誰もが信仰心を持っている

誰もが信仰心をもって生きています。

このようにいえば、「私は宗教なんか信じません」「信仰とか抹香臭い話は嫌いです」なんていう返事が返ってくることもあるかも知れませんね。

比較的、このブログをお読みいただいている方は、おそらく、スピリチュアルや目に見えざる理屈や現実思考では測れない世界については、理解を示されている方が多いのかと思います。

ところが一方では、まったく、そういった目に見えざるものやスピリチュアルや霊界、守護霊なんていうものは絶対に認めないというような考え方を持つ人もいることも事実です。

そのようにスピリチュアル的なことの否定派の人からすれば、信仰心などもってはいないと言い返したくもなるかと思います。

しかし、それでも、私は、人は誰もが信仰心をもって生きていると確信しています。

私がここで言っている信仰心とは、特定の宗教やあるいはスピリチュアル的な目に見えざる存在を信じる信じないといったことを指してはいません。

信仰心とはすなわち「よりどころとなるものを心に持つ」という意味で捉えていただければと思います。

私は、自分自身のよって立つ軸をスピリチュアルや守護霊、霊界というものに置いて日々を生きています。

だからこそ、ブログの中ではそういった観点のお話をさせていただいているわけです。

では、そういった事柄を否定して生きている人は信仰心がないというとそうではないはずです。

必ずよりどころとなるものは心に存在しているはずです。

たとえば科学というものがあります。

「スピリチュアルとか守護霊とか見えないし触れないし、不確かなものは信じない!でも科学には根拠があるから信じる」

このように主張する方もいらっしゃることと思います。

確かに科学とは検証し論理で証明し、真理に近づく学問ではあります。

非常に繊細で情緒的、かつ抽象的な存在である霊界や守護霊やスピリチュアルを信じるよりも科学の方が確実であると感じるのもわかる気がいたします。

しかし、本当に科学は確かなのか?と突き詰めていくと非常に怪しくなって参ります。

「いやいや、科学的に解明されたことは間違いない事実でしょ?」

という意見もあるかも知れません。

でも、そうとばかりは言えないのではないかなと思ったりもします。

なぜなら、科学とはまずは、仮説から入るものだからです。

仮説とは、「〇〇なんじゃないかな?」という不確かなものをあえて真実として仮定するものであります。

そして、仮説が本当であるのか証明するために実験したり検証したりするわけですね。

検証の結果、真実であるとされたものは、真理として学会に発表されたり、その真理を活用して、日常生活に生かされる道具が開発されたりするわけです。

「ほら!やっぱり科学は確かなものではないか!?」

とたたみかけられてしまいそうですが、問題はこれからです。

科学というものは、常に進歩向上しています。

一度、確かであると認定された科学的真理もしばらくすると別の説が表れて、否定されてしまうことがあるのです。

たとえば、ダーウィンの進化論というものがあります。

学校の理科の教科書で出てくるくらいなので誰もが知っている科学的理論の一つでもあります。

平たく言えば、猿から人へと進化したという説ですね。

この進化論は、有力な進化説でったために、私達は半ば真理として受け止めてきたところもあります。

だからこそ教科書にも載っているわけです。

しかし、このダーウィンの進化論は、昨今では誤りであるという説が有力だそうです。

理由としては、猿から人に進化したならば、猿から人に進化する途上の中間的な存在の生物の遺骨なり何かしらの遺物が出てきてもおかしくないはずなのに未だに発見されていないからということがあるようです。

この理由を受けて「いや、猿から人へは、徐々に進化していったのではなく、突然変異が起きたんだ!」という主張をして、やっぱり進化論は正しいとする声もあるようです。

しかしながら、この理論も欠落している点があります。

それは、突然の変異で猿が人になるのであれば、現在、上野の動物園の猿山にいる猿もいつかは突然変異して人間に進化する可能性を示唆しています。

では、はたしてそういう事例は過去にあったのでしょうか。

確認はされていません。

よって、突然変異説も仮説としてはありですが、真理とするには不十分だといえるでしょう。

どうでしょうか。

私は子供のころ、ダーウィンの進化論を聞かされた時は、そんなもんかな?と普通に信じていました。

猿と人間は動物的に近い生き物ですから、そのような進化が起こっても不思議ではないと思ったからです。

しかし、仮説としてはともかく、真実とは言い切れないことは明白なのです。

このように私達が普段、科学的根拠として正しいと信じているものも実は、不確実な要素を含む不完全な仮説にすぎない場合が多いということです。

なぜならば、立証されたと想っても、必ず他の諸説が表れては、否定されてしまう可能性があるからです。

もちろん、科学が不確かなものであったとしても、私達は科学の、あるいは科学的技術の恩恵にあずかって暮らしています。

大切なことはこの点にあります。

この世に完全なことはありません。

いくら論理的な思考で正しさを導きだせたとしても、どれだけ実証を繰り返したとしても、何かしらの事実が判明したり、新たな仮説の検証途上で覆る可能性はあるのです。

それでも、科学をよりどころとして生きていくのは、一つの信仰心であるといえるのではないでしょうか。

スピリチュアルや霊界を信じなくとも科学であれば信じるという一つの信仰心の表れではないかと思うのです。

とても面白いことなのですが、スピリチュアルは信じないけど、それを心理学に置き換えたり、脳科学で説明されると信じるという人もいます。

不思議なことですが、これも信仰心がなせる技なのではないかと思います。

論理と現実思考重視情緒と感性の霊界思考重視かの違いだけかと感じます。

いずれにせよよりどころは、人それぞれ違います。

共通していえるのは、何かしらのよりどころとなる信仰心が私達には必要だといえるのではないでしょうか。

私は、このブログを通して、スピリチュアルや守護霊、霊界というメタファーを通して、一つのよりどころを提供していきたいと思います。

そして、このよりどころが一人でも多くの人の幸せと魂の向上につながることを願っています。


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先祖浄霊に関すること

お盆の時期ということもあり、先祖浄霊についてのお問い合わせも多くなることが予想されますので、改めて記事を起こしてみたいと思います。

まず、参考になりそうなバックナンバー記事のリンクを紹介しておこうと思います。


お盆の供養についてのお話は以下の記事でお話しています。

◎お盆の先祖浄霊
◎お盆の時期ですね


また、具体的な先祖供養に関してのお話は以下の記事になるかと思います。

◎観音様による先祖供養
◎先祖供養の基本
◎先祖供養のご質問


そもそも、なんで先祖供養が必要なの?先祖供養の意味についてはこちらをお読みください。

◎ご先祖様の浄化の意義
◎先祖と子孫は二人三脚



以上が代表的な記事となります。

遠隔浄霊にての先祖浄霊をお申込みの際は、「遠隔浄霊について」のページを一読し、基本的な浄霊の意義を理解した上で、必要項目を記入していただくことになります。

その際に、最後の気になる点の項目のところに、「先祖浄霊」と記載して、母方と父方の姓と結婚して姓が変わった方はその変更後の姓も記載していただけれるとなお良いと思います。


以上、先祖浄霊に関することのまとめ記事でした。


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エッセンシャルガイドについて

先日、発表した「守護霊が導く!スピリチュアル世界」のブログ濃縮版であるエッセンシャルガイドですが、ウェブサイト上に公開して自由にダウンロードできるようにいたしました。

現在は、メールを送っていただかなくても、誰でも無償で手に入れることができるようにいたしました。

エッセンシャルガイドについて詳しくは、「【小冊子第一段完成!】エッセンシャルガイド」の記事をお読みいただければと思います。


☆ダウンロードしたい方は以下のリンクをクリックしてみてください。

「守護霊が導く!スピリチュアル世界~エッセンシャルガイド~」



この小冊子はPDF電子ファイルとなっています。

アクロバットリーダー(無償ソフト)がインストールされているパソコンなどで開くことができます。
携帯およびスマートフォンで可能かどうかは確認していません。(機種によっては開けるものもあるかもしれませんがわかりません)

なお、ダウンロードの手順は、①上記のリンクをクリックしてPDFファイルを開く、②正常に開かれたことを確認したら、インターネットブラウザの「メニュー(F)」項目のファイルを選択して「名前をつけて保存」を選択して保存。

以上を行うとPDFファイルをパソコンに保存することができます。(パソコンよりインターネットエクスプローラのみで確認済み)



当初は本当に興味があり、純粋な気持ちで読みたいと真に想う人にだけ公開したいと考えていたのですが、入門レベルの内容ということもあり、誰でも気軽に取得できるようにした方がよいのではないかと思い立ち、ウェブ上にあげることにいたしました。

一応、お知らせまで。


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魂の旅路(過去世編)

再生をすることで再び現世に舞い戻った魂は人間としての生を新しく歩み始めます。

どんな霊界からこようと、どんな過去世を背負っていようと、現世は新しく始めることができるのです。

ただし、生まれ落ちる家系や両親、環境は、今生のテーマである天命や再生して落としきれなかった穢れを祓うという目的を鑑みて、決まってくるものです。

なので、誰もが新たなスタートを切るといっても、その前提となる状況や環境は異なります。

五体満足で生まれる人もいれば、そうでない人もいます。

病気がちだったり、不自由な部分を背負ったりする場合もあります。

肉体は健康でも、家が貧乏で苦労するとか、親からの愛情が注がれなかったり、あるいは虐待を受けたりするような悲惨なことも起こったりしますよね。

とても、悲しいことではあるのですが、それも現世の意義を再生して穢れを落とすためと考えると、意味があったりする場合もあるのです。

もちろん、だからといって、そういった不幸を肯定したり、穢れがあるからしょうがないと諦めるのが良いと言っているわけではありません。

ここで言いたいのは、必ず起こったことには原因が存在し、創意工夫、試行錯誤、なかなか完全には回避できない不遇な状況も、その不遇な状況を改善していく努力をしていくことが、魂の向上につながっていくわけです。

たとえば、健康でない人がいるからこそ、愛を持ってその人の健康をなんとか取り戻させる方法を考えて、努力するプロセスの中で魂の向上を果たす人がいます。

健康がひどく損なわれて、苦しくてしょうがない時には、どうしても、わが身の運命を呪いたくなってしまうこともあるかも知れません。

しかし、自らの穢れを祓う代償ということだけでなく、そのありようが人の慈悲の心や愛の気持ちを触発していく糧になっている場合もあるのです。

虐待を受ければ、確かに悲惨なことですが、悲惨なことが起こることで、そのようなことは断じてなくしていくべきだというムーブメントが起こるのです。

個人の感情だけで理解しようとすると自分がおかれた環境や状況というものを理解できなくなってしまいます。

私達、人間がなぜ一人ではなく、多人数となり個々に枝分かれして存在しているのかといえば、様々な役割を演じることでお互いを鏡として、真実を垣間見るためでもあるのです。

なので、病気であっても、健康であっても、愛情が注がれていても、そうでなくても、本来は目指しているところは一緒なのです。

「でも、病気がちな人から見れば健康な人がうらやましい。同じ役割ならば、健康でお金持ちで愛情いっぱいに育てられる役割がいい」

多分こう思う方もいるでしょうね。

おっしゃる通りですね。

でも、ここが実に面白いといいますか、霊界のフェアな働きなところで、過去世をさかのぼると大抵は偏りなく、役割を演じていることが多いといえることです。

つまり、今生、不健康な人も、過去世をさかのぼると筋骨たくましく、ものすごい体力のあった時代もあったりするのです。

愛情を受けていた過去世があっても、そのことに慣れてしまい、自分自身が愛情とは何かがわからなくなり、人に対して我儘放題にふるまい、沢山の穢れを背負い、結果的に今生では虐待をされるなんていうこともあるわけです。

もちろん、生まれた時の環境や状況は本当に人によって細かくわかれるものなので、一概に、こういう理由でそうんなっているなんていうことは定義はできません。

また、生まれた時に状況や環境を現世での再生の人生で跳ね返していく人もいるわけです。

なので、単純に生まれた時の状況や自分の環境があまり芳しくない状態であったとしても、自分は穢れがあるからとか、再生してやり直しているなんて卑屈になる必要はありません。

大切なことは、苦境や逆境にあってもめげずに、どんな役割があったとしても、それにとらわれすぎずにどこまで魂を向上させていくことに身を投じていくことで、結果的に穢れも一生を通じてなくなっていくはずですし、現世の環境もあるいは背後に背負っている霊界も変わっていくことになるのです。


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必ず良くなる

人間の人生の営みは不思議なもので幸多きことばかりではないけれど、不遇ばかりでもないようにできています。

幸と不遇の循環は、人によってサイクルやパターンは異なるようですが、どちらか一方ということはないのです。

しかし、どうしても不遇の時期が長引くと人は不安を増大させてしまいます。

不安を増大させることが、焦りを呼び、霊波動を狂わせ、新たな負のエネルギーを作り出すので、余計に不遇な時期を長引かせる悪循環を生んでしまっているわけです。

それでも、正負のエネルギーは循環を行っているので、どんなに不遇で不幸に感じる時期があっても、必ず良くなるタイミングが訪れるものです。

そもそも負のエネルギーは悪なのかというとそうとばかりはいえません。

人間は、不調になるから自分を振り返り反省したり、何か間違っていることがあるのかな?と謙虚になることができるのです。

いつも絶好調であったならば、何も振り返らないし、何も変えてみようとは思わないのです。

だからこそ、結果的に試行錯誤をやめた人間は成長や進化をやめて退化、退歩していきます。

たとえば、長きにわたり商売繁盛している老舗なども、単なる伝統を守って同じことを繰り返しているわけではなく、伝統を継承しつつも、時代の動きや人の心の在り方の変化などをよく研究しています。

単に今まで通りのことしかしていないお店は、そうそうにつぶれてしまっていることも多いのではないでしょうか。

なぜ、変化に柔軟に対応できるのかと考えるとやはり、不遇の時期をどう受け止めるかによるのかなと思います。

好調の時は調子にのり、不遇になったら状況に負けてしまうのは、正負のエネルギーの変遷の原理を理解していないからなのかも知れません。

つまり好調は無条件に続くわけではなく、不遇も永遠に続くわけではないということです。

このことがわかっていれば、不遇であっても必要以上になげくことはなくなるはずです。

必ず良くなる時が来る。

このように思えれば、自然と不遇の時期はどうすごすべきかがわかってきます。

不遇の時期を季節にたとえるならば冬の時期であるといえます。

冬は作物も実らず寒くて凍えそうな辛い時期でもあります。

だから、努力しても結果はついて来ずらい時期でもあります。

でも、単なる辛い季節ではありません。

しっかりと春の季節を迎えるために正のエネルギーを蓄え、負のエネルギーを決済するタイミングでもあるのです。

冬は本当はとても、素晴らしい季節なんですね。

不遇の時期というのは、一番、正のエネルギーをためやすく、負のエネルギーを決済することができるボーナスシーズンでもあるのです。

何しろ結果がでないということは、正のエネルギーは消費されず、不遇な分だけ負のエネルギーは減るわけですから。

こう考えると今、辛い状態にある方は、どうすべきかわかると想います。

辛さに負けず、より正のエネルギーを蓄えるために勇気を持ってどんどんと自分以外の人のもっと大きな社会のためにという志を持って、いつでも自分が羽ばたけるように準備をしていく、学んでいくのが良いわけです。

しかし、実際には、逆のことをしてしまう方が多いのも事実です。

「こんなに辛いのだから他人のことなど考えてられない」

「辛いから何もせずにじっとしとこう」


どうしても、消極的で自分のことに意識を向けてしまいがちになります。

でも、冬の後は間違いなく春が来るものです。

春が来た時に何の準備もできていないと、花も咲かず、実もならないのです。

このことを理解して、冬の時期を乗り越えて、素晴らしい春を迎えられる方が増えることを願っています。

必ず良くなる。


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夜眠る前の守護霊による浄化

寝苦しく辛い夜を経験したことは誰しも一度くらいはあるかと思います。

なんだか眼が冴えて眠れない状態が続き、翌朝はだるさで身体が重いなんていうことはよくある話ではないでしょうか。

私は寝付きはかなり良い方だと思っていますが、それでも時として、眠れない夜を過ごすことがあります。

こんな時は、守護霊にお願いすると一発で眠りの世界に入ることができることが多いです。

といっても別に「守護霊様。眠れますように」とお祈りしているわけではありません。

眠れない夜を単なる辛い時間とするのではなく、スピリチュアルな世界との交流の時間とするのですね。

昼間は気ぜわしく、雑事に忙殺されている日々を送る方も多いと思いますが、夜の眠りの前の時間は、誰でも静かな独りの時間を得られる瞬間でもあります。

私は、一通り、一日あったことや疑問に思ったことなどを静かに守護霊とまずは語らいます。

そして、最後にこのようにお祈りして目を閉じることにしています。

「守護霊様。本日もお導きありがとうございます。願わくば、本日に身にまとった罪穢れを祓うために禊の霊界へとお導きください。そして、明日は穢れなき魂で清々しき朝を迎えることができますよう。お導き感謝いたします」


このような感じでお祈りしていると段々と霊界への扉が開いてきます。

様々なビジョンを見たり、どんどんと霊的な世界に引き込まれていくわけです。

守護霊がアテンドしてくれるわけなので、基本的にはおかしな霊界に入ることはありません。

新説・霊界ストーリーなどももとは、眠れぬ夜にこのような形ではじまった霊感旅行に端を発しています。

霊感旅行がはじまりしばらくすると、そのまま眠りの世界へと落ちてしまっています。

朝起きる頃には身体の重さはなくすっきりとしていることが多いのです。

これは守護霊が寝ている間に霊波動を癒すための霊界に導いてくれているからなんですね。

霊感旅行はできなくても、守護霊にお祈りしておくことで、知らない間に眠りに就くことはできますし、朝のすっきり感は爽快でもあります。

眠れぬ夜は守護霊との対話の時間として活用されてはいかがでしょうか。


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魂の旅路(再生編)

霊界での修行の傍らどうしても霊界での修行では、穢れを落とせない霊的向上がこれ以上、無理という場合があります。

霊界は現世のように次元の高いもの低いもの玉石混交で凝結された世界ではないため、どうしても似たもの同士の摩擦の少ない世界となっています。

現世にいた時のように自分と合わない場所という感覚がない薄い代わりに、新しい気づきや学びを得にくいという側面があります。

いうなればずっと自分の現在のレベルにあった霊波長からのフィードバックを受け続ける世界でもあるため、なかなか自分という枠組みから抜け出るのは難しかったりするわけです。

そこで、もう一度、現世にてやり直す「再生」が行われることがあるわけです。

生まれ変わりという言葉がありますが、生まれ変わりにもいろいろありまして、新たな使命と課題を持って、新しい御魂の意志の表現を行うために生まれる場合は、「転生」と言います。

「再生」の場合は、穢れを払い落しすることがメインになるため、現世での人生も多少、難儀の多い旅路を歩くことが多いようです。

あえて、気づきを得やすくするため、あるいは真実とは何か、苦しみの意味は何?と真理に目を向けやすくさせるために試練ともとれる困難多き運命の流れになることがあるわけです。

もちろん、「再生」であっても、めいっぱい志を高く、目標を掲げて努力をする人生を歩むことで、難儀の人生を跳ね返し、穢れを決算して、輝かしい人生を歩む人もいます。

かならずしも「再生」であるから、難儀な人生を余儀なくされるというわけではないのですね。

ただ、人生の大きな方向性といいますか、大きな視点で見たときの課題が、やり残し宿題をかたずけることなのか、新しい課題なのかの違いがあるだけです。

もっとも、「再生」であり「転生」でもあるという両方の意味あいを持って生まれることも多かったりするので、あまり厳密に区分けする意味はないのかも知れません。

なので、生まれ変わりを表現するのに「再生転生を繰り返し・・」なんていう言い方をする場合がほとんどです。

さて、私達は再生して現世に舞い戻ってくると表面的な記憶はなくなってしまいます。

新たな荒魂をいただき、肉体が形成されます。

それから新しい霊体として和魂も授かります。

意識も記憶も新しく刷新されますが、奇魂と幸魂はそのまま継承されて再生の準備が整います。

奇魂には、その人の本質・性質、そして過去世の記憶が刻まれています。

正確にいえば、過去世が生じる原因となった霊界(あるいは和魂)とつながりを持っています。

再生された直後はまっさらな穢れのない霊体とみずみずしい肉体を持っています。

その中には魂(奇魂、幸魂)が宿り、人としての人生が始まります。

現世においては、まっさらなスタートではありますが、実際には、過去世で培った穢れのついた和魂が(霊界には)残っていますので、そこからのフィードバックを受けることになるわけです。

ちなみに過去世の内容も和魂に記録されていますので、守護霊や専門の神霊を通して奇魂にアクセスして実際には過去世とつながる和魂とアクセスすることで過去世がわかるという仕組みになっています。

話は少しそれますが、前世霊や過去世霊というのも霊界には存在しています。

不思議な感じがするかも知れませんが、過去世の自分の霊が霊界にはいたりするんですよね。

はっきりいって、このように分析していくと霊界はほんとに複雑怪奇な世界だなと想います。

過去世一つとっても一般に語られたり、理解されているほど単純じゃなかったりもします。

生まれ変わりというと単純に一個の単体がぐるぐると現世⇒霊界⇒現世を繰り返しているイメージがあるのですが、実際には生まれ変わるのは魂であって、霊体ではないのです。

なので、過去世がどうであれ、今生は今生として別の人間としての新たなスタートを切ることができるわけですし、むしろ、そうあるべきだといえるでしょう。

ただし、過去世と今生の自分との霊的つながりはあるということだけは知っておくとよいかも知れません。



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パワーストーンと龍玉

パワーストーンについて、以前、少しだけ触れたことがあります。

パワーストーンはブレスレットなどにするとアクセサリー的にも使えるということで、とりわけ女性にも人気のあるアイテムでもあるようですね。

私も時々、パワーストーンについて聞かれることがあるのですが、その方面の専門家というわけでもなく、世の中には、専門書なども出ていたりするものなので、そちらの方を参照してみるのをお勧めしています。

ただ、専門書には載っていないようなスピリチュアル的な視点、霊界や神霊とのつながりということで御話してみることは、少しは参考になることもあるかなと思い拙いながらも発表させていただいております。

さて、いろんな種類のあるパワーストーンではありますが、種類や効験ということであれば、専門書などを見ればわかることなのですが、同じ種類にもそれぞれに個性があるということになると専門書では追いついてないのかなという思いがいたします。

俗にいう相性という意味では、わりとパワーストーンをテーマに記事を書いてるブログなどを閲覧していると様々な意見が拝聴できて興味深いかなとも思います。

今回、お話しようと想うのは龍玉(りゅうぎょく)についてです。

「りゅうぎょく?なにそれ?」

というリアクションは想定内です。(笑)

ここでいう龍玉とは、パワーストーンに自然龍の分魂が入り込んで非常に強い力を発揮する状態になっているものを指します。

同じ、パワーストーンでも龍神が宿るとパワーアップするわけですね。

見た目ではわからないので、判別は難しいのですが、何万個に一個か、はたまた何十万個に一個かはわかりませんが、そういう特別なパワーストーンがあるということです。

このことを知っておくとパワーストーンを購入する際にはちょっとした福引感覚で楽しめるのではないかなと思います。(笑)

まるで、一等賞の金色の玉を当てるようなものですよね。

でも、判別できないと選べないと想うので、ある程度の参考として龍玉にあたる確立が高くなる基準を紹介してみたいと思います。


1.なるべく人工的な加工がされていない

大抵のパワーストーンは業者が加工してしまったりするので、人為的な念が龍玉を通常のパワーストーンに変えてしまっている場合が多いのですね。

2.天然状態で完成度の高い円形を保っている

加工せずに自然な形で丸みを帯びたパワーストーンは龍神の宿りやすい石であるといえますね。

3.ひときわ、強い気を放っている

これに関しては多少の気感や霊的感性がないと分かりにくかも知れませんが、手をかざしたり持ってみたりして、他の同じ種類の石よりも力強さを感じるものは、龍玉である可能性が高いといえます。


まあ、あくまで参考程度のざっくりとした判別基準ですが、ものは試しに購入する際は気をつけてみると良いかも知れません。


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魂の旅路(霊界帰幽編)

魂が現世での一生の旅路を終えて、霊界に帰幽してくると、現世で培ってしまった濁りや歪み、ねじれといったものを抱えた和魂(にぎみたま)が霊体を形づくることになります。

濁りや歪み、ねじれというのは、その言葉尻はなんだか、汚らしい、美しくない響きを持っていますが、実際には、偏りや個性、特徴というものが固定的になり、柔軟性を失った状態を指しています。

あくまで、神界の視点で見た場合においての濁りであり、歪みであり、ねじれであります。

現世や霊界では個性として受け止められていることでもあり、必ずしも私達、現実に生きる人間の価値尺度では測れない部分もあることは、ご承知置き頂ければと思います。

さて、人間は、霊界に戻るとこの濁りや歪みやねじれを洗い流す禊の修行が始まります。

ゆくべき霊界というのは、その人の心根が作り出した霊界になるわけですが、ここで霊界共有の原則により、自分の持っている霊界と同じ霊波長をもつ霊界に籍を置くことになります。

霊界は大きな霊界ほど強い霊波動を持ち、霊波動が弱い小さな霊界は、大きな霊界にひかれていくことになります。

自分の持つ霊界にもっとも近い大きな霊波動を持つ霊界にひかれていくことになるため、その霊界に籍を置くことになります。

これを霊籍といいます。

霊籍は実は生きている間にも私達人間は知らず知らずのうちに入っているものなのですが、亡くなった後には、ある程度、固定化されてきます。

霊籍を置く霊界のコミュニティに属して、そこでの霊界生活が始まるわけですね。

霊界の生活のありようは、少しだけ「新説・霊界ストーリー」でご紹介させていただいておりますが、霊界によって様々な活動をされています。

その霊界の持つ個性はそのまま、その人の持つ霊的な特徴でもあり、癖でもあります。

濁りや歪み、ねじれの部分がそのまま個性として霊界に表れているわけですね。

なので、濁りや歪み、ねじれを正すということは、霊界が変わるということでもあり、新しい霊界へと移動していくことでもあるわけです。

あるいは、少しずつ、濁りや歪み、ねじれが緩和されていくと霊層が高まっていくことになり、その霊界での純度が上がることになります。

これが霊界での修行であり、学びでもあるわけです。

魂の歪みをとっていくための霊界での修行はいろいろとあります。

次回は、霊界生活と霊界での修行や学びについて触れていきたいと思います。


・・・続く


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九州・東海の大雨被災者救済の祈願のお礼

こんにちは。

天心です。

先日、不躾にもブログ記事「【救済の祈願】皆様へのお願い(九州・東海地方の大雨)」にてお願いした「九州・東海地方の大雨被災者救済の祈願」をしていただけた方に対しましてお礼申し上げます。

アメブロではコメント、メッセージなどでわざわざ参加意志を表明していただいた方もいらっしゃいました。

今回は、とりまとめは行わないといたしておりましたが、それでも、やむにやまれぬ気持ちをコメントやメッセージという形で残してくださった方の真心はしっかりと受け止めて取次をさせていただきました。

まだまだ、天候不順なところもありますが、現在の天気予報を確認するかぎりでは、少しずつ天候は回復に向かっているのかとも思います。

ただ、やはり突然の天候が変わるなどの突発的な事象はいつでもありえるでしょうから、九州・東海の方も、それ以外での地域の方もくれぐれも気をつけていただければと思います。

また、実際には行方不明者やお亡くなりになった方、合わせて30名にも上ると聞き及んでおります。

行方不明の方は、いち早く発見されて救済されますことを引き続きお祈りいたします。

お亡くなりになった方は、とても残念で悲しく思いますが、ご冥福をお祈りさせていただきます。

被災状況を聞くと暗い気持ちになってしまいますが、不幸中の幸いともいえる記事を発見しましたので、ご紹介しておきたいと思います。

★72歳、濁流に耐えた4時間 電柱が命綱 福岡・柳川
http://www.asahi.com/national/update/0714/SEB201207140077.html


危ない状況であっても、皆さんひとりひとりの愛と真心の祈りが、奇跡を起こす一つの原動力になったことを確信しています。

私は、前年の台風救済祈願の時も、今回の歴史的な大雨救済祈願においても、スピリチュアル的なイデオロギーでこのような呼びかけをしているわけではありませんでした。

「このような災害には何か意味があるのではないか」

というご感想を持った方もいらっしゃるようでありましたし、人によって災害に対するとらえ方は様々にあるようではあります。

しかし、私は、単純に苦しんでいる、命の危機にひんしている人がいるならば、その方がどうか救われますようにという思いを持っているだけに過ぎません。

この災害がどういう意味を持つのか、スピリチュアル的にどうかということは、イデオロギーとしては、人それぞれに解釈があっても良いと想う一方で、一番、基本となる人としての愛と真心を忘れてしまっては意味がないのではないかとも思うのです。

ですから、今後もこのような祈願をお願いをすることがあるやも知れませんが、どうかイデオロギーや主義、思想を越えて、人の心に基本的に備わる仁義や愛、慈悲の心でもって受け止めていただければ幸いです。

私自身、何か特定の思想やイデオロギーを押し付けようというつもりは毛頭ないことを、ここに表明しておきたいと思います。

今回、ご参加いただけた方にあらためてお礼申し上げる次第であります。



天心 拝


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【救済の祈願】皆様へのお願い(九州・東海地方の大雨)

おはようございます。


天心です。

朝早くから申し訳ありませんが、できうるならばご祈願のお願いをしたいと思いまして、ブログ記事をアップさせていただいております。

★九州や東海中心に大雨警戒
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/typhoons/?1342102426



ニュース記事にもあるようにここ最近、九州を中心に歴史的にも類をみない大雨が発生しております。

すでに死者や行方不明者も出ている事態になっている模様であります。

私もこれより、この大雨がこれ以上、人的、物的な被害が拡散せずに、この大雨で傷ついたり、命を奪われたり、生活基盤である生業に多大な悪影響があり、人の人生が揺るいだりしないように微力ながらお祈りしたいと思っています。

前年の9月にも歴史的大きさの台風によりダム決壊の危機がありました。
(「【救済の祈願】皆様へのお願い」をご参照いただければと思います)

これも最後にはなんとか沈静化することができました。

今回も微弱であっても多くの方が真心をこめてお祈りすれば、被害は少しずつ軽減していくと信じる次第です。

不躾にこのようなお願いをブログ上でお願いするのも気の引けるところではありますが、ご協力いただける方がいらっしゃれば、幸いです。

なお、お祈りの方法は、各自、実行できる場所でお祈りを実践して頂ければ大丈夫です。


また、お祈りの方法を簡単にご紹介しておきたいと思います。


☆「九州・東海地方を中心とした歴史的大雨による被災者救済、被災最小化のお祈り」


1.天照大神(あまてらすおおみかみ)

「伊勢神宮にます天照大神様。日の元津国の民の苦しみを和らげ、一切の因業を痛み少なく、苦しみ少なく、祓い清め頂きしてありがとうございます。」


2.被災にあわれた方、被災可能性のある方の守護霊

「こたびの歴史的大雨にて被災されし人、または、被災可能性のある方の守護霊様。何とぞ守護を強め、被災されし人はこれ以上に痛みや苦しみを享受することなく救済助力をお願いいたします。また、被災可能性を最小限にして頂き、今後一切の被災なきように導きたまえ」

3.八大龍王(はちだいりゅうおう)

「八大龍王様。風雨、豪雨による禊による人的、物的被害を最小限度に抑えて頂きましてありがとうございます。また、こたび被害となった人、物を悉く、救い導いて頂きますことを感謝いたします。こい願わくば、これ以上の歴史的大雨による被害は発生しないようにお働きを出来うる限り、人的、物的被害のない形にして頂けますようひらにお願い申し上げます」

※今回は参加意志表明のメール送付は割愛したいと思います。本当は、一人一人のご意志を私が受け止めて、まとめて神仏への取次強化を行う方法が有効なのですが、現在は緊急性が高く、そのメールをとりまとめたりする時間を割くよりもお祈りに向かう意識を高めた方がよいという守護霊からのお諭しもありましたので、そのようにいたしたいと思います。



不躾なお願いをブログでしていることご容赦頂ければ幸いです。



天心 拝


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魂の旅路(誕生編)

人の魂は生まれ変わり死に変わり、旅を続けていきます。

始まりは元津御魂(もとつみたま)といい、直霊(なおびのみたま)という中心的な魂の統合作用を持つ一番大切な意志を持っています。

直霊を智慧や理性、霊的感性によって支えるのは奇魂(くしみたま)、愛を持って、育み成長し、エネルギーを注ぎ感情を持つのは、幸魂(さちみたま)の働きです。

この元津御魂が霊界次元へと降り下る際に付与された個性、他の存在と共鳴し、協調し、相和する働き、霊界そのものの働きを個々の存在として分け与えられたのが和魂(にぎみたま)となり、霊肉を凝結し、物質次元までおろしたものが荒魂(あらみたま)となります。

ひとりの人間の誕生であり、現世に生じた一つの現象であり、メタファーであり、表現された姿でもあります。

産み落とされた直後は、まっさらな和魂、荒魂には、何の記憶もなく、新しい人間としての一生がスタートします。

元津御魂の意志は荒魂、和魂の奥深くに眠り、未熟な荒魂、和魂が育つのを待っています。

力弱い、赤子が童となり、少年となり青年となるまでに人生を通しての様々な経験を通して、身体も心も成長していくわけです。

元津御魂の意志通りに荒魂、和魂が育まれれば、人間は立派な霊格霊覚を持つ存在へと成長します。

しかし、人生はそう単純ではありません。

様々な遭遇する苦境やら誘惑、誤った考え、元津御魂の意志とは関係のないものとの因縁というしがらみを持ってしまうことで、荒魂も和魂も曇り、霊界も曇り、元津御魂の意志もわからなくなるほどに歪んでしまうこともあるのです。

一体何のために生まれてきたのか、何をしたかったのかはわからなくなり、ただ刹那的な享楽にふけってみたり、完全に迷走を初めてしまうこともあります。

そうやって人生をただ送るうちに現世は仮の世だといことを忘れてしまいます。

自分自身の本性が神界から生まれ落ちた元津御魂だということを忘れてしまうのです。

そして、仮の世で身に付けた様々な穢れや汚れ、歪みによって生じた「自分」という名の幻想をかたくなに本当の自分だと思い込むようになるのです。

この仮の自分を大事に大事に守ろうとして、人生はクライマックスを迎えます。

すなわち死という名の現世との別れです。

人は仮の世で信じ込んでしまった「自分」という幻想が失われることに恐怖し、うろたえる人もあります。

それほどまでに、現世で固まってしまった「自分」という名の幻想は強烈なものだといえるでしょう。

死により、荒魂は失われ一部は土へと帰ります。

和魂は、霊界へと旅立ちます。

奇魂と幸魂は、神界へと戻るのです。

本来は和魂は昇華されてなくなり、元津御魂の姿に戻るはずなのですが、そう簡単にはいかないのが現実です。

和魂は霊体そのものとなり、霊界での修行がはじまります。

本来の元津御魂に戻るのが、修行の眼目です。

穢れを祓い、歪みを正し、元ある姿へと戻っていく。

魂の旅路はまだはじまったばかり。


・・・続く


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邪気は邪気を呼ぶ

火事も小さなボヤのうちに消し止めれば、ほとんど被害にあわないように、問題というものは小さなうちから摘まんでおくことが大きな問題になり大きな苦悩を抱えることを未然に防いでくれます。

大きな火災を鎮火するのは、命がけの作業になりますが、小さな火種をもみ消すのは、意外と簡単なわけですね。

なので、私たちが人生において、なるべく険難なことを避けたいと思うならば、小さな問題というものの本質を理解し、その小さな問題がどのような発展を遂げる可能性があるのかを洞察して、小さなうちに解決してしまうことが大事なわけです。

人というのは、目前に脅威が迫れば、はじめてあわてて何とかしようと対策を講じようとします。

しかし、その時には結構な問題にまで発展を遂げているため、対策を打っても効果が薄い場合が多いのです。

そのように考えると今現在が平穏な時にいろいろと小さな問題に対して対策を練っておくことが重要になってきます。

さて、小さな問題ということでいえば、日ごろから受けている邪気などにも同じことがいえるのかも知れません。

小さな邪気は、受けたところで大した影響を与えてはきませんんが、積もり積もると大きな影響に発展する可能性があります。

邪気は邪気を呼ぶという法則があります。

たとえば、よく路上で止めてはいけない場所に自転車などが止めてあることがありますが、そういった自転車のかごを見ると時々ゴミ箱のように紙くずやら空き缶やらが放り込まれている光景があります。

自転車のかごはもちろん、ゴミ箱ではありません。

誰が考えたってそれはわかるはずなのですが、なぜか、ゴミ箱になり下がってしまっているケースがあります。

これはまず、そもそも、路上で止めてはいけない場所に自転車を止めるというモラルに反することが起こっていることに端を発しています。

ほんの一瞬だけとめて、すぐに退散するのであれば、それほど問題視されることはないのかも知れませんが、時々、確信犯的に長期にわたり自転車が放置されることがあります。

おそらく、止めている人は、ルールなんて知ったことではないと思っていたか、あるいは、自分の都合だけを考えていて自転車を止めているのかも知れません。

そんなエゴには、邪気が付きまといます。

その邪気が自転車を通して滞留することになり、邪気紊乱の自転車にはそれなりの邪気を持ったものが集まってくるわけです。

ゴミ箱ではないことは一目瞭然の自転車のかごにゴミを入れる行為も邪気ならば、入れているゴミそのものも邪気が滞留しています。

そして、その自転車の周りには邪気だらけとなり、一種近寄りがたい大きな邪気を感じるブラックゾーンとなってしまうわけですね。

はじめから自転車が止められなければ、あるいは、自転車を止めた人が悔い改めて移動させていれば、そんなことにはならなかったわけですね。

同じように人間にも滞留した邪気は存在しています。

時々、大きくならないように小さなうちに邪気を禊祓いしておくことが重要だということです。

今は邪気を感じていなくとも、あるいは小さな邪気であったとしても、邪気は邪気を呼びます。

なので、あまり存在を感じなくても時々、気分をリフレッシュしたり、神社でお祓いをしてもらったり、邪気払いになることを定期的に行ったほうが良いのかなと思います。

私も最近、自分自身の禊祓いを怠っていたためにいろいろと難儀した経緯があります。

本来は邪気にもあまり意識を向けずに、明るく前向きに現在のなすべきことに注力したほうが良いわけなんですが、何事もバランスなのかなと思います。

神経質になりすぎるのはよくないのですが、時々は邪気祓いも行って心身ともにリフレッシュした方が良い場合もあるということは、お話しておければと思います。


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浅草寺にてほうずき市

昨日は、ほうずき市にてにぎわう浅草寺にて、ご参拝に言って参りました。

お盆も近づいてきていますので、一度、聖観音様にご挨拶とご先祖様の救済のお願いに参上しておくべきだろうと思い、急遽、参詣を実施した次第です。

もちろん、聖観音様に対しては、私自身の祈願の目的ではなく、FGSの会メンバーに対する祈願やいつも取次鑑定時にご寄付をしていただいている中から一部奉納して、真心を取次させて神仏に届けるためでもあります。

今回は、護摩木も奉納させていただき、蝋燭も献上させていただきました。

ほうずき市で普段に加えて、にぎわう仲見世通りを通りぬけてようやく、本堂にたどり着くも、かなりの人出でなかなか大変な参詣でもありました。(汗)

このほうずき市の日には、4万6千日間毎日、参拝したのと同じくらいの功徳が授かるといわれています。

つまり、ものすごい浅草寺の霊力もパワーアップしている時期であるということですね。

実際に、御開帳の時期は、仏界が開くという感じでありましたが、このほうずき市の日は、パワフルという感じで、いつもより多めに回っております(笑)ではありませんが、いつも以上に観音パワーも強力に発揮されているのを感じました。

降りてきている観世音菩薩様も普段よりも大きく、また何柱も大きなご神霊が降りているのがわかります。

ご神霊がおっしゃられるには、ほうずき市でなぜ、ほうずきが売られているのかというと実は霊的にはほうずきは大変めでたいお花であるからのようです。

ほうずきの中には丸い玉の実があるわけなんですが、これが霊法の玉を象徴しているとか。

どこかで耳にした説には「法を好きになる」からほうずきが売れられていて、4万6千日間お参りするほど仏法が好きになることは、大変な功徳だからということを聞いたことがあります。

法が好きになるから「ほうずき」なんだとか。

なるほどと思いましたが、神霊が言うには、そんなダジャレのようなことではなく、観音様が霊法の玉を授け、道に迷わず、魂向上のための基本を授けるという意味があるのだそうです。

なので、浅草寺で、ほうずきを買って、観音様にお祈りすると、ほうずきを通して霊法の玉が授かるらしいのですね。

ほうずきの中の玉を通して、功徳を授けてくださっているわけですね。

ありがたいことです。


最後に浅草寺にてのメッセージをご紹介します。


-------------------

玉授け

魂栄たる人となる

物おじせず向かえば

開くなり

-------------------


浅草寺にて観音様にお祈りすれば、いつだって霊法の玉は授けますよ。

その霊法の玉を駆使して魂を向上させることができる人となってくださいね。

あまり考えすぎず、素直な気持ちで祈り向き合ってくれれば、いつでも浅草寺にある神霊界の扉は開くものだよ。

とこんな感じの意味になるかと思います。



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はじめてしまうこと

やりたいこと、あるいは、やるべきことが、なかなか前に進まないという経験を持つ人は結構いらっしゃるのではないかと思います。

やりたいことは沢山あるのに振り返ってみても実践していることは、ほとんどない。

あるいは、やらないとダメなことなんだけど、つい後回しにしてしまう。

このように大抵、物事を成し遂げることができない大きな要因として、実践に移す行動力のなさがあることは、改めて言わなくても同意を得られることかなと思います。

もちろん、やったけどダメだったというケースもあるとは思いますが、以外と実践に移さずに結局何もせずにアイデアはアイデアのままで終わることが多いのが現実ではないでしょうか。

どんなに素晴らしいアイデアも実践行動に移されなければ、顕現化して現世に形となって表現されることはありません。

「そんなことは、わかっている!」という声が返ってきそうですが、わかっていても、行動には移せないのが人の情というものかも知れません。

なぜ、行動に移せないのかといえば、その一つの原因は、考えすぎてしまうことにあると思います。

その行動をするにあたり、何が必要なのか、自分にできるのか?あるいはちゃんと予想通りの結果が得られるのか。

考えることは沢山ありますし、もちろん、ある程度の目算は立てておくべきではあるでしょう。

けれど、考えすぎると、人はそれだけでも気を消耗してしまうため、行動力は激減します。

過ぎたるはなお及ばざるがごとしですね。

物事を成し遂げる簡単な方程式は実践×リトライ回数÷創意工夫=結果になります。

わかりやすくいえば、何回も挑戦してみること。

その中で見えてきた真理をもとに工夫をしてさらに新たな方法で実践をして、またリトライを繰り返すこと。

これ以外に単純な方程式はありません。

つまり、創意工夫の分母を増やし、そのうえでのリトライ回数を増やしていくわけですね。

大きくなればなるほど、理想の結果に近付くことになります。

しかし、現実には、創意工夫も実践に移せないと生まれてきません

リトライも最初の一歩がなければ、リトライしようがありません。

リトライ回数と創意工夫を増やすためには、なるべく軽快に実践に移せる状態にある必要があるわけです。

では、どうしたら実践に手早く移すことができるかということになるわけですが、それは、「はじめてしまうこと」であるといえます。

「いやいや、そのはじめてしまうことができないのですよ」

という意見もあるかも知れませんが、いきなり難しいことを始める必要はありません。

たとえば、私の場合でお話をさせていただきますが、ブログを書こうと思い立ったら、まずブログを立ち上げてしまうということです。

何を書こうとか、いきなり綿密なことを考えず、ともかく立ち上げてしまうのです。

もっといえば、思い立った瞬間にPCの電源をつけてしまうというのも良いですね。

後、私は、FGSの会というのを運営していますが、会報メルマガを書く際も、最初は会報メルマガの内容が全然まとまっていなくとも、何をどうしたらよいのかもわかっていなくとも、まずは、タイトルをつけて原稿となる電子ファイルを作ってしまっています。

もちろん、中身は何も書かれていません。(笑)

それでもよいのです。

はじめてしまうことで、物事は動き始めます。

霊界も動き始めます。

こんなことしたって意味がないと想わずに今できることをはじめてしまうことが重要です。

はじめてしまうことで、全てが動き始めてくるわけですね。

難しく考えると「意義のあることをしたい」という思いが強くなり、その思いは足取りを重くさせる枷となります。

そして、考えるほどに気を消耗して、結局何も動かないで終わってしまうことになります。

ともかくはじめてしまうことが、全てを動かしていくカギでもあります。

一度、試してみることをお勧めします。


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一生懸命

一生懸命


一生懸命な人を見たら応援したくなる


それは魂が輝いている瞬間だから


どんなに言葉が巧みな人も


どんなに才能がある人も


どんなにお金を持っている人も


どんなに素晴らしい経歴に彩られた人生を送った人も


今、一生懸命に生きる人には叶わない


饒舌な言葉も、賢しらな理屈も、魂の声なき声にはかなわない


いかなる才能も、人の心を動かす魂の発露にはかなわない


どれだか豊かな財産も、人の心からの応援の代償にはならない


きらめく過去の実績も、今ある情熱からの実行の前にはなんの意味ももたない


一生懸命


一生懸命に生きる


とても簡単なことだけど


難しく考えるとできなくなってしまう


一生懸命に生きるためには


言葉も、理屈も、才能も、お金も、過去の華々しい経歴も


何もいらない


何もいらないのだから


ぐずぐずいわず


さあ、はじめてしまおう


一生懸命な人生を


前途はいつだって輝いています


一生懸命に勝る


魂の輝きに勝る


人生のだいご味など


どこにもないのだから


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葛藤は人の証

突然ですが、これから皆さんに問題を提示してみたいと思います。

問題に答える際に一つ注意点があります。

それは、できるだけ仮定の話だと思わずに実際に自分に突き付けられた現実だと思って考えてみてほしいと思います。


では、問題に入っていきたいと思います。

あなたは、海難救助隊として活動する隊員であります。

ある日、海上保安庁に要救助の信号が送られてきました。

あなたは、即座に現場に向かい救助に当たりますが、自体は深刻でありました。

二つの船が同時に座礁し沈みかけていて、どちらもわずかな時間で沈んでしまうため、両方を救助することができません。

一方の船は比較的大きな船で乗客、クルー合わせて10人が乗っています。

もう一方の船は小型のボートで一人の人間が乗っています。

さらに現場に到着しわかった事実として、そのボートに乗っているのは、あなたの友人でした。

そういえば、最近、小型ボートの免許を取ったとかで、近々海に一人でクルージングしてみるとか言っていたのを思い出します。

あなたは両方の船に乗る人を助けたいと思っていますが、どのような方法を持ってしても両方を救助すること難しいことは明らかです。



そこで考えてほしいのですが、あなたならばどうしますか?ということです。

一応、三つの選択肢を用意したいと思います。


1.10人が乗り込む大きな船を救助して小型のボートの方を見捨てる

2.友人の乗る小型ボートを救助して大きな船を見捨てる

3.両方を救うおうとして、結局は両方の船を沈没させてしまう


どうでしょう?しっかりと考えてみてください。


・・・・

・・・・・

・・・・・・

さて、答えはでましたでしょうか。

「さっさと正解をいえ!」という声が聞こえてきそうなので、話を先に進めます。

この問題の答えに正解はありません。

・・なんて言った瞬間にブーイングや空き缶やら石つぶてを投げ付けられそうな感じですね(汗)

「なんじゃそりゃ!?」
「それじゃ問題として意味がないだろう!」


と怒られてしまいそうですが、この問題はどれが正解かということは問題ではないのです。

問題なのは、あなたがどれだけ時間をかけて葛藤し選択をすることができたかということが大事なポイントであります。

一つ一つの選択子を見ながら、少しお話をさせていただきたいと思います。

まず、第一番目の選択子です。

おそらく、この選択子は一番、選んだ方が多いのではないかと思います。

そして、選んだ方の考えはおそらくこのような発想だったのかと推察します。

「1人を救うよりも10人を救った方がより多くの命が救われるから良い」

おそらく、この考え方を公然と非難できる人は少ないと思います。

私自身もこの選択子は間違いだとは思いません。

ただ、この選択子を選ぶ際にあなたはどのくらい葛藤しましたか?

あっさりとこの選択子を選んだとしたら、少し考えてほしいと思います。

確かに大きな船を救助すれば多くの人が助かるのは事実です。

数字上でいえば、10人よりも1人は少なく弱い数字です。

しかし、本当に10人の命よりも1人の命は軽いのでしょうか?

あっさりと10人を救う方を選んでしまえるとしたら、このことを少し考えてみてほしいと思います。

命というものは単純に数字上のことで軽重を決められるものではありません。

このことを理解できていたら、あっさりと1番目の選択をできるはずはありません。

この葛藤するということが大事なんですね。

なんでも理屈で割り切って、なんでも数字上で決めてしまう癖がついていると、人間らしさを忘れてしまうこともあるのです。

では、2番目の答えを見てみましょう。

小型船の救助を優先し、1人の命を救うという選択です。

自分の大切な友人ですから、見ず知らずの他人よりも感情がこもるのは当然です。

人は近しいひとほど感情がこもり、距離のある人に対してはどうしてもドライになるものです。

だから、必ずしも2番目の選択子は間違いであるとは思えません。

しかし、これも1番目と同様で即座にこの2番目を選んでしまったとしたら考えてみてほしいです。

自分の感情だけを優先する行為というものは、自分の感情を越えて公や周囲の社会への調和という点で少しエゴイスティックであると言わざるを得ないでしょう。

自分の友人は確かに大事です。

でも、同じくらいに他人にも大きな命があります。

他人にも大切な人がいるはずです。

このことを慮れば、簡単には2番目を選ぶことはできないはずなのですね。

他人の命の重さを理解し、公然においては自分の行為の非難を受け入れる覚悟を持ってそれでも、2番目を選ぶならばこれもまた正解だといえることもできます。

最後は三番目の選択子です。

これは無茶を承知で両方を救おうとする選択でありますが、どう考えても無理を通す選択であるので結末は最悪の状態を迎えるリスクを負います。

それでもこの3番目を選ぶためには、大きな覚悟とリスクを背負うことができる人だけです。

これも、単なる一時のヒューマニズムだけであっさり選択してしまったのであれば、考える必要があります。

物事にはリスクが伴い、その結果を受け入れられる覚悟がある人だけが実行に移すべきです。

ですから、ここでも葛藤が生まれるはずです。

絶対に全ての人を助けるんだという信念から3番目を選択するのであれば、これもまた正解だといえます。


以上、3つの選択子を見てきましたが、いずれも正解だともいえますが、問題はどれだけ葛藤し、考え、そのことに向き合うことができるのか。

理屈で割り切り、無難に乗り切ることばかりを考えていると、葛藤することを避け、考えることを嫌がるようになります。

この世の中にある決断や選択に本当は正解なんてありません。

あると思い込んでいるのは誰かが決めた、もっともらしい理屈を単に信じ込み葛藤することを放棄したことにより生まれた幻想です。

考え抜き、葛藤し、悩み抜いた先にある選択だけが、本当の意味での正解なのですね。

葛藤することが人としての証であり、魂の向上もこれなくしてはないのかもしれません。

そして、自らの中に解を得たときに人の葛藤は消えて、大楽の境地に至るのかも知れません。


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【2012年7月度】神田明神への参拝

本日は、午前中に時間ができたので空き時間を利用して神田明神7月度の月参りに行ってまいりました。

毎月、ご寄付の一部を玉串として奉納し、献灯を行い、祈願串なども書いて奉納しています。

また、取次をした人やブログ読者、FGSの会メンバー、道名授与者、などの関連した人達の追い風が吹くように祈願をしています。

神田明神以外でも参拝している神社仏閣はありますが、その都度、玉串やお賽銭を奉納して祈願をさせていただいています。

神社を代表して、神田明神だけは、報告を込めて記事としてアップしているわけです。

本日は、お日柄もよく、気持ち良く参拝できました。

何度言っても、神気の漲る神域に感動してしまいます。

いろんな神社に行っていますが、都内ではなかなか良い神域が見つかりません。

どうしても都心の気が神域を曇らせてしまっている場所が多いのですね。

いろいろと良い神域がないか探っているのですがなかなか難しいのが現状です。

もし、素晴らしい神域をご存知という方があれば、ご紹介していただけたらうれしいですね。

私も良い神域を見つけた場合には、ご紹介していけたらと思います。


さて、今月のメッセージをご紹介したいと思います。


------------------

えいや、そいや

掛け声響く祭のにぎわい

活気とは言霊にいろめく

しょんぼりうつむき加減ではならぬぞ

これからが正念場なり

------------------



天心 拝


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魔境から抜ける

仏教の宗派の中でも曹洞宗臨済宗などは、禅宗と呼ばれて、見性成仏して悟りを開くことを目指しています。

禅といいますと、一般的には、座禅といって座って瞑想するようなイメージがありますよね。

只管打座(しかんたざ)といって、ひたすら座禅を組み続ける修行方法をとるのが曹洞宗の特徴であり(といってももちろん作務などの修行はありますが)、道元禅師の教えがもとになっていますね。

座禅のことを黙照禅(もくしょうぜん)と言ったりします。

黙って座るという方式ですね。

それに対して臨済宗は看話禅(かんなぜん)であるのが特徴です。

看話禅は、公案と呼ばれる問答を通して、見性成仏にいたる修行をします。

臨済宗は臨済禅師が宗祖とされていますが、中国の方であり、日本人の中では中興の祖と呼ばれている白隠禅師が有名ですね。

さて、修行方法は異なり様々に良さのある禅宗ではありますが、今回はとりわけ座禅における魔境において少しお話してみたいと思います。

座禅のお話なんて別に禅僧でもないし、出家するつもりもないから関係ないと思われるかもしれませんが、実は大いに関係あるので、しばし、お付き合いいただければと思います。

禅においては、見性成仏に至るのが目的であるとお話しましたが、見性成仏とは、自分の中にある仏様としての性質を垣間見ることを指しています。

本来の自分の仏性を垣間見ることで、自分の真の姿に立ち返ろうというわけです。

そのために座禅修行などがあるわけですね。

では、座禅さえしていれば見性成仏にいたれるかというとそう甘くはないのです。

座禅に只管打ちこみ心の中にある煩悩や雑念を払うわけですが、時として、仏様が現れたり、ご先祖様が現れたりしていろんなことを言ってくる場合があったりします。

思わず素晴らしい体験をしたと思い、あたかも自分が見性成仏できたと思いこんでしまうこともあるようです。

しかし、禅宗では、これを魔境と呼んで退けます。

禅の書をひも解けば、「仏に会えば仏を切り、祖先に会えば祖先を切る」といった言葉に出くわします。

これはどういう意味なのでしょうか。

普通は仏様は大事にすべきところですが、切ってしまえと言っています。(汗)

祖先も本来は、感謝して敬うべきところですが、これも切ってしまえと言っています(汗)

なんだかとんでもないことを禅は教えているように思えてきてしまいそうです。

でも、これには理由があります。

本当の意味で見性成仏に至っていない僧侶は得てして、その手前にある魔境にからめとられて、本当の悟りを得られないまま、まやかしの世界にとらわれてしまうことが多いのです。

だからこそ、たとえ仏様に座禅中に会えたとしても、それで満足したり、悟ったと思いこんだりしてはならないことを教えているわけです。

尊敬すべき祖先が表れたとしても、不退転の覚悟でさらに修行を進めていくことが必要なわけです。

スピリチュアルな世界においても、霊が見えるとか感じるとか、あるいは霊能が開けたということで満足して何かを得た気になってしまうケースがありますが、それは禅宗からいわせれば魔境なわけです。

そこからさらに人としての努力をして、社会性を培い、現世で表現する技能を身につけ、さらに霊格や霊覚を磨き向上していくことを忘れてしまえば、魔境に陥ってしまうわけですね。

魔境から抜け出るには、常に真心を持って魂を向上させていくしかありません。

そのためには、もっと深く学んでいくことを続けていく他はないのではないでしょうか。

私たちの生活の中にも魔境は潜んでいます。

お金さえ得られればよい、生活さえ安定したらいい、学んだり努力するのはめんどくさい。

こう思いながらその日暮らしのまま、安楽を求めていくといつしか魔境に入り真実に目を向ける気持ちもなくなってきてしまいます。

魔境から抜け出るには現状に胡坐をかかずに進歩向上の心を忘れないことが大事なのかも知れません。


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先祖供養のご質問

先祖供養に関するご質問を頂きました。


【ご質問】


供養方法について、質問させていただきたいことがあります。
お供え物の供物は、供養が終了したのち、食べてもよいのでしょうか?
それとも食べずに処分した方がよいのでしょうか?

また
「祖先たち、○○が霊界にて少しでも修行して霊層向上ができますことように導きください。」
こちらを述べる際の○○は、特定の亡くなった先祖の名前を入れるのでしょうか。


【回答】

お供え物の供物は、お供えして30分から1時間程度したら食べてもかまいません。

その時は、ご先祖様や供養されている霊人とともに食事をしていると思って食べるとよいでしょう。

逆にお供え物を備えっぱなしで、腐らせたり、カビが生えたりしているのに放置するのは良くありません。

なので、お供えは適度に時間を区切り、ある程度、ご先祖様が食べ終わるであろう時間(30分から1時間)が終わったら、下げてもかまわないです。


>「祖先たち、○○が霊界にて少しでも修行して霊層向上ができますことように導きください。」
>こちらを述べる際の○○は、特定の亡くなった先祖の名前を入れるのでしょうか。



特定の方の先祖供養をされる場合(たとえば命日の供養などの場合)は個人名を入れます。
戒名がある人は、戒名を唱えてもよいですが、親しみやすく生前のお名前で呼ぶ方が気持ちがこもるならば、そうした方が良いでしょう。

特定でない供養の場合は、たとえば「○○家の先祖代々の御魂たち」と家系名(苗字)+先祖代々とすれば大丈夫です。

家系というものはいろいろと派生したり、婚姻などで関係する家系が広がっていくことが多いですから、どこまで入れるべきかという疑問が浮かんでくるかと思いますが、基本は、仏壇に祀られている位牌や過去帳にある家系を参考にすればよいと思いますが、わからない場合は、まず、父方と母方の2家系、結婚して姓が変わった場合は、籍を入れた婚姻関係にある方の父方、母方の2家系くらいをベースに供養を考えると良いと思います。

何か事情があって、どこまでもさかのぼって供養をしたいという場合を除いては、この4家系が基本になるかと思います。

以上、何か参考になれば幸いです。


天心 拝


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Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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