んで祓ってもらいます。

ある程度、こちらに理と義と信念があるとこちらの言い分にも従ってくれるようになるわけです。

守護霊との交流は最初は祖父母のように甘え、段々と二人三脚のバディーの関係となり、最期は自分の志をバックアップしてくれる霊的な軍勢へと変化を及ぼします。

守護霊との交流といっても、まだまだ奥が深い部分があります。

交流するほどに魂を磨き、学び進めば、守護霊を見方につけて、自分の運命すらも切り開く力となってくれるはずです。

ここにこそ、守護霊交流の意義の一つがあるのかと思います。



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【3・11東日本大震災祈願】川崎大師にて

昨日は、東日本大震災から丁度一年の日でありました。

各地では慰霊や未曾有の震災を風化させないための活動が行われていました。

私はといいますと、昨日は川崎大師に詣で、亡くなられた方への慰霊の祈願と被災に合われて未だ、避難所生活を送る方々が一刻も早く元の生活へと回帰できるように祈念をさせて頂きました。

災害というものは、大きな痛手と悲しみをもたらしましたが、大事なのはこれからです。

人の記憶というものは、ほっておけばどんなに大きな衝撃があった出来事でも薄れていくものです。

この薄れゆく記憶というものは一つには、どんなに大きな痛手も後々まで魂の傷として引かないようにという救いの計らいでもあります。

人は忘れることによって、痛手を癒すわけです。

しかしながら、被災地の方々は未だ35万人以上の方が、避難所暮らしをして、将来の生活のめどがつかない状態であると言われています。

この方々にとっては、今回の災害が人々の記憶から薄れていくことを怖れます。

なぜならば、風化してしまうと復興への関心や問題意識までが薄れてしまい、復興が遅れる原因になってしまいかねません。

ですから、私達は震災の痛手からは復活する必要がありますが、同時に関心を失わず、風化させずに被災地が復興を遂げるまでは支援し続ける必要があるのです。

ともすると意識が薄れていくのは人間の必定であるならば、どうすればよいのか。

私自身は、常に意識し続けるために、毎回、神社仏閣を参詣する傍らには、設置されている募金箱に寄付をさせて頂くことにしています。

もちろん、これは、ご寄付を頂いた方々の分も含まれています。

なぜ、毎回、幾度にしているのかといえば、毎回毎回、募金したほうが、一回募金しておしまいというよりはより、意識が被災地の方々へ向くからです。

意識を風化させないために、私は今後も神社、仏閣に参る時には必ず募金はさせて頂こうと思っています。

さて、今回も川崎大師にて募金はさせて頂きましたが、それと震災後一年という特別な日でもあることなので、被災者の方のために護摩木も奉納させて頂きました。

負のエネルギーが今後、これ以上、悲惨な形で顕現化されないことをお祈りさせて頂きました。

昨日は粛然とした気持ちで過ごされた方も多いとは思いますが、私達は被災地の復興支援をしていくためにも、日々の生活をより一層充実させていく必要もあります。

単なる同情ではなく、問題意識を持って、私達一人ひとりが何ができるのかを考えてゆく。

このことも大事なことかとも思います。

出来ることからまずはやっていくしかありません。

痛手を乗り越えて、私も含め日本人全員が飛躍していくことができることを願います。



天心 拝


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守護霊の視点と意図

守護霊が私達の人生において魂を向上させるための導きを行うことができるのは、一つには視点の高さがあります。

私達、現世に生きる人間はどうしても現世的な制約、条件の中で物事を判断してしまう傾向があります。

魂の向上というような抽象的な目的よりも日々の生活の中での問題解決や幸せに目がいくのは、ある意味仕方がないことと思います。

誰だって、目先に起こる事柄や仕事や生活、自分自身の現在の趣味などに心は奪われてしまうものです。

そこで、守護霊の登場です。

守護霊は、ある程度は現世のことも鑑みてくださいますが、多くは高い次元の視点でものを見ていきます。

言うならば、迷路の中を壁沿いの進むのが現世の人間であるならば、守護霊は一段高い管理塔から見下ろして、俯瞰して見ている存在であるといえるでしょう。

この立ち位置の違いから守護霊の愛は、時として現世に生きる人間にはわかり難く、理解しがたく感じることがあるものです。

例えば、現世的に良いことや、自分にご利益的なメリットがあった場合には素直に守護霊からの愛を感じることができるかもしれませんが、時にあえて、千尋の谷に突き落とすがごとき導きをする場合には、守護霊は実はいじわるをしているのではないかと感じてしまうことがあるでしょう。

人間関係に苦しめられたり、貧乏を経験させられたり、すごい罵声を浴びせられるような出来事に遭遇したりとどう考えても守護霊の守護など嘘じゃないかと思えてしまうことが起こります。

そんな時に守護霊に愛を感じられなくなることがあるかも知れません。

守護霊と人間との間には理解のねじれが存在しています。

このねじれについて少し、医者と病気になった子供の関係で説明してみましょう。

通常、医者は今が何が必要かが十分に理解していますが、大人であり、専門的な医者の言葉を持って子供に伝えようとしてもそれが非常に難しい場合があります。

それではちょっとした寸劇をお楽しみください。(笑)

子供:「注射は嫌だ!痛いじゃないか」

医者:「うんうん、でもね君の病気を治療するには注射が必要なんだよ」

子供:「僕、病気じゃないもん!」

医者:「わからないかも知れないけど、悪いところがあるんだよ。早く治してあげないと大変だから」

子供:「わかんないもん!絶対、注射は嫌だ!どこも悪くないやい」

医者:「わかった、わかった。注射はしないでおくからちょっとだけ腕を見せてくれる?」

子供:「注射はしない?腕みるだけ?」

医者:「腕をみせてね」

そこで子供は腕を見せますが、その隙に医者は注射(笑)

子供:「うわーん!うそつき!、注射しないっていったのに!、痛いじゃないか!?」

医者:「ごめんね。(やれやれ、やっと注射ができた。なんとか病気の進行は抑えられそうだ)」

子供:「もう言うこと聞かない」

医者:「うん、ほんとにごめんね。もう注射はしない」

子供:「うそでしょ!またするよね」

医者:「いや、本当にもうこれで終わり。次は身体のバイ菌をきれにするお薬を飲もうか」

子供:「ケーキが食べたい。お薬はにがいから嫌」

医者:「でも、飲まないとバイ菌だらけになって大変なことになっちゃうよ」

子供:「そんなの知らない!ケーキ食べたい」

医者:「ケーキは病気がよくなったら食べようね」

子供:「ケーキがダメならチョコレートバフェがいい」

医者:「チョコレートバフェはちょっと無理だなあ。じゃあ、チョコボールで我慢してくれる?」

子供:「うん!チョコボール大好き」

医者は黒く丸いチョコボールを子供に渡しますが実は中身は薬(笑)

子供:「苦ーい!チョコじゃなーい」

医者:「ごめんね。これで元気になっていくからね。(やっと薬を飲ませられた。。少しずつだがこれで免疫力も戻るだろう。。次はリハビリの運動をさせねば。。骨が折れるがこの子のためだ。頑張らねば!)」

いかがでしょうか(笑)

医者は子供の病気を直すために色々と骨を降りますが、小さな子供には医者がやっていることは自分をだましたり、苦しめたりすることにしか感じられていないかも知れませんね。

医者は恨まれるのを承知の上ででもなんとか子供の病気を直してあげるという信念に基づいて行動しているわけです。

このことを守護霊と人間との関係に置き換えてみれば、人間が丁度、守護霊の意図を理解できずに、守護霊の愛を疑ってしまうことと同じ構造になっています。

なぜこのように愛を感じられなくなってしまうかといえば、それは、守護霊の意図を見失ってしまうからにほかなりません。

守護霊の意図とは常に魂を導くことです。

幸せを感じさせ、楽しくさせることも、ショッキングなことに遭遇させて揺さぶりをかけるのも全てはここに集約されます。

ですから、守護霊の意図は常に魂の導き、教育、そして究極的には本当の幸せとは何であるのかを気付かせるためにあることを理解していくことが、守護霊との交流には欠かせないポイントなのかも知れません。


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守護霊の影響とは

私達の人生において守護霊は様々な影響を与えています。

もちろん、主体性を重んじる守護霊ではありますから、やたらと干渉することはありませんが、魂の教育係として、天命を全うさせて、魂を向上させようと霊界にて動いておられるわけです。

どのような導きをするのかは、概ねの方針はどの守護霊も変わらないのですが、細かい詳細部分は守護霊によって異なる場合があります。

信賞必罰といった具合にはっきりと何が良くて何が悪いかを示すタイプもいれば、基本は放置しながらも、大きなところで道を外れそうになった時には軌道修正に動くというタイプもあります。

優しく優しくどこまでも、噛んで含めるような母親的な指導方法もあれば、千尋の谷に突き落として鍛えようとするやり方もあります。

守護霊の霊格に依存するので、どのような守護霊が担当するかによって、人生の味わいも変わってくるということです。

どのような導き方であったとしても、その根底には愛があり、真心があります。

さて、どのような守護霊が担当するかによって人生の味わいが変わるということは、守護霊が私達の人生に影響を与えているということになるわけですが、守護霊が変われば人生の味わいも変わるのでしょうか。

これは半分YESであり半分NOでもあります。

もともと、守護霊の影響力に関しては、卵が先か鶏が先かのような議論にも似ています。

一つの考え方としては、天命があり、自分の生きるテーマにそって守護霊団が構成されているということです。

つまり、その人が天命を全うするためにも必要となる守護ができる守護霊が担当してくれているともいえるのです。

もう一つの考え方としては、守護霊のタイプに応じて人生に影響を与えるため守護霊によって人生が変わってくるという発想があります。

これも実は、あながち間違いとはいえません。

しかし、健全な考え方としては、私個人としては前者になるのかなと思っています。

ただ、理屈上からいえば、逆もまた真なりという部分もあるわけなので、守護霊によって人生への影響が変わるということは否定はできないと思います。

実際に志を変えて、自分自身の霊格や霊覚が著しく変わるとそれに応じた守護霊に交代することはあります。

このことは以前、ブログ記事でもお話したとおりです。

自分が変われば守護霊も変わる。

では、守護霊が先に変わったらどうなるのかなということがあります。

以前、守護霊アドバイスの御相談にて、とある霊能者に守護霊を交代してもらったというお話を何度か聞いたことがあります。

私自身はそのような取次は行っていないのですが、そのような荒業を行う方も世の中にはいらっしゃるようです。

ただ、守護霊を交代させたらば、人生が良い方向に変わったというお話はまだ聞いたことがありません。

守護霊が変われば、その影響力が変わるはずなので、人生も良い方向に変わっても不思議はないはずです。

このことについて、守護霊様にちょっとお伺いを立ててみましたところ「我らにも色々と言い分もあるものぞ」とおっしゃられていました。

この言葉の真意はどういうことかといいますと、例え守護霊を無理やり交代できたとしても、その守護される当人の持つ心根と霊界が変わらなければ、交代した守護霊との霊線は疎遠になっていくということです。

例えば、お見合いを考えてみるとわかりやすいと思います。

親戚や両親などのお膳立てを受けて男性と女性のご縁を持たせるのがお見合いの意義ですよね。

そこで、一応、仲介をしてくれた親戚や両親などの顔を立てるために、結婚を前提としたお付き合いをスタートさせたとしましょう。

二人が結婚に前向きになり、お互いに良いところを見つけあい、仲を深めてゆければ、本当に結婚してベストなカップルとなることも可能かも知れません。

しかし、実はお互いにピンときていなかったり、義理や親戚、両親の面子だけでお付き合いを続けた場合、なんとなく疎遠になってしまい最後は自然消滅という形になることも珍しくはないでしょう。

これと同じように守護霊の許可を得て、守護霊を交代できたとしても、その守護される当人が自分の心根を変えたり、霊界を変えてゆこうとする努力を怠っているならば、そのうち霊線は切れてしまうことになるわけです。

なので、守護霊を交代すれば、人生が簡単に変わるというのは、幻想であるといわざるを得ないでしょう。

もちろん、守護霊が交代して、少し、人生にプラスの影響が出ている時(交代した守護霊がその気になっている時)に心根を入れ替えることに成功すれば、そのまま良い方向に人生を進めていくことは可能なのかも知れません。

いずれにしても、最期は自助努力がものをいうことは間違いないといえるでしょう。


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【呪縛観念シリーズ】統計という罠

人が何かを判断し決断をする時によりどころとなっているものに統計的なデータというものがあります。

例えば行列のできるラーメン屋さん。

沢山の人が「ここはうまい!」「チャーシューが最高!」なんていうコメントを寄せて、それを統計してテレビや雑誌で宣伝を行えば、大抵の人は「きっと美味しいのだろうな」という感想を持つはずです。

あるいは、ダイエットサプリ等で「97%の人が何らかの効果を実感!」なんて言う具合に定量的に言われると誰しも「すごいな!」と思ってしまうわけです。

だからこそ巷には統計データを基にした様々な宣伝があふれているわけです。

もちろん、事実に基ずく統計データであれば、それを参考にすることも一つの判断基準にはなりえるといえるでしょう。

実際に効果があったという報告が沢山あるならば、それは一つの根拠にもなりえるわけですね。

しかし、ここにも実は呪縛観念が潜んでいます。

そもそも、統計データをもとに物事の確からしさを判断していくのは、「帰納法」という思考法に準拠した考え方であるといえます。

帰納法とは、複数の事実を集めていき、その複数の事実から共通する真理を導きだそうとする考え方であります。

沢山の真実の中から現れる共通の真理や法則であるならば、間違いはないだろうということで、統計的に確率が高いものは真理に近いという見方もできると思います。

しかし、この考え方には一つの重要な欠落があります。

それは共通法則はあくまで原理原則であり、個人差を考慮しないという点です。

わかりやすくいえば、たとえ、100人の人間に試してみて効果があったダイエットサプリメントであったとしても、肝心の自分自身に効果があるのかどうなのかは、全く別問題ということです。

もともと、その100人というサンプリングに参加した人も、募集した条件や地域や個人的な体質などもある程度前提があり、必ず偏りがあるものです。

都心部でサンプリングした100人と地方での100人は同じではないかも知れません。

突き詰めて考えてゆくと、統計的な真実とは、あくまでも前提に基ずく真実であり、自分にとっては真実である可能性に過ぎないということがいえるでしょう。

時として私達は高確率ならば、真理に近いのではないか、失敗する可能性が低くなるのではないかと考えてしまいます。

確かにそうなるかも知れません。

しかし、必ずしもそうとはかぎらない。

それが統計の正体でもあるのです。

もちろん、統計は無意味、間違いであるなんていうつもりはありません。

一つの判断材料として参考にするのは有意義なことではあるでしょう。

ただ、世の中のものを見ているとこの統計データによって、皆が右往左往してしまっているのではないかなと思ってしまうのです。

誤解を怖れずにいえば、統計データさえ集まってしまえば、自分にとって真実かどうかは吟味されずに、そのまま真実として受け入れてしまう。

そんな土壌が世の中にはできつつあるのかなと感じるのです。

人は帰属欲求というものがあり、大多数による意見に迎合したいと思ってしまう傾向もあります。

少数派に属しているとなんだか、落ち着かなかったり、自分が間違っているのかな?と感じてしまうことがあるものです。

しかし、もう一度繰り返しますが、大多数の意見が、自分にとっての真理であるとはかぎらないのです。

ここでも主体性というキーワードが重要になってきます。

例えば大多数が会社勤めをし、大多数が結婚して、そして多くが子供を育てて、マンションや持ち家を購入し、老後は年金で暮らすというデータがあったとします。(あくまで例え話です。実際の統計データではありません)

この大多数の人生路線を外れた時に人は苦悩したり、自分が間違っているのではないかと葛藤したりする場合があります。

これこそ、呪縛観念に主体性となる自由意思を縛りあげられている瞬間でもあります。

人生は様々あってよいはずです。

何が良い人生で何に幸福を感じるのかは本来は、自分自身にかかっているはずです。

にもかかわらず、統計的な呪縛に囚われていると他の大多数と異なるという点で、自分を苦しめてしまうことになるのです。

ですから、まず、統計的大多数は自分にとっての真理とは限らないということを自覚していくことが呪縛をはずすキッカケとなってゆくことでしょう。

さて、統計的な事柄から自分の意志決定をする発想から離れたならば、今度は何に基づいて意志決定をしていくのが良いのでしょうか。

それは、自分の中からわきいずる直感に従うということです。

直感というと非常にあてずっぽう的な印象があり、統計データのように客観的な事実に基ずかないので、いい加減なものだと思われがちです。

しかしながら、直感とは、自分の魂の発露であるのです。

本当に自分がしたいこと、天命として持って生まれたテーマを生きるために何が必要なのかを教えてくれている場合も多いのです。

もちろん、ネガティブな気持になっていたり、穢れが多い時の直感は、不幸な方向へミスリードしてしまう可能性は否定しません。

しかし、だからこそ、スピリチュアルなことを学ぶ人にとっては、自分の魂を清めて、常に正しい自分の直感を見極めて、そしてゆだねていくことがもっとも自分に当てはまる真理に近づくことになるはずです。

統計という呪縛を脱して、自分の魂の声に耳を傾けて生きてゆく。

このことをお勧めしたいと思っています。



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【呪縛観念シリーズ】良い人になるな?

【呪縛観念シリーズ】第二段をはじめたいと思います。

このシリーズの大きなテーマについては、「【呪縛観念シリーズ】呪縛観念とは何か」をご参照頂ければと思います。

さて、今回の呪縛となっているものについて、「良い人にならないといけない」という思い込みについて、呪縛観念を解いていこうかと思います。

「良い人」とは善良な人のことで通常、このような人になることは推奨されることであり、タイトルにあるような「良い人になるな」なんていうことを言うとなんとも反社会的な意見のように思われてしまうかも知れませんね。

でも、誤解のなきようにお話しておきたいのは、私としては、「良い人」には二種類のパターンがあるということをまず知って頂きたいと考えています。

一つは「真の良い人」それからもう一つは、「見せかけの良い人」というのが大きく分けた場合の「良い人」の区分けになるかと思います。

今回、問題にしているのは、「見せかけの良い人」に関してです。

「見せかけの良い人」とは、一言で言うならば、主体性がなく良い人を反射的に演じてしまう人の事を指します。

どういうことかといいますと、例えば、表面的な行動を見るといつだって、人には優しく、品行方正、そしてマナーもしっかりと守るナイスな人、これが「見せかけの良い人」であるといえます。

「なんだ、結構なことじゃないか。何がいけないというのか?」

このような感想を持たれる方もいらっしゃることでしょう。

もちろん、表面的な行動を見る限りでは、とても良いことのように見えますし、実際にかかわった方も、このような人を見れば、「素敵な人だな」と感じることでしょう。

そして、本人自身も「常に善なることを心がけよう」といつも考えているので、概ね善なる心といえるでしょう。

「それなら、益々、良いことじゃないか!」

とツッコミを入れたくなるところではありますよね。

本当に「見せかけの良い人」というのは、一見してはその問題点はつまびらかにならないものなのです。

だから根が深い「呪縛観念」に気づけない場合も多いといえます。

実をいえば、「見せかけの良い人」と「真の良い人」の違いは本当にわずかな差であったりします。

しかし、その差が人生全般に大きく影響をしてくることになるのですね。

では、差とは何であるのでしょうか。

それは、先ほどの説明の中にも現れているワードとして、「主体性」ということが挙げられます。

「主体性」を持って、善行を行い、決して軸がぶれることがない人を「真の良い人」と言います。

「真の良い人」は、自分自身の行動原理の中に常に愛と真心というエネルギーが満ちています。

常に自分に正直に生きながらも、愛と真心という起点からはブレことなくしっかりと自分の行動を主体的に決めることができるのです。

そこには無理はなく自然体であり、自分の意志をねじ曲げる要素がないために、人生を歩む上でも傍から観て負担に見えるような利他の行動も全く苦にはならないのです。

なぜならば、そもそも自分の意志をねじ曲げることなく行動原理の中に愛と真心がしっかりと組み入れられているからなんですね。

ですから、善行を実践すればするほど、本人も楽しくなり、その本音の部分での楽しさが周囲の人にも伝わるため、人気も運気も上がってきたりします。

もちろん、守護霊もそんな人の守護には積極的になります。

よって、結果的に開運も早くなるのです。

一方で、「見せかけの良い人」とは、主体性がなく周囲の反応を見ながら、「こんなことをしたら嫌われるかな?」「これをしてあげたら喜んでくれたりするのかな」と行動を起こします。

一見悪くないあり方に思えますが、主体性がないため、いつだって周囲の状況や顔色、環境で自分の行動原理を変えてしまうのです。

時々、人生の方向性や指針を見失ってしまったとご相談される方も多くいらっしゃいますが、その中の要因の一つとして主体性をなくしてしまっているという要因が考えられます。

繰り返しになりますが、善行をしよう、人に対して愛を向けようというその形や心は素晴らしいことです。

しかし、その行動の起点を自分自身の主体性に基ずく行動原理によらず、周囲の反応に委ねてしまっているところが問題なのです。

主体性を失うとはすなわち船の舵を失いコントロール不能に陥ることになっていることを指しています。

なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。

それは、「良い人にならねばならぬ」という呪縛観念を持っているからにほかなりません。

これは、おそらく、幼少期、あるいはそれ以外でもいえることかも知れませんが、ある「成功体験」によって植えつけられてしまっているケースが多いように思えます。

例えば、子供の頃、非常にワンパクな行動を取ってすごく両親に怒られたとします。

なぜ怒られたのかは理解できないのですが、とりあえず、自分の思うがままにふるまうと怒られてしまう。

そして、おとなしく行儀よく、周囲に気を使い、良い人であろうとすると両親や周囲の大人たちは、「やあ、行儀のよい良い子だね」「しっかりしているね」と良い子だ良い子だと誉めてくれたりします。

意外にありがちなお話ですが、これが続くといつしか自分の中で「行儀よく良い人であれば評価してもらえる」という「成功体験」を生むことになります。

実は、これが呪縛観念の正体です。

あくまで上記は例題に過ぎませんが、「自分の意志を殺し、人の顔色を伺い、喜ばれることをすればご褒美がもらえる」というメンタリティが生まれた瞬間でもあるわけです。

しかし、実際はどうでしょう。

人生とは自分の意志を表現していく場であるともいえます。

神性の表れでもある主体性を表現していく場が現世であるともいえるのです。

しっかりとした主体性を持って生きている人の方が、はっきりいいましても形的にも内面的にもうまくいっているケースが多いといえます。

しかし、上記のような呪縛観念があるとそれができなくなってくるのです。

自分の意志で決めようとすると「そんなことをしたら良い人でなくなる」「人から嫌われてしまう」という不安が発生して、もとの主体性のない自分に戻っていってしまうことになります。

では、呪縛観念を解いてゆくためには何が必要なのでしょうか。

まず、第一に、自分が呪縛されていると認識することが必要になってきます。

「自分はこれでよい」「これが正しいのだ」と思いこみ認識を改めることをしなければ、いつまでたっても呪縛されたままになります。

私がこのようにブログ記事にしている理由は、呪縛に気づいて欲しいからでもあります。

ですから、もし、心当たりがある場合には、自分にとって「良い人」とは何であるのかをもう一度見直して見て頂きたいと思います。

自分の行動原理があり、常に愛と真心に矛盾がない主体性とともにある善行であるならば、素晴らしい人生が待っていることでしょう。

しかし、もし、どこか反応を見てうまく立ち回っているだけなのではないかなと気づいたならば、一度、自分に言い聞かせてみてください。

「良い人になるな!自分の本当にしたいことは何であるのか」と問いかけてみてください。

「良い人にならなければならない」という呪縛が少しずつ解けてくることと思います。


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【2012年3月度】神田明神への参拝

昨日は3月朔日ということもあり、神田明神の月参りをご奉仕させて頂きました。

毎月毎月、記事として神田明神の参拝報告をしているので、もう年中行事となっていることはご存知の方も多いかと思います。

参拝の主旨は、日頃からの報恩感謝、ご寄付を頂いた中から一部のお玉串奉納、献灯(けんとう ※提灯をお供えすること)、東日本大震災の義援金箱への募金、願い串の奉納などをさせて頂いています。

また、鑑定取次をした方の幸福祈願、ご寄付者の真心の取次、追い風祈願、また、金融や経済関係に深いかかわりのある土地に鎮座されていますので、事業者やビジネスなど、日本経済に関わる方々も元気になって頂くべくご祈願をさせて頂きました。

これも毎回お話していることですが、他の神社、仏閣でも詣でた時には同じようにさせて頂いています。

その中で、代表して神田明神での参拝だけは毎月、報告させて頂いている次第です。

さて、今回も清々しい参拝をさせて頂きましたが、特に今月は久しぶりの参拝でしたので、改めて神田明神様の素晴らし神気に触れる有難さを実感させて頂きました。

先月はあまり月参り以降は、参詣できなかったのでなおさらその感を強く覚えたのであります。

先月は日枝神社への参拝回数が多かったのですが、個人的には神田明神様が一番フィットするように思います。

おそらく一番お世話になっているからかと思いますが、今後も大事にしていきたいと思います。


天心 拝


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【呪縛観念シリーズ】呪縛観念とは何か

文字色多かれ少なかれ人は【呪縛観念(じゅばくかんねん)】を抱えて生きています。

のっけから、ちょっとオドロオドロシイ感じのする表現を使い恐縮ですが、どうしてもこの【呪縛観念】についてお話していかないと問題の解決にたどり着けないことが多いので、今回は新たなシリーズとしてお話をしていきたいと思います。

そもそも【呪縛観念】とはなんぞやということになりますが、まず【呪縛】から考えてみましょう。

【呪縛】とは【呪い】という言葉と【縛る】という言葉で構成されています。

【呪い】というのは、なんだか恐ろしげに聞こえるかもしれませんが、ここでは「ある種の意図」を実現させる働きかけであると定義致します。

働きかけといってもそれは「意識的」なものと「無意識的」なものがあります。

「意識的」なものは、いわゆる呪詛(じゅそ)などを行い、人をあるいは物事を意図にしたがわせようとすることを言います。

「無意識的」なものとは、文字通り、呪詛を行うなどの意識的行為をせずに知らぬ間に【呪い】を実行に移してしまっていることにあります。

この【呪縛観念シリーズ】では主には「無意識的」なものに焦点を当てていくつもりです。

さて【呪い】がある種の意図であるとするならば【縛る】は文字通り、【呪い】によって縛りあげて動けなくさせてしまうことを意味しています。

つまり【呪縛】とは【呪い】による意図によって【縛る】ことをいうわけです。

さて、次は【観念】についてです。

【観念】は、心の中にあるものの見方の偏りや形を意味しています。

偏りというと悪いことのように思えるかも知れませんが、心の中にある偏りや形というものは、ある意味私達が日常生活を送る上で、あるいは社会的な活動をしていく上で必要である場合があります。

どのようなものが必要な【観念】であるといえるかというと一番わかりやすのは社会常識などがあります。

私達は日々の生活を送る上で様々な人との交流や集団行動を行う必要があります。

その中では、常識やマナーといったある程度のお約束(観念)があるわけです。

ここを逸脱してしまうと秩序は崩壊し、皆、安心して暮らし難くなってしまいます。

だから、【観念】とは、私達に秩序をもたらせてくれるものでもあるわけです。

しかし、一方では、【観念】は私達の自由な魂の活動を阻害する要因にもなります。

例えば、偉大な芸術を生み出すためには、常識的でさえあればよいというわけではありません。

いつだって新しい息吹は、常識を越えたところから発想されることが多いわけです。

芸術化が只管、常識を追求しないとダメなんだ!と思いこんでしまっていたとすればそれは、本人にとってマイナスになる可能性があるわけです。

このようにマイナスに向かわせる作用を持つ【観念】を【呪縛観念】と呼びます。

【呪縛観念】はわかりやすいものから、知らず知らずに潜んでいるものまで多岐にわたって存在しています。

その中で、今後、多くのケースで見られるような【呪縛観念】についてお話していけたらと思っています。

そして、ブログを読んで頂くことで【呪縛】から解放される方がおられますことを願って取り組んでいきたいと思います。


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Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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