霊界を理解する一つのポイント

どんな霊界を背後に抱えているのかによって、その人やそのグループの内面的実態を審神していくことができます。

たとえば、優し気持ちが満ち溢れた霊界にある人は、ボランティアや人助けになるようなことを行う方向へと導かれていきます。

情熱とパワーある霊界であれば、バリバリと戦闘的に物事を推し進めていく営業マンになったり、あるいは格闘家として技を磨き、己を鍛えるというような方向に導かれるかも知れません。

霊界のありようが顕現化することで現世のありようが定まり、人生の傾向も定まってきます。

今までは霊界を変えることで現世を作っていくという視点でお話することが多かったと思いますが、少し視点を変えて、これから自分が関わろうとする人やグループ、あるいはフィールドがどのような霊界を内包しているかを判断するためにはどこに注目すべきかについてお話してみようと思います。

ポイントはいくつかあるのですが、一つ重要なことを挙げろといえば、その人やグループ、あるいはフィールドの持つカルチャーを理解するということがあります。

カルチャーとは習慣や考え方行動様式、価値基準、常識などをひとくくりにして次元を一個あげた概念です。

その人やグループのカルチャーが実は霊界を表す象徴となっているのです。

たとえば私たち日本人は日本のカルチャーを知らず知らずのうちに受け入れて生きているはずです。

日本の習慣は世界のスタンダードということにはなりませんし、価値基準や常識なども他の国とは異なっています。

もちろん、外国においても同じようにカルチャーは異なるわけです。

このカルチャーの違いが霊界の違いを表している現世における象徴なのです。

このことは個人やグループ、フィールドあらゆる点にも適用できるポイントでもあります。

これから自分が関わろうとしている分野や人やグループがどういったカルチャーを有しているのか。

ここを知ることで、これから自分が関わり合いになり霊界共有を起こしていく可能性のある霊界を理解することができます。

ずっと日本で生きてきた方は、日本のカルチャーが作り出す霊界に強い影響を受けています。

しかし、何年間かアメリカに留学したり、あるいは仕事の出張などで海外赴任したりするとアメリカの霊界の影響を受け始めるわけです。

アメリカ帰りの帰国子女の方がどこか、日本人でありながら日本人ばなりしている感じがしたりするのは、霊界の影響を受けているからだとスピリチュアル的な視点ではいうことができると思います。

私たちは様々な霊界と共有現象を起こし、あるいは自分自身の霊界の中に様々な要素を取り入れながら生きています。

ここで問題になるのは、自分の霊界をより高い次元にしていくためにはどういう霊界と関わっていくべきかを考えるということです。

より高次元な霊界に触れていれば自分自身の霊界も高いものになってきます。

逆に低次元層の霊界ばかりに触れていると自分自身の霊界もいつしか低次元層に合わさってくることになります。

ですから、なるべくスピリチュアル視点で物事を考えるならば自分がどうなっていきたいのかを鑑みて、取り入れていく霊界を考えていく必要があるわけです。

私たちが現世で学ぶ一つの理由としては、自分の霊界がある程度定まってしまっている霊人に比べて、現世の人間は様々な霊界との関わり合いの中で自由に霊界移動ができるチャンスがあるからなのですね。

このような発想で現世を生きていくと、また違った人生の意義を見いだせるかと思います。

一つの考え方として、霊界を理解するポイントとしてカルチャーを見て判断し、自己に必要な高次元なものを選んでいただければと思います。


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心に残った守護霊からのメッセージ5

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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正しければよいというものではありません

善なることならば正しいということでもありません

物事には美しさと調べがあることを知りなさい

無粋なる魂に本物を理解することはできないのです

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なんでも論理的に答えを出して正しいとしてしまうと忘れてしまいがちなのは美的な意識なのかも知れません。

正しいことや良かれと思うことを行うだけではなく、そこに美しさや調和がないと本当の意味で高いレベルのものを受け止めて理解することはできないということだと思います。

ついつい、どんなことにももっともらしい答えを得てそれで良しとしてしまう傾向があった時にこのメッセージが降りてきました。

私たちが意識しなければならないことに真善美があります。

真理を追究したり、善なる行動を取るということには誰でも意識がいくものですが、最後に美しさというところで締めくくれなければ本当の意味で真理も善なる行動も活きてこないということなのでしょう。


天心 拝


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セカンドステップに進む

何か道に迷ったり、志を立てて進もうとする時に人は何かしらのアクションを起こします。

その第一歩はおそらく、どうすればよいのかヒントを得るために「知る」という行為を行うことが多いのではないでしょうか。

インターネットなどが普及する現代においては、物事に対する知識や情報を得ることは非常に簡易になってきていることと思います。

インターネット以外でも本も日々、沢山の新刊本が発刊されていますし、書物などが貴重であり、なかなか情報や知識が得にくかった昔の時代に比べれば、昨今は本当に学ぶチャンスに満ちているといえるでしょう。

その恩恵からか最初のステップでもある「知る」という学びに関しては多くの方がその一歩を踏み出すようになってきたように感じます。

私たちを道を開いていくことを困難なことにしてしまうのは、最初の一歩が踏み出せないことに多くの原因があります。

そういう意味では現代は恵まれている時代であるな思います。

もっとも、現代においてもその一歩も踏み出さないという方もいらっしゃることと思います。

これからお話する内容はその一歩を踏み出せないという方向けのお話ではありません。

これは、別に差別しているわけではなく、私のこのブログをお読みいただいている時点でおそらく、一歩踏み出すことに成功した方だと思うからであります。

一歩が踏み出せていなければ、私のブログにも出会っていないはずなので、出会っていない方向けのお話をしても仕方がないわけです。

なので、今からしたいのは第一歩からもう一歩先へと進むためのセカンドステップについてになります。

冒頭に話を戻しますと私たちは何かしらの志や目標、思うところがあって道を求めて歩き始めます。

何かを得たいという気持ちがあって最初の一歩を踏み出したわけですが、大抵の方はその一歩で道が途絶えてしまうことが多いように思うのです。

たとえば私のブログを例にしてお話させていただければ、最初にスピリチュアルや守護霊といったことに興味を持ち、どのような世界なのかを知ろうして、検索エンジンやリンクをたどったり、あるいは紹介を受けたりしてこのブログにたどりついたことと思います。

これがスピリチュアルや守護霊に対する第一歩の「知る」という行為かと思います。

しかしながら、そこから第二歩目すなわちセカンドステップに進める人は少ないものです。

本当に第一歩であるファーストステップのおそらく何十分の一か何百分の一の方しか進む方がいないのです。

では、セカンドステップとは何かといえば、実践的、試行錯誤です。

たとえ守護霊の存在やスピリチュアルの世界をある程度理解できたならば、次は守護霊との交流や深く感応したり、さらに深い学びへと入っていく自主的な行動が必要になってきます。

ブログではある程度の守護霊との交流方法の基礎に成る部分はご紹介しています。

行おうと思えば、いつでも行えるようなものばかりです。

しかし、その実践へと進む人は少ないのではないかと思います。

ありていにいえば、いろんなスピリチュアルな世界の知識だけ集めて、いろんな人の意見だけを集めて、わかったつもりになっているというレベルで留まってしまう人が多いのではないかと思います。

第一歩を折角踏み出しても、第二歩めすなわちセカンドステップに進めないと学びは空転してしまうものなのです。

ですから、このブログを読んだならば、次には実践してみること、守護霊アドバイスなどで守護霊の霊波動を取り次いだ息吹の込められた取次を受けてみること、FGSの会で深く学んでみること、その中でまた試行錯誤の実践を行っていくことが学びを深めていくことになるわけです。

知識を知るというだけで傍観者でいるだけならば、学びは深くなっていきません。

しかしながら、こういったお話をしてみても、なかなか先に進まないのが現実です。

世の中のほとんどの書籍は第一歩を踏み出すのを促す提案が主体のものが多いです。

でも、本当に世の中の人に必要なのものはセカンドステップに進むことを促すものではないかなと最近は思います。

なので、私も具体的なワークなどをFGSの会などでは提唱したり、やる気のある人が自らを成長させていくためのプログラムを作っていこうと思っています。

ファーストステップを卒業してセカンドステップへ進みましょう!

今回はこのような提言をさせていただきました。

これに呼応して魂を奮い立たせる方が一人でも多く現れますことを願っています。


天心 拝



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悔しさはエネルギー

悔しい思いをしたことはあるか


悔しい思いを避けてはいないか


悔しい思いは負のエネルギーだ


でも、悔しい思いがあるからこそ


次こそ必ず!という闘志がわくものだ


悔しい思いを避けていると


いつしか不抜けた心に成る


事なかれ主義とは


悔しさを避け続けることをいう


失敗の悔しさを


あざけり笑われる悔しさを


受け止めて


人は成長を繰り返すのだ


悔しさとは負のエネルギーだ


しかし、その負のエネルギーがいい


その負のエネルギーを前に向けることができるか


そのまま腐って膝を抱えてうなだれたままでいるのか


そこが人生の分かれ道なのだと


気付いた人は幸いである


負のエネルギーも


プラスに転じれば正のエネルギーとなる


正も負も


結局はその人の志次第なのだ


どんなことが起こっても


悔しさから逃げないで


悔しさの負のエネルギーに負けないで


負を正に転じれば


いつだって人生には


逆転サヨラナホームラン


打てるチャンスはあるものだ


悔しさから逃げるなよ


悔しさを避けるなよ


悔しくて


涙流して


どこまでも殻を破って


成長し続ける人生は


本当の意味で


楽しく幸せな人生だと


言えるのではないかと思う


そんな幸せな人生を歩みたければ


悔しさを避けないことだ


悔しさをエネルギーにして


今日もこのデコボコ道の人生を


歩いてゆこう


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夢があるだけで素晴らしい

「目標があるのだけど、なかなか到達できなくて」

「夢に向かって努力したいけど、まだまだ遠いです」


なんていうご相談を守護霊アドバイスなどを通して受けることがあります。

目標に向かって努力しようとしても遅々として進まず、夢は遠くで輝くばかり。

そんなため息混じりのご相談が時としてありますが、私は声を大にして言いたいことがあります。

それは、「夢があるだけで素晴らしい」ということです。

もちろん、夢を描いても実現しなければ絵に描いた餅ではないかと言われれば返す言葉もありません。

しかしながら、人生を輝かせる最初にして必要不可欠な第一歩というのは、夢を描くことにあるのです。

といいますのも、昨今、夢を語る人が少なくなってきたなと感じることがあります。

少し昔の話になりますが、私がとある会社に勤めていた時にたまたま取引先の会社のOLさんとお話する機会があった時のことです。

会話の流れで私は、「なぜ、今の仕事を選んだのですか?」というような趣旨のことをお尋ねしました。

私としては何か目標なり夢なり目指すところがあって、その仕事を選んだと見込んでいたので、その辺のことを聞いてみたくなったのです。

しかし、そのOLさんから返ってきた答えは、戸惑いの表情とともに「いや、流行の職種だったから・・」というものでした。

もちろん、どんな動機で仕事を選ぼうとその人の自由なのですが、その時は拍子抜けしてしまったのを覚えています。

最近、どこかで聞いた話によれば、一昔前の小学生の夢は、「宇宙飛行士になる」とか「会社の社長になる」とか「総理大臣になる」とか「プロ野球選手になる」とかそれなりに大きなものもあったようなのです。

しかし、時代が不況に傾き始めると小学生に夢を訪ねると「公務員になること」という答えが返ってくるようになったとか。(汗)

さらに最近では経済不況から失業率も上がり、デフレも深刻化する状況の中、小学生の夢は「正社員になること」なのだそうです。(涙)

もちろん、公務員や正社員になることが悪いとか、目標として不適切だとかいうつもりはありません。

そういったものにあこがれてもよい訳なんですが、しかし、それが夢だと小学生の頃から口にするようでは少し寂しい気がします。

夢とはもっと見果てぬ、できるかどうかわからないようなものが良いのです。

余計な御世話だと言われるのを承知でこのようなことを言っていますが、実は、単なる感傷的な理由だけでこのようなことを主張しているわけではありません。

それは、「夢の実現にはギャップがある」という法則があるからであります。

これは何かと言いますと夢というものは大抵そのまま描いた通りには実現しない場合が多いといえます。

身も蓋もない言い方になって恐縮ですが、小学生のころの夢をそのまま実現した方というのは非常に少ないのではないかと思います。

もちろん、メジャーリーガーのイチロー選手などは小学生から現在の状況を夢として語っていたと卒業作文にも残っているので例外はあるかと思います。

しかしながら、大抵の場合は、描いた夢がそのまま実現しているケースは稀かと思います。

では、夢を描いても実現されないので描くだけ無駄なのでしょうか?

そんなことはありません。

実は夢の実現の法則とは、以下のことがいえるのです。


夢は夢のスケールの一段、二段下の形で顕現される傾向がある。


これが夢の実現の法則の一つかと思います。

これはどういうことかといえば、わかりやすい例でいえば、「会社の社長になりたい」という夢があったとします。

そのために努力している人はどのような夢が実現されているのかといえば、大抵は課長か部長、せいぜい、役員の一員になれたならば良い方だという感じです。

社長には届かず一段、二段下のポストを実現するわけですね。

「小説家になりたい」という夢であれば、一生懸命に小説を書いて公募などをしてなんとか佳作を取ったりする程度か、細々と出版社の原稿書きの仕事を得るライターになれる程度かも知れません。

このように夢というのは自分の描くもののスケールが一段、二段下がったものになることが多いという傾向があるものです。

では、もし、本当に「社長になりたい」「小説家になりたい」という夢をそのまま実現したいならばどうすればよいのでしょうか。

それは、一段、二段あるいは見果てぬ夢といわれるくらいの大きな夢を描く必要があるとうことです。

社長になりたいならば、最低でもグループ会社の総帥になるとか、複数の会社や事業を起こして社会にとって大きな善なる影響を与えることができる存在になるという程度の夢を描かなければ難しいでしょう。

そんな大きな夢を描きながら経営を行う中小企業の社長さんは世の中に沢山いらっしゃることと思います。

そのくらい夢があってエネルギーがないと社長業は務まらない部分があるわけです。

小説家になりたいならば、芥川賞や直樹賞などの賞をそうなめにして、社会と人の心に感動を与え、その小説によって人生を変えてしまえるくらいのものを書きあげようと思えなければ、到底、小説家として独り立ちしてやっていくことなどできないはずなのです。

そのように考えると将来の夢が「公務員」といっている状態では、公務員にも成れない可能性があるわけです。

その夢が「正社員」だとどうなることか。。ましてや、夢がないとどうなってしまうことか。

もう一度、言います。

夢は見果てぬくらいの大きな夢が良いのです。

その夢がその通りに実現するかどうかは別にして、大きければ大きいほど力を生む私たちのエネルギーになってくれます。

遠慮する必要などはないのですね。

だから、夢などないという人は、最初から見果てぬ夢を描くというのは難しいならば、とりあえずの夢でもかまわないので描いてみてはと思います。

そして、夢があるという人ももっともっと大きく描いてみてはいかがかと思います。

遠慮はいりません。

もっともっと夢を描いて人生を輝かせて欲しいと思います。


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改革と保守の関係

動乱の時代というと言い過ぎとお叱りを受けるかも知れませんが、昨今のニュースを見ていると日本もそれを取り巻く世界情勢も混乱しているように感じます。

日本は未だに経済不況から脱せずにいますし、その上、天災やら地震、原発の問題なども決着も見通しも立たずに紛糾しているように見えます。

欧州の方ではユーロ危機の影響で失業者であふれていて、日本以上に深刻な恐慌に見舞われています。

経済以外においても尖閣諸島をとりまく中国との軋轢、反日運動などの問題なども、この大変な時にこれ以上、余計なトラブルは起こらないでくれ!と言いたくなります。

いろいろあるのがこの世界というものである以上、紛糾するも混乱するも、ある程度は仕方がないのかも知れませんが、私としては人々が不安に思えば思うほど、負のエネルギーは醸成されて、顕現される傾向があるためそちらの方が気に成ります。

どうぞ、これ以上に災禍厄難が起こらないことを日々、祈っています。

さて、そんな混乱する世界であり、日本国内も十分、混乱しているわけですが、こういった状況の中で出てくるムーブメントとして、「改革」というものがあります。

改革とは革命によって改めることをいうわけですが、革命とはどのようなことを指すのでしょうか。

易経に記される大成卦の一つに沢火革(たくかかく)という卦があります。

この卦の象意はまさに「革命」であります。

「革」は「あらためる」という意味がありますが、「改」も同じく「あらためる」という意味があります。

双方、あらたまるという意味なのですが、その指すところは大きく違います。

「改」の方は、良くないところを諌めて、正すという意味になります。

たとえば、樹木が立派に育つように伸びすぎている枝を切り幹を守るようなことを「改(あらためる)」と言います。

しかしながら、「革」の方はこれとは違います。

樹木を幹ごと引っこ抜いて新しい樹木を植えるようなことを指しています。

つまり、全てを一新してしまうことが「革(あらためる)」の本義なのです。

ですから、易経の占的で沢火革の卦を見出したならば、それは全てを一新するという革命を示唆していると受け止めることになります。

改革という言葉は両方の「あらためる」の意味が含まれているので、言葉を運用している人が何を意図しているのかを見極めないと「改」のことなのか「革」のことなのかはわかりません。

昨今の日本の風潮として「改革」という言葉をよく耳にすることが多いのですが、「改」の立場のものあれば、「革」の立場のものもあるように感じます。

現状の日本を覆う空気が閉塞的であるがゆえに「改革」という言葉が美しく響くのは自然の道理なのかも知れませんが私達はいつでも改革を望んでいるのかといえば、そんなことはありません。

改革の対比的な位置にある言葉として「保守」という言葉があります。

これは文字通り守って保つという考え方です。

私達、日本人には今まで続いてきた歴史や文化や生活様式、思想、価値観があります。

もちろん、日本人以外でもそういったものはありますが、私たちは日本で生きる上では、私たちのやり方というものがあり、一番、しっくりくるやり方を伝統として続けてきたという歴史があるわけです。

私たちは、心根にはずっと守り続けてきたものを末永く守っていきたいという思いがあります。

この思いこそが「保守」ということなのかも知れません。

その思いがあるからこそ、「保守」という立場でものを言う人も世の中には多くいます。

伝統を守り、古来からある日本のあり方に立ち返れという考え方も保守的な考え方といえます。

ここで、「改革」と「保守」という二つの相反する考え方がぶつかり議論が起こり、「改革」か「保守」かという点で紛糾しているのが世の中には見受けられます。

どちらが正しいのかということで議論がなされているわけですが、実はこれはとてもおかしなことでもあります。

抜本的に改めていくことが大事という考えと、伝統を守り続けることが大事という考え方とどちらが正しいかといえば、それはどちらも正しいと言えるし、どちらも間違っているともいえるからです。

どういうことかといえば、私たちは、通常は安定し、安心してくらせる生活を欲しているはずです。

安定し安心してくらすためには、継続的でなじんだ伝統ある暮らし方というものが必要となってきます。

ですから、基本は保守的になるものなのです。

保守的にならねば、いつも生活様式や状況が一変してしまうような環境が続くと人は安心して生きていくことができないからです。

しかしながら、この世の森羅万象は全て動いています。

一つとしてとどまることを知らず、動き続けています。

動き続けている以上、本当の意味での不動や安定はありえません。

環境が変わり、時代が動き、人の心も動いていく。

この動きの中に合わせて身を変え、考え方を正し、改めていくことが必要になってきます。

ですから、時には改革が必要な場合もあるわけです。

問題は、そのタイミングであり、やり方でもあります。

禅の言葉に「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉がありますが、これは卵から雛が生まれる瞬間を見計らって親鳥が殻を外側からくちばしでつつく様を表しています。

雛が殻を破るときに内側からくちばしでつつく瞬間を見計らって親鳥が同時に外側からつつかなければ、無事に雛が生まれることはありません。

これと同じように改革もタイミングを間違えると単なる破壊行為になってしまう可能性もあります。

何しろ全て今までやってきたことが一新されてしまうわけなので、非常に恐ろしい行為でもあるわけです。

今、日本の紛糾する状態をつぶさに見ていると単に改革という言葉や保守という言葉にとらわれているだけの言動に聞こえるものもあります。

本当は保守も改革もどちらも一連の時代的動きの中で必要な要素であるもので、どちらが正しいというものではないはずです。

いろいろと世の中には言葉だけが先行するところがあるので、その言葉の先にある姿をきちんとイメージしてみることも大事かと思います。

すくなくとも、私は、改革という言葉は安易に使うべきではないと思っています。

全てを一新して全部捨てて生まれ変わる覚悟があるのか。

そんな覚悟がないならば、「改」はあっても「革」はまだ早いのではないのかと思っている次第です。

少し今回は冗長なお話になってしまい恐縮ですが、皆さまに置かれましても一度、私たちがどうあるべきなのかを考えてみるきっかけとなれば幸いです。


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【公開質疑応答】亡くなった直後の状態について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


先日、お世話になった祖父が他界しました。まだ悲しみの気持ちはあるものの、無事この世での修行を全うできた祖父に対してお疲れ様でしたと感謝の気持ちでいっぱいでございます。

今回祖父が亡くなり、葬儀の日まで自宅に安置されていました。その間、その自宅に同居している身内が夜に物音や祖父らしき足音がしたと言っておりました。

人づての話しですと、死後7日間程は自分の遺体まわりにいてその後四十九日頃までは知人などのところに挨拶まわりに行ったりなどをするというお話しを聞いたことがあります。

死後の世界のお話は天心様のブログを拝見させて頂きイメージが出来るのですが、亡くなり死後の世界に行くまでの間どこにいてどうゆう状況なのでしょうか?

祖父が今どこで何をしているのか、私が祖父に対してつぶやいていることは伝わっているのかもしれませんが、大好きな祖父の事がとても気になります。

疑問に思ったので質問させて頂きました。宜しくお願いします。


【回答】


姫様

御質問ありがとうございます。

亡くなった直後に霊界に行くまでの期間はどんな状態にあるのかということですよね。

これは、人によっても異なりますが、まだ、自分の所属すべき霊界が定まらない状態にあるといえます。

ですから、現世と霊界のはざかいにいるという状態になることが多いです。

なぜ、人によって異なるのかといえば、現世で生きている間に深く自分の行くべき霊界を自覚して常日頃から感応している人は、すぐに霊界に直行する場合があるからです。

ただ、通常は霊界のことなど意識はしていませんし、大抵は現世に意識カーソルが強く当たった状態を長くキープしていたわけなので、すぐに霊界に戻せないという状態があるわけです。

>人づての話しですと、死後7日間程は自分の遺体まわりにいてその後四十九日頃までは知人などのところに挨拶まわりに行ったりなどをするというお話しを聞いたことがあります。

仏教では49日間は現世にとどまると説いていますが、これは、成仏するまでにはある程度、時間がかかることを示唆しています。

つまり現世から霊界への意識カーソルの移行期間をこのように表現しているわけですね。

>死後の世界のお話は天心様のブログを拝見させて頂きイメージが出来るのですが、亡くなり死後の世界に行くまでの間どこにいてどうゆう状況なのでしょうか?

一番多そうなプロセスとしては、まずは現世にしばらくとどまり、段々と慣れてくると現世から少し離れた特殊な霊空間に移行します。

これは、新説・霊界ストーリーでの霊界に旅立つ前の飛行場のような場所、エントランスのような霊空間を描写させていただきましたが、一次的な霊的エリアとして用意された空間に移行していくことになります。

本来は霊界とは心の世界であるので、一瞬で移動できるはずなのですが、私達は心の世界にまで制限をつけてしまう癖が身についています。

ですから、この癖が少しずつ改まっていくのには、方便としてのプロセスが必要になってくるのです。
現世にとどまり自分の亡骸を見物したり、葬式をされているのを見たり、知人の挨拶回りをしてみたりするのは、霊界に移行するためのプロセスなんですね。

いきなり移動できる人はこのようなプロセスを踏む必要もないので、霊界に直行できるわけですが、そうでない方の場合は実にいろんなプロセスが発生して霊界へと導かれていくことになります。

そして、時にはどうしても霊界の存在がよくわからずに現世にとどまり続けたりする方も出てくるわけです。

通常は守護霊などの導きにより、迷わないようにはなっているのですが、現世に対してやその他のとらわれの心がある人は、守護霊の導きからはずれてしまうこともあるわけです。

>今回祖父が亡くなり、葬儀の日まで自宅に安置されていました。その間、その自宅に同居している身内が夜に物音や祖父らしき足音がしたと言っておりました。

おそらくは、お祖父様が霊界へ移行する前のプロセスとして現世での御別れをするための行為がサインとなって物理的現象となって現れたのかも知れません。

亡くなられた直後はこのような現象が起こることはたびたび耳にいたします。

ですから、あまり気にすることはないのですが、霊界へ旅立つ準備をしていると受け止めるのが良いのかと思います。


以上、回答になっていれば幸いです。


天心 拝


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根源的動機が今後を決める

私達が日々、行動することにはその前提として何らかの動機が存在しています。

たとえば、当たり前のように朝起きて、電車に乗って会社に向かい、仕事をする人も多いと思います。

その仕事に取り組むのは何のためかと問われれば、人それぞれにこたえはあるかと思います。

「生きるためにはお金が必要だから、お金を稼ぐためです」

という方も多いとは思いますが、そうではなくて、「親の事業を受け継いだからこの店を守るのが私の役目」といったような使命感でやっている方もいるでしょう。

「仕事は趣味です。前から興味があった内容を仕事にしています」という理由もあるかも知れません。

あるいは、「仕事を通して困っている人を助けたい」という慈善の心で仕事をしている方もいるでしょう。

同じ仕事をするという形を取っていても、その動機は様々にあります。

実はこの動機というものが、その後の人生の展開を決める大きな役割を果たしています。

たとえばお金のためにだけ仕事をするという方は、逆にいえばお金が手に入りやすい仕事を選ぶ傾向になります。

仕事の条件で気に成るのは常に給与のことになりがちです。

仕事のみならず、お金とうものが動機としてある場合には、お金さえ得られれば良いという発想で人生を生きてしまう傾向になりがちです。

親から引き継いでお店を経営するという方は、親からの受け継いだものを絶やしてはいけないとう想いにとらわれて、それ以外の可能性が見えなくなることもあるかも知れません。

仕事を趣味として観ている方の場合ならば、ともかく、自分の趣味にあう仕事だけが目につくことでしょう。

だから、それ以外のことには興味がわかないかも知れません。

そのような方の場合は独自のユニークな人生を歩む可能性もあるでしょう。

慈善的な気持ちで仕事に取り組む人ならば、自分が人の助けになっているか、そうでないか、役に立っているのかなどが基準になるため、人生も人のために役に立つことが喜びとなる価値基準で生きることになるかも知れません。

意外に私達の人生というものは、仕事という一つの側面を切り取って観察してみてもわかるように、心の中にある根源的動機によって大枠が決められているといえるのではないでしょうか。

人生には幸福、不幸があるといわれますが、幸福も不幸も実は人それぞれの心の中にある根源的な動機に基づいて決められていることが多いのではないでしょうか。

お金を稼ぐために仕事をするという動機の方は、働いてもお金が稼げないと不幸な気持ちになりがちです。

親の事業を守りたいとう動機の方は、引き継いだ事業がうまくいかないと不幸な気持ちになるかも知れません。

趣味的な動機の方は、自分の趣味に合わない仕事についたならば不幸に感じることでしょう。

慈善的な動機の方は、自分が誰の助けにもなっていないと感じる時、充実を覚えられないかも知れません。

このように不幸の要因はそれぞれの動機にあるといえます。

であるならば、幸福の要因ももちろん、それぞれの動機にあるといえるわけです。

私はどのような動機が正しいかなどとここでは言いたいわけではありません。

私達が行動するにあたり心の中にある動機が人生のありようを変えてしまっているということに気づいて欲しいということです。

何を動機とするかによって、人生のありようが変わるならば、できる限り、理想的な動機を定めることが人生をあらゆる意味で豊かに生きることにつながっていくわけです。

お金にとらわれればお金だけしか見えない人生であり、お金によって幸福、不幸が決まってしまう人生になります。

他の動機も一つの動機にこだわれば、その動機でしばられた人生を送ることになります。

自分自身の生きるべき、行動すべき動機を常に振り返り、見直し、そしてできればより高い次元の発想に動機づけをしていくことができる時に、人生はまたより深味のある様相を見せてくれるのではないでしょうか。

目先のことや自分のこだわりを越えて、自分以外のこと、家族や地域社会、国や世界といった広い範囲をも心に据えた動機を持つことが、結果的に自分の人生を大きく変えていく重要なポイントになってくるかと思います。


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【公開質疑応答】認知症などの霊界の状態ついて

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


いつもお世話になっております。
日々、学ばせて頂いております。

現在、私が携わっていることではないのですが、この先携わるかもわからないと思い、ご質問させて頂きました。

認知症や精神的障害など、元気に過ごしていた方が病によって理性をコントロール出来なくなった場合、その方の霊界はどのような状態なのでしょうか。

また、その道を歩むことが天命なのでしょうか。

サポートする方はどのように受け止め、向き合うのが良いでしょうか。

お答え出来そうなら宜しくお願いします。


【回答】


光様

御質問ありがとうございます。

精神的な病気についてのスピリチュアル的見解などについては、以前の公開質疑応答の記事「【公開質疑応答】精神的病について」にてお話していますので、そちらもご参照ください。

以前の記事でもスピリチュアル見解を述べていますが、今回はもう少し違う角度でお話してみたいと思います。


>認知症や精神的障害など、元気に過ごしていた方が病によって理性をコントロール出来なくなった場合、その方の霊界はどのような状態なのでしょうか。


霊界の状態などは、以前の記事でもお話しているように、魂の傷や穢れによって霊界の状態が曇っていると捉えることもできます。

しかしながら、もうひとつの見方としては、現世に対する意識カーソルがどちらかというと霊界への意識カーソルに移行している状態という言い方もできると思います。

たとえば認知症などの場合、現実に起こっていることと整合性の合わないことを口にしたり、行動されることがありますよね。

それは意識カーソルが現世ではなく、限りなく霊界に移行している状態であると見ることもできるのではないでしょうか。

もちろん、現実的には脳が損傷されていたり、肉体的な疾患が原因もあると思いますので、単純にそうだと割り切れるわけではないですが、一つの可能性としてありえるのではないかと思います。

>また、その道を歩むことが天命なのでしょうか。

その道を歩むことが天命というよりも、運命の流れの中で生じた一つのありようであると思われます。

もちろん、何らかの天命との関わり合いがあって起こるケースもあるかとは思いますが、必ずしも天命成就のために起こっているとは限らないでしょう。


>サポートする方はどのように受け止め、向き合うのが良いでしょうか。


ともかく、偏見と先入観を持たないことが大事かと思います。

精神的病というと特殊で通常ではないというイメージを持たれがちですが、そうではないと思います。

現世次元に意識カーソルがあるものと霊界に意識カーソルが合わさっているものとの間にはどうしてもギャップが生まれるもので、そこに戸惑いが起こることもままあります。

しかし、どんな時にも結局は愛の心で相手を受け止めること以外には、大切なことはないと思います。

どのように対処するか、向き合うかとうのは、もちろん、現実的方法論は沢山あると思いますが、「どうにかして」という意識が強くなれば、本当の意味で愛ある心で向き合うことはできないのかとも思います。


以上、回答になっておれば幸いです。


天心 拝


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心に残った守護霊からのメッセージ4

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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中心を押さえること

ものごとはいかなることにも中心がある

中心を会得すれば

自ずから事は成る

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悪戦苦闘しながら目の前のことに追われていた時に、いただいたメッセージです。

物事は力任せではなかなか進みません。

必ず、要点となるツボが存在するものです。

人間関係にせよ、仕事にせよ、恋愛にせよ、家庭のことにせよ全てにはポイントがあるということです。

そのポイントをつかむために修練することが結果的には一番、物事を成していく近道となりますよというお諭しでした。

どうしても焦ると目の前のことしか映らなくなったり、遅々として進まない状況にいらだちを覚えたりして、ポイントがつかめなくなってしまいがちです。

どんなに遠回りをしているようでも、全てはこのポイントをつかむための布石になっているということを理解することが大事かと思います。


天心 拝


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【公開質疑応答】支配霊について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、めろんぱん様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心さま

こんにちは!

いつもブログ楽しく拝見させて頂いております。

また、先日は、天命・過去世調査をして頂き、本当にありがとうございました。

大変参考になる内容で、ますます毎日が充実してきております。

まだ子どもが小さいので、なかなか具体的には動けないのですが、今、自分に出来うる限りのことはしているつもりです。

これからも、霊界からの声を支えに自分の道を歩んで行きたいと思っております。本当にありがとうございました。

さて、今回質問させて頂きたいのは、いわゆる「支配霊」というものについてなんですけど、巷のスピリチュアル本には守護霊には種類があり、主護霊(これが天心さまのいわれる正守護霊にあたるかと思います。)、指導霊、支配霊、補助霊の四種類である、ということがよく書かれています。

で、その中でも、他の守護霊が生前人間だったのに対し、「支配霊」というものだけが人間ではない、この世に肉体を持って生まれたことのない自然霊であり、稲荷、弁天、天狗、龍神などである、という記述がよく見受けられます。

そこで私がお聞きしたいのは3つです。

1つ目。

天心さまのブログでは「支配霊」についてはあまり触れられていないかと思うのですが、天心さま個人のご見解としては、このように人間でない守護霊が、私達についてご指導下さることは有り得ると思われますか?

そして2つ目。

なんらかのサイトで見た記憶があるのですが、「支配霊は自然霊であるので、同じ自然霊のトップである神様とも繋がりやすい。なので、主に支配霊が主導権を握り(?)、その指揮の下で主護霊や指導霊や他の守護霊が動いたりする」みたいなことを読んだことがあるのですが、守護霊団の中でも、そういう上下関係(?)みたいなものって存在するのでしょうか?

そして3つ目。

やはりこれも、別のサイトや本で見たのですが、よく「龍神様が姿を現してくれました」とかで、龍の形をした雲の写真を載せられてる方がいらっしゃるのですが、本当に龍神様が雲に姿を変えて現れることなんてあるのでしょうか?

以上の3つです。常日頃、疑問に思っていたことなので、答えて頂けるとうれしく思います。どうかよろしくお願い致します。


【回答】


めろんぱん様

御質問ありがとうございます。

>さて、今回質問させて頂きたいのは、いわゆる「支配霊」というものについてなんですけど、巷のスピリチュアル本には守護霊には種類があり、主護霊(これが天心さまのいわれる正守護霊にあたるかと思います。)、指導霊、支配霊、補助霊の四種類である、ということがよく書かれています。

言葉というものは一見同じでも、人によりまた運用上の定義により異なる場合があります。

たとえば、守護霊という言葉一つとっても、私の言う守護霊と巷で言われている守護霊とでは若干の差異があることがあります。

ですから、指導霊や支配霊という言葉もそれぞれの使っている方の定義があるので、まずは、そのことを踏まえて受け止めていただきたいと思います。

ちなみに私が定義する守護霊はある程度、霊格、霊覚の高い、守護を行う使命を帯びた霊人のことを指しています。

そして、この使命を帯びた霊人の集いを守護霊団と呼んでいます。

それ以外の背後にいて干渉を行う霊的存在は背後霊団と呼んでいます。

指導霊は特別に何かしらの意図があり、指導に当たる霊的存在を指導霊と呼ぶことがありますが、ブログ上ではあまり触れていません。

なぜならば、指導霊のお話までいくと個別的になり、普遍性が薄れていく可能性があるので、なるべくわかりやすい内容をテーマとして選びたいという思いがあり、守護霊という言葉に統一しているのですね。

さて、補助霊、支配霊という言い方は私はしたことがなく、おそらくこれは、背後霊団や守護霊団のメンバー構成をあえて分類した言葉なのかなと思っています。

なので、あまり言葉尻にとらわれずにその意味するニュアンスを受け止めることが大事かなと思います。


>天心さまのブログでは「支配霊」についてはあまり触れられていないかと思うのですが、天心さま個人のご見解としては、このように人間でない守護霊が、私達についてご指導下さることは有り得ると思われますか?


ここでおっしゃられている支配霊というのは、御質問の文面から読み解くと自然霊のことですね。

ブログ記事でも龍神についての記事としてお話していますので、こちらも参考にされると良いかも知れません。

御質問としては、自然霊が守護霊として(背後霊として)御指導されることがあるかということかと思いますが、

ケースバイケースとしてあり得るとは思います。

但し、どんな人にもというわけではないかと思います。

その方の天命や霊縁もあって、守護霊団や背後霊団も決定してくるからであります。

また、わたし自身、あまり自然霊について詳細を解説しないのは、自然霊は霊力が強く、霊験も強い反面、霊人のように高い霊格と深い度量を備えてないケースもあるものです。

ありていにいえば、融通がきかなかったり、了見が狭く、必ずしもプラスの導きをしてくれるとは限らない危うさがあります。

なので、私がお勧めするのはしっかりとした霊格、霊覚があり、度量も深く、寛大である霊人の守護霊との交流なのです。

もちろん、自然霊の全てが危険であるとは言いませんし、神仏のご眷属として御働きになっている存在もありますから、一概にはいえませんが、あくまで私の行っていく方針としては、霊人の守護霊がメインになります。


>なんらかのサイトで見た記憶があるのですが、「支配霊は自然霊であるので、同じ自然霊のトップである神様とも繋がりやすい。なので、主に支配霊が主導権を握り(?)、その指揮の下で主護霊や指導霊や他の守護霊が動いたりする」みたいなことを読んだことがあるのですが、守護霊団の中でも、そういう上下関係(?)みたいなものって存在するのでしょうか?


上下関係というよりは、霊格、霊覚の高さや次元の高さ、霊界の大きさ、霊層の高さなどの違いはあります。

御質問文でおっしゃられているケースは自然霊の霊格などが高く、守護霊団や背後霊団を指導するということなのかも知れませんが、これも絶対的な在り様ではないと思います。

逆にもっと高い霊格、霊覚の守護霊が自然霊を使って指導する場合もあるでしょう。

霊界のありようは単純ではないので、一つの事例として受け止めるのが良いと思います。

ちなみに上位霊界あるいは次元の上の世界のことが基本的には優先されることが多いので、そういう意味では、上と下という見方もできるかも知れません。

但し、現世の上下関係のように理不尽な上司がすぐれた部下を権限でねじ伏せるようなことは霊界ではありません。

ある程度の霊格、霊覚が上がってくると下の者は上の者に対する尊敬があり、上の者は下のもに対するいつくしみの心があります。

なので、現世のようにねじれた上下関係にはならないのですね。

蛇足でした。


>やはりこれも、別のサイトや本で見たのですが、よく「龍神様が姿を現してくれました」とかで、龍の形をした雲の写真を載せられてる方がいらっしゃるのですが、本当に龍神様が雲に姿を変えて現れることなんてあるのでしょうか?


雲=龍神ではありません。

ただ、雲や空、海、風、いろんなものを通して龍神は姿を見せてくれることもありますが、それはシンボリックなものであり、あくまでお姿を現しているサインの一つです。

なので、龍の形をした雲の全てが龍神のお姿であるとは限らないでしょう。

ただ、そのお写真を取られた方がなんらかのサインを受け取った証として紹介されているのかも知れませんので、なんとも言えませんが。。


以上、御質問の回答になっておれば幸いです。


天心 拝



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創造性を発揮する

私達は個性を持つ存在であり、その個性を表現することも一つの人生における意義であります。

個性とは一人ひとり本来は異なるもので、その個性があるゆえに同じ人は一人としていないのです。

私達を創造した神なる存在というものは、同じものを一つとして作っていないのですね。

常に新しいものを作り出していくことを創造といいます。

創造性は神様の魂の分魂を授かっている私達にも宿っています。

新しいものをクリエイトしていくことは、この創造性を発揮することになります。

しかしながら、私達の人生を振り返ってみると意外とこの創造性は発揮されていないケースがままあるものです。

私達の周りには、どこかの誰かが作った既製品や誰かが行っているサービスや、人生の歩みや夢さえもいつの間にか自分以外の他人の考え出した路線に乗って決めてしまっていることがあるように思います。

もちろん、既製品を使うことが悪いといっているのではなく、あまりにもその誰かが提供したものを使うのが当たり前になってしまっている人生では、創造性は発揮されないということを言いたいのです。

学力の高い、ネームバリューのある学校に入り、一流企業かあるいは安定的な公務員にするのか、はたまた、ベンチャー企業へ入社して可能性にかけるのか。

あるいは自分の芸術性を発揮するために美大に入って絵画を勉強するなんていう選択子もあるかも知れません。

結婚して子供を育てていく。独身を通して自分のしたいことを追求する。

道はいろいろありますが、その道とても、どこかの誰かが引いた路線に過ぎないのかも知れません。

かくあらねばならぬという人生ほど窮屈で自分の中にある霊性としての創造力を弱めてしまうものはありません。

人生は多様な形があってよいのです。

一つとして同じ人生はないのですから、自分は自分の人生の中で今までになかったものをクリエイトしていくことが大事なことでもあります。

そのクリエイトしていく過程こそが自らの魂の霊性を開拓していくことにもつながることを覚えておいた方が良いかも知れません。


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【公開質疑応答】「生理的に嫌い」について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、さり様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


質問です。

「生理的に嫌い、何となく許せない」という感覚に対してです。

理由もなく極端に嫌いなものや苦手なものというのは人それぞれあるかと思います。

私の場合で申し訳ないですが幼児がとにかく苦手です。

目の当たりにすると逃げ出したり泣き出したくなります。

ちなみに近年多発している幼児虐待なんかの事件については、両親たちに対して言いようもないくらいの怒りを覚えます。

その時だけは子どもの味方の視点になります。

ふと思ったのですが、これって前世と何か関係あったりするのでしょうか。

例えば自分の前世で子どもを虐待していたりとか。

それともただ単純に自分の育った環境のせいなのでしょうか。

そして「生理的に嫌い」な物事に対して守護霊様はどのようにお考えなのでしょうか。

やはり逃げずに乗り越えることを期待しているのでしょうか。


【回答】


さり様

御質問ありがとうございます。

人間、誰しも一つか二つくらいは理屈ではなく「苦手」という意識を持ってしまう物事があるものですよね。

感覚的に嫌だという意識は、一つは魂に刻まれた傷が考えられます。

魂の傷には今生でできたものと、過去世でできたものがあります。

魂に対して大きな衝撃となるような出来事は、時として、その人の意志をゆがめるような働きをすることがあります。

この魂の傷が「生理的に嫌い」という感情に結びつくことがあるということです。


>そして「生理的に嫌い」な物事に対して守護霊様はどのようにお考えなのでしょうか。
>やはり逃げずに乗り越えることを期待しているのでしょうか。



守護霊様としては、魂の傷は元へ戻すことを望まれてはいるでしょう。

ただ、魂の傷はすぐには修復しにくいことなので、魂の傷が何が原因でどこに端を発しているのかを少しずつひも解きながら治っていくことが多いものです。

なので、「生理的に嫌い」という物事に対しても、いずれは乗り越えていくことになりますが、ゆっくりと自分を知る過程の中で克服していくことになるかと思います。

以上、回答になっておれば幸いです。


天心 拝


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自己実現欲求の先へ

巷には様々な自己啓発やビジネス成功術のような技術が沢山紹介されていたりしますが、その中で、多く引用される説にマズローの欲求段階説というものがあります。

簡単に説明するとマズローという方が人間の欲望には5つの段階があると分析したわけです。

かなり有名な説であり、この説を引用して人間の欲望について説明したり、言及したりする方も多いので、知っている方も多いかと思います。

簡単にご紹介すれば、まず、人間の一番最初の根底をなす欲求は、「生理的欲求」と呼ばれるものだとマズローは定義します。

生きる上で生理的に求められるもの、たとえば食欲や睡眠欲、あるいは寒さをしのぐための住居がほしいとか、最低限生きるためのものを欲するという感情ですね。

これは、人間に限らず他の動物にもあるのではないかと思います。

犬も猫も、馬も魚も生命を維持するための欲求として持っているはずですよね。

これが満たされると次の段階に入り、「安全の欲求」というものが出てくるそうです。

命を脅かされたくない、安心して生きていたい。

生理的反応の次は、生命活動そのものを脅かされないということ。

これが第二段階の欲望です。

これに関しても動物も一緒ですね。

そして安全が満たされると今度は、「親和の欲求」が出てくるとのことです。

これは帰属欲求とも呼ばれていて、簡単にいえば他の存在との集団を形成して、そこに所属していたいという欲望です。

他の言い方でいえば、長いものに巻かれたい、大多数の中に所属していたい、のけものになりたくないという欲望になるかと思います。

このあたりから、段々と人間の固有な感情に近くなってきますね。

もちろん、動物の中にも集団を形成するものも多いので、まだ、動物にもかろうじてみられる欲求ではないかと感じます。

さて、次に第四段階は、「自我の欲求」です。

これは、自分というものの存在を認知してほしいという欲望です。

名誉欲なんかも、この段階に入ります。

この段階あたりから完全に動物にはみられない人間固有の欲求のように思われます。

欲望の次元としても、上から二番目という次元の高さです。

それでは、最終段階の欲望とは何であるのでしょうか。

それは、「自己実現」です。

自分のありようを表現し、自分が成したいと思っていることを実現させていくことに対する欲望です。

夢や希望を持ち、それを実現させていく段階ですね。

マズローの欲求段階説では最高レベルの欲望として定義されています。

そして、この欲求段階説を持って人間の欲望やあり方を説明する人は、この自己実現を最高の状態として位置付けて語ることが多いのではないかと思います。

自己実現こそ究極のテーマだと言わんとばかりに、これを目指すことを推奨する向きもあったりします。

しかしながら、本当に自己実現は最高段階の欲求として、究極のものなのでしょうか。

私はこの欲求段階説には語られていない非常に大きな欠落があると考えています。

もちろん、私は生理的欲求や自己実現欲求などを否定したいわけではありません。

ただ、自己実現が最終段階とは到底思えないだけなのです。

なぜ、私がこの欲求段階説に欠落があると感じるのいかといえば、それは、この欲求段階説が人間の個人としてのものしか語られていないからであります。

生理的欲求から自己実現まで全て、個人の範疇での欲望が語られています。

自分の個人的なやりたいこと夢や目標がかなえばそれでいいのでしょうか。

自己実現の先の段階は自己を離れて、自分以外の利他に対する幸せやさらにその利他の範囲や次元が上昇していくプロセスがあるはずなのです。

自己実現が最終段階と考えてしまうと、この利他、あるいはより次元が高い視点での喜び、それは自分の家族、地域社会、生まれた故郷、そして所属する国家、そして地球に住む全ての人間が調和して幸せに生きるという視点が欠落してしまうのです。

そういった次元の高い喜びや欲求を埋没させて、自分の手の届く範囲の個人的な欲求に囚われてしまうのではないかと私は懸念しています。

繰り返しますが、私は自己実現を否定しません。

自分のしたいことやりたいことを成し遂げるのは素晴らしいことですし、是非、皆がそうであればよいと考えています。

しかしながら、そこで思考が停止してしまえば、それ以上の成長も進歩もないのです。

自分というものを離れてもっと高度な視点での欲求というものが理解できてくると、より深い霊覚の向上にもつながるかと思います。

自己実現欲求の先へ私達は進んでいくことも肝要なのかと思います。


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【公開質疑応答】参拝する神社について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、松井様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心さんこんにちは!

神社参拝の記事、自分が参拝した気持ちになりながら、読ませていただいております。

そこで、質問があります。

以前ブログで、参拝させて頂く神社を選ぶ基準として、

清掃が行き届き、周りに喧騒がないこと。

神職や住職が「常駐」していること。

清々しい場所。

鳥居、鎮守の杜など、神霊が鎮座できる霊空間が維持されていること。

等を挙げられていらっしゃいましたね。

その基準を全て満たす場所を参拝させていただいているのですが、

これはどうなんだろう?

ここは参拝していい神社なのかな?

と思ったことが、4点あります。

1つめは、神域の中にある屋台。

私がよく行く神社は、「鳥居の中」、つまり神域に、よく屋台が出ます。

特にお正月などは、鳥居の中の参道の両脇にずらーっと。

さすがに本殿の横、という場所ではないですが、明らかに玉砂利が敷き詰められている場所です。

これは霊空間を壊していないでしょうか?

屋台のまわりにゴミの竹串などが落ちているのを見ると、どうなのかな、と思ってしまいます。

2つめは、清潔でない手水舎。

これは2か所で感じました。

水が流れていないのです。

たまっているだけ。

縁日じゃなかったからでしょうか。

口をすすぐのが憚られる手水舎です。

勿論上の条件は全て満たし、そのうちの一か所は○○県の総鎮守、と言われている場所なのです。

3つめは、本殿の扱いが雑(な気がする)。

看板(はまだいいですが)や清掃用具などが本殿に寄りかかっている。

古いというより、手入れされていないのではないか、と、住職の心根を疑いたくなる本殿

4つめは、神社の大きさ。

上記すべて、大小あるものの、有名な神社(お寺)です。

大きくて有名だから

小さいけれども由緒がしっかりしているから

という点で参拝させていただきました。

天心さんは一宮クラスの大きな神社に参拝なさることが多いように感じますが、やはり、そのレベルでなければ、参拝は控えた方がいいですか?

小さい神社はよくないでしょうか?

また、大きくでも、上記のような場所は控えた方がいいですか?


【回答】


松井様

ご質問ありがとうございます。

まず、過去に類似といいますか、関連性のあるご質問がありますので、そちらの記事も参考にしていただければと思います。

【公開質疑応答】穢れた神域に詣でるのは危険?


さて、ご質問は4点になるかと思いますが、一つずつ観ていきたいと思います。


>1つめは、神域の中にある屋台。
>私がよく行く神社は、「鳥居の中」、つまり神域に、よく屋台が出ます。
>特にお正月などは、鳥居の中の参道の両脇にずらーっと。
>さすがに本殿の横、という場所ではないですが、明らかに玉砂利が敷き詰められている場所です。
>これは霊空間を壊していないでしょうか?



神社・仏閣なども有名なところになると観光地化しているため、どうしても屋台や出店のようなものが並ぶところもありますよね。

これに関しては、ケースバイケースではありますが、程度の問題にもよるかと思います。

神社・仏閣は確かに神聖な場所ではありますが、いつも厳粛な態度で向かうところというわけではありません。

神輿をかつぎ、神太鼓を打ちならし、神笛などを楽しげにしながら楽しくするのも一つの神仏への祭の姿であるともいえます。

一方で、厳粛に行い、清々しく俗を退けて、行う祭もあります。

祭にもこのように二種類あるため、屋台や出店が出て、楽しく、神仏と一緒になって我と時間を忘れて過ごすのも一つの神仏との付き合い方でもあるわけです。

そう考えるならば、必ずしも、出店や屋台があることが霊空間を壊しているとはいえない場合もあります。

実際の例をあげれば、浅草寺などは非常に仲見世通りは、にぎやかで観光地さながらといった感じであります。

だからといって浅草寺の霊空間が荒れているのかといえば、そうとはいえないわけです。

ですから、一概には言えませんが、出店が出ているからといってダメな神域とはなりません。

もちろん、商売ばかりで神域を敬う気持ちがなくなれば、荒れる原因にはなるかと思います。

そのあたりは、注意深く観察してみるほかはないかと思います。


>2つめは、清潔でない手水舎。
>これは2か所で感じました。
>水が流れていないのです。
>たまっているだけ。
>縁日じゃなかったからでしょうか。
>口をすすぐのが憚られる手水舎です。


確かに時折、不衛生な手水舎を見かけますね。(汗)
これも、一概には言えませんが、神社、仏閣といっても全てのエリアが清々しいわけではないのです。

なので、こういった穢れた手水舎には近づかない方が良いでしょう。

また、現実的にも汚れた水で口をすすぐのは危険なので、その場合は祓詞を唱えて禊の代用とするか、お祈りして手水を省略することを御断りすれば大丈夫かと思います。

手水舎だけで、霊空間全てが否定されるわけではないでしょう。

>3つめは、本殿の扱いが雑(な気がする)。
>看板(はまだいいですが)や清掃用具などが本殿に寄りかかっている。
>古いというより、手入れされていないのではないか、と、住職の心根を疑いたくなる本殿


これは少し問題あるかも知れませんね。

これも程度の問題はあるかと思いますが、本殿の様子があまりにも荒れている感じがするところは、気をつけた方が良いかと思います。


>4つめは、神社の大きさ。
>上記すべて、大小あるものの、有名な神社(お寺)です。
>大きくて有名だから
>小さいけれども由緒がしっかりしているから
>という点で参拝させていただきました。
>天心さんは一宮クラスの大きな神社に参拝なさることが多いように感じますが、やはり、そのレベルでなければ、参拝は控えた方がいいですか?
>小さい神社はよくないでしょうか?
>また、大きくでも、上記のような場所は控えた方がいいですか?



大きい小さいは問題ではありませんが、一宮クラスの神社は安心できるところが多いのも事実です。

小さい神社でもしっかりとしているところもありますし、大きいところでもさびれているところはあるでしょう。

なので、大きい小さいの問題とは少し違います。

由緒などで歴史と伝統などを参考にするのは良いことかと思います。


以上、回答になっていれば幸いです。


天心 拝


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【重要】守護霊アドバイスをお申込みのRin様

守護霊アドバイスをお申込みのRin


天心です。

守護霊アドバイスの取次鑑定をご送付したところ、メールがエラーとなってしましました。

一度、メールが届いているかをご確認いただき、ご連絡いただければと思います。

なお、メールが届いていない場合は、Rin様のメールアドレスが鑑定依頼後に変更された等ですでに失効しているか、ドメイン指定、フィルタリング設定などが考えられます。

この点、今一度、お確かめになっていただければと思います。



天心 拝

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裏目に出る時の逆転の発想

私達は、日々、自分のことであれ、他人のことであれ、よりよく生きていくために、幸せになるための努力をしながら生きているかと思います。

自分をとりまく状況や環境をよりよくしていこうと思えば、自助努力は欠かせぬことでもあるでしょう。

しかしながら、時として、自助努力が裏目裏目に出てしまうといった状況になることがあるかとも思います。

一生懸命に努力するのだけれど、うまくいかない。

全てが裏目にでてしまうこともあるでしょう。

そんな時には少し逆転の発想をしてみる必要があるかと思います。

努力には大きく分けて二通りのものがあるかと思います。

一つは積極的に前に進もうとする努力です。

あらゆる智慧を絞り、寸暇を惜しんで行動する。

そのような努力は道を開いていく上で必ず必要なことでもあります。

しかしながら、人生は自力の人為的な努力だけで切り開いていくものではありません。

自分自身を育み、包み込んでいるものの流れのようなものがあります。

たとえるならば船が自分自身ならば、その船を運んでくれる河の流れや時折、押し寄せる波、そして、風の力などが加勢することで船は進んでいきます。

自力で漕いでいくだけが船の進み方ではありません。

二つ目の努力は力を抜いて風や波、川の流れを受け入れるように、運命の流れに任せてみるということになります。

委ねる心ですね。

人は結果が気になるあまり、しゃかりきに人為で努力をして前に進もうとしてしまいがちですが、人為だけでは行き詰まることもあるのです。

努力というものも、単に前のめりにいくばかりが本質ではないのです。

時には委ねる心を持つことも大切な努力であるものです。

自助努力が裏目裏目に出ている時というものは、この委ねる心が少し欠落している可能性があるものです。

そんな時には焦らず、船が河の流れに、風の流れに委ねるように、力を抜いていくことを意識してみてください。

余計な力が抜けて、裏目に出ていたことも、順風に向かうための兆しに変わってくるかも知れません。


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【公開質疑応答】人は現世と霊界と同時に生きている?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ぎょ様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


私たちは生きている間も霊界に籍を置いているというお話がございましたが、現世で生活しながら、同時に、霊界でも霊人として生活を営んでいるのでしょうか?

ブログ記事から推測するに、生きている間は、私達の魂は現世にいるものなのかなと思っておりますが、そうすると、私達が籍を置く霊界には私達の何が存在しているのでしょうか?


【回答】


ぎょ様

ご質問ありがとうございます。

確かに私達は現世で生きながら、心を通して霊界へとアクセスしています。

こう考えれば、ぎょ様のおっしゃる通り、霊界でも霊人として生活しているのかという発想にもなりますよね。

霊籍を置いているならば、そこでの生活もあるのではないかというわけです。

このことを考えてみる前に少し、前提となる原則についてお話しなければならないと思います。

私達は現世では人間と呼ばれ、霊界では霊人と言い、そして神界の視点でいえば魂という存在でもあります。

私達はそれぞれの次元ごとにそれぞれの特性を持って同時に存在しています。

しかしながら、現世にて生活している時には、現世という物理次元にとどまっているために、あまり霊界や神界の世界のことはわからないようになっています。

なぜならば、私達の意識は常に物理次元である現世にカーソルが合わさっている状態にあるからです。

ですから、通常は現世だけの生活しか意識していませんし、実感としては現世の生活が全てです。

ただ、心を通じて霊界にカーソルを合わせていくと霊界のことが見えてくるようになります。

良く臨死体験幽体離脱などで、生きながらに霊界を垣間見たり、私が時折、行っている霊感旅行も同じ原理で霊界に意識を合わせることで霊界の実相が見えてきたりします。

しかし、臨死体験や幽体離脱というのは、まだ、現世での生がある状態なので、現世への意識カーソルが完全に失われていない状態でもあります。

なので、完全に霊界に意識カーソルが移ってしまうことはありません。

完全に霊界に意識カーソルが移ってしまった時点で私達は現世での死を迎えて、完全な霊人になるのですね。

さて、私達は現世に生きている以上は、現世に強い意識が当たりますので、霊界での自分の姿や状況はわからないものです。

結論からいえば、霊界での生活も同時に行われているといえますが、あくまで意識カーソルが現世である物理次元にあるために、その状況は全く不明なのです。

たとえ話をすると、私達はよくボーっと考え事をしながら道を歩いていて、気が付いたら普段からよく行っていた場所にたどり着いていたという経験は誰でも一回くらいはあると思います。

どうやって、そこについたのかは覚えてないけれど、確かに自分の足でそこにたどり着いているわけです。

しかし、どうやってかは覚えていない。

覚えていないのは考え事をして別の次元に意識カーソルが飛んでいたからだともいえます。

でも、現実のあなたは、しっかりと現世の中で生きていますよね?

これと同じように私達も現世で生きながらも霊界での存在でもあるけれど、ほとんど霊界のことを理解できない理由は意識カーソルがどこにあるのかによって、感得されるものが違う意識の法則がわかると思います。

ぎょ様がおっしゃられているように生きている間は現世に魂があるという発想は、実は、正確にいうならば、現世に生きている時は現世に意識カーソルがあたり、霊界や神界には意識カーソルがあたっていないか、あるいは、弱くしか当たっていない状態であるといえます。

蛇足ならが付け加えると実は全ての霊感、霊能と呼ばれるものなども原理原則はこの意識の法則に準じているということです。


>ブログ記事から推測するに、生きている間は、私達の魂は現世にいるものなのかなと思っておりますが、そうすると、私達が籍を置く霊界には私達の何が存在しているのでしょうか?


結論からいえば、現世、霊界、神界を別個のものとして考えてしまうのではなく、全ては同時にあり、そしてどの次元に意識カーソルが強く当たっているのかが、今、どの次元にいるのかという基準になってくるかと思います。

神霊という存在は常に高次元に意識カーソルがある状態です。

でも、低次元層に意識カーソルが当たったまま上昇できない霊人もいれば、現世次元に固執してしまう霊人もいます。

現世次元に固執してしまう霊人は亡くなっても現世次元に意識カーソルが当たり続けています。

私達、現世に生きている人間は、生きている以上は現世次元に意識カーソルが強く当たりますが、そんな中でも霊的な導きにより、霊界次元、神界次元にも意識が向くように指導が入ることがあり、こうして、私のブログや様々なスピリチュアルな事柄に関心や興味を抱く人も出てくるわけです。

少し、話が脱線気味になってしまって申し訳ないですが、これを持ちまして回答とさせていただきます。


天心 拝


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【2012年10月度】神田明神への参拝

10月に入り少し秋の兆しを感じる涼やかな風を感じています。

そんな折りに神田明神10月度月参りをさせていただきました。

一時、姿を見せていなかったと聞いていた神馬のポニーも復活しておられたようで、夏真っ盛りの時期よりも少しだけ元気になっているようにも見えました。

それとは裏腹に私の方は、少し風邪気味でございます。

というか、つい先日まではかなり鼻炎もひどく、喉も荒れている感じになっていたのです。

普段は守護霊様や神霊の加護もあってか、あまりここまでひどくならないのですが、突如、体調を崩したのです。

こういった場合には何かの諭しか戒告がある場合が多いのですが、今のところよくわかっていません。

あまり、深読みしすぎても仕方ないので、しばらくそのことからは離れて、気を取り直し、月も改まったことなので、早速、神田明神へと参詣させていただきました。

ご寄付をしてくださった方の真心の一部を奉納し、神様に取次をいたしまして、それから、ブログ読者、ご寄付奉納者、無償の鑑定申し込み者も含め、取次をした方への追い風祈願をさせていただきました。

また、FGSの会も若干、メルマガがリニューアルしたことを受けて、ますますに学びが深く、霊性開拓の飛躍に拍車がかかるように祈りました。

道名授与者の天命をしっかりとサポートしてくださるようにもお祈りしました。

それから、今月も献灯の継続をさせていただき、祈願串も奉納させていただきました。

私が毎度、こうしてブログで神田明神での月参りをご報告させていただいていることから、ブログ読者の方も参詣される方が増えているようでもあります。

別に宣伝しているわけではないのですが(笑)、神田明神様も真心ある方の参詣はうれしく感じておられると思います。

是非、今度、参詣される機会があれば、次のお祈りを加えていただけると良いと思います。

「この神田明神の神域がいつまでも清々しく、ご神霊麗しく降臨されるユニワでありますように」


最後に神田明神にて受けたメッセージをご紹介いたします。


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秋の月

紅(くれない)の葉の美しき

あわれと思う

心をば

養う月とする

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今月は少し、芸術や美的感性を磨くように心がけるのが良いとの仰せのようです。

逆にいえば、そういった感性を磨くに適した月でありますよとのことです。

でも、紅葉とか本格的に秋の美しさがクローズアップされるのは来月くらいからでもあるので、今月に限らず今秋の一つのテーマなのかとも思います。


天心 拝


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心に残った守護霊からのメッセージ3

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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つまらぬ

つまらぬ

形にはまり自在の智慧なきは死せるも同様なり

分化の働きによりて生まれたる本分を尽くせ

長いものに巻かれるを良しとするな

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このメッセージは必死になって、世間的にはどうか、自分は普通から逸脱していないかを気にしすぎている自分を戒めた守護霊様からのお諭しでした。

自分が自分として生まれたからには、自分なりに工夫し、自分なりに考えて、自分に備わる全てを出しつくす生き方をしなさいということなのかと思います。

どうしても、長いものに巻かれている方が安心してしまうところがあったところに「魂が死んでおるぞ!」と喝が入ったわけですね。

常識や社会性を持って皆と調和することは大事ですが、それが度が過ぎて、日和見主義や事なかれ主義になってしまえば、魂の向上とはならないことを教えていただきました。



天心 拝


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【公開質疑応答】神霊はいつでも高次元なのか?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、よき様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


質問です。

高次元の人々、神様はどうしてその次元に留まっていることができ、

もしくはより高次元への移動が可能なのですか?

以前の次元に戻ってしまうことはないのですか?

私の場合は、イライラや、不満などが出てしまう。その結果見ている世界、出会う人との衝突が生まれやすくなったりします。

1→2→3 と、実感では3にいたのに気がついたら1に戻ってた。

というようなことがよくあるなあと思うのです。

3にいるのが当たり前になったら1には〈絶対に〉戻らない。

とも思いにくくて質問しました。


【回答】


よき様


ご質問ありがとうございます。

ご質問の趣旨としては、神霊は今いる自分の霊層や次元から転落して下部霊界に落ちてしまうケースはないのかということだと思います。

結論から申し上げますと、そういうケースはあまり、わたし自身は遭遇したことはありません。

しかしながら、原則からいえば、本来はあり得るはずです。

神霊といえども、元は私達と同じく魂の向上に励む霊的存在ですから、絶対に今の霊層、霊界の位置が安定的であるわけではないのです。

ただ、神霊の場合と私達の場合の大きな違いは、神霊は何度も再生転生を繰り返したり、あるいは、生前、現世でゆるぎないほどの霊的境地を開いていた方が多いため、そう簡単に堕落はしないのですね。

現世においても、すごい困難にあっているのに腐らず、常に前を向いて歩いている方もいますよね。

なぜ、あんなひどい目にあっているのにポジティブに生きられるのだろうと、凡人から見れば不思議に感じるくらいの方もいます。

そういった方は、すでに心の境地、霊的境地がぶれないほどに完成している方だといえます。

もちろん、そんな方でも時としては、霊波動の低い、霊界にまで転落してしまう時もあるでしょう。

しかし、そんな時でも霊覚、霊格の高い方は、すぐにその境地の問題点に気付き、軌道修正することができるのです。

なぜならば、学問や教養、智慧があるため、問題点のクリアの仕方、境地の改善の方法をマスターしているわけですね。

ですから、神霊が絶対ではないにせよ、転落して堕落しない理由には学問があり教養があり、智慧があること、また内的境地を常に磨いていこうという向上心が魂に刻み込まれているからだといえます。

逆にいえばそうのような修行や学びを続けたからこそ、神霊になることができたわけです。

よき様のおっしゃるとおり、通常、人の心根は外的状況などによって影響を受けやすく、左右されることもあるでしょう。

どうやってその影響に左右されないでいられるのかをしっかりとマスターできていなければ、次元も上がったり下がったりすることになってしまいます。

ですから、学びと修行が必要だということです。

常に向上心を持って、境地が揺るがないでいる智慧を体得することができれば、この上下の変動は少なくなってきます。

これを境地が定まるといいます。

境地が定まるとあまり大きく転落したりしなくなるということです。

もちろん、最初に申し上げた通り、物事には絶対はないので、神霊といえども、もし隙ができて、向上心を失ってしまえば、霊界法則に従って転落することがないとはいえないでしょう。

また、霊界では、現世ほどの環境変動が少ないので、霊的な次元の動きも緩やかになっているという事情もあるかと思います。

最後にまとめますと、

>高次元の人々、神様はどうしてその次元に留まっていることができ、 もしくはより高次元への移動が可能なのですか?
>以前の次元に戻ってしまうことはないのですか?


原則としては、神霊といえども次元の転落の可能性はあります。

だけれども、まず、神霊になるような方は、向上心と揺るがぬ境地を確立して、決して転落しないような工夫と知恵があるため、ほとんどそのようなことはないといえるでしょう。


以上、回答になっていれば幸いです。


天心 拝


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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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