2012年の御礼

こんにちは。

天心です。

2012年も本日で最終日ですね。

この「守護霊が導く!スピリチュアル世界」のブログを立ち上げてから二度目の大晦日を迎えることができました。

これも、ひとえにブログ読者の方々、FGSの会メンバーの方々のご支援、応援あってのことであると深く受け止めております。

丁度、両手で柏手を打つとパンと音がなるように、天心と読まれている方々とが、呼応しあうことで、意義をなしているのが、このブログだと思っています。

決して、天心という個人だけが努力して、ここまで、ブログや活動が続けられたわけではありません。

ブログでお話しているのは、天心という個人かも知れませんが、それは、片手にすぎないのです。

片手で柏手を打つことは、できないように、天心という片手と読者やFGSの会メンバーが合わさって初めて一つのブログとなり活動が成立しているわけです。

本当に有難く思っています。

拍手やコメントを下さった方々。

質問を寄せて下さった方々。

ブログを活用してくださっている方々。

全ての関係する方々に感謝いたします。

来年度も皆様のご多幸をお祈りいたします。


天心 拝


◎クリックご協力ください!
スポンサーサイト

ボタンの掛け違い

年の瀬になってお忙しい方も多いと思います。

忙しくなると人は、必ずある一つの感情を抱くようになります。

それは、焦りの感情です。

忙しない状況が焦りを生み出すと今度は、ある現象が起こってきます。

それは、「ボタンの掛け違い」という現象です。

一度は誰でもやってしまうことに、最初のボタンを一個ずれた下の穴にはめてしまい、気づかずにはめ続けると、最後にボタンが一つ残るという(笑)

やってしまってから最後の段階で気づくので、結局は最初からやり直しになり、二度手間になります。

しかも、全てが完了したと思った直後に気づくので、ボタンの数が多ければ多いほど、手戻りギャップも大きくなるという寸法です。

焦るとボタンの掛け違いをしてしまう、結局、忙しいのに余計な時間がかかってしまうわけですね。

この例え話の肝になるのは、焦ってはいけないということと、それから、最初のボタンをかけ間違えないというところにあります。

では、スピリチュアル的な目線で見たときの最初にはずしてはならない第一ボタンとはいかなるものになるのでしょうか。

それは、まずは、しっかりと自分の霊界を見つめてみて、ベストな状態に調整するということにあります。

向かうべき目標があったり、対処しなければならない課題や問題があるとき、どうしても人は具体的な方法論や課題の対応策を知りたくなります。

当たり前といえば当たり前かもしれませんが、ここに罠が潜んでいるといえます。

第一のボタンをかけ間違えて、第二のボタンである、具体的なものから入ろうとすると全てが終わる頃、間違いに気づきやり直しという憂き目にあうことがあるのです。

霊界を調整するとか、霊界を作り出していくというお話は、このブログの初期の頃からもお話している内容でもあります。

基本であり原則でもあり、ここを外すといかなる努力や行動も結局は問題の解決に結びつくこともなければ、目標に達することもなくなってしまいます。

何をやっても実現させることができる人、いかなる課題も必ず対処し続けている人とそうでなく、いつも何も手に入れられない人と問題に振り回されてしまう人の違いというのは、実は大きな違いはないのです。

最初の第一ボタンをかけ間違えるから、後々まで祟られる。

これが真実かと思います。

霊界のことを説いてみても、焦りの心がある人は、どうしても浮世のことばかりが気になり、現実の日常ばかりを見て、どうするべきか、どうあるべきかと考えて走り出してしまう人が多いように見受けられます。

もちろん、行動すること、具体的な努力はとても大切なことです。

しかし、ボタンの掛け違いをしてしまうと、後から大きなギャップの引き戻しにあってしまいます。

忙しい時期であればこそ、自身の霊界の有り様がどうなっているのかを見直してみて欲しいと思います。


P.S

明日以降から少しブログの更新の方がペースダウンするかと思います。

取次の方もお返事が少し遅れることもあるかと思いますが、ご容赦いただければと思います。

これを機会に過去記事なども読んでみていただければ幸いです。



天心 拝


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

年越しの大祓

今年も終わりに近づき、神社でも茅の輪(ちのわ)などが設置されているところも多いと思います。

茅の輪は、祓い清めの一種でありますが、やり方があります。

ただ通り抜けるだけでなく、まず、一礼してから、八の時を描きながら左右に一回ずつ回り、最後に輪を抜けて拝殿に向かうというやり方です。

その際に唱える言霊があります。

「蘇民将来(そみんしょうらい)。蘇民将来。思う事みなつきとて麻の葉をきりにきりても祓いつるかな」

この言霊を唱えながらくぐると茅の輪に穢れが吸い取られて、すっきりした気持でお参りできるというわけです。

穢れを帯びた茅の輪は、年が明けて正月が終わるとお焚きあげして清められます。

神社によっても、茅の輪のお焚きあげする時期は違うことがあるようですが、大まかな流れはこのような感じです。

後、穢れを払うといえば、人形(ひとかた)があります。

和紙や半紙を人の形に切り抜いて作られたものですが、これも穢れを払ってくれるツールです。

人形の場合、穢れを払うだけでなく、その人の分魂を込めて、願意を成就させるという使い方もあります。

人形を作ることで、自分の分身を作り出して、穢れを祓ったり、自分に足りないものを補ったりするわけですね。

この人形も最後はお焚きあげされますが、この時期、神社には様々な穢れを祓い清める儀礼やツールがあらわれてきます。

それだけ、今年一年の穢れを祓って、来年を迎えることが大事だということですね。

清々しい気持で一年を終えて、準備万端で望みたいと思います。


天心 拝


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

高幡不動尊を参拝

クリスマスも終わり、今年も数えるだけの日数を残すのみとなりました。

年越し準備に皆様も忙しいことと思います。

街の雰囲気もクリスマスからお正月モードに突入といったところでしょうか。

一部では、マヤ暦のカレンダーの終わる日が今年の今月の21日だったことから、人類が終わるのではないかという不安が一部、世界でも広がりを見せていましたが、とりあえず何事もなく、大した混乱もなかったことは良かったと思います。

そもそも、終末論というものは、いつでも人心を煽り、不安にさせる困った特質があります。

私達はいかなる節目にあろうとも、その日、その日の与えられた命を精一杯輝かせる以外に道はありません。

だから、世紀末だろうと、マヤ暦が終を迎えようと、アセンションがどうたらこうたら(笑)は、関係ありません。

いついかなる状況でも自らの魂をどのように向上させて、その意思をどのように表現していくのか。

これ以外にはないのです。

逆に言えばそこから離れさせて、蒙昧な道へと引きずりこもうとする働きこそが、法難システムでもあり、時代の時々にして現れる一つのサイクルの働きであるといえるでしょう。

人は弱いもので、ともすると派手なムーブメントや表現に心を動かされて本来の道を見失う傾向があるものです。

自分の魂の主体的意思以外には、本質的なものは何もありません。

ですから、これからいかなることが発生してこようとも、恐れることはありません。

そのことをどうか、肝に銘じておいて頂ければ幸いです。

さて、前置き話が長くなりましたが、先日、高幡不動尊に参詣に行きました。

やはり、来年に向けても少し、しっかりと自分自身の魂を強化していかないといけなさそうなので、不動尊をお参りさせて頂きました。

高幡不動尊においても、神田明神などと同じく、読者の方やFGSの会のメンバー、取次をお申し込みいただいた方達のフォロー祈願、それから、道名授与者の天命成就祈願などなど、させていただき、ご寄付の一部をお賽銭箱に入れ、それから護摩木も奉納させていただいております。

今回、なぜ、高幡不動尊に参詣させていただいたのかといえば、やはり、しっかりとした軸を自分の中に作りこみ不動のものとしていく必要があることを悟ったからでもあります。

今後のテーマとしてより一層の霊空間を強化していく、具体的にはFGSの会の霊的フィールドを強化していく必要が出てくるということです。

そのために何が必要なのかと散々に問答を守護霊から仕掛けられていました。

そして、そこで出てきた一つのキーワードは、「人の魂は信念に呼応する」というものでした。

信念がグラグラと揺れ動くようでは、霊空間も人と人とが織り成す斎庭(ゆにわ)も成り立たないということです。

しっかりと揺るぎない志を打ちたて続けないと、結局は何もかも空中分解してなくなるしかないということが、お諭の要点であったのです。

そこで、今一度、揺るぎない信念を打ち立てるべく、導きにより高幡不動尊へと詣でたというわけです。

お参りしたかいはありました。

ここで再び、不動尊から霊法の珠を授かることができたからです。

この珠はまだしっかりと使いこなすところまでは行っていませんが、どこかで皆様にもフィードバックできる機会があればと思っています。

とりあえず、参拝報告としては以上です。

それでは、今年の残りの日が良き日でありますことをお祈り申し上げます。


天心 拝


◎クリックご協力ください!



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

キリスト教と霊界

今日はクリスマス(´∇`)<Merry☆Christmasということで、クリスマスにちなんだお話をしてみたいと思います。

さて、クリスマスといえばキリスト教ですね。

どちらかといえば、イベント、お祭り的な楽しみとしての要素が大きいので、厳粛なイメージは日本ではそれほどありませんが、それでも、なんとなく、聖なる気持ちになる部分はあったりしますよね。

キリスト教は、簡単に言ってしまえば、イエス様を信じましょう。そうすれば救われますよという宗教です。

もちろん、それほど単純ではないですが、あえて単純化するとそのようにまとめることができます。

もともと、イエス様はキリスト教の教祖というわけではありません。

山上の垂訓などに見られる教えを説かれた時には、キリスト教というものはありませんでした。

存在したのは旧約聖書(当時は旧約とは言われていない。あくまで聖書)などの律法の書であり、その律法の書というのは、神様との約束といかに人間は生きるべきかが説かれた教えの書であります。

当時は、その聖書に記された律法に従うことが神様に従うことであり、救われる道だとされていたわけです。

ですから、イエス様が教えを説かれていた時代というのは、あくまでキリスト教ではなく、あえて言えばユダヤ教、神の言葉が綴られた律法の書に従うという信仰があっただけです。

キリスト教の霊界というものは、当時はまだ存在してもいなかったのです。

もちろん、律法の書が織り成す、霊界は存在はしていたはずです。

なぜならば、当時の人々は、信仰のよりどころは律法に従うことしかなかったからです。

そこへ、イエス様が現れて、全く思いもよらない角度から新たな霊統が生まれるきっかけを作られたのです。

今までは律法に従うことのみが神に従うことになるとされていた考え方に「愛」をもって神とし、隣人を許し、愛しなさいという、考え方が加わったのです。

本当はもっと専門的で神学などでは複雑な解釈もあるのでしょうけれど、あえて単純化して考えれば、一番のポイントは、「愛」という概念に重きを置かれているかどうかという点ではないでしょうか。

そもそも、隣人を愛せとは、自分の近くにいる人という文字通りの意味もあるかとは思いますが、これは、自分の敵対したり、相対する相手をも愛で包みなさいという教えでもあります。

律法という枠組みを超えて、「愛」で人を救おうとするところにイエス様の説かれた骨子があるのではないかと思います。

キリスト教の織り成す霊界の良いところは、このイエス様の愛という波動が満ちているところでもあります。

どこまでも愛で、例え罪人であっても、許しがたい人であっても、許し、愛し、育もうとする救いのエネルギーがある霊界がキリスト教の霊界の良いところだと思います。

もちろん、欠点もあるのですが、それは、今ここでは言わないでおきましょう。

それよりも、折角のクリスマスの日です。

今日は、いかなる罪も許される日です。

いえ、いかなる罪も許し難きことも、愛で包んで許していくことを考える日であるのが良いのではないでしょうか。

だから、今日は人を許し、自分も許し、罪も許し、愛で締めくくる一日となることを願っています。


天心 拝


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

幸せのコツ

幸せになるにはコツがある


沢山、ありがとうを言うこと


沢山、ありがとうと言われるような自分であること


幸せになるにはコツがある


よく味わうこと


よくかみしめること


幸せになるにはコツがある


人を愛すること


仕事を愛すること


自分が愛されていると信じること


幸せになるにはコツがある


罪を許してあげること


人を許してあげること


幸せになるにはコツがある


よく笑うこと


よく笑わせてあげること


幸せになるにはコツがある


相手の気持ちを理解すること


自分の気持ちを理解すること


幸せになるにはコツがある


愚痴を言わないこと


わきいずる愚痴の百倍の言祝ぎをすること


幸せになるにはコツがある


他人を褒めること


自分を褒めること


どんなことにもコツがある


幸せな日々を送る人というのは


このちょっとしたコツを


実践しているかいないかに過ぎない


幸せのコツは


実はとても簡単なことなのだ


幸せのコツをつかんだら


幸せの輪を広めていいこう


さあ、まずは君からはじめよう


幸せのコツを


さあ、今からはじめよう


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

法難システムの正体(その2)

法難システムの正体(その1)」の続きになります。

前回は、法難システムとは、相対する働きのぶつかり合い、軋轢によって生まれてくるというお話をさせて頂きました。

何かにチャレンジしようとすると、そのチャレンジをやめさせようとする動きが起こってくる。

このメカニズムは、変化を促す「陽の働き」に対して、安定を実現させようとする「陰の働き」が発動することにあります。

「語学を勉強しよう!」と目標を立てると、心の中から「めんどくさい~」という気持ちが湧き上がってくるのが「陰の働き」によるものでもあります。

あるいは、急に仕事が忙しくなって時間が取れなくなったり、友人に目標を否定されたり、トラブルが起こったりします。

または、体調不良になってしまう方もいたりするのです。

さもなくば、自分の立てた目標、信じる道を疑念をもって付き崩そうとする、内なる働き、外からの働きかけもあります。


とにかく、ありとあらゆる現象を通して、「陰の働き」は変化や成長をやめさせようとするわけです。

これが法難システムの正体であり、どなたにも必ず起こるメカニズムなのです。

では、この法難システムはどうしょうもないのでしょうか。

陽の働きと陰の働きとはいつもぶつかり合い、軋轢をうむだけの存在なのでしょうか。

いいえ。そんなことはないのです。

陰と陽とは確かに一見、矛盾する働きを持っているものです。

一方は変化であり、一方は安定です。

なので、安定を望めば変化は好ましくなく、変化を遂げるためには、安定を壊すしかない。

このように考えると絶対成立しないのですが、実は、これを調和させる唯一のキーが存在しているのです。

それは、「変化し続けることで安定を得る」という発想なのです。

前回もお話しましたが、私たちの生きている現世は常に変化しています。

安定しているように見えても、その実は、変化が止まることはありません。

しかし、それでも私たち人間は安定という幻想を時には必要とします。

いつもいつも不安定では、精神の均衡が保たれないからです。

では、どうしたらよいのか。

変化してゆく世界で、自分自身もまた変化に対応していくことが、自分自身の安定に繋がるのだという原則を心から理解することです。

私たちが安定しているときというのは決して、止まっている状態を指しているのではありません。

常に動き続けてはいるけれど、心の中の軸がブレずに変化を楽しみながらも、進んでいくときに安定が得られるものなのです。

よく例え話で、とりあげられるのは、回転するコマの様子があります。

コマは軸があり、その軸を中心に回転し続けることで、安定を得ています。

コマを回転させずに軸だけで止まった状態で立たせるのは、かなり難しい。

というよりもほとんど不可能なのです。

陰の働きにより、変化を妨害する働きが起こるその背後の霊界では、どこか、変化が安定を打ち破る毒として捉えられていることが多いのです。

ですから、自分の魂に「変化とは安定をもたらすものだ。逆に変化がなく安定を求めれば、いずれ安定は失われてしまう」という原則を言い聞かせる必要があるということです。

このような原則を理解すると「陽の働き」は「陰の働き」と矛盾しなくなり、むしろ、陽は陰のために、陰は陽を促すために存在するという相互扶助の関係が成り立つことに気づくのです。

陽と陰が対立している様を易経では「天地否(てんちひ)」という大成卦で表しています。

逆に陽と陰が相睦み合い噛み合う様を「地天泰(ちてんたい)」といい、大変めでたい卦であるとされています。

私たちは、天地否の卦に表される働きから、地天泰の卦にある調和を目指していかなければなりません。

法難システムの正体とは、結局は、自分の中にある不調和が生み出す現象でもあるということが言えるのではないでしょうか。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

法難システムの正体(その1)

何か大きな志を立ててチャレンジしたり、大きな変革を起こそうとするときに発生する反作用を「法難システム」と私は名づけて、何度かブログやFGSの会などでもお話してきました。

元々、法難とは宗教的なことから派生した言葉であり、日蓮上人などが、法華経の教えを広める、あるいは実践する行者には、難儀が降りかかることをそのような言葉で表したことにちなんでいます。

このように言いますと、宗教的なことだけにおいて、起こりうる反作用の働きだけを指していると思われるといけないので、「法難」に「システム」をくっつけて表現しているのです。

この「法難システム」は何も、日蓮がいったように法華経の行者にのみ起こり得ることではなく、あらゆる人に起こりうる事象でもあるのです。

本当に不思議なのですが、事実です。

今までも法難システムについてはお話をさせていただいていますが、本当に重要なことなので、別の角度から何度でもお話させて頂くことにしています。

今回は、「法難システム」の正体という角度からお話させていただきます。

さて、この法難システムは、折角、人が、やる気を出して、成長しようとしているのにそれを阻む役割を果たしてしまっています。

ある意味、はた迷惑な仕組みでもあるわけです。

なんでこんなシステムが成り立っているのか長い間、疑問に思っていたところ、先日、一つの答えともなるものが下ろされましたので、少しお話してみたいと思います。

そもそも私たちの生きている現世という世界はとても不安定な世界でもあります。

一定し、留まるものは何一つとしてなく、常に動き続けている世界でもあります。

無常という言葉にも表されるように、常ならないのが、世の有り様というわけです。

しかし、私たち人間はこの世界で暮らしていくためにはある程度の安定や固定化された状態が必要となります。

いつも、激動の日々というのは、私たちには負担が大きいものです。

私たちには「日常」が必要なわけです。

変わり続けるのが現世のルールでもありますが、その中にある程度、不動のものを築こうという性質が私たち人間にはあるのです。

否、人間以外にもそれはあるのかもしれません。

現世とは二つの相反する働きが絡み合いながら、状況が作られていると言っても良いかと思います。

一つは、常に発展、上昇、変化、成長を促す「陽の働き」ともう一つは保守、凝結、不動、引き戻しなどを促す「陰の働き」です。

私たち人間を例にとって考えてみれば、私たちにはどこまでも発展していきたい、向上したい、新しい息吹を得たいという志向と、今までの生活を守りたい、動きたくない、安定したいという志向があるということです。

私たちが成長したいと望めば、向上したいという気持ちには添うことができますが、成長するということは、自分が変化するということです。

変化するということは、安定したい、自分の日常を守りたいという気持ちに反することになります。

すなわち、ここで矛盾が起こるわけです。

成長したい、だけど、変化したくない。

これを単純に成立させることはできないのです。

法難システムの正体とは、人間をはじめ、あらゆるものに備わるこの相反する志向性のぶつかりあいによって生じる軋轢であるといえるのです。

私たちが成長するために、変化を起こそうとすると、必ず、陰の働きが起こるのは変わりたくないという志向性が発動するからにほかならないのです。

では、この矛盾はどうすることもできないのでしょうか。

その辺のことを次回にお話してみたいと思います。


・・・続く


◎クリックご協力ください!



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

繊細な神霊の気

神霊と呼ばれる存在の持つ独特な「気」というものは、本当に繊細で微かなものである場合が多いです。

たとえるならば、霞のような淡い、透き通るような感覚です。

もちろん、その気の表し方は次元によっても異なります。

現世の物理次元に近くなればなるほど、はっきりとした感覚になってくることが多いです。

次元が上昇していけばいくほど、抽象性も上がり、はっきりとしない、微かな気となってくるわけです。

繊細であるということは、薄いガラス細工の工芸品と一緒で、ちょっとでも扱いを間違ってしまうと壊れてしまう場合があるということです。

神社などでも、本当の聖域や次元の高い神霊、神気が降りているところはとても、繊細な霊空間であるため、人が立ち寄ることが禁止されている場合がほとんどです。

伊勢神宮に詣でたことがある人は存じている方もいると思いますが、伊勢神宮は本殿は、御幌(みとばり)という白い幕で遮られて直接拝見することはできないようになっています。

白い幕の向こう側は、御垣内(みかきうち)と呼ばれていて、正装をして意義をただし、式年遷宮などの重要な行事に対してお玉串や何かしらの功績のある方しか入る方が許されていません。

なぜならば、繊細でガラス細工のような神霊が降りているからです。

真心もなく意義も正さない、一般的な俗心をもって御垣内に人が入れば、たちまちに霊空間が壊れてしまうからなのです。

さらにいえば、本殿の中には人が入ることはできません。

立ち入るとしたら、神職の方が禊を行い、しっかりとした儀式に乗っ取ってのことのはずです。

そうやって、神霊の降りている霊空間を守っているわけです。

さて、神社としては元々、特別な場所という意味あいがある程度は認識されているため、そのような儀礼やしきたりで繊細な神霊の気を守っていくことができますが、そうでない、たとえば人に降りてきている神霊、あるいは人と人とが集まり作り上げてきた霊空間というものは、どのようにして守っていけば良いのでしょうか。

実はこれは非常に難しい問題でもあります。

なぜならば、神社のように具体的でわかりやすく物理空間に霊空間を作り出しているわけではなく、ひとえに人の想念の状態一つひとつにかかっているといえるからでもあります。

つまり、人と人との繋がりでつくられる霊空間は、一人ひとりの心を守っていく他ないといえます。

一人ひとりが心のあり方を常にチェックしながら、自らに降りてきている神霊、あるいは霊空間を維持していかなければならないということです。

歪んだ想念を但し、気持ちの純一にして、自らの魂や神界の意志に回帰していくようにすることだけが、繊細な神霊の気がみなぎり、神霊も霊空間も維持されていくことにつながっていくことになります。

疑念を持てばそれだけ想念は歪みます。

頭で考える癖がついてしまっている場合は、とりわけ、繊細な神霊の気を壊しやすくなっている場合があります。

何事もバランスが大事ではありますが、少なくともスピリチュアルな世界を学ぶ場合には、この原則を理解しておくことが大事かと思います。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

勇気を持って谷間を飛び越える

人生の道筋は人によって様々ではありますが、必ずと言ってよいほど、ある法則があります。

それは、人生を通してある程度、経験を積んだり、学びが極まってくると、大きな崖っぷちにある谷間に行きつくということです。

その谷間は深く、足を踏み外すと一挙に転落して命を失ってしまうかも知れないという恐怖を想わせるほどのものに感じられることもあります。

しかし、実際には、谷間は飛び越えようと思えば、できない距離ではありません。

ただ、万が一踏み外すと谷底にまっさかさまというわけです。

もちろん、これはあくまでメタファーであり、たとえ話ではありますが、人生には、勇気を持って飛び越えなければならない瞬間が必ず訪れるということです。

どんなに怖くても、危険に見えても、その谷間を飛び越えなければ、先はないのです。

とても勇気のいることですが、必要なことでもあります。

多くの場合はそこで、危険を理由に踏みとどまり、人は成長を止めてしまいます。

何しろ命あってのものだから、危険なことは冒したくはないのですね。

それでも、前に進みたいという気持ちがある人は、一生懸命に飛び越えようと考えますが、考えれば考えるほど怖くなって足がすくむのです。

なぜならば、どんなに考えても間違って谷底に転落する可能性を完全に否定することは不可能だからです。

どれだけ、安全な方策を練ってみても、最後は勇気と度胸で越えていくしかないのです。

このやむにやまれぬ勇猛心があるかないかが人生の成長を遂げられるかどうかのキーポイントにもなります。

誰だって危険なことは冒したくないものです。

できれば安全で楽しく、すいすいと順風に押されて人生を歩みたいと願うものです。

しかし、そうならないのも人生なんですよね。

理屈で考え、危険を排し、安全が確認されなければ一歩も進めないということになれば、私達は人生の途上で朽ちて果てていくしかないのかも知れません。

でも、たとえ、危険があり、その結果、痛い目にあい、あるいは途上で命を落とすようなことに遭遇したとしても、勇猛心を持って谷間を越えていく、その人生は輝ける人生といえると思います。

なぜならば、自らの魂の主体的意志を灯として掲げて生きている人は、常に魂の輝ける人でもあるからです。

そのような生き方ができるかどうかが魂の向上のために生きているといえるかどうかの判断基準でもあります。

理屈を言って、自らの歩みを止めるのか、それともどこまでも魂にそって生きることを望むのか。

私達の選択にかかっているのかと思います。

いかなる人生を歩もうとその人の自由です。

しかしながら、私はできれば、輝ける人生を、魂の旅路を歩んでいきたいと願っています。

また、ともに志を持つ方が多く表れることも願っています。



◎クリックご協力ください!



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ホ・オポノポノと霊界(その3)

ホ・オポノポノと霊界(その2)の続きになります。

前回は、ホ・オポノポノと日本仏教の宗派である浄土宗、浄土真宗などに伝わる念仏信仰に対する解説、類似性などについてお話させていただきました。

一見、似ても似つかないように思えるこの二つのものにどのような類似点があるのか。

このあたりについては前回記事をご参照いただければと思います

今回は、前回の最後にお話しした、念仏させすれば極楽浄土に生まれ変わる、あるいはホ・オポノポノで推奨される四つの言葉を唱えさせすればクリーニングされて全ての問題が解決してしまうのかという疑問について進めて参りたいと思います。

まず、最初に申し上げておきたいのは、物事は表面的にだけ受け止めて解釈してしまうと真実の半分しか見えてこないということであります。

念仏信仰にしても、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われますという部分だけを見てしまうと真実の半分しか見えていないことになります。

ホ・オポノポノにしても同様で、四つの言葉を唱えるだけという部分を持って理解を終えてしまうと片手落ちになる可能性があると思います。

では、実際にはもう半分は何が必要になるのでしょうか。

その答えを得るためには、念仏信仰またはホ・オポノポノを支える霊的なメカニズムを理解していくことが必要だと思います。

つまり、なぜ、念仏を唱えると極楽浄土に生まれ変わることができるのかというメカニズムです。

四つの言葉を唱えるとなぜ、クリーニングが行われるのかというメカニズムを知ることが大事なわけです。

まずは、念仏から考えてみましょう。

もともと、念仏信仰の元々の典拠は浄土三部経と呼ばれる経典にあります。

具体的には「仏説観無量寿経」「仏説無量寿経」「仏説阿弥陀経」のことですが、これらの経典の中で阿弥陀如来に帰依することで極楽浄土に生まれ変わると説かれているわけです。

しかしながら、これら経典をひも解いてみるとわかるのですが、単純に念仏することだけが説かれているわけではありません。

単純に「南無阿弥陀仏」と唱えろとだけ説いているでのはなく、いかに阿弥陀如来様と感応し、極楽浄土の世界に感応するかということが示唆されています。

もともと「南無」は帰依するという意味であります。

阿弥陀如来様に帰依しますという漢文が「南無阿弥陀仏」という言葉の意味するところなのであります。

本来は念仏とは仏を念じ、感応して動いていただくことであるわけです。

ただ単に「南無阿弥陀仏」と唱えてみても、仏様との感応がなければ、霊的には意味をなさないといえるでしょう。

実際に経典には水想観などの観想行についても説かれています。

その内容を追っていくと如何にありありと極楽浄土のありようを心に鎮めていく必要があるのかがわかります。

「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、ただ一心に阿弥陀如来様と感応し動いていただき、極楽浄土という霊界に自らが霊籍を置いていくための修行であると言えるわけです。

行うべきことは単純でも、本当はその背後にあるメカニズムを理解して、実践するのは簡単とはいえないかも知れません。

親鸞上人なども一度でも念仏をすれば救われると説いていますが、それは単純に一回「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われるということではないと思います。

唱える回数ではなく、そのメカニズムに則って阿弥陀如来様に感応することが大事だということを示唆しているのではないかと思います。

ホ・オポノポノの四つの言葉も同じように単に唱えれば良しと理解してしまうと少し違うのではないかなと感じることがあります。

もちろん、四つの言葉を唱えるだけで良いんだ!という信念と信仰を持って唱えればそこに霊力は伴い、霊験が出てくることはあると思います。

しかしながら、本当にホ・オポノポノの霊力を引き出していこうと想ったならば、その背後にある霊界のメカニズムを知る必要があるのかと思います。

物事は分かりやすくすれば広く伝わっていきます。

但し、そうすることで失われていくものもあるということも覚えておくと良いかも知れません。



◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ホ・オポノポノと霊界(その2)

ホ・オポノポノと霊界(その1)の続きになります。

前回はホ・オポノポノの一般的に知られる内容、ポイントをWikipediaを参照、抜粋しつつ霊界思考で解説、お話をさせて頂きました。

詳細は前回記事を復習していただければと思います。

さて、前回記事の最後にお話した、「日本にも昔から伝わるホ・オポノポノに似た、霊界浄化プロセスがある」という点について続きをお話していきたいと思います。

私がホ・オポノポノを知った時からずっとどこか既視感にも似た感じを受けたのを覚えています。

どこかで触れたような感覚、それは、日本仏教の宗派のひとつである浄土宗、浄土真宗などに伝わる念仏信仰であります。

「ええっ!ハワイの秘法と念仏がどこが似てるの!?」

と突っ込まれるかも知れませんが、私にはどうしても構造的に似ている部分があるように思えてしまうのです。

もちろん、それぞれの背後にある霊界は異なることと思いますが、その構造部分に何か類似するものを感じるのです。

さて、念仏といえば、法然上人が主張した仏道修行である専従念仏があります。

その弟子でもあった親鸞上人浄土真宗も念仏修行がメインであります。

ここでいう念仏とは阿弥陀如来様を念じることを指しています。

簡単にいえば、阿弥陀如来様を念じれば立ち所のうちに極楽浄土へと生まれ変わることができますよというのが念仏の趣旨でございます。

前回と同様、WikiPediaのリンクを張っておきますので詳しくはこちらをご参照してみてください。

☆浄土宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97

☆浄土真宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97

さて、念仏をすることとホ・オポノポノと一体何が似ているというのかというと、一つにはわかりやすさです。

仏教というものは、大蔵法典と呼ばれる仏陀の説いた御経によってその哲理・体系が定義されているわけですが、あまりにも膨大でかつ難解であり、深淵な教えであるがゆえに、なかなか理解したり、実践習得するのは困難だと言われています。

仏教修行をされる方というのは平たく言えばお坊さんなわけですが、本当に僧侶の方というのは非常に学問を積んでいる方が多いと思われます。

ともかく、難解な経典を読み解き、仏陀の教えを体得するために修行しているわけですから、それなりに頭がよくないと会得は難しいわけです。

しかし、本来、仏教には(とりわけ大乗仏教においては)衆生済度というテーマがあります。

これはいかなる民衆にも一人ひとりには仏性があるわけだから、この仏性を覚醒してあげて、迷いの世界から救ってあげようという発想であります。

つまり、頭が良くて難しい経典を読みこんだり、暗記したり、あるいは様々な修行をこなしていけるだけの素養がもともとある人だけでなく、誰もが自分の仏性を悟って救われるべきであるというわけです。

そこで問題となるのは、もともと学問を積む環境がそろっていて、いろいろと教育を受けられる立場にある人ならば、やる気次第ではどんどん修行したり勉強して、仏性を悟ることも可能かもしれませんが、そうでない人はどうしたらよいのかということです。

おそらく、法然上人や親鸞上人が生きた時代は、現代とは異なり、教養や学問を修める環境に身を置ける人はごく限られた人であったと思います。

大部分の民衆は難しい経典を読むどころか、読み書きすらままならない状況の人達が沢山いたことと思います。

いくらありがたい経典だ仏教哲理だといったところで、それを理解したり、実践できなければ絵に描いた餅となってしまいます。

僧侶や一部の学問を修めることのできる人だけでなく、一般の衆生(凡夫)はどうしたら救われることができるのだろうか。

この問いかけから生まれたのが念仏の道ではないかと思います。

実際、浄土宗の根本聖典とされている選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)という書物がありますが、その中で法然上人は実に巧みなプレゼンテーションを行っています。

簡単にいえば、仏教修行には「難しいやり方」と「簡単なやり方」がありますよといったところです。

こんな風に言われたら誰だって「じゃあ、簡単な方で(笑)」と言いたくなります。

法然上人が言う難しい仏教修行とは、様々な経典を読破して、いろいろな修行を積み、学問を積みながら、悟りへと近づいていくという方法です。

非常に才能や努力、環境や運なども悟るためには必要になるのがこの方法なわけです。

一方で簡単な方法はといえば、言わずと知れた「専従念仏」でございます。

簡単にいえば、他の修行はせずにただ一心に阿弥陀如来を念じて「南無阿弥陀仏」と唱える修行です。

一度ならずも耳にしたことがあるフレーズがあるかと思います。

「ナムアミダブツ」「ナンマイダーッ」という感じですね。(笑)

ともかくこれを唱えることに心を集中させよというのが法然上人の主だった主張であるわけです。

さて、ここでお話をホ・オポノポノに戻しますと念仏と似ているなと感じる点の一つとして四つの言葉を唱えなさいとだけ説いている点があります。

「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」

を唱えることでクリーニングできますというのは、丁度、浄土宗や浄土真宗が「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に生まれ変わります」というのと構造的に似ていると感じるのです。

繰り返しますがその背後にある霊界の体系は異なっているとは思います。

しかし、どちらにも共通するのはその簡便性、言霊を使った浄化という点にあります。

スピリチュアルな様々な理屈や法則は沢山あるとは思いますが、ホ・オポノポノにそれがありません。

とてもシンプルであり、理屈抜きに実践できてしまいます。

学問がなくても、難しい理論を理解しなくても、言霊を唱えるだけで浄化、クリーニングがなされるならばこれほど便利なことはないでしょう。

念仏にしても南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に生まれ変われるならば、なんと簡単で便利でありがたいことでしょうか。

さて、ここでちょっと聡い方ならばお気づきになったことと思いますが、上記のことが真実とするならば、いかなることをしても「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われて極楽浄土に入れてしまうことになるのではないかという点です。

あるいは、ホ・オポノポノでいえば、とにかく四つの言葉さえ唱えていれば全て解決してくれるならば、他のものなんて勉強する必要ないのでは?と思ったことでしょう。

では、本当にそれほど便利で簡単で単純なお話があるのでしょうか?

実はここには、様々な誤解や隠されている部分があるのです。

次回は念仏やホ・オポノポノの背景にある隠された秘密についてお話していきたいと思います。


・・・続く


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ホ・オポノポノと霊界(その1)

世間にはスピリチュアルというカテゴリに入る(入ると認識されることが多い)様々なものがあります。

このブログでもスピリチュアルを霊界守護霊という観点からお話させて頂いています。

同じように霊界や守護霊というキーワードを用いて語られるスピリチュアルワールドは沢山あると思いますが、それぞれに個性があり、特性があったりもします。

このブログの読者の方々は、他にも様々なスピリチュアルな知識に触れることが多いことと思います。

そのことにより、違いや共通点を発見したりすることで学びを深めている方もいることでしょう。

そのこと自体は良いことだとは想うのですが、時々、ごちゃごちゃになってわからなくなってしまう方も多いようにも思います。

私は、基本的に自分の見聞した内容、一つの側面としてのスピリチュアルを語っていくというスタイルを貫き通してきました。

あえて、他の分野には触れずに評論することもしないできました。

それは、その分野について、よくわからないまま語るのは誤解のもとになる可能性があることを懸念したからでもあります。

また、私が語ることで、単純に批評・批判と受け止められてしまうことを恐れてもいました。

しかしながら、あまりにもスピリチュアル的な他分野を避けてしまうと他分野の知識があるがゆえに、頭がごちゃごちゃになってしまう方もいらっしゃるように感じることが多くなりました。

そこで、今回から少しだけ、他分野のことをお話することを行っていきたいと思います。

あくまで私が知りうる範囲でのことであり、語る内容はあくまで、霊界と守護霊を中心とする私の霊界観に基づく解釈となります。

ここで語られる内容が全て正しいなどというつもりはありません。

あくまでも一つの見解、解釈、意見、主張の一つとして受け止めていただければと思います。

前置きがかなり長くなってしましましたが、早速、内容に入っていきたいと思います。

初回は、ホ・オポノポノ霊界の関係についてお話してみたいと思います。

ホ・オポノポノを知らないという方のために、まずは、WikiPediaのURLをご参考までに貼付しておきます。

☆ホ・オポノポノ(WikiPedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%8E

まず、WikiPediaよりホ・オポノポノの説明部分を抜粋してみたいと思います。

-----以下、WikiPediaより抜粋

ホ・オポノポノは"全責任を負う"ことを原理とする、ハワイに伝わる癒しの方法である。1980年代にモナ・シメオナ(Morrnah Nalamaku Simeona, 1913年-1992年。1983年には本願寺ホノルル別院とハワイ州議会によって、ハワイの「人間州宝」に認定された人物) は、個人で行うための新しいホ・オポノポノを創始し、これをセルフ・アイデンティティ・ホ・オポノポノ (Self I-dentity through Hoʻoponopono, SITH, ホ・オポノポノによる自己同一性)と名付けた[3]。この実践法は、自らが全責任を負う思想に則っており、モナは"ある人が人生の一切について責任を取るとは、彼が見、聞き、味わい、触れるすべてのことの責任を取ることである。そしてあらゆる経験は、彼の人生に存在するが故に、その人の責任が伴う"と教えた。また"全責任とは、万物が人間の内面からの投影として存在し、問題は外部世界の現実にあるのではなく、我々自身と共にあり、現実を変えるためには、我々はまず自らを変えねばならない"と説いた。モナによるホ・オポノポノは、14段階のプロセスを踏むことで精神をカルマの呪縛から解放することを目指す。なお、このプロセスに特定の言葉を唱えることは含まれていない。

モナの没後、ホ・オポノポノは主に彼女の弟子であるイハレアカラ・ヒューレン(Ihaleakala Hew Len)によって継承され、世界各地で教えられている。 ヒューレンによるホ・オポノポノは自らの記憶に向けて、「どの記憶が問題を引き起こしているのだろうか」と問いかけた後、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」の言葉を繰り返すことで実践される。

なおヒューレンによれば、この繰り返しは4つの言葉のうち1つの言葉を繰り返して言っても良いが、4つの言葉を1セットとして1セットずつ繰り返すほうがより効果が大きいという

-----以上、WikiPediaより抜粋

ホ・オポノポノとはハワイに伝わる癒しの秘法といったところでしょうか。

昨今では文献なども多々、出版されておりますので、それらも参考にされるとより詳しいことはわかるかと思いますが、特徴的なところは以下の点にあるかと思います。

1.ホ・オポノポノは"全責任を負う"ことを原理とする
2.問題は外部世界の現実にあるのではなく、我々自身と共にある
3.「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」を繰り返すことの実践


ホ・オポノポノの中核をなす哲理は、全ての現象は自己自身に内在し(特に記憶)ゆえに自分に全ての責任があるといったところでしょうか。

そして、その根本原因を解決する具体的手法として、四つの言葉を繰り返すというものがあるようです。

この考え方を霊界思考で説明すれば、自分自身の持っている霊界が顕現化することで問題が発生している。

なので、霊界を浄化していくために四つの言葉の言霊を使い、浄化を行っていくということになるかと思います。

なぜ、四つの言葉で癒しが行われて浄化(ホ・オポノポノではクリーニングと言われているようです)を行うことができるのかは、あまり詳しくは解説されていませんが、おそらく、ハワイの持つ霊界を動かし、その霊力で浄化を行っているというところではないかと思います。(解釈は霊界思考による)

私が、最初にこの哲理と実践方法について触れた時にひらめくものがありました。

それは、日本にも昔から伝わるホ・オポノポノに似た、霊界浄化プロセスがあることを思いついたのです。

それが何であるかは次回に譲りたいと思います。


・・・続く


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

あなたにはその資格がある

最近、よく考えさせられるが日本人の独特の感性についてです。

日本人の特有の感性はいろいろとありますが、その中でも美意識として定着しているものに「おくゆかしさ」というものがあります。

大和民族はもともと古来から言霊信仰とも呼ばれるほど、言葉に対する畏敬の念や力に対する確信を持っていました。

古代の日本人は言霊の力をよく理解していたので、言葉を慎重を使い、むやみに言葉にしないことを良しとしてきたところがあるのです。

日本のことを「言(こと)あげせぬ国」という表現がされることがあります。

いろんな主張や考えがあっても、すぐにそれを言葉にして主張したり、表明したりせずに、黙ってゆずるような態度を良しとする風潮がある国であることを示唆した表現でもあります。

この言葉にせず主張しないという点が日本人の美意識にまで高まり、その振る舞いとして「おくゆかしさ」というところに帰結しているように思います。

私もこの日本の独特の感性や美意識は感じ入るところもあり、日本人の好きな性質の一つでもありますが、時として行き過ぎるとマイナスに働くことがあるなと感じるのです。

私はFGSの会で様々な企画をしたり、メンバーに参加してほしくていろいろなことを発信し続けています。

でも、参加される方は全体のほんの一握りにすぎません。

もちろん、参加されるかされないかは自由であり、少ないなら少ないなりにそれでも良いとは思っています。

しかし、時々、頂くフィードバックの中で気になるキーワードを散見することが多くなってきました。

それは、「はたして自分にそのような学びに参加する資格があるのか」といった声でもあります。

私は、企画に応じて、参加条件を課すことがあります。

それは、全ての企画に全ての人が参加する必要はありませんし、企画の内容によっては、ある程度、意識を高く持って参加してほしい(そのようにせよという神霊の指導)という思いがあって制限をつけています。

ただ、それは意識を高めて参加してねという意味あい以外には他意はありません。

全てのメンバーは一応、縁があってFGSの会に登録されているはずなので、メンバーには条件がある場合は条件を満たしてくれる意志があれば、参加する資格は誰にでもあるのです。

しかしながら、元々、元来の日本人の性質でもあり、また、FGSの会に来られる方はどなたも心根が清い方が多いので、皆さん「おくゆかしい」方が多いわけです。

「縁があってFGSに入ったのであるから私にも学ぶ資格があるはず」

と元気よく思っていただけると嬉しいのですが、「おくゆかしい」ので謙虚に「自分には資格があるのだろうか・・」と考えてしまう方が多いような気がするのです。

こんな時、私は「もう少しずうずうしくてもよいのでは?(笑)」なんて、勝手なことを想ってしまうことがあります。

もちろん、「おくゆかしい」方は私は大好きであり、素敵な方だなと思います。

傲慢不遜で、ずうずうしい限りの人ばかりがメンバーになってしまうと私が大変なことになってしまいますし(苦笑)

そういう意味では、本当にFGSの会のメンバーには恵まれているなと想ったりもします。

しかしながら、あまりにも謙虚過ぎて、おくゆかしすぎて、学びに積極的になれないのは、結果としてマイナスになってしまうこともあるかと思います。

もちろん、最終的には全てのメンバーが主体的に決定していくことが大切ではありますが、その時に、もし、「自分に資格があるのか?」という自問が起こった時には、とりあえず、私から申し上げることとしては、「あなたにはその資格がある」ということです。

もちろん、条件や審査などによって結果として参加できないことも場合によってありますが、エントリーするくらいの資格はあるはずです。

というよりも、「自分にはその資格があるだろうか」と自問できるほどの謙虚な心があることこそが、十分に資格があることの証なのではないかと思います。

今回はちょっとFGSの会、中心のお話になってしまいましたが、これは全ての方に言えることで、何かをやろう、挑戦しようと想う時に「自分にその資格があるのか?」という言葉が頭をかすめた時には、思いだして欲しいと思います。

「あなたにはその資格がある」ということを。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

その心で味わうこと

和食は素材を重視し、素朴な味わいを箸や茶碗といった食器を通していただきます。

中華料理はあくなき食へのこだわりで調理して大きなお皿に盛られた料理を囲みながら取り分けながらいただく。

フランス料理ならばまずは前菜に食前酒としてワインが出されることもあるだろうか。

それぞれの食事の文化があり、味わい方がある。

和食を美味しく味わうためにはその文化を理解し、その心を持って味わわなければ、本当の意味で和食を味わったことにはならない。

中華料理もフランス料理も他の料理も皆同じです。

それぞれにふさわしい味わい方というものがあります。

スピリチュアルという世界も昨今の風潮としてより科学的、あるいは現実的な尺度の中で分析されて、ある種の解釈をなされることがあります。

たとえばスピリチュアルの現象などは科学的にはこのように分析できるといったことである。

脳科学ではこうだとか、心理学ではこうだとか、歴史や文化的な儀礼としてはこうだとか。

いろんな角度で分析がなされることがあります。

それは一つの尺度としては正しい一面を捉えているかも知れませんが、結局のところ、スピリチュアルはスピリチュアルの心を持ってでしか正しく解釈はできません。

たとえるならば、面白い小説や映画を分析したり、評論したりしてみてもそれらを本当に味わえているかどうかはわからない。

その小説や映画の面白さを本当に味わうためには、先入観を捨てて、その世界にどっぷりとつかりながら、存分に味わうしかないことにも似ています。

小説に書かれた文をパラグラフごとに分析してみても、その小説の味わいは感得することができません。

映画でも監督は誰で、主演は誰で、映画賞は何にノミネートされているかなどから世間的な評価が上下することはありますが、それも一つの尺度ではありますが、その尺度を持ってその映画を味わったといえるかどうか。

これは微妙です。

何が言いたいかといいますと、いくら分析してもその真価はわからないのがスピリチュアルな世界なのだということです。

その中で自分が何を味わい、何を感得し、何が心に残るのか。

その心で味わうしかありません。

評論や分析、世間一般にて作られた現世的な尺度からしか味わう方法を知らないとわかっているつもりで実は何もわかっていないということになりかねません。

まずは、先入観を捨ててその世界に入り込み味わうことが大切なことかと思います。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

良き師を見つける方法

何事も学びを深めていくためには、良き先達や師となる存在が不可欠になってきます。

宮本武蔵などの歴史・時代劇小説家の吉川英治氏は、「我以外皆師なり」という言葉を残しておられますが、私もこれにちなんで同じように全ての人、存在が師であると思っています。

いかなる人も良き師となってくれる可能性は多々あります。

それぞれに特技もあれば、専門分野を持っているかも知れませんし、どのような人が師になってくれるかはわからぬものです。

だからこそ、いかなる人にもその個性に経緯を払い、学ぶべきところは学んでいく姿勢が大切です。

さて、私の師というものに対する基本スタンスはこのような感じではありますが、では、良き師となってくれる人をどうやって見つけるのかということについて少しお話してみたいと思います。

いくら「我以外皆師なり」といってみても、誰から何をどう学べばよいのかわけもわからぬまま、お題目のように唱えてみても意味は薄いというものです。

では、まず、師とは何かということについて考えてみましょう。

通常、師というと何か専門的な知識や技術を持っている人のことを思い浮かべることと思います。

特別な自分にはない何かを持っているから、それを学ぼうというわけです。

この考え方は半分は正しいといえるでしょう。

しかしながら、それだけでは師としては不足分があると言わざるを得ないでしょう。

なぜならば、知らないことを教えてもらうというだけならば、本を読んだりするだけでも学べてしまうところも多いことでしょう。

師と仰ぎ、教えを請うのにはもう半分の要素が必要になってきます。

それは、自分の見えていないものを見る力を持っているかどうかです。

どういうことかといえば、私達は皆、自分自身の見解や考え方、行動パターン、背後の霊界、霊統、様々な個別のものを背負っています。

私達は自分の霊界のフィルターを通してしか物事を図ることができないのです。

たとえるならば、魚は海や川の水の中のことはよく知っていますが、陸地や空のことは知りません。

知らないというよりも、知ることができないと言った方が正確でしょう。

なぜならば、そもそも魚は陸地に上がろうとか、空を飛ぼうなんていう発想すら思いつきません。

犬とか猫などの哺乳類は陸地を知っていますが、水の中のことはよく知らないですし、空のこともわかりません。

それはただ知らないということではなく、意識すらしないということです。

昔、聞いたお話である島に生息する猿がイモを洗って食べるようになった経緯についてのお話をご紹介してみたいと思います。

ある島では猿達は薩摩芋を主食として生きていました。

地面からイモを掘りそのままかじりついて食べる。

誠にシンプルな食べ方です。

野生の猿ならばそんなものでしょう。

その島の猿は陸地では森林の中を自由に行き来して活動的ですが、決して海側には近づくことはなかったということです。

猿は水中での活動は得意ではないのです。

というより、水の中に入るという発想すら思いつかないのですね。

しかし、ある時、猿はあることがきっかけで、海に入ってしまいます。

イモを海に落としてしまったわけです。

大切な食糧であるイモを海に落としてしまって猿は大慌てで、海に入りイモを探し当てます。

そして、海水に浸ったイモを一口食べると衝撃が走ります。

「まいうー!」(笑)

ちょうど海水で塩味がついた薩摩芋は猿にとって衝撃的な美味しさだったわけです。

それ以降、猿はイモを海水で洗って塩味にして食べる習慣が根付いたということです。

もちろん、陸地だけが生活圏としてしか見えていなかった猿たちに新たな視野が広がったことはいうまでもありません。

この島の猿は、海にイモを落とすというアクシデントがなかったならば、永遠に海のことを知らずに生きていたことと思います。

さて、大きく話が脱線しているのでもとに戻すと良き師とは何かというと、「自分が自分であるがゆえに見えていないものを見えるようにしてくれる存在」であるといえます。

私達、人間は猿よりは賢い動物だと自負しているところがありますが、それでも、猿と同じように自分のテリトリーや見解、習慣、考え方から抜け出せない一面を持っています。

自分はなんでも見えていると思い込んでいる人でも、必ず、自分の枠を超えたところには目が届かないものなのであります。

だから、その目の届かないところを目が届くように導いてくれる存在が良き師であるといえます。

別にこれは特別な知識や技能を持っているということとは関係がありません。

自分に見えていないものを見て指摘してくれる人、あるいは存在が良い師となりえるわけです。

なので、子供でも大人でも、女性でも男性でも、専門知識があろうがなかろうが関係ないのです。

自分とは異なる視点から自分が見えないものを見るためには、常に先入観なく俯瞰して見てくれる存在が良き師だといえるでしょう。

もちろん、実際にはそこまでの技量のある良き師を得ることは難しいかも知れませんが、自分自身が先入観を捨てて、様々な自身に送られてくるメッセージに耳を傾ける時、あらゆるものが師となり、正に「我以外皆師なり」の境地に立てるのではないかと思います。

ですから、良い師を探したければ、自分の見えないところを見てくれて導いてくれる存在を探すか、自分以外のあらゆる現象、存在を通して無形の教えを受け取れるようにすることで、自分にとっての良き師を見つけることができるかと思います。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

【守護霊問答】行き詰りを打開する

今回の記事は守護霊問答を掲載してみたいと思います。

テーマとしては、「行き詰まりを打開する」ということでお送りしたいと思います。

私達の歩む人生には、時としてどうにも先に進めない壁のようなものに突き当たることがあります。

どうすべきかがわからなくて、その場で足踏みしてしまうことも多々あります。

そんなどうにもならない状況になった時にどうすべきかについて守護霊様にお伺いを立ててみました。


天心:「今回は行き詰まりを打開する方法についてお伺いしたいのですが」

守護霊:「質問を変えよ」

天心:「は?どういうことでしょうか」

守護霊:「求めるものに与えらる」

天心:「少し、わかりづらいのでもう少し詳しく教えていただけないでしょうか」

守護霊:「何事も答えとは問いかけることによってのみ得られる。問いなくして答えなし」

天心:「つまり、それは行き詰まりの打開策を質問すれば答えが得られるということでしょうか」

守護霊:「違う」

天心:「えっ(汗)、う~ん、ではどういうことなのでしょうか?」

守護霊:「さような問いで答えが得られぬから行き詰まったのであろう」

天心:「・・・ごもっとも」

守護霊:「では、何が必要か考えてみよ」

天心:「・・・あっ、わかりました!答えを得られなかったならば、別の角度から質問してみろということですね♪」

守護霊:「その通り。」

天心:「最初に言われた(質問を変えろと)いうのは、問いかける内容を変えてみなさいということだったのすね」

守護霊:「いかにも。およそ答えのない問題はない。答えが見えぬのは、その問いが不明瞭なるものがあるからである」

天心:「なるほど。確かに何を質問するかによって、得られる答えは変わりますね。答えが変われば行動や発想にもまた変化がありますからね」

守護霊:「答えを得るばかりに執心せず、自らの問いかけの質を正すこと」

天心:「心得ました。今回もありがとうございました」


以上が守護霊問答のやり取りになります。

行き詰まっている時というのは、どこか自分の探求心や向かうべき点が不明確だったり、単調だったりすることが多いですね。

質問する内容が本当に自分の行き詰まりを打開していくために必要なものなのか。

この点を見極めていくことが、実は行き詰まりの打開の第一歩となるのかも知れません。

ということで、今回は「行き詰まりを打開する」というテーマでの守護霊問答でした!


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

私達をつなぐもの

私達は個々に魂を持つ存在です。

一人ひとりは皆、それぞれに個性を持って生きています。

私達は個性によるそれぞれの主体性に基づいて行動することを望みます。

しかし、同時に私達は、絆を求めて、つながりを欲する生き物でもあります。

個性を埋没させることなく、お互いが調和していくためには、お互いをつなぎとめる何かが必要です。

それは一体何なのでしょうか。

お互いがつながるためには共有するという現象が必要不可欠になります。

霊界共有という現象を何度かブログでお話させていただいておりますが、霊界共有こそが現実思考でいった場合の一つの「つながり」であることは間違いないでしょう。

ただ、その霊界共有が起こるための要素は何であるのか。

このことについて少し考えてみたいと思います。

私達は単純に「袖すり合うも多生の縁」とばかりに、出会った人と片っ端から霊界共有を起こすわけではありません。

通勤電車の中でたまたま同じ車両になったというだけでは、霊界共有は起こるかもしれんけれど、あまり強いものではないといえるでしょう。

昔から「同じ釜の飯を食う」という表現が示すように場を共有することが、絆やつながりを強めるとされてきました。

確かに一緒に食事をしたり、同じ屋根の下で暮らせば、仲良くなったり、絆が深まる一つのきっかけにはなることはあるかと思います。

しかしながら、昨今では、たとえ一緒に食事したからといって、すぐに仲良くなったり、霊界共有が起こるわけではないことが明らかになっています。

たとえ、同じマンションに住んでいても挨拶もそこそこ、対してつながりも絆も生まれないといった状況が散見されています。

もちろん、郷土愛などが深く、地域に根差したつながり、絆というものも存在はしています。

ただ、昨今では単純な場の共有のみでは霊界共有が起きにくくなっているという状況にあるように感じることが多いのです。

特に首都圏、東京などはそのような傾向が強いのではないかと感じています。

わたし自身が東京に住んでいるからなおさらそれを感じているわけですが、段々と私達をつなげていくものの性質が、物理的なことから精神的なことへとシフトしていることを感じることが多くなりました。

インターネットが日常的に利用されるようになり、ますます、物理空間による交流から精神性だけが行き来する目に見えざる意志が交錯する世界が広がってきているように思うのです。

現に私はこのブログを通じて、北は北海道、南は沖縄、いや、それどころか、アメリカ在住の方やイタリア在留の方、あるいは台湾にいらっしゃるかた、海外からのアクセス、問い合わせをいただく機会も出てきました。

物理空間では全く意志をまじわすことが難しい方々ともインターネットを通じれば交流することができてしまうのです。

このような状況の中で人と人をつなげるものは、もはや物理空間に限定されるものではなくなってきているといえるのではないでしょうか。

では、場の共有といったことを越えて、私達をつなげるもの、霊界共有を起こすためのキーとなるのは何であるのでしょうか。

それは、まさしく価値観であり、価値観を踏まえた共有できる「こと」であるといえるのではないでしょうか。

価値観とうものは定義であり、抽象性の高いものでもありますが、それを具象化した何か共有できる「こと」が必要なのではないかと思います。

私はこのブログでスピリチュアルな世界のことや守護霊のことなどを発信し続けているのは、同じ価値観を持つ同志の方たちをつなぎとめる「こと」を提供するためでもあるのです。

私や私の活動を通して、同じく価値を見出す人達がつながりあい、補完しあい、できれば、現世に良い影響を当てる霊界を共有する同志となることができたならばこれに勝る幸せはないのです。

これからも、皆さまをつなげる「こと」を提供していければと思っています。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

気を取り入れる

私達はいろんなものを活力源として動いています。

健康な身体を維持するためには、様々な栄養素が必要になりますし、食事などを通して、物質的なものを取り込みながらエネルギーを得ているわけです。

それ以外にも私達を動かしている活力源があります。

過去にも少し触れましたが、「気」であります。

「気」とは感覚であり、目に見えないものでもありますが、確実に存在するものでもあります。

私達が食事をするのは、栄養を取る以上に「気」を取り入れようとしている部分が多いと思います。

そのあたりのことは、過去記事でもお話したので、そちらを参考にして欲しいと思います。

今回は「気」の種類について少しお話してみたいと思います。

東洋思想などでは「気」の種類を五行としてあらわされることが多いと思います。

木・火・土・金・水で五行ですね。

それぞれの気が特性を帯びていて、たがいに補完しあったり、相殺して滅し合ったり、ある「気」がある「気」を育てたりすることを五行は表しています。

たとえば、「火の気」と「火の気」の同じ気が合わさると「炎」になって同質の気が強くなることを意味しています。

しかし、「火の気」と「水の気」が合わさると今度は、「水の気」が「火の気」を殺します。

また、「木の気」は、火を起こす燃料になるため、「火の気」を育てます。

あるいは「火の気」がものを燃やすと灰が作られて土のもとになるため「土の気」を育てます。

このように様々な相関関係を持つのが気の特性であると東洋思想ではされています。

つまりこのことは、「気」というものは補完したり、相殺したり、強めたりしながらバランスをとる特質があり、バランスが取れている状態が「気」といった場合の観点からは、私達は健康的であるといえるでしょう。

何かの「気」が突出すればよいというものではなく、それぞれの状態を見てバランスを整えていくことが「気」を取り入れる場合のポイントになるのではないかと思います。

さて、気のバランスのとり方については、別の機会に譲るとして、今回は「気」の階層についてお話を深めてみたいと思います。

先ほどいった五行の気は主に地上世界の気のバランスを平面的にとらえた説明だといえます。

しかし、気というものには大きく分けて、三階層あります。

それが天・地・人です。

先ほどの五行のあり方は主に「地」の階層にあたる、「気」の説明になっています。

地球上の自然界のありようを主に述べています。

他にも天の気というものもあります。

天の気は主に地上にある物質的なものから発せられる「気」ではなく霊的な世界から発せられる「気」のことであります。

つまり霊気神気などが天の気です。

あと人の気というものは文字通り、人が持つ、オーラのような、パーソナルなものを含んだ気であります。

人の持つ独特な気であり、その人の特性を理屈抜きに表している感覚でもあります。

これら三階層の気も五行の気のようにそれぞれバランスを取って存在しています。

天・地・人のそれぞれの階層の気のバランスと五行のバランスを同時にとっていくことが本当の意味で健康的な状態であるといえるかも知れません。

風水を整えれば、地の気は整うかも知れませんが、天の気と人の気が乱れたままでは、気のバランスが良いとはいえません。

天の気を整えるためには、やはり霊界を浄化していく過程が必要になるでしょう。

人の気を整えるためには、人格を磨く修行や学びも必要になってきます。

ですから、気を取り入れていくにあたっては、天・地・人の三階層を意図していくことが大切かと思います。


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

【2012年12月度】神田明神への参拝

いよいよ冬の入り口に入ってきた様相を見せる季節となってまいりましたね。

本日、2012年12月度神田明神への参拝をご奉仕させていただきましたが、少し神田明神の雰囲気も引き締まったものへと変わっていたように感じます。

冬の時期というのは、陰の気が極まってくるタイミングなので何かが華開くというよりは、ギューっと何かが凝縮されて濃い神気がみなぎる時でもあります。

どちらかというと、発展上昇の時期というよりは、何かを吸引しため込み、醸成するのに適した季節が冬であり、陰の気の特質です。

易経では坤為地(こんいち)という陰が極まる卦がありますが、牛歩のごとくゆったりと、よりそうように歩みを進めるが良いのが陰の卦のあり方の一つでもあります。

今回の神田明神もいつものほがらかさが少し消えていて、どこか厳しい、けれど、充実した濃い何かが降りている感じがいたします。

すでに鳥居をくぐり抜けて手水舎に向かう道すがらでメッセージが降りてきていました。

メッセージの中身については最後にご紹介しますが、本当に手水舎にいる時も、ピリっとした空気が張り詰めています。

神馬の明ちゃんもどこか真剣なまなざしにみえます。気のせいでしょうか(笑)

それはともかく、今回もしっかりと拝殿前でまずはお賽銭箱にご寄付の一部を奉納して、祈願をさせていただきました。

ブログ読者の皆様の幸運隆盛、守護霊アドバイスなどでご相談頂いた方々の問題や課題が早くに解決に向かいますように、天命・過去世調査を受けた方が天命成就を全うされますように、道名授与者の道名の霊力が隆盛してしっかりと守っていただけますように、ご寄付をしていただいた方に神徳の追い風が吹きますように、いつものようにお祈りをした後に献灯を継続して奉納し、それから祈願串も奉納させていただきました。

本日は、神田明神では結婚式をされていたカップルの方がいらっしゃり、親戚・縁者の方々と神主さんや巫女さんの行列を見かけました。

このような寒い時期での式の催行は大変だと思いますが、この冬の時期に式を挙げたことでしっかりとお二人の結びつきが強固になることを何気なく祈念しつつ、境内を後にしました。

今回はあまりの寒さもあり、神田明神の近くにある甘味所のお茶屋さんで直会がてらお汁粉をいただきました。

お店も師走だからなのか、お店の棚卸的なことをされていて、忙しそうでした。

お汁粉とほうじ茶で少し身体をあっためてから、その後は神保町の本屋さんで本を物色した後に家路についた次第です。

さて、最後に神田明神にてのメッセージをご紹介したいと思います。


-------------------------

来年の如何はこの月にどうあるかにかかる

気を抜けばしぼむ

気を張れば開くなり

締めくくりを如何に結ぶかで決まるぞ

全てはくくり方にあることを知れ

-------------------------



どうやら、来年以降どうなっていくのかというのは、今月どう行動し、どのように心するかによって決まるということらしいです。

どうしても年末の月ということもあり、クリスマスだ!お正月だ!と気が抜ける時期でもあります。

でも、この月でしっかりと気を抜かずに一年の締めくくりを行っていかないと来年もダラダラいってしまう可能性があることを示唆しています。

逆にしっかりと今年度を締めくくり、来年のスタートを良い状態で切れるようにしておけば来年は花が開いていくようにチャンスもやってくるということを意味しているようです。


天心 拝


◎クリックご協力ください!

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

ツイッター
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
閲覧者数
現在の閲覧者数:
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
Happy Search★ ~占いと癒しの検索ポータルサイト~
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR