FGSの会からのお知らせ

こんにちは。


天心です。

リニューアルしたFGS会報メルマガESSの創刊号をメンバーの皆様にはご送付させていただきました。

その際、メールエラーが発生しておりまして、一部送付に障害が起こった可能性があります。

メンバーの方で、メルマガが届いていないという方は、お知らせいただければと思います。


天心 拝


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【公開質疑応答】理不尽な状況に対する神仏(守護霊様)の関わりについて

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、はぐまろ様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


近頃、いじめが原因の自殺が散見されます。

守護霊様の世界で、いじめや自殺、また子殺しについてはノータッチなのでしょうか?

そして自殺を選ばざるを得なかった若い命の末はどうなるのでしょう?この世で苦しんで、さらにあちらでも…なんて悲しすぎるのです。不条理です。

イジメを行う人(魂)を、守護霊様は戒める道を用意しないで、のうのうと一生を終えさせるのでしょうか?是非とも『今生』で改め反省し、それなり以上の償いをしてもらいたいものです。

実は、ご近所トラブルが表面化してしまい、我が家はこの先、ここに住み続ける限り「不条理極まりない嫌がらせ」から逃れることができないのです。

また今晩も始まる、、、憂鬱&恐怖で動悸がします(T_T) 助けて欲しい。。。

こんな大人の社会でも、近所トラブルに限らず政治の世界でさえ行われるイジメ。

天はその状況から抜ける道を弱者には用意しては下さらないのでしょうか?

上述の挨拶の中で触れた件と、イジメの件。今は二重苦のとてつもない不安と苦しみにもがいてます。ただ1つ良かったのは、主人に対する自分の深い気持ちがハッキリと確認できたことです(^^ゞ ありがたいです。

★理不尽な状況に対する神仏(守護霊様)の関わりについて★の天心さんの見解をお聞かせ下さい。


【回答】


はぐまろ様

ご質問ありがとうございます。

確かに昨今のニュースなどを見ていると陰険なイジメが原因で自殺に追いやられたというような、なんとも言い難い悲惨な出来事が目についたりしますよね。

イジメと呼ぶには生易しさを覚えるほどのヒドイ仕打ちをしていたといような詳細も明かされていくうちに、これはもはや、事件であり、犯罪だとさえ思えてきます。

イジメの問題は今に始まったことではなく、私の学生時代からも問題視されてきた事柄でもあり、未だに解決の見通しのつなかい課題の一つであります。

イジメというものは、イジメ側とイジメられる側が存在するわけですが、大抵はイジメられる側ばかりが悲惨な目にあい、イジメた側は我が家の春を謳歌しているようで、とても理不尽で不公平に思えることもよくわかります。

こんな理不尽な状況を神仏や守護霊は一体、どうして傍観しているのか?

悔しさと憤りからそう思ってしまう方も多いかも知れません。


>守護霊様の世界で、いじめや自殺、また子殺しについてはノータッチなのでしょうか?

守護霊ももちろん、積極的な悪を犯すのを見て見ぬふりをしているわけではありません。

必ずや警告やサインを発して、イジメなどを行っているものに対しては諌めようとはしています。

しかしながら、あまりにもその人間が曇り多い魂になってしまっているとその声は届かないことが多いのです。

それでも、様々な人に神かかりをして、現実に人を動かし、諌めることもあります。

そのように諌めがあっても、当人がそのことに気付けない場合もあるのです。

また、イジメを行うものの背後で、守護霊以上に邪霊的な霊物が憑いて、イジメをエスカレートしているケースもあるようです。

守護霊といっても、万能でも完全でもなく、全ての悪をどうにかできるわけではないのです。

やはり、現実のことは、現世に生きる我々一人ひとりが協調して、考えながら解決の道を模索していくほかはないのです。

「それでは、守護霊は全くイジメに対して無力なの?」と思われるかも知れませんがそうではありません。

守護霊が力を発揮できない理由として、事なかれ主義が蔓延していることがあります。

霊界においては、霊界の大きさが霊力の大きさに比例します。

つまり、常に正しい心根で強く信念を持って生きている時には、そういった善なる霊界が強く大きくなります。

そういう強く大きな善なる霊界は、守護霊の働きも強いものにします。

逆にいつも不埒で自分勝手で、エゴイスティックな心根を持つ人が増えてくると、悪なる霊界が強く大きくなります。

そうなると悪なる霊界に感応する邪霊が力をつけてきます。

霊界の働きはより大きな霊界であればあるほど、現世へのフィードバックが大きくなります。

ですから、事なかれ主義で、イジメはあっても容認し、見ないようにし、自分には関係ないと学校も教師もクラスメートも両親も関係者すべての霊界が曇っているとイジメを起こしている邪霊の方が勝つことになります。

いくら守護霊といえども、霊界の法則を覆すことはできないのです。

ならば、どうすればイジメが横行する状況を打破することができるのかいえば、事なかれ主義をやめていくしかないでしょう。

たとえば、イジメが発生した時に学校側は保身を考えて「イジメはない」と真実から目を背けたり、あるいは学校側ではない保護者側も「学校の責任」と自分たちの目線でどうあるべきかを考えずに、学校の責任ばかりを追求するようでは、一向に霊界は曇ったままとなります。

曇った霊界のままでは、いくら声高にイジメの問題を叫んでみても、加害者をつるしあげて、「厳罰に処せ!」と叫んでみても、解決はしていかないことでしょう。

もちろん、イジメの加害者は悪いです。

ヒドイことをしてたわけですから、それが法律によって裁かれること、そうでなくても人倫的に許されないことをしているのですから、罪を問われるのは当然かも知れません。

しかしながら、イジメた人間を片っ端から厳罰に処していけば、イジメの問題は解決すると考える人が多くなればなるほど、おそらく、イジメの問題はもっとエスカレートしていくことと思います。

なぜならば、古今東西、厳罰を処すという手法で、問題が解決したというケースをあまり聞いたことがないからです。

厳罰化すればイジメもさらに巧妙で表ざたにならない陰湿なものに変わっていくだけの話です。

ですから、それではダメなのです。

少し脱線してきたので元に話を戻しますと、守護霊もイジメを止めようとしているけれど、できない場合もあるということです。

そして、守護霊とともにイジメをなくしていくことができるとすれば、皆が事なかれ主義をやめて、イジメがなぜ起こっているのかを見極めていく必要があるということです。

私も子供時代にイジメられた経験を持っていますからわかるのですが、イジメとはウィルスのようなものです。

このウィルスにかかると誰もがイジメたいと思っていなくとも、イジメが発生してくる状況が生まれます。

積極的にはイジメ行為に加担しなくても、イジメを見てもどうしょうもできなかったり、最初はイジメという感覚はなくとも次第次第にイジメ行為がエスカレートしていくこともあります。

このイジメウィルスが蔓延してくるとイジメ霊界が作られて、その矛先を向けられた、気の弱い子がスケープゴートにされてしまいます。

いつの間にかクラス全体がスケープゴートにされた子供をイジメているといった図式になってきます。

イジメなんかするつもりがなかった子までも、イジメに加担しているような状況になってしまうのです。

では、このイジメウィルスを撃退する方法はないのでしょうか。


その方法についてお話する前に私がイジメにあっていた時のことをお話したいと思います。

小学校の5年生の頃のことです。

当時、クラスの中には班と呼ばれるグループ分けがされており、大抵、5~6名程度の生徒が班に割り当てられて様々なクラスの中での活動を班で行っていました。

私は、当時、班長と呼ばれる班のリーダーに任命されておりました。

私が望んだことではなく、班の中でのミーティングで決められたことでありました。

私はもともと、長と呼ばれるような性質ではなく、あまり気は進まなかったのですが、押し切られるような形で班長に任命されたのです。

思えばこの時からイジメウィルスは生まれつつあったのかも知れません。

班のメンバーは、男子3名、女子2名の構成で、私を除く男子の一人は大きな身体の腕力のある生徒で、S君と言いました。それともう一人は、少し背の低いけれど、頭が切れる感じのO君です。

女性二人は、ちょっとお嬢様的な家柄の良いYさん、もう一人はそのYさんの取り巻きの女子といった感じです(笑)

私は、班長に任じられたとはいえ、何をすればよいのかさっぱりわからない状況でありました。

ある時、ガタイの大きいS君が言いました。

ちょうど昼の給食の時間でのことです。

「班長なんだから、お前が全員分の給食の食器を後かたずけをやれよな」

S君が班のメンバーで机を並べながら食事をしている時に言い出したのです。

給食で使った食器は各自で食べ終わった後、元に戻すことが原則です。

それなのにS君は突然、私に班メンバー全員分の食器をかたずけろと言い始めたのです。

私は戸惑いました。

もしかしたらS君も最初は冗談のつもりで言ったのかも知れません。

しかし、S君はガタイも大きく力持ちです。

そして何故かちょっと冗談半分もあったのですが、よく私の背中や肩などを叩くのです。

当時、病気がちで体力もなかった私は、彼のその腕力は脅威でもあり、それから、生来の気の弱さも手伝って、なかなか言い返すことができません。

そうしているうちに今度は、O君も「そうだな。班長が持っていくべきだな」と言い始めたのです。

そして、挙句の果てには、女子までもそれに賛同し始めました。

私は他メンバーから給食の後のかたずけを一手にしろと迫られて、それが班長の仕事だと言い切られて押し切られたのです。

それから、私は戸惑いながらも、ごまかし笑いをしながら、メンバーの給食の後かたずけをこなしていました。

毎日、毎日、こんなのおかしいと思いながら、班長の仕事だといわれてやり通していたのです。

唇をかむほど悔しい想いを持っていましたが、それは表に出さず、耐えるばかりの毎日です。

逆らいたいと思う気持ちもあるのですが、腕力ではS君に太刀打ちできません。

弁舌においてはO君にはかなわないので、抵抗もできなかったのです。

女子のメンバーからもどこかさげすまれているような目で見られているのを感じていました。

そして、日々が進むうちに班メンバーの私への扱いはますますにひどくなっていきました。

掃除当番を押し付けられたり、何かにつけて私はメンバーから押しつけられたり、さげすむような目で見られたりうまくやらないと罵倒されたりし始めました。

最初の頃は冗談半分なところもありましたが、気がつけば、班のメンバーからはさげすまれて、イジメる格好の餌食となっていたのです。

私は、このままではまずいと思い、ある時、意を決して、あることを実行に起こしました。

それは、今まで班のメンバーのいうことを全て押し切られる形で引き受けてきたのですが、全てを断り、断固として戦ったのです。

もちろん、私は班のメンバーからはいろいろと嫌がらせをされることになりました。

S君はその腕力でますます私に暴力的な行為を働くことになりました。

O君もその饒舌な言葉で私を責めてきます。

それでも、私は、断固として抵抗したのです。

それからしばらくして、班メンバーも私のかたくなな反抗にめんどくさくなったのか、根負けして、私に対する様々な嫌がらせもやわらいできました。

このことをきっかけに私は一つのイジメ撃退法を編み出したのです。

それは、決して理不尽な要求に屈しないという強い意志と態度であります。

もし、私があのまま、班のメンバーからの要求に屈し続けていたら、もっともっとイジメはエスカレートして本当にニュースで流れるような悲惨なことに成っていたかもしれません。

大げさに思われるかも知れませんが、イジメというものは、最初は小さな火種から始まり、段々とエスカレートするものなのです。

よく、「なぜイジメに気付かなかったのか?」という言葉を耳にしますが、イジメとは段々とエスカレートする過程で常態化するために周囲もイジメが発生している状態になれてしまっていることが多いのです。

最初が冗談半分だとその延長線上にイジメがあるため、いじめている本人も周囲も、その状況にのまれているので気付きません。

だから、最悪なことにイジメをしている当人がそれほど悪いことをしているという自覚すらない場合が多いのではないかと思います。

もちろん、イジメを受けている方は自覚もあるし、傷ついているわけです。

先ほどもいいましたが、イジメとはウィルスのようなもので、蔓延することで、エスカレートしていきます。

蔓延することでイジメが起こる霊界が作られていきます。

これを打破するためには、蔓延する前にウィルスを撲滅する必要があります。

私の場合は、自分自身の強い意志を持って、断固、自分の義を通したことで、ウィルスを蹴散らすことができたのです。

世間でニュースに流れるのは末期のイジメ状態ばかりなので、ほとんどこれを覆すのは、社会、学校、教師、生徒、両親、全てが一丸となって事なかれ主義をやめて、正しい心根とは何であるのかを学ぶほかはないでしょう。

それよりも、イジメウィルスが出てきたなと感じた時点で、駆除していく習慣がついてくることかとも思います。

一番、大事なのは、イジメを受けた当人をはじめ、そうでない周囲の人間も、気がついた時にこのウィルスをつぶしていく習慣をつぶしていくしかないのではないかと思います。

ながながとお話してすいません。

イジメの問題はまだまだ考えなければならぬ要素も多いと思います。

私自身、まだこのイジメの問題は完全な答えは見つけてはいません。

ですから、この場でお話していることも不完全な内容であることを自覚しています。

イジメについては、まだまだ、言いたいことはありますが、今回はこの程度にしておき、回答とさせていただければと思います。



天心 拝


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心に残った守護霊からのメッセージ2

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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中心を見よ

中心から外れている

汝の中心は今どこにあるか

そこをわきまえよ

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つい、いろんなことに手を出してしまうと、自分が一番大切にしていたことを忘れがちになってしまいます。

自分自身の一番中心となる考え方や重要なポイントは何であるかを問い直すきっかけとなったメッセージです。

また、物事には枝はと核心があり、常に核心を念頭において行動しなさいという守護霊様のお諭しでした。

今でも迷走気味になるときにはこのメッセージを思い起こします。



天心 拝


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【公開質疑応答】穢れた神域に詣でるのは危険?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ピカリン様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


初めまして天心様、こんにちわ。

ピカリンと申します。

いつもブログ拝見致しております。

貴重なお話を沢山お聞かせくださいまして、どうもありがとうございます。

日々勉強させて頂いております。

さて、質問なのですが、他のブログなどで、神社に神様は降りて来ず、多くが悪霊の住みかになってしまっている、という記事を目にする事があります。

そして頻繁に通ったりすると、悪霊や偽の守護霊と結びついてしまい、悪い結果を招いてしまう事がある、とも。

神主の常駐しない神社は特に悪い気が溜まりやすく注意してください、と書かれていたりして、私の氏神様となる神社はそれに当たるので、気になっています。

本当にそうなのでしょうか?
そうすると、お寺でもご本尊様は安置されていても、仏様はいらっしゃらない、という事になるのでしょうか?

私は度々神社仏閣へ赴きますし、守護霊様にも、毎日お礼とお祈りの言葉をかけております。

自分自身の願い事は勿論あるのですが、震災からの復興、福島原発の収束、世界平和など、世の中の為にもお祈りしたい事が沢山ありますよね。

愛と真心を込めてお祈りをすることが大切と書かれていましたが、その様に実践し、日々努力精進しながら暮らしていても、神社に行く事により邪悪な霊と結びついてしまったり、正しい守護霊様と繋がらない、という事があるのでしょうか?

だとすると、人々が神社へ行く事自体、非常に危険な行為となってしまいますよね?

私は今まで通り、氏神様へお参りして大丈夫でしょうか?

神社は比較的小綺麗で、特に嫌な感じも無く、返って温かみを感じるくらいですが、私は霊感も無い素人なので何も分かりません。

過去の記事の中でお話し頂いている事と重なってしまっているかとも思いましたが、天心様お考えをお聞かせいただければ、と思いご質問させて頂きました。

長くなり申し訳ございません。

どうぞよろしくお願い致します。

お忙しい中、お時間を頂戴いたしまして、どうもありがとうございました。


【回答】


ピカリン様

ご質問ありがとうございます。

神社・仏閣といえばパワースポットとしても昨今では親しまれているため、多くの人からも聖なる場所として認識されていますよね。

神社・仏閣の存在する意義は一つは人々の信心のささえとする場所として、それから神霊の降り来る依代となることであります。

過去記事の「祀る人の心」でもお話させていただいていますが、本来は聖なる場所として建立された神社・仏閣も時として穢れてしまっているところも確かにございます。

邪気のたまる場所に頻繁に出入りしていると邪気に充てられるため、自分自身にもマイナスの霊波動を受けることになります。

こう考えればまずは、穢れた場所や神社にはあまり近づかない方が霊的なことからいえば、得策かと思います。

しかしながら、このような穢れが多い、神社・仏閣に詣でたからといって、すぐに何か悪いことが起こるとか、守護霊がいなくなって、邪霊に変わるなどということはありません。

あくまで霊波動という意味で考えた場合には、なるべく、神域に詣でるのであれば、清々しい神域に詣でた方が良いわけで、私としては基本的には邪気紊乱の神社・仏閣へあえて参詣を勧めることはないよねという程度のスタンスです。

大事なことは当人の心根が真に信仰に根ざし、神様や仏様と波長の合う心根であれば、決して邪霊にいいようにやられてしまうことはありません。

なぜならば、そのような正しき心根ができている人はしっかりと守護霊が守護を与えているわけですから、ある程度は霊的に防衛はしてくれているわけです。


>私は度々神社仏閣へ赴きますし、守護霊様にも、毎日お礼とお祈りの言葉をかけております。
>自分自身の願い事は勿論あるのですが、震災からの復興、福島原発の収束、世界平和など、世の中の為にもお祈りしたい事が沢山ありますよね。



このように感謝のお祈りや利他の念でお祈りしている分には、その心根が真に愛と真心からのものであれば、大きな問題はないといえます。

但し、自己の利益を願う祈りは、邪霊に感応する入り口になる可能性があるので注意が必要です。

自己の利益を願うことが悪いことだとは申しませんが、やはり、そういった自我に意識が向くような祈りの際は、邪霊もつけ入りやすいのですね。

利他の祈りや感謝の祈りは、逆に付け入る隙がないので、あまり問題にはならないのです。


>愛と真心を込めてお祈りをすることが大切と書かれていましたが、その様に実践し、日々努力精進しながら暮らしていても、神社に行く事により邪悪な霊と結びついてしまったり、正しい守護霊様と繋がらない、という事があるのでしょうか?
>だとすると、人々が神社へ行く事自体、非常に危険な行為となってしまいますよね?


神社・仏閣、その他の神域に詣でることを霊的背景を踏まえて考えてしまうと難しくなってしまいます。

確かに、穢れの多い神社に詣でれば、霊波動的には良くはありません。

しかしながら、神社・仏閣に限らず、生活をする上で私達は、様々な場所へ赴くことが多いでしょう。

その場所は必ずしも清々しい場所ではないかも知れませんし、時には貰いうけという形であまり霊波動の良くない霊物をつけてしまうことはあります。

ですが、それを気にしてしまうと日常生活がまともに送れなくなってしまいますよね。

穢れることを恐れすぎると、何をするにも臆病になってしまいます。

だからこそ、穢れたら穢れたで、禊祓いをして、気分を一新して、日々、新たな心根で愛と真心を燃えたぎらして生きてゆけばよいのです。
(禊祓いといっても、お祓いだけが禊ではなく、気分転換や自分の心根に愛や真心ともす祈りを行うことも一種の禊になります。)

そうすると、受けた穢れや霊物も次第に祓われたり、どこかへ移動していってしまいます。
(憑依レベルなどにも依るので一概にはいえませんが)

神社、仏閣にお参りするのにも同じことが言えます。

たとえ神霊が一時、御帰りになってしまった神域であっても、詣でる人の心根が真に愛と真心であれば、その祈りは受け取ってもらえるものです。

>私は今まで通り、氏神様へお参りして大丈夫でしょうか?

ということですが、その神社を厳密に審神したわけではないので、正確には答えずらいところではありますが、少なくとも愛と真心からの祈り、日々の感謝などをする分には大きな問題はないと思います。


以上、回答がご参考になれば幸いです。



天心 拝


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心に残った守護霊からのメッセージ

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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足らぬものはないぞ


一切は満ち足りておるぞ


足らぬは己の智慧と努力なり


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これは、いろいろと壁にぶつかって難儀している時に降りてきた守護霊様からのメッセージでした。

ともすると、不平不満や環境を嘆いてしまいがちなところをお諭しになったものです。

足りないと思うのは間違いで、本当に足りないのは、自分の経験や体験をすることで磨かれる知恵であり、その智慧を得るための努力の姿勢であることを戒められたものです。

以外と他の方の守護霊様も同じようなニュアンスのことを良くおっしゃらることも多いので心に残っています。



天心 拝


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【公開質疑応答】呪縛観念を解いてゆくには

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、透宇様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


私たちの多くは、深く眠っていることをとても望んでいると感じています。
(人から与えられたデータや判断、指導を鵜呑みにしたがっている)

潜在意識に呪縛観念が埋め込まれている野を解除し、正しい状態に戻していくこと。
「理性」を自分ではない誰かから押し付けられた判断基準で造り上げていることを
なるべく効率よく、多くの方が気付けるようにはどうしたらいいのでしょうか?
(顕在意識、個人意識だけでなく集合意識を浄化し、成長させるにはという意味も含んでいます)

多くの権力者(宗教・政治・経済)はこれとは逆に支配・洗脳しようと必死です。
あらゆる問題は、個人の問題でなくすべての人々が共有している課題なのだと知らせ
どう、変革していくのがいいか戸惑っているのです。

※勿論、個人の成長段階や選択の自由意志があることは認めています。
あくまでそれを望む意志の魂によっての話です。

天心様のビジョンなどをお聞かせ願いたく存じます。


【回答】


透宇様


ご質問ありがとうございます。

回答に入る前に少し、他の読者の方にもわかりやすくご質問の趣旨をまとめてみましょう。

まず、私達は、私達にとって必要、不必要、あるいは重要、重要ではないという判断を行いながら生活しています。

しかしながら、私達が常日頃、頼りにしている判断基準というもの、すなわち、人はこれを常識と呼んだりしますが、これらが歪められていた場合に、判断に狂いが生じてしまいます。

たとえるならば、原発問題などが典型的な例かと思います。

3.11の大地震が起こり、原発が故障するまでは、私達は、原発は安全だし、五重の壁で守られているから放射能が漏れることはないと思っていました。

しかし、結果はご覧の通りの現状です。

よく考えてみれば、絶対安全なことなどありはしません。

どんなものにもリスクはあります。

でも、かわいいキャラクターを使ってわかりやすく安全を強調されて説明されたり、権威ある大学教授が「絶対安全です」なんていうようなことを言っているのを聞くと「安全なんじゃないかな?」と思ってしまいます。

誤解されそうなので言っておくと、私は単純に反原発とかあるいは原発推進だとかいうお話がしたいわけではありません。

反原発という考えにせよ、原発推進あるいは容認という考えにせよ、いずれにせよ、様々な呪縛観念となりうる要素が含まれているということを言いたいだけです。

>私たちの多くは、深く眠っていることをとても望んでいると感じています。
>(人から与えられたデータや判断、指導を鵜呑みにしたがっている)


透宇様がおっしゃられているのは、おそらく、こういった世の中に出回っている情報によって縛られてしまう人が多いという指摘なのではないかと推察いたします。

テレビで反原発キャンペーンの様子が流れ、コメンテーターや大学教授が「原発は危険、すぐに止めるべきだ!」と主張すれば「なるほど、そうだ!原発反対!」という発想に成ってしまう方もいるのではないでしょうか。

あるいは、逆に「原発がないと電力が足らない。経済も回らない」という意見が流れれば、「そうか原発は必要かも知れない」と原発推進や容認に傾く人もいるでしょう。

もちろん、そこまで単純ではない方も多いと思いますが、得てして、私達は情報に縛られます。

もう一度、言いますが、ここでは反原発か原発推進ないし容認かのどちらが正しいのかを問題にしているわけではありません。

ここで問題にしたいのは、誰もその情報に対して、審神(さにわ)の心、すなわち、正しき情報を得て、判断するというマインドが希薄であることなのですね。

真実を知ろうと努力するよりも、権威あるものの言葉やメディアやあるいは、こうした様々な人間の意図が絡み合った情報で作り上げられた常識から判断しようとすると、自分は正しく判断しているつもりでも、実は自分も他人も不幸に向かわせる選択をしてしまう時があるわけです。

私の言葉でいえば、呪縛観念がある状態で判断すると常に間違える可能性があるということになります。


>潜在意識に呪縛観念が埋め込まれている野を解除し、正しい状態に戻していくこと。
>「理性」を自分ではない誰かから押し付けられた判断基準で造り上げていることを
>なるべく効率よく、多くの方が気付けるようにはどうしたらいいのでしょうか?
>(顕在意識、個人意識だけでなく集合意識を浄化し、成長させるにはという意味も含んでいます)



では、どうしたら呪縛観念をはずしていくことができますか?というのが、この質問の一つ目の趣旨かと思います。

呪縛観念を解いていく一番基本となるのは、呪縛観念の存在を認識するということにあります。

ですから、多くの方が呪縛観念に気付くためには、どのような呪縛観念が存在しているのかをつまびらかにしていく必要があるかと思います。

人はもともとは素直なる存在です。

ですから基本的には与えられた情報は素直に受け止めるようにできています。

もちろん、一人ひとりに理性はありますから、フィルターは掛かりますが、その理性のフィルターが出来上がる前は、基本的に情報を素直に受け止めていたはずなのです。

一番わかりやすいのは赤ちゃんや子供ですね。

子供の成長はなぜ早いのかというと、余計なフィルターを掛けずにどんどんと学んでいくからなんですね。

こう考えると誰しも子供の頃は沢山、情報を受け入れてきたはずですよね。

また、子供は親や他の大人たちから情報を最初に得ることが多いといえます。

つまり自分よりも大きな存在(と感じられる存在)からの情報は受け止めやすくなります。

親、自分の兄とか姉、あるいは学校の先生などから与えられる情報は受け止めやすい場合が多いのです。

しなしながら、成長し、段々と大人になってくるとこれらの親、兄弟、学校の先生のいうことも、自らの理性のフィルターを通しながら聞くので、受け止める量は減少してくることになります。

では、成長してくると今度はどこから情報を得ようとするのでしょうか。

より自分よりも優れた(と思われる)人、存在、機関などから得た情報は受け入れやすくなります。

たとえばテレビや雑誌、新聞、あるいは、有名人の意見、権威ある存在からの情報などです。

>多くの権力者(宗教・政治・経済)はこれとは逆に支配・洗脳しようと必死です。
>あらゆる問題は、個人の問題でなくすべての人々が共有している課題なのだと知らせ
>どう、変革していくのがいいか戸惑っているのです。


と透宇様がおっしゃられているのは、正にこのことなのかなと思います。

権力者に限らず、世の中の様々な情報には意図があり、それは必ずしも愛や真心を起点としたものとは限りません。

たとえば、自分の利益を守りたいというエゴの気持ちから、民衆の目をくらませるための情報発信なども存在しています。

たとえば、原発推進派と呼ばれる人たちが、「日本の経済や将来、みんなの幸せを維持するために原発は必要」と唱えるのとは裏腹に金権や既得権益を失いたくない、あるいは、他の意図があって情報発信がなされていることもあるということです。

もちろん、そうでない方もいるかも知れません。

ですから、私がこのように話しているからといって、「原発推進は既得権益層の陰謀なんだ!」と決めつけるのではなく、しっかりと意図を見破るための審神の心を培うことが大事なのです。

反原発も同様です。

反原発も純粋に子供らの将来や危険回避を懸念して運動されている方もたくさんいらっしゃると思います。

しかしながら、必ず、そういったムーブメントの裏にはその動きを利用しようとする存在もあるのだということを覚えておくことは大事なことかと思います。

純粋な気持ちが、裏では何かしらのイデオロギーに利用されているということもあるが現実です。

このように考えると「恐ろしくてどっちが正解なのかわからない・・」と考えてしまう人もあるかも知れません。

ですが、恐れることはありません。

大事なことは正解、不正解ということではなく、しっかりと自分の主体性を持って、判断し、最初、正解だと思っていたことが後に誤りだと気付いた時には、素直に改める勇気を持つことであるのです。

何事も絶対的な正解はありませんし、人には迷いもあります。

ですから、迷いはあっても、自分の判断に呪縛観念がフィルターし、間違ってしまったとしても、その時の自分の主体的判断であれば良いのです。

人生の中で常に何が正しく、どうあるべきかを自問し、試行錯誤し、自分の中に偏りや思いこみはないものかをチェックする(審神)。

このような姿勢でもって生きていく他はないでしょう。


>天心様のビジョンなどをお聞かせ願いたく存じます。

私のビジョンというものは特にはないです。

逆に私がやたらとビジョンを掲げて推進してしまうと、そのこと自体が呪縛観念の推進になってしまいかねないのです。

ですから、私の立場としては、皆さんにいかにブログやFGSの会をきっかけにして深く考えていただくことが、あえていえばビジョンなのかなと思います。

主体性を確立し、正しいことも間違いのことも自分でしっかりと受け止められる人になっていきましょう。

試行錯誤してどこまでも成長していくこと。

そして、できれば自分だけのことだけでなく、隣人のことも愛と真心で考えて行動できる人になっていきましょう。

隣人にとどまらず、自分の生きる受け皿である家族や地域社会や、日本や世界、地球ということにまで想いを馳せられるようになりたい。

あくまで上から目線でなく、私も努力していく所存なので、一緒に頑張ろうね!というスタンスです。

なので、私のビジョンを広めようという意図はあまりないのです。

私の意図に対して反対意見、異論、全く関係ない分野でのこともたくさんあって良いのです。

私がこの活動で求めているのは同じ志を持つ人や価値観を共有できる人との学びなのです。

だから、つまらないと思われても、受け入れられなくてもそれでいいと思っています。

でも、受け入れてくれた人、耳を傾けてくらた人への感謝とその方々の発展には少しでも貢献できればと願っています。

これが、私、天心の義でございます。


非常に長くなって恐縮ですが、これにて回答とさせていただきたいと思います。


天心 拝


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守護霊~祈りの言葉~(生業の弥栄の祈り編)

~ 守護霊~祈りの言葉~(生業の弥栄の祈り編) ~


我が使命に仕え奉(たてまつ)ります


我が生業(なりわい)が永遠(とことわ)に弥(いや)栄(さかえ)ゆくようお導き感謝いたします


守護霊の大導きを賜り、成すべきことをなし、心に咎(とが)なく、穢れなきように謹んで仕え奉ります


何卒(なにとぞ)、良きに導きたまえ


何卒(なにとぞ)、まさしき生業の心根を与えたまえ


まさしき生業の心根とは、すなわち、天に仕え、地に足をつけ、人を和する道なれば


我が心根にその道を根付かせたまえ


我とともに歩む人達の幸(さちわい)多く、福徳多きことあることを願い奉ります


我が行い全てが、我とともに歩む人達の幸にとなりますよう


我が言葉は清く、すがしき言霊となりて、人に幸と大楽(たいらく)を与えたまえ


我が想いは明るく、人を照らし、人を栄さすものと成さしめたまえ


至誠を持って、生業に励み、至誠を持って、事に仕える時


守護霊、あらわれ給いて、人良し、我良し、全て良しの調和へと導き給え


生業を御魂(みたま)輝かし給える砥ぎ石(とぎいし)となさしめ給え


生業より学び悟る機会を与え給え


生業は愛と慈悲を表現する場と成らしめ給え


生業を通じ、志を成就成さしめ給え


どこまでも栄ゆく生業の祈りここに成就する


守護霊様。全てを受け取らしめたまえ



~ 守護霊~祈りの言葉~(生業の弥栄の祈り編) 完 ~


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【公開質疑応答】系統の違う神様の合祀

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、みみ様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


10月に出雲大社に友人と行くことになりました。その前に、一緒に行く友人と話していたところ、なぜか、その前に明治神宮に行くという話になりました。

そこで頭に浮かんだのが、出雲大社の神様と明治神宮の神様は系統が違うのでは?ということです。

何か戦いのようなものがあったようなことを、どこかで読んだ記憶があるのですが、系統が違う神様のところにお参りに行くことは何か差し障りはあるのでしょうか?

(神様がそういうことを気にするとは思えませんが・・・)

最近、神棚の掃除を毎日しているのですが、神棚にも別系統の神様が一緒にお祭りしてあるので、どうなんだろうと思った次第です。


【回答】

みみ様

ご質問ありがとうございます。

>そこで頭に浮かんだのが、出雲大社の神様と明治神宮の神様は系統が違うのでは?ということです。
>何か戦いのようなものがあったようなことを、どこかで読んだ記憶があるのですが、系統が違う神様のところにお参りに行くことは何か差し障りはあるのでしょうか?


まず、この点について少しお話させていただきます。

出雲大社明治神宮もともに神道の社であり、神道的視点から見れば、どちらも八百万の神というくくりで観ることもできます。

そういう意味では、別の系統というわけではありません。

しかしながら、おそらく、みみ様が気にしてらしているのは、天孫系の天津神と出雲系の国津神の違いなのかと思われます。

古事記の神話において、元は、大国主之命(おおくにぬしのみこと)が当初、国を治めていたのですが、もともと、本来の治めるべき主は天孫である天照大神(あまてらすおおみかみ)の直径である天津神であるとべきことで、天孫降臨の神話として語られています。

大国主之命は、天孫の天津神より国をゆずるように要請されましたが、その時には、隠居の身であったため、現在実権を持って国を治めている子供らに聞いてほしいと説明します。

詳細の談は割愛しますが、その時に現在、長野県諏訪市の諏訪大社の上社に鎮座まします建御名方神(たけみなかたのかみ)が天孫降臨に反発し、戦いに発展します。

何か戦いのようなものがあったというのは、このくだりのことではないかと思います。

実際に建御名方神に対して、これを調伏するためにつかわされたのが茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に鎮座いたします建御雷神(たけみかづちのかみ)であります。

この勝負は建御雷神が勝利して、建御名方神は降参し、「天孫が危急存亡のときには必ずはせ参じて働きます」と約束し諏訪大社に鎮まり今でも、威徳を表されているというわけです。

「諏訪一大事(すわいちだいじ)」という言葉がありますが、これは、この神話から派生した言葉なんですね。

このように古事記をひも解くと神様同士が争っているかのような物語が描かれています。

では、天津神と国津神は仲が悪くて、犬猿の仲なのでしょうか。

そうではありません。

古事記はある程度、社会的な日本の国の成立や依って立つ裏付けを持たせる意味での神話として編纂されています。

うがった見方をすれば、ある程度は政治的にもその当時の政権を担うもの達に正当性を与えるための物語になっている部分もあります。

しかしながら、大切なことは古事記の中の物語の表面にとらわれることなく、その物語に込められた霊的背景を慮ることも大事なことであります。

たとえば、出雲系の国津神の働きは根の国底の国、黄泉の国につながり、現世と霊界のつなぎ目であり、どちらかというと現世次元に近い働きを持つ神様でもあります。

それに比べると天孫の天津神系は、高天原であり、天上界であり、どちらかというと上位の霊界と神界の繊細で高次元の働きを持つ神様が多いのです。

その転換が起こったことを古事記は知らしめていると読むこともできます。

単に戦があったということではなく、神界、霊界、現世のあり方の転換があったことが秘められているということがいえるわけです。

なので、戦があったから天津神と国津神は仲が悪いということではないのです。

ちなみに、明治神宮は、明治天皇を御祭した神社であります。

天皇ということは、天孫系でありますから、あえて系統を分ければ天津神となり、出雲は大国主之命を御祭しているから、国津神と解釈できることでしょう。

しかし、先ほども言いましたが、天津神だから良くて、国津神はダメ。

あるいは、その逆に国津神は信仰するけど、天津神はしないというものではないのです。

よって、どちらの神社に参ろうとも差しさわりはないのです。

天津神も国津神もそれぞれのお役割、御働きがあるものなので、それらのことを理解した上でご参拝すれば、なんら問題はありません。


>最近、神棚の掃除を毎日しているのですが、神棚にも別系統の神様が一緒にお祭りしてあるので、どうなんだろうと思った次第です。


これに関してはも合祀することは問題はありません。

但し、ご眷属神や他の霊的な存在を合祀する場合には少し注意が必要ではあります。

あくまで八百万の神を合祀することは問題ないでしょう。

神社などでも、後から勧請をされて、新たな神柱を御祭することはありますし、末社や摂社という形で、社を分けて御祭することで、系統が違う神様も祭ることができます。

神仏習合といって、神様と仏様も一緒に合祀していた神社・仏閣も昔はあったこともありますので、何ら不思議な話ではないのですね。(神仏分離令後は、分けられてしまいましたが、それでも神仏習合の名残のある寺社は結構散見されます)

以上、回答となっておれば幸いです。


天心 拝


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心の壁をなくすちょっとしたコツ

どうにもならない袋小路に入ってしまう。

そんな経験をされたことがある方は少なからずいらっしゃるのではないかと思います。

かくいう私自身もどうしたらいいのやら皆目見当がつかないような状況に身をおかれることがあります。

何をどうしていいのかわららない。

まさに袋小路ですね。

こんな時には、ついつい自分自身の人生に対して閉塞感を感じてしまい、どうにもならない星のもと自分は生まれたのかと卑下したくもなってしまいます。

しかしながら、本当は人生に袋小路など存在しません。

必ず先に進むために扉は用意されています。

このようにいいますと、「そんなことはない。実際に私はどうにもならない袋小路に迷い込んでしまっている」というため息まじりの声が聞こえてきそうですね。

確かに、多くの方がこのように感じることが多いのかなとも思います。

それでも、あえていいます。

人生に袋小路は存在しません。

ただ、先に続く道が見えない状態になっているだけなのです。

見えているはずなのに見えていない。

聞こえているはずなのに耳に入ってこない。

結果、先へ続く道が存在していても、そのことに気づけないので、ないのと同じになってしまっているわけです。

では、なぜ、先へ続く道があるのに見えないのでしょうか。

それは、私たちの心の中に作り上げてしまっている壁が目隠しをしているからなんですね。

どういうことかといえば、私たちは普段、心の作用に基づいて行動をしています。

意識、無意識を問わずに必ず、心にある羅針盤をもとに行動を起こしているのです。

ところが、この羅針盤はちょっとした癖を持っているのです。

それは、自分が気になること、関心のあること、重要なことだなと感じることにはよく反応するけれど、気にもとめていないもの、まったく興味のないもの、軽んじている事柄には、あまり反応しないということです。

なので、私たちは主に自分の持つ心の羅針盤が指す方向ばかりが見えてしまい、反対側の方向は見えてこないことになっています。

つまり、興味のないこと、軽んじているもの、ほとんど普段見過ごしてしまって気にもとめていないものは、見えてこないのです。

この見えてこない部分が壁となって袋小路を作り出してしまっていたりするのですね。

先の道があるのにこれら心の壁がトリックのような働きをして袋小路を演出してしまっているのです。

では、この心の壁をなくしていくためにはどうすればよいのでしょうか。

これにはちょっとしたコツがあります。

それは、あえて自分の意見と反対のことに意識を向けてみるということです。

たとえば、苦手でどうしても無意識的に避けているような事柄について、少し深く考えてみることです。

できれば、苦手なのだけどあえてやってみるというような試みもよいのではないでしょうか。

あるいは、自分が興味がない事柄についてあえて、調査してみるということもよいかも知れません。

いつも気にも留めていない瑣末なことと見過ごしていることをあえてスポットライトを当ててみる。

こうしたことを心のエクササイズとして行ってみると、袋小路というトリックがはがれて新しい道に気づくことがあるかと思います。

袋小路に入ったと感じたら、あえて自分の今までの発想から抜けてみる。

そのためには、あえて自分の主義の反対に意識を向けて行動してみる。

こういったことが心の壁をなくすきっかけになるのではないでしょうか。


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【公開質疑応答】守護霊どうしでの面識はあるのか

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、サチ太郎様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


いつもブログを楽しく拝見させていただいております。最近、ふと疑問に思ったことがありましたので質問させていただきました。

それは私の守護霊と私と縁の深い人、例えば私の父、母、兄弟、配偶者などの守護霊はお互いに面識はあるのか?
という疑問です。

先日、霊界からの通信にかかわる本を読んでいたところ、ある母親の守護霊が息子の守護霊が誰なのかを探すという場面があったので不思議に思いました。

よろしければお答え宜しくお願いします。


【回答】

サチ太郎様

御質問ありがとうございます。

守護霊どうしのつながりについては、まだまだ、よくわかっていない部分も多いのが実情です。

それを踏まえた上で一つのケースとしてお話させていただきます。


>それは私の守護霊と私と縁の深い人、例えば私の父、母、兄弟、配偶者などの守護霊はお互いに面識はあるのか?


守護霊は基本的に一人ひとりについていますが、他の守護霊と連携をすることもあるようです。

面識があるなしは、ケースによって異なります。

たとえば、ご質問にあるように親、兄弟であれば一緒に暮らす時間も多く、関わり合いも深いので、自然と守護霊間でも交流がなされていることはあるでしょう。

私が守護霊アドバイスなどを行う時には、まずは私自身の守護霊が動き、ご相談者の方の守護霊につながるという経路をたどることが多いのです。

この時に、守護霊どうしの交流が発生するので、面識ができることはあるでしょう。

親、兄弟でも一緒に暮らし、相手のことを慮ったり、関係することが発生すると自分の守護霊が親や兄弟の守護霊と交流していることはあるのですね。

また、近しい友人なども同じように守護霊間の交流が起こってることがあります。

はじめから守護霊どうしの面識があるというよりは、交流がある人の守護霊と自分の守護霊との交流が発生することはあるというのが回答になるかと思います。

>先日、霊界からの通信にかかわる本を読んでいたところ、ある母親の守護霊が息子の守護霊が誰なのかを探すという場面があったので不思議に思いました。

これもケースバイケースかとも思います。

通常は母親と息子であれば、人生を共にする段階で守護霊どうしの交流が起こっていてもおかしくはありません。

しかし、このケースの場合は母親の守護霊がまだ息子の守護霊との交流がない状態であったので、なんらかの事情で守護霊が交流のために動いたという解釈ができるのかなと思います。

少し前後の話の流れが読めないため、どういった霊界通信のお話なのかによって、状況は変わるかと思いますが、原則は以上のような感じになるかと思います。

以上、回答とさせていただきます。


天心 拝


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相対的幸福から主体的幸福へ

幸せとは感性であり、感情であり、心の中にある。

幸せの形は人それぞれにありますが、同じ形を持っていても、幸せを感じる人と感じない人がいます。

なぜ、人によって同じ幸福を手に入れても、感じ方が違ってくるのでしょうか。

様々な見解はあるかと思いますが、その中でも今回、問題提起したいこととして「相対的幸福」というものがあります。

相対的幸福とは、すなわち比較によって生まれた幸せ感覚であり、得られた形の質や量を比較することで生まれる幸福のことであります。

相対的幸福があれば、相対的不幸もあります。

これは、たとえば、結婚して、子供もいて、持家もあって収入もそれなりにある方がいたとしましょう。

このようにいえば、十分幸せであるように感じる方も多いと思いますが、それでも自分を不幸だと感じる人はいらっしゃるものです。

なぜかというと、それは相対的幸福の中に生きているからです。

結婚したいけど、なかなかご縁がない方からすれば、結婚できただけでも幸せであると考えることもできますが、これが友人の伴侶は、優しくていつも記念日にはプレゼントをくれたりするけど、それとくらべて、自分の得た伴侶は何にもしてくれないとか、お隣さんの旦那さんはお金持ちだけど、自分のところは、生活ぎりぎりの収入しか得られていないとかいろいろ比較すると違いがあるわけです。

子供がいても、親戚のうちの子供は東大に入れるほど頭がいいけど、自分家の子供は勉強がさっぱりできなくて、いつも成績表を隠してみせない(笑)とかあるかも知れません。

持家もお隣は新築だけど、うちは中古の40年物だとか(笑)あるのかも知れません。

この世に同じものが二つとない以上、比較すれば必ずそこに違いが生じます。

この違いのギャップに応じて幸福、不幸を決めてしまうことを相対的幸福といいます。

比較した結果、その比較対象よりも上位にあるとき(あるいはあると思える時)は幸せを感じられるわけです。

逆に自分が比較対象よりも下位にあるとき(あるいはあると思える時)は不幸を感じることになります。

こういった相対的幸福からは比較をすることでしか幸せを生み出すことができないという問題点があります。

しかしながら、このような反論もあるかと思います。

「上ばかり見るから不幸になる。自分より下のものと比較すれば幸せになれるのではないか?」

なるほど、確かに相対的幸福で考えるならば、自分よりも恵まれていないと思えるものに意識を合わせれば、自分の今の状況を幸せに感じることができるかも知れません。

たとえば、結婚したくてもご縁がない人と結婚している自分を比較すれば、結婚できている分だけ自分は幸せと感じるようになるかも知れません。

しかし、この考え方は非常に危険な状態になることをはらんでいます。

また、たとえ話をさせていただきます。

とても中の良いA子さんとB美さんがいたとしましょう。

二人は背格好も似ており、センスも同じで気が合う友達同士です。

お互い彼氏もおらず、収入もそこそこのOLさんです。

いつも、二人で会うと会社のことの愚痴や彼氏ができないことの愚痴を言い合っています。

二人は大の仲良しなので、二人でいるととても癒されて幸せを感じています。

A子さんはB美さんといると、「私だけ彼氏がいないわけでもないし、B美だって私と変わらないんだし」と思えるので、なんだか癒されるのです。

一方、B美さんも同じようにA子さんに対して癒されて幸せを感じているわけです。

ある意味、均衡がとれた二人の関係ではありますが、ある時、変化が生じます。

彼氏がいないと愚痴を言い合っていたB美さんに彼氏ができたのです。

そして、B美さんはたまたま人の紹介で転職を果たし、職場環境も改善されて収入も上がったのです。

それを受けてA子さんはどう思ったことでしょう。

仲の良い友達が幸せを得たのだから本来ならば祝福の思いがわきあがってもおかしくはありません。

しかし、実情は違います。

A子さんは言い知れぬ不安と不幸な感じを得てしまいます。

それどころか、心のどこかでB美さんの幸せをねたみ、引きずり下ろしたいとすら考えてしまっているのです。

もちろん、A子さんはB美さんが好きで大切な友人だという意識はありますが、どうしても心のどこかで、素直に喜べない気持ちになってしまっているのです。

実はこれが相対的幸福における危険性なのです。

A子さんの幸せは相対的にB美さんと比較することで生まれていた相対的幸福でありました。

それゆえに、B美さんに依存した幸福は、B美さんが自分と同じかそれ以下の状態の時にしか成り立たないものであったのです。

だから、どうしてもA子さんはB美さんの幸せを心から祝福できないことになってしまったわけです。

では、A子さんは本当はどうしたら心からB美さんの幸せを祝福できる気持ちになれたのでしょうか。

それは主体的幸福ということを確立しておけばよかったのです。

主体的幸福とは、比較ではなく、ただ、自分の信念と志、目標に向かうことで、そのプロセスに幸せを見出すことで得られます。

比較を行わず、自分の主体的信念に従うので、一切の他への依存がありません。

他人がどうであろうと関係ないのです。

主体的幸福の中ではたとえ隣の芝生が青く見えても関係ないのです。

自分の芝生を青くすること、自分の夢をかなえること、志を全うすることに重きを置いている生き方は、比較することで幸せを得る方法と違い、他人と比べることで生じるいかなる危険も回避します。

友人が幸せになれば、素直に祝福できますし、不幸な人を見れば、慈悲の心を持つこともできます。

なぜならば、しっかりと自分の主体的幸福を得ている人は他人に対して余裕があるからです。

自分の幸せに他人の状況が介入しないからです。

比較することで幸福を得る方法はいつだって他人によって崩されてしまうものでもあります。

自分でコントロールできない幸せだともいえます。

主体的幸福に切り替えることで、自分自身の手に幸せになる鍵を取り戻すことができるのではないでしょうか。



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【公開質疑応答】未練と成仏について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ねこうさぎ様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心さん、こんばんは。

いつもお世話になっています。

天心さんのブログでずいぶん勉強させていただきました。

ありがとうございます。

それでも、愛する息子を先に天に還した親としては、

霊界がどんなところなのか、心配はつきません。

質問応募をしていただけましたので、

さっそくですが、よろしくお願いいたします。


「成仏と未練について」


亡くなった人が、成仏できない理由に、この世での未練があると聞きます。

故人が大切にしていたもの、または思い出の品などを、

いつまでも遺された家族が持っていることは、どうなのでしょうか。

使ってくれる友人にあげることは、故人は嬉しいか、嫌か。

私は、いつまでも家にあるとあまりよくないのでは?みたいに考えています。

でも、大切な思い出の品物は、そう簡単に離せないものでしょう。

それで、この世にいつまでも執着をもたせるのもかわいそうです。

そして、成仏とは、どのようになったことを指すのでしょうか。

(ちなみに、私の息子は2年経ちますが、成仏できていません)

かなりレベルの低い内容だとは思いますが、お答えいただけたら幸いです。

どうそ、よろしくお願いいたします。


【回答】


ねこうさぎ様

御質問ありがとうございます。

愛する方の亡き後のことなど気になることも多いと思います。

とりわけ霊界は心根の世界であるわけなので、亡くなられた後に現世に未練があると成仏できないといわれたりしますよね。

まずは、一つずつ回答していきたいと思います。


>故人が大切にしていたもの、または思い出の品などを、
>いつまでも遺された家族が持っていることは、どうなのでしょうか。


故人の思い出の品については、ブログ記事「先祖の縁(ゆかり)の品について」などでも少しお話しましたが、故人がどのようにその思い出の品について感じているかによって扱い方も変わってくるかと思います。

思う出の品を残された家族が持っているからといって、故人が未練に思うのではなく、故人がその品に未練があるかどうかが問題になってくるかと思います。

思い出の品であっても、本人がそれほど気にとめていなければ、その品、自体が成仏の妨げになるということはないかと思います。

ただ、問題は、その品に触れることでご家族などの気持ちが故人に向いてしまい、その念が霊界での学び、修行の邪魔になる、あるいは故人の現世への未練を誘発するということはあるかと思います。

ですから、思い出の品をどうするべきかを考える時には、まずは、故人がどう思っていたかを慮り、すごく執着していたようなものなのか、あるいは、それほどでもないのかをまず考えてみることが重要です。

すごく執着していたものでれば、あまり勝手に人に譲ったりせず、御断りをしてから譲るか、処分するかを考えた方がよいでしょう。

それほどの執着もない品であれば、処分するか、譲ってしまっても問題はないはずです。


>でも、大切な思い出の品物は、そう簡単に離せないものでしょう。


これは、故人の御家族や友人からすれば当然の気持ちかとも思います。

この場合も手放すか手放さないかは問題ではなく、その品によって残された御家族や友人の想いがあまりにも強くなってしまう場合には、故人の霊界の修行、学びの邪魔になるかと思います。

故人のことを強い想いではなく、あくまで思い出での品ということで所持している程度であれば、問題はないのです。

ですから、思い出の品をなぜ手放せないのか、思い出の品によってどのような心境が引き起こされてしまうのかによって、所持していても問題ない場合と所持していると故人にとってマイナスになる場合があるといことです。

一番、良いのはお焚き上げをして、故人に帰すということかと思います。

その時に一緒に残された御家族の気持ちの整理をつける昇華するということです。

もちろん、その踏ん切りができるかどうかは、その人、次第になってしまいますが、霊的に観た場合は、このような対応が良いのかとも思います。


>そして、成仏とは、どのようになったことを指すのでしょうか。

これは、なかなか難しい質問です。

順を追って説明します。

もともと成仏とは仏教の言葉になります。

仏に成ると書いてあるように、本来は仏陀(ぶっだ)、すなわち悟って解脱した人に成ることを成仏というわけです。

一切の無明(むみょう)が解かれて、迷いが一切ない状態が成仏というわけです。

さて、そうなるとかなりの修行が進んでいないとそこまでは到達していませんよね。

皆が皆お釈迦さまのように悟っているかといえば、どちらかといえば悟っていない人の方が多いのではないでしょうか。

では、人は亡くなったら即、悟って仏様になるのかといえば、霊界事情からいえばそうでもないわけです。

だからこそ、様々な霊界があり、その人の心根の状態に応じた霊界があり、その霊界に霊籍を置くわけです。

そして、成仏していないからこそ、そうなるように修行や学びを行っているともいえます。

これが本来の意味での成仏となるわけですが、スピリチュアル的な意味合いでいくと現世に未練があり留まっている霊や自分がいくべき霊界に入っていない霊を成仏していない霊人と呼ぶことが多いのです。

ここが少し、話がややこしくなってしまう原因でもあります。

おそらくスピリチュアル的な意味合いでの成仏は霊界での修行に入ったことを指しますが、本来の仏教的な意味あいでの成仏は、悟りであり解脱ができた状態を指します。

平たく言えば、最低でも菩薩や如来、天使、神仙人としての霊人となった状態が霊界での成仏した姿であるといえるのです。

さらに厳密にいえば、あらゆる霊界から解脱して神界にまで回帰した時点で成仏としたといえるかも知れません。

このように成仏といっても様々な意味があるのです。

成仏できていないと一言でいっても「現世にとどまり浮遊している」不成仏霊と化している状態を指しているのか、あるいは、霊界で修行中でまだ霊層が低い霊人を指しているのか、菩薩、如来だけどまだ、霊界を抜け出ていないから成仏していないというレベルなのか、いろいろあるわけです。

私が一番、問題にしている成仏していないレベルは「現世にとどまり浮遊している」のと「霊界・霊層の次元が低すぎて難儀している」状態の霊人なのですね。

それ以外は、霊界で順次、修行を積み、学びを行っているわけで、後は時間をかけて当人が頑張っていくことが大事なわけです。

たとえるならば、自分の子供が海外に留学しているとします。

海外で野垂れ死ににしたり、じり貧で乞食のような生活をしているとしたらさすがに親としては、気になってしまうかも知れません。

しかし、海外で苦労をしながらでも、なかなか言葉も通じず、勉強にも必死になってやっとついていける状態にあったとします。

親としては、子供が苦労している姿は少し痛ましく思い心配になるかも知れませんが、このような場合はその子供にとっては、自分自身で解決すべき課題に取り組んでいるわけなので、子供当人からしたら「お父さん、お母さん、僕は大丈夫だから心配しなくていいよ。自分でやれるよ」という感じになるわけです。

もちろん、それでも親としては子供にできる限りのフォローはしてあげたいと思うでしょうし、邪魔にならないように困った時にはそっとフォローはするかも知れません。

たとえば供養などはこのフォローに似ているのかも知れません。

少し脱線したので話をもとにもどしますと、成仏できてない=問題な霊人であるとは限らないということです。

どんな状態にあるのか、最悪の状態なのか、あるいは、難儀はしているけれど、目下、修行中なのか。

これによって成仏の意味あいも変わってくるということです。

ですから、>(ちなみに、私の息子は2年経ちますが、成仏できていません)といっても、目下、修行中ならば成仏していないと悲しむことはなく、これから少しずつ当人が成仏へと向かっていくのだなと思うのが適切な考え方かと思います。


以上、回答になっていれば幸いです。


天心 拝



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三島大社

今回、ご紹介したいのは、静岡県三島市に鎮座する「三島大社」です。

先日、初めてご参拝をさせていただきました。

JR三島駅から徒歩13分くらいの場所に鎮座する古くからある神社であります。

三島大社が発表している御由緒によれば、創建の時代は明らかでないそうですが、富士山火山帯根元の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神とされて崇敬されてきた神域であるようです。

主祭神様は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)の二柱となっています。

三島駅から歩く道すがら白滝公園とよばれる場所を通りました。

小さな川が道沿いに流れていて、ともて涼やかな気が道なりに続いてゆきます。

民家の下を小川がせせらいでいるのは、ちょっとした風情です。

三島大社の境内に入ると玉砂利の敷き詰められた空間の真中に舞殿があり、その向こう側に拝殿があります。

とても厳かな雰囲気でありますが、賽銭箱の前に立つと、公家の方のような衣冠束帯のお姿の神霊が三柱、お出ましになりました。

真中の方の顔が大きくクローズアップされると目が非常に大きく金色で瞳の中が渦を巻いているなんとも不思議な目をしておられます。

何か力強い秘められた霊力を感じました。

もともと、源頼朝が祈願したとして有名な社でもあることから、とても重要な意味のある場所であることは間違いなさそうです。

御賽銭箱にご寄付の一部を奉納し、ひとしきり祈念をさせていただきました。

その時にご神霊から教えていただいたこの神域の威徳について、許されたものだけご紹介したいと思います。


1.忍耐の末、最後までやりぬくと大願が成就する

2.自分自身の立てた計画の穴を正す

3.(非公開)

4.活力不足を補う

5.古き良きものを復興させる



1.については、力の限りつくした努力に報いてくださるということみたいです。

但し、大きな願いでないとあまり答えてはくださらないそうです。

2.については、何かをやろうとしている時にその計画の甘さやほころびに気付かせてくれたり、悪に走らぬように正してくれるというものです。

3.は非公開にします。いずれ機会があればFGSの会などで発表することもあるかと思います。

4.エネルギーが不足している時にその源になってくれるということです。

5.古典的なものや今まで忘れ去られていた良きものを見出して脚光を浴びせてくれるというものです。

以上の5つが教えていただいた代表的な威徳だそうです。

最後に三島大社で頂いたメッセージを御紹介しておきたいと思います。


------------------

頼朝公は根底の国を垣間見たり

根底観たものは甚だ強し

不遇も極まれば、性根入れ替わるなり

源氏復興の兆し

この神域より発したり

かのこと心得て参るべし

------------------



源頼朝は、非常に不遇の時期を得て、本当の地獄を垣間見るような状態まで落ちたことがあるとおっしゃられています。

だからこそ、逆にもう這い上がるしかないというくらいの心根の転換が起こったのだとおっしゃられています。

源氏が復興できたのは、三島大社の威徳があったからだということです。

なので、お参りするときには、そのことをよく理解して、参拝しましょうねということだそうです。



天心 拝


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【公開質疑応答】新興宗教について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、松井様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


質問は2つあります。

ひとつめは、いわゆる新興宗教には、神様が降りていらっしゃっているのか、ということ。

教団によって違うのでしょうか?

天心さんのブログを読んでいると、神社、そして川崎大師のような仏教のお寺にも神様がいらっしゃるのだとわかります。

仏教のお寺に神様が降りていらっしゃるということは、おそらく、キリスト教の教会にも降りていらっしゃるのでしょう。

キリスト教も仏教も、どの宗教も初めは新興宗教から始まりますよね。

ということは、近頃の新興宗教にも、神様はおりていらっしゃるのでしょうか?


ふたつめは、なぜ新興宗教ができるのか、ということ。

以前、「神様がお帰りになられている神社がある」と天心さんは書かれていらっしゃいました。

それを知り、「神様がお帰りになられて依代がなくなってしまったため、新しい依代として、新興宗教をおつくりになったのでは」と考えました。

でも、それなら、新しい教会やお寺、神社を建てればよいのでは?

そうなさらないのは、やはり時代とともに、霊界の様相が変わり、より時代に合った形の教えを広めたいからなのでしょうか?

そうだとすれば、過去の偉大な仏教的書物からだけではなく、新興宗教の書物も学ぶことで、より時代に合った神意を学ぶことができるのでしょうか?


質問は以上です。

よろしくお願いいたします!



【回答】


松井様

御質問お寄せいただきましてありがとうございます!

巷には新興宗教という枠組みで語られることの多い様々な霊的なグループが存在していますね。

一つ目の御質問の趣旨はこれらの霊的グループにも神霊は降りているのか?ということかと思います。

過去記事でも少しふれたことがあったかも知れませんが、神霊というものは、現世において私達を導くために様々な方法を用いておられます。

一つは守護霊というシステム、一つは神社・仏閣といった霊的フィールドや依代を通して、現世におりきたりて導くという手法、それから霊的グループを通して導くという方法があります。

もちろん、他にも方法はあると思いますが、代表的なもので私が理解しているものは、大きくはこの三つかと思います。

ですから、このことを踏まえれば、新興宗教と呼ばれる霊的グループにも神霊が降りているところはあるといえるでしょう。

もともと神霊が現世にて影響力を発揮する場合には、人を通じて行われることが多いのですね。

人の心がそもそも霊界を形造る種であり、その人が集まって同じ霊波動を共有するところから大きな霊界となり、ある程度の基盤ができてくるとそこに、その霊波動に見合った霊ないし霊団が降りることになります。

ですから、ある意味では新興宗教などの霊的グループとは限らず、会社や組織などにも同じように霊や霊団という形で霊的存在が降りてきているケースもあります。

なので、とりわけ霊的なことを扱っている新興宗教にももちろん、霊や霊団が関与していることは間違いないでしょう。

但し、いかなる教団にも神霊と呼ばれる高次元な存在が降りているかどうかは、審神する必要があるかと思います。

なぜならば、いかなるグループであれ、そのグループの理念とそれを運営する人達の心根から来る霊波動に見合ったもの、あるいは霊覚、霊格に見合った霊的存在しか降りてはこないからです。

愛と真心があり、気品があり、謙虚さや真善美を理解しようとする心を持った人たちが形成する教団ならば、神霊がおり来ることは十分に考えられます。

しかしながら、教団が単なる興味本位で霊的なことを知りたがるだけのグループだったり、お金儲けだけが目的(これはお金を取ることがダメということではなく、お金に気を取られ過ぎて、本来の学びや霊性開発という理念や愛や真心が次第になくなってしまうことが問題なのです)だったりする場合には、高次元な神霊ではなく、別の霊物が降りてきている場合も多いといえます。

あくまでその教団の持つ霊界の状態に見合わない神霊は降りてこれないからです。

逆に愛も真心もない単なる霊験だけを求める教団であったりすると力の強い霊物が、霊験あらたかなる霊力を発揮して願いをかなえたりもしている場合があります。

このようなことを踏まえると新興宗教にも神霊は降りる場合があるけれど、そうでないものがおりている場合もあるということがいえるかと思います。

大事なことは新興宗教だからダメとか神仏を祭っているのだから神霊が降りているということではないことを理解することかと思います。

一番大事なことは、神霊の依代たる人であり、人の心根がどれだけ神霊に近いものを持っているのかという点にあるのかと思います。

ここを見ていけば、神霊が降りているのか、そうでないものが降りているのかの一つの審神の基準になるのかと思います。


二つ目の御質問としては、なぜ新興宗教が起こるのかということですね。

>以前、「神様がお帰りになられている神社がある」と天心さんは書かれていらっしゃいました。
>それを知り、「神様がお帰りになられて依代がなくなってしまったため、新しい依代として、新興宗教をおつくりになったのでは」と考えました。


確かにそういった理由の場合もあるかと思います。

私が以前、守護霊を通じて教えていただいたこととしては、「失われた霊統を復活させる」という意味あいがあるようです。

古代には様々な信仰の対象となっていた霊的な系統があったようなのですが、途中で途絶えてしまった霊統も多いということです。

途絶えてしまった理由としては、継承する人がいなかった、あるいは民族間の争いなどで、霊統を守っていた民族が滅びてしまったなどが考えられます。

もちろん、これ以外にもいろいろな理由はあるかと思います。

全てを知っているわけではないので、他の理由もたくさんあるのかと思います。

一つ言えることは、使命を持った神霊が現世に何かしらの顕現をなさしめたいと望んだ時に、霊界より神霊の働きにより新興宗教を作らせるということが多いということです。

それぞれの教団に降りた神霊が帯びる使命によって、教団の方向性がそれぞれにあったりするわけですね。

しかし、これも、先ほどの一つ目の質問の回答でもお話したように、教団の運営者、教祖などの心根によって、霊、霊団の種類は異なってきます。

初めから何か悪意を持った霊物が、たまたま霊的に敏感で心根に穢れがある人を見つけて、霊感を与えて霊的グループを作らせるというケースもあるでしょう。

また、最初は素晴らしい神霊が降りていても、後から運営者の霊界が曇り、神霊が教団から去り、その代わりに別の霊物にすげ変わってしまうということもあるかと思います。

ですから、これも審神をしていかないといけないことかと思います。

>でも、それなら、新しい教会やお寺、神社を建てればよいのでは?

神霊は確かに依代として神社や仏閣、教会という場に降りてこられています。

しかし、それだけではないのです。

その場を維持する神主や僧侶、牧師や神父といった聖職者の心根が清くないと神霊にふさわしい霊界を維持できないのですね。

だから、単に建物を作ればよいというものではないのです。

形だけ立派な社殿を立てたとしても、そこに人の真心と信仰心がなければ、神霊は降りてきません。

単なる箱ものになってしまうのです。

もちろん、神社、仏閣などの神域が荒れているだけならば、神霊が人に降りて意識、無意識的にその神社、仏閣を修繕させるように仕向けることもあるでしょう。

でも、荒れている理由が単なる形だけのことではなく、神霊もお導きできないくらいに聖職者の心根が穢れてしまっている場合には、神域の復興も難しいところとなるのではないでしょうか。


>そうなさらないのは、やはり時代とともに、霊界の様相が変わり、より時代に合った形の教えを広めたいからなのでしょうか?

これに関してはそういうケースもあるかと思います。

>そうだとすれば、過去の偉大な仏教的書物からだけではなく、新興宗教の書物も学ぶことで、より時代に合った神意を学ぶことができるのでしょうか?

学ぶこともできるでしょう。

但し、審神をしながら学ぶという姿勢が出来上がっていない人には難しい部分もあるとは思います。

私は基本的には古典やイニシエからある教えから原理原則を学び、決して原理主義に陥らないように現代に見合う形でそれを応用するように心がけています。

なぜ、古典なのかといえば、古典は何千年もの月日を経て精査されて、なお残っている英知であるからです。

だから、歴史の中で価値あるものとみなされた先人達に英知は、比較的、安全なものだと考えています。

但し、時代が古いため現代にそのまま適用しようと考えてしまうと合わないことも出てくるかと思います。

ですから、私がお勧めするならば、原点である古典を大事にして、そこから原理原則を学び、現代に適用していくようにすること。

それから、その参考として、現代で起こってきている新興宗教などの意見も咀嚼してみる。

このようなスタンスでいるのが良いのではないかと考えています。

もちろん、人それぞれのスタンスがあるかと思いますが、私の考える最良のあり方を御紹介してみました。

御参考になれば幸いです。


天心 拝


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強靭な心根を作る

物事が順調に行っていたはずなのに突然、リズムが狂ってしまうことが人生にはあることかと思います。

人生でリズムが狂う瞬間というものがあります。

それは、虚を突かれた時です。

思いがけないことに遭遇すると人は皆、虚を突かれます。

虚を突かれると動揺が走り、動揺が走るといつも通りのパフォーマンスが発揮できなくなるのが人間です。

いつも通りのパフォーマンスが発揮できないと人はスランプと呼び、段々と焦りを感じます。

焦るとますます、うまくいかないので、ますます動揺します。

そして、どんどん自分らしさが発揮されていた時のリズムは崩されて、いつの間にかおかしな方向に行ってしまっていることがあるものです。

得てして人生は、虚を突かれるようなことの連続です。

何も起こらず順風満帆に行くことはまずないのです。

大事なことは、リズムを崩されても持ち直していくことではありますが、もっと大事なことは、リズムそのものを崩されないだけの強靭な心根を作ることにあります。

不動心とも言いますが、これがないと何かあるたびに右往左往してしまうことになります。

では、不動心を養うために何を心がければよいのでしょうか。

それは、まずはしっかりと物事を「観る」ということです。

心の虚を突かれるのは、どこか、心が御留守になり、目前のことから心が離れていることに原因があります。

たとえば、「振り込め詐欺」という悪質な犯罪行為が巷では発生しています。

別名「おれおれ詐欺」とか言われたりしています。

簡単にいえば、「事故を起こしてしまって、お金がいる。すぐに振り込んで!」とか「おれおれ!おれだよ!」と相手先の息子であるかのように装って、だまして振り込ませる詐欺ですが、結構、最近では知名度の高い犯罪であるため、改めて言わなくても、理解している人も多いことでしょう。

しかしながら、にもかかわらず、未だに騙されて振込をしてしまう人がいます。

これだけ、気をつけてくださいと世間でも警告されていても、犯罪に巻き込まれてしまうのは、なぜなのでしょうか。

それは、虚を突かれた時に動揺してしまうからなんですね。

理屈ではなく、虚を突かれた時に人は冷静ではいられなくなるわけです。

しかし、虚を突かれない方法があります。

それは、先ほどもいいましたが、しっかりと物事を「観る」ということです。

「事故とは一体どんな経緯で起こったのか?」「本当に自分の息子なのか?」「お金で解決できるものなのか?」

虚を突かれても冷静に観ることができていたならば、「おかしい」と気づけたはずなのです。

逆に物事をしっかりと観ないで「ああ、自分の息子がとんでもないことに巻き込まれてしまった!」という恐怖と不安の中にとらわれて、今の目前のことに意識が向かなくなると虚を突かれてしまうことになるのですね。

私達は日常の中でも不安や恐怖にとらわれてしまうことがあります。

しかし、冷静に見れば、それは自分で作り上げてしまっている幻影に過ぎないことが多いのです。

もちろん、中には本当に恐怖すべきこともあるかとは思いますが、得てして、不安や恐怖は、幻影であることが多いのです。

それを見破るためには、しっかりと物事を観ていくということが大事なのです。

幻影にとらわれずに物事を観ることができるようになった時に強靭な心根はゆるぎない不動心となって、自分を守ってくれる楯となることでしょう。


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【公開質疑応答】霊界の服装について

こんにちは。

天心です。

前回、ご質問を募集したところ早速ですが、メールの方をいただきましたので回答していきたいと思います。


質問をお寄せくださったのは、zeruda様です。


【質問】

いつもお世話になってます。***ことzerudaです。霊界では服の色は自分の魂の色しか身につけれないと聞いてます。自分のオーラに無い色の服は着れないと。
これは、一切隠し事もできないし繕うこともできないし服の色で成長が分かるということでしょうか?
よろしかったらお答え願います。


【回答】

zeruda様

御質問お寄せいただきましてありがとうございます!

早速ですが回答させていただきます。

まず、誤解がありそうなので、最初に正しておきますと、オーラと霊人達の服装(あるいは身につけている装飾品)は全く別の意味があります。

オーラというのは、あくまでその人の霊波動の性質を表しています。

色が違うのは、その霊人が今現在、どのような霊波動の状態にあるかを示しているわけです。

オーラの色は常に一定ではありません。

その霊人の働きが代わり、霊波動を変えていくとオーラの色も変わるのです。

守護霊アドバイスなどでお姿を拝見しても、その時々の御働きでオーラの色は変わることがあるのですね。

ですから、オーラの色と同じ服装しか着用できないということはありません。

オーラも服装もその都度の御働きによって変わることがあるということをまずは覚えておくと良いと思います。

それから、服装や装飾品は、その方の特技や霊力を象徴していることが多いのです。

たとえば、髪飾りや冠は知性を象徴していたり、杖などを持っている場合は、信仰心の強さの象徴だったりします。

服装に関しては、オーラよりも複雑な意味が込められているので一概には言えませんが、霊人のお姿そのものの中には、全てその霊人の持つ霊性や特徴が表されているものなのですね。

現世に生きる私達も自然と自分の霊性にあった服装を選んでいることがあります。

・・・とはいっても現実にはお金や状況の制限により、必ずしも自分の感じる希望通りにはならないこともありますが、服装というものは、霊性を特徴ずける一つのシンボルだということです。

以上、回答になっておれば幸いです。


天心 拝


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【第二弾】質問募集

こんにちは!

天心です。

役一年ぶりくらいに質問募集をいたしたいと思います。

個人的なご相談や鑑定、取次は別途、守護霊アドバイスなどを行っているので、純粋なご質問ということで、かつ私が答えられる類のもの、それから、回答することで皆様の学びとなりそうなものに関しては、ブログで回答を発表してみたいなと考えています。

この機会に公開質問をお寄せいただければ幸いです。

応募条件は、以下のようなものを考えています。

・冷やかしや不真面目、ふざけ半分な内容ではないこと
・個人的な愚痴や不満など他意や批判的な内容は受付いたしません
・プライベートなご相談ではなく、純粋な疑問やご質問のみ受付します
・今までブログで掲載した内容で答えがでていると想われるものは対象外とします。
・すべての質問に回答はできないことがあります。
・公開質問なので、応募頂いた内容はブログ上で公開してしまいます。
・いつ頃回答できるか、あるいは回答として取り上げられるかどうかはお答えできないのでご了承ください


とりあえず、このような感じで考えております。


【ご質問応募方法】

件名:公開質問応募

お名前:公開されても良い名前(ハンドル名でも可能) 
※ハンドル名とはネット上でのみ使用する仮の名前のことです。(以前、質問されたので念のため記載)

ご質問:なるべく質問の趣旨がわかるように記載してください。


応募先:tensin.session〇gmail.com ※〇を@に変更して使用してください。


【募集期間】

とりあえず、2012年9月末までを区切りとして締切りたいと思います。

状況によっては延長するかまたは、途中で締め切る可能性もあります。


以上、お知らせでした。


天心 拝


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【2012年9月度】神田明神への参拝

神田明神9月度の参拝を御奉仕してまいりました。

ご寄付の一部もお賽銭箱に奉納し、さらに献灯も継続いたしました。

祈願串の方も、今回はFGSの会向けのものと、取次鑑定の御依頼者向けのものと、道名授与者向けのものに分けて奉納させていただきました。

毎回の祈願は感謝のお祈りから入りますが、それ以外にも取次鑑定をさせていただいた方のフォロー祈願、その方々が課題にきちんと向き合い、乗り越えていけるようにお祈りいたしました。

それから、道名授与者が天命と向き合い、成就できるようにさらなる道名に霊力が発揮されますことも祈念いたしました。

また、FGSの会では霊性開拓の飛躍というテーマもあることながら、会報メルマガの発刊も滞っている状態なのでこのことの打開の誓いと、一人ひとりのメンバーが霊的に向上していくことができるように祈願いたしました。

ブログ読者の方もしっかりとブログを通して良きもの麗しきものを得ることができますようにともお祈りしています。

神田明神は、ビジネスマンの参詣も多いようなので、しっかりと日本の経済を支えていただくためにも、ビジネスマンに元気になっていただけるようにお祈りもいたしました。

毎度、毎度、お祈りする内容には事欠きませんが、いつも清々しい神気を感じながら参拝できることにまずは本当に感謝すべきことなのかも知れません。

なんでもないような日々を当たり前と思わず、なんでもないような日々があればこそ、魂の意志を表現する時間や場にも恵まれるのだということを忘れてはいけませんよね。

それでは、最後に神田明神にてのメッセージを御紹介します。


---------------------

遥かなる道も

楽しみ笑いほがらかに進め

気がつけば蒼天のもと

大楽を悟るであろう

---------------------


見果てぬ夢やとてもたどりつけそうもない目標も、その途上の道を楽しんでいけば、気が付いたら、いろいろと悩んでいたことも雲ひとつない青空のような気持ちになり、本当に楽しい境地が何であるのかを悟ることでしょう。

といった意味になります。(あくまで簡単な咀嚼による)


天心 拝


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【質疑応答】守護霊の意志が優先されることはあるのか

こんにちは。


天心です。


御質問のメールをいただきました。

現在は、質問を募集をしていないのですが、皆さんと共有した方がよい内容だと判断したものに関しては、不定期で回答させていただくことがあります。

今回の御質問も同じように疑問に思う方もいらっしゃるのではないかと思いまして、急遽、回答をさせていただくことにいたしました。

質問を寄せていただいた方は、めろんぱん様です。


【質問】


実は、どうしても疑問に思うことがありまして、今、質問の受付はしていないかとは思うのですが、もし、お答えして頂けたら…などと不躾にも再度メールさせて頂いてしまいました。

お忙しければ、スルーして頂いても勿論構いませんが、もし、答える価値のある質問であるなら、お答えして頂けると幸いに存じます。

よく、「私達は守護霊の操り人形ではない」「全ての決定権は自分自身にある」「自分が変われば、守護霊が変わることもある。主体は自分である」などということをスピリチュアリズムでは耳にするのですが、ごく一部に例外って存在するのかな?っていうことなんです。

例えば、江原啓之さんの本で読んだのですが、江原さんの指導霊としてずっと付いていたお坊さんが、どうしても江原さんを霊能者に育て上げたくて、様々な霊現象を引き起こしていた、との記述がありました。その当時の江原さんは大学生で芸術家を志し、彫刻を専攻なさっていたそうです。だったなら、指導霊はお坊さんではなくて芸術家がついても良さそうなものなのに…と思ってしまいます。

あと、オーラの泉に俳優の大泉洋さんが出演なさった時の話で、東京の大学を受けたら全部落ちて、あまり行きたくなかった地元の北海道の大学だけ受かったので、しぶしぶそこに入学したことがきっかけで演劇への道が開けた、とのことでした。しかもそれは「神様」が仕組んで、全部東京の大学は落とした、とのことだったんです。この「神様」っていうのも守護霊のことなのでしょうか?そして、ここでも本人よりも霊界の方々の意志の方が尊重されているような気がするのですが、どうなのでしょうか?

つまり、私が一番知りたいのは、本人の意志うんぬんに関わらず導かれていく道、いわゆる決められてしまっている定め、みたいなものって存在するのかなぁっていうことなんです。

長くなってしまってスミマセン。どうしても今の自分とも関連ある疑問のような気がして、ずっと気になっていたことなんです。


【回答】

私もブログ記事などでも、毎度のごとくお話させていただくことに「主体性」の大切さがあります。

守護霊は魂の指導、教育を主として、多少の力添えや守護をしてくださることはあっても、人の主体性を無視した導きはしないということも何度もお話させていただいています。

しかし、世の中の様々なスピリチュアルなお話を見聞していると、守護霊の意志によって導かれたり、自分の意志よりも守護霊の導きを優先されているように思えるようなエピソードも聞こえてきたりしますよね。

御質問の中でもあった江原氏のお話のように、「どうしても江原さんを霊能者に育て上げたくて、様々な霊現象を引き起こしていた」なんて聞くと守護霊は自分の意志を守護している相手に押し付けていると思えてしまっても無理はないかも知れません。

また、俳優の大泉洋氏のケースのように「東京の大学を受けたら全部落ちて、あまり行きたくなかった地元の北海道の大学だけ受かったので、しぶしぶそこに入学したことがきっかけで演劇への道が開けた」ということであれば、本人の意志は反映されていないではないかと思うかも知れません。

このように見ていくと、守護霊は自分の意志を例外的にでも守護する当人に押し付けるようなことがあるのかというように感じてしまいますよね。

でも、やはり、守護霊はバックエンドの存在です。

本人の意志を尊重することは間違いないのです。

では、なぜ、江原氏や大泉洋氏のようなケースが散見されるのでしょうか。

まず、誤解のないように言っておきたいのが、江原氏の場合も大泉洋氏の場合も決して守護霊は本人の意志を曲げたりはしていないということです。

確かに表面的にみれば、江原氏は当時、芸術方面に行きたかったのに様々な霊現象にあい、結果的にスピリチュアルカウンセラーの道に入ることになりましたよね。

でも、これは、決して守護霊がそうしたかったからそうしたのではないのです。

江原氏は守護霊がそうしたかったと表現しているのかも知れませんが、これは、少し正確ではないと思います。

正確に表現するならば、天命の一つとしてスピリチュアルカウンセラーとしての活動(あくまでその活動の中に含まれるテーマ)があり、その天命は己が生まれてくる前に了承してきているはずなのです。

しかし、生まれ変わると人は、過去世や霊界での出来事は記憶に残っていません。(ブログ記事:「魂の旅路」参考のこと)

まっさらな気持ちで生きる中で、天命とはあまり関係性の薄いことにも経験として着手することもあります。

守護霊もそれをいきなり止めたりはしませんが、人生の流れなどを太極的な視点で見て、大きくずれ込みそうな場合には、起動を修正するために御働きになって、本人に起動を修正するように導くことはあるでしょう。

勝手に守護霊の思惑だけで人生の道を変えてしまったりすることはないのです。

主体性を重んじる守護霊は必ず、最初は見守るスタンスでいます。

そして、本人が魂の声に従って生きることを見守っているのですね。

でも、時として、あまりにも天命や魂の向上から外れるような行いを極端にし始めると守護霊も大きく動くわけです。

そうでない限りは、あくまで見守るだけです。

その守護霊の御働きを感じるものの咀嚼の仕方によっては、「守護霊にやらされた」「守護霊がそうしたかった」という言葉で表わされることはあるのではないかと思います。

守護霊からすれば、「お前が決めたことだろう?」と言いたいところでしょう。

それに江原氏の場合は、確かにスピリチュアルカウンセラーという道に入りましたが、同時にオペラなども習得されていますよね?

彫刻の道ではないですが、結果的に芸術の道も歩まれているではありませんか。

否、彫刻の道だって、おそらく、江原氏が本気で進もうと思って行動されていたら、守護霊も尊重されていたのではないかなと思うのです。

結局のところは、その人の本気度、どれほどそれを成し遂げたいかという気持ちにもよるので、単純に守護霊の導きや本人の希望が叶うわけでもないのです。

単なる我儘でしかない意志は、守護霊の導き以前に実現することはないでしょう。

逆にいえば、至誠天に通ずという言葉もあるように、真剣に目標や志を立てて向かってゆけば、たとえ天命とはあまり関係性の薄い内容であったとしても、守護霊は守護を行ってくれたりもするのです。

大泉洋氏の場合も東京の大学全てを落とされても、絶対に東京の大学に行くんだ!という強い信念で浪人を重ねてもチャレンジし続けたならば、もしかしたら、別の展開を迎えていたかも知れません。

もちろん、これは仮定の話に過ぎませんし、結果的には大泉洋氏は俳優の道で成功されていますし、守護霊の導きには感謝すべきことではあるでしょう。

しかし、これも守護霊が勝手に東京の大学を落として軌道を修正したわけではありません。

おそらくは守護霊の判断で最も天命に近い場所は北海道にあると判断して、そちらの方に導いてあげた方が、彼にとって一番良いだろうということだったのかと思います。

主体的意志といっても、強い意志、弱い意志、いいかげんな意志、天命に沿った意志、いろいろあります。

守護霊は全ての意志を一応は尊重はされますが、プライオリティとして天命をまず考え、その上で本人の強い意志を支持し、弱い意志も一応は耳を傾けて、導きを行う際の参考にします。

いいかげんな意志は、いちいち取り上げているときりがないので、受け止めてはいても、守護霊としては動かず見守るだけ。

このような感じになっています。

結論としては、「守護霊が勝手に人生を操作することはない」といえるでしょう。

全ての根源は各人の魂の向上とその意志にかねられているということです。

長々とした回答となってしまいましたが、御参考になれば幸いです。


天心 拝


P.S

今回は御質問の内容の趣旨の関係上、江原氏や大泉洋氏などの具体的な方のお名前を出してしましました。

本当はあまり、現在活動中の方の具体的なお名前を出すと先方になんらかの迷惑をこうむる可能性があるので控えているのですが、今回は質問の内容からどうしても触れないと回答しにくい部分があるため、やむを得ず記載をさせていただきました。

回答の内容は、江原氏や大泉洋氏に対してなんら含むところがあってのことではありません。

回答は、あくまで天心の視点、一意見として受け止めていただければ幸いです。

守護霊に対するスタンスや解釈も江原氏と私とでは異なる点もあるかと思います。

ですから、異なる点を見つけたとしても、咀嚼の違い、解釈の違いと受け止めて、また何より感応する霊界の違いがあるということを踏まえた上で、決して対立的にみることなく、調和の心を持って受け止めていただければと思います。

蛇足ながらこの点を付け加えさせていただきます。


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無難を超える~ハラハラどきどきのススメ~

皆さん、最近、ハラハラどきどきするような体験をしていますか?

毎日の日々にマンネリを感じはじめると人はいつしか、退化、退歩を始めます。

人間の動物としての本能はどうしても、安全、安心を求めてしまうため、万事において無難に済まそうと行動してしまいがちなのです。

無難に物事をこなさそうとすれば、心は落ち着き、心臓は穏やかに動きます。

しかし、無難から離れれば、心はさざめき、鼓動は矢継ぎ早に太鼓のごとく打ちつけるようになります。

難しいこと、リスクのあること、自分が経験したことがない未知なること。

動物的な本能からいえば、なるべく近づきたくないと思ってしまうことでしょう。

でも、人がもっとも成長するのは、無難を排して、難しいこと、リスクのあること、未知なる領域に踏み込んだ時だけです。

無難なことだけを行っていても、成長はしないのです。

では、自分自身にとって無難を超えることとはどんなことなのでしょうか。

人それぞれに無難とそれを越えた領域の線引きは異なります。

たとえば、新人の営業マンにとっては、赤の他人の家のインターフォンを押してセールスを行うことが無難を越えた領域なのかも知れません。

しかし、ある程度、ベテランの営業マンになってくれば、それくらいはなんでもなくなり、段々と単なるセールスは、無難な領域に入ってきます。

つまり、あまり、実行に移してもハラハラどきどきしなくなるわけです。

そんなベテラン営業マンでも、大企業の社長さんに直接あってセールスするのは、少し勇気がいる行動になってくるかも知れません。

その壁が越えられるかどうかが成長できるかできないかの分水嶺ですね。

つまり、人によって異なる無難とそうでないこととの境界線は、「ハラハラどきどき」するかどうかということを基準にできるわけですね。

人はハラハラどきどきするようなことを経験して、それを乗り越えてなんということもなくなる時、大きく成長を遂げているものです。

口から心臓が飛び出るほどに緊張して、手に汗握る瞬間を越えていくことが無難を排して、新しい自分と出会う大きなきっかけとなることでしょう。

私自身、これからどれだけ、ハラハラどきどきを経験して壁を乗り越えてゆけるのだろうか。

そんなことを考えています。

読者の皆さまにおかれましても、ちょっと日々がマンネリだなと感じ始めたならば、自分がハラハラどきどきするような領域に一歩踏み込んでみることをお勧めします。

無難を越えた先に魂の成長があることでしょう。



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プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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