心に残った守護霊からのメッセージ21

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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軽き事柄に如何にして重みを加えるか

翻りて重き事柄を如何にして軽々と迎え入れるのか

相違工夫する肝の一つである

労苦は軽き事柄に真心という重みを加え

明るさ清々しさが重き事柄も軽々と運ぶ妙となる

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簡単に成し遂げたことは身につかないもので、色々と苦労するからよく身につく。

だから、物事をしっかりと自分の中に体得していくためには、苦労するほかはない。

人はなるべく楽に物事を運ぼうと思うけれど、実は、如何に苦労してそれを行うかを考えた方が良いと守護霊様に諭されたことがあります。

どうやって苦労しようかな?という発想はあまり考えにくいところではありますが、魂を向上させていくときには周り道をしてでも、苦労したほうが結果的に良いという面もあるのかも知れません。

一方で、自分にとって重大で深刻な事柄というものは、なるべく軽く受け止めて、深刻にならない工夫がいるということもおっしゃられていました。

先ほどの何かを成し遂げる場合と別で、重大すぎる深刻なことをそのまま受け止めてしまうと潰れてしまいます。

でも、なるべく深刻じゃないように明るく清々しく軽やかに受け止める工夫をすると、深刻さが滲みだす負のエネルギーを緩和させて、結果としてあまり深刻な事態を呼ばずに超えて行けるという守護霊様から頂いた知恵でもあります。


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皇命の想い

とこしえに

民やすかれと

いのるなる

わが世をまもれ

伊勢のおほかみ


明治天皇 御製

夫婦御神木
拝殿付近 夫婦神木


時を経て

変らぬものは

御心(みこころ)の

清き命(みこと)の

今も想いは


天心 


明治神宮の社殿
明治神宮内 社殿一角



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【あとがき】宗教とスピリチュアル

【第四章】宗教とスピリチュアルからの続きになります。

今回は、「宗教とスピリチュアル」をテーマにしたシリーズの最終回となりますので、【あとがき】として、今までの総括なんかをしてみたいと思います。

以前から宗教とスピリチュアルについては、自分なりの思いを考察してまとめてみたいと考えていました

テーマ自体が重いというか、宗教というキーワードを出した途端にアレルギー的な反応が返ってくるのではないかという怖さもあって、あまりしっかりとは触れずに今まではいました。

また、しかめつらしい顔をしてグダグダとお堅いテーマを論じると読者の皆さんも退屈させてしまう可能性も多いにあるかなと思います。

ブログとは私にとっては、読者の皆さんとのインターネット空間を利用した対話だと思っています。

なので、一方的に話たい内容を話すというだけでなく、いつも、何を発信すべきかな?という観点で記事の内容を決めています。

なるべく、「為になった」と思っていただけるために色々と試行錯誤を繰り返しているわけです。

ただ、それでもやはり、時として、面白くなくてもしっかりと明示しておきたいことも出てきます。

今回のテーマもその一つです。

昨今ではスピリチュアルという言葉が大分、市民権を得るようにはなってきたように思います。

社会の中枢とまではいきませんが、その片隅で花を咲かせることができていると感じています。

それも、思えば、様々なスピリチュアルの分野で研究や実践を続けてこられた先達のおかげかと思います。

時代によっては、スピリチュアルなどという言葉を出すだけでも「頭がおかしい」というレッテルを貼られてしまうこともあったように思います。

そんな時代の中でスピリチュアリティを継承してきてくださった先達には感謝しなくてはいけませんね。

まさに、徒然草の中に出てくる「先達とはあらまほしきかな」でございます。

現代風に意訳すれば「先に経験して色々と教えてくれる人というものはありがたいものだ」といったところでしょうか。

私も小さい存在ながらスピリチュアリティというものを奉じて生きています。

なので、この芽を守り、次世代につなげていく努力は拙いながらも続けていかなければならないと考えています。

次世代の人から「先達とはあらまほしきかな」と言ってもらえるように努力をしなければいけないかなと思っています。

そのためにも、まずはスピリチュアリティの元々にある宗教というものについて考察してみるということは、避けて通れないことでもあると思います。

単純に宗教の負の一面だけを見て、「臭いものには蓋」をしてしまうのではなく、その本質はどこにあるのか?について理解しておくことが大事かと思います。

宗教を知ることでスピリチュアルというものの本質も見えてくる部分もあるかと思います。

そういった意味でこの「宗教とスピリチュアル」のシリーズが読者の皆さんの考察の一助となることを願っています。

とはいえ、ブログ記事という関係上、あまりだらだらとお話するとさすがに息が切れてしまう部分もあります。

なので、ある程度、完結に短めにお話を構成させて頂いたつもりです。

本当にこのテーマをじっくり詳細に詰めていくと、ブログ記事では収まらない内容になってしまいます。

そのような事情から、内容はかなり乱暴にざっくりとまとめてしまっているところが多いという反省も残りました。

読みづらかったり、ちょっと論理的に飛躍があったり、データとして提示するものが欠落している点が多々ありますが、その点はご容赦いただければ幸いです。

通常のブログ記事とくらべ長めの連載となった「宗教とスピリチュアル」シリーズにお付き合い頂いた方は、本当にありがたく思います。

次回からは通常のライトな記事にまた戻る予定なので、これに懲りず、今後も「守護霊が導く!スピリチュアル世界」のブログでのお話にお付き合いいただければ幸いです。



天心 拝


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【第四章】宗教とスピリチュアル

【第三章】宗教とスピリチュアルからの続きになります。

前回は宗教の持つ欠点についてお話してみました。

それは大きく分けると、「主客の転倒」「時代の変遷への対応が難しくなる」という点にあったわけですが、このことをふまえた上で私達はどのように捉えていくのかを考えて行く必要があるかと思います。

まず、「主客の転倒」つまり、スピリチュアルティが「主」であり、そこに付随する制度や形といったものが「客」にあたるわけですが、これが逆転してしまう現象が宗教にはよくあるのですね。

ともかく形式上の教義だけを守ろうとしてみたり、信者ばかりが増えて影響力をますことばかりを追い求めたり、お金ばかりを求めたりし始めます。

もちろん、スピリチュアリティを守っていくためにはある程度の適切な形式は必要でしょうし、それを支える人がいなければスピリチュアリティは維持して継承されていかないでしょう。

また、貨幣経済の世の中に生きる上でお金が全く必要ないということは、物理的にありえない話なので、お金を求めることも必ずしも悪いことではありません。

問題なのは、本来の「主」であるスピリチュアリティがいつの間にか「客」に変わり、「客」である体制、形式、お金などが「主」になることで、スピリチュアリティが抜け落ちてしまうことにあります。

この点をまずは、よくよく考えなければならないかと思います。

決して「客」の部分である体制、形式、お金を穢れた目で見るのではなく、「主客の転倒」が起こらないようにスピリチュアリティをまずは大事にスポットを浴びせていくということが必要かと思います。

次に「時代の変遷への対応が難しくなる」についてですが、これは、まず、原理主義を止めていく他はないと思います。

時代は常に動き、状況は刻一刻と変化を遂げていきます。

諸行無常という言葉もあるように変化せずに永遠なるものはこの世にはありません。

常に状況が変わっていく以上は、それに応じて、やり方も教えも変わっていくべきなのです。

つまり、大事な部分は教義の中のスピリチュアリティであり、それを如何に現在の状況に合わせて表現していくのか。

この点を理解しておかないといつまでたっても古代の状況を元に作られた教義、体制、あるいは、その宗教が立宗した時点の状況に応じた内容に縛られてしまうことになります。

そういう意味では、やはり、現代に生きる私達が念頭におくべきはスピリチュアリティであり、体制や形式というものは、時代の状況、自分の置かれている状況、様々な要因を踏まえて主体的に判断し表現していくしかないのではないかと思います。

私がこのブログでスピリチュアルについてお話しているのも何か特定の教義とか決まりごとを遵守することよりも、どんどん変わっていく時代と状況の流れの中で如何に自分で主体的に表現していく方が良いと思うからです。

昔からある教えの中には今なおも正しく運用できるものもあるけれど、すでに時代おくれになってしまっているものもあります。

そこを把握しながら、常に動き続ける環境の中でスピリチュアリティを表現していく。

ここに一番、大事なポイントがあるのかなと感じています。

そして、そのためには、まずコアであり一番、「主」として理解し体得していかなければならないスピリチュアルな部分を中心に据えていくことにしているのです。

スピリチュアルとは古代から続く宗教的なものの中でも一番大切なコアなる部分にスポットを当てていこうというムーブメントであると言えるのかも知れません。

次回、このシリーズの記事は総括として最終回となります。

後、一回お付き合いいただければ幸いです。


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【第三章】宗教とスピリチュアル

【第二章】宗教とスピリチュアルからの続きになります。

前回は宗教というものの定義についてお話してみました。

宗教というものは、スピリチュアリティのみならず、社会的な枠組みを作り出す規範となっているということをお話させていただくと同時にスピリチュアルとの違いも明確に致しました。

スピリチュアルとは宗教の中核部分ではあるけれど、そこから制度的なものや現実社会の枠組みなどを取り去った根本部分であるという見方もできるかと思います。

このようなことを踏まえつつ宗教とスピリチュアルを比較したりして考えていくと、宗教において欠点ともいえる部分が浮き彫りになってくるかと思います。

それは、「主客の転倒」「時代の変遷への対応が難しくなる」という点です。

まず、「主客の転倒」についてお話していくことにしましょう。

元々は宗教はスピリチュアリティを主として、そこに基づく社会的規範や体制などを定義して作り上げてきました。

ちょっと下世話な物言いになりますが、宗教的権威を傘にして社会を作ってきたという経緯もあるということです。

そして、権威が具体的な社会的な体制に対する権力を生み出すと今度は、スピリチュアリティから心が離れて、権力志向になったり、現実世界の欲望に心を奪われるようになる人が出てきたわけです。

こういった経緯があり、宗教と社会的な枠組みとがくっつくと宗教が堕落するという論理が生まれてきた背景があります。

スピリチュアリティという「主」と現実的社会的枠組みという「客」がいつしか逆転してしまったということです。

本来はスピリチュアリティがしっかりとしていたら、そのようなことにはならないようにも思いますが、実際には、現実的な社会的枠組みから発生する権力や欲望を満たすパワーというものは、人を強力に惑わす力を発揮するようです。

このことから何が起こったかは、最初の序章でも少し触れたように陰惨な宗教の歴史へとつながっていきます。

また、もう一つの問題として「時代の変遷への対応が難しくなる」という点もあります。

ご存知のことと思いますが、宗教には、主に三つの要素から成り立っています。

大きな視点で見た場合は前回にもお話したように、スピリチュアリティ+スピリチュアルの体系化・形式的儀礼+スピリチュアルに基づく社会的枠組みの定義となるわけですが、もう少し小さい視点で見てみましょう。

それは、宗教が成り立つためには、宗祖となる存在がいて、その宗祖が説いた内容が教義という形で体系化されて、それを支持する人(いわゆる信者)がいることが必要要件になるわけです。

いかなる宗教もこの三点の要素が存在していることが多いのかな?と思います。。

ちょっと歯切れが悪い言い方になったのは、日本における神道やインドのウパニシャッドなどに含まれる古代宗教においては、宗祖と言い切れる方がいない場合もあります。

ユダヤ教にしてもモーゼやアブラハムなどいろんな聖人は登場しますし、宗祖的な役割を担う存在はいますが、一人の宗祖をあげることは難しいところです。

ただ、宗教の構造をわかりやすくするためには、上記の三点で説明するのがやはり一番良いのではないかと考えます。

さて、話が横道に逸れたので元に戻します。

宗教を宗祖、教義、信者という三要素で分けて考えるとして、まず、スピリチュアリティを継承した宗祖が教えを説くわけですが、これは特に問題はないと思います。

問題はそれが教義化されて、それを原理主義的に受け入れてしまうケースです。

特に宗祖が存命中はまだ、時代の流れを読みながらもっとも現状にあった適切な教えを説くことができるので良いとしても、宗祖が亡くなり、教義だけが残った場合に問題が発生するのです。

それは、時代の状況が変わっても教義の内容は変わらないからです。

例えば、今の時代にムハンマドやイエス、モーゼ、あるいは釈尊や孔子が生きていたとして、同じような内容ややり方で教えを説いたでしょうか。

おそらく、主なるスピリチュアリティは変わらなくても、その教えの内容は自在性をもって変遷させていくと思います。

しかしながら、今はこの地上には存在しない方々です。

地上に残った教えというものは今も変わらず昔のままなのです。

これが「時代の変遷への対応が難しくなる」という宗教の持つ問題点なのです。

この点をふまえた上で次回は、「では、今後、私達は宗教というものをどう捉えて、如何なる道を進むべきなのか」について考察してみたいと思います。


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【第二章】宗教とスピリチュアル

【序章】宗教とスピリチュアルからの続きになります。

少し固いテーマになりますが、お付き合いいただければ幸いです。

前回は、宗教というものの意味や現状について私が感じていることをお話してみました。

おさらいしてみますと、宗教とは本来的には倫理観や道徳観というものを伝えていく役割を担っていた部分があったということ、現在は宗教というものの評価や受け止められ方が若干の穢を含んだ認識のされ方をされているため、意識的、無意識的にも社会から排除されてしまう傾向にあること、それに伴い、社会から倫理観や道徳観というもの自体が欠落していく傾向にあるのではないかということなどを取り上げてみました。

多少、私なりの主観的な感想に偏っているキライはあるかとおもいます。

しかし、やはり、唯物的な価値観だけで占められた世の中というものは、いつか破綻をするのではないかという危惧は拭えないのも私の中では事実です。

もちろん、物質的、また効率や公平さ経済、政治という枠組みを軽んじるつもりはありません。

単純に倫理観や道徳観だけが主要であるとして、物質的な豊かさや社会的な枠組みを無視してしまうのは、それはそれで問題なのです。

要するに中庸が大事であり、バランスをとることが肝要だと言いたいわけです。

今は、物理的な世界の基準による豊かさ、社会的枠組みだけに意識が向きやすいという意味でバランスが偏っているように感じます。

であるならば、そのバランスを取り戻すためには宗教というものをもう一度、考え直し、理解し認識しなおす必要があると考えたわけです。

そこで、第二章では、宗教というものについて再び咀嚼して定義し直してみたいと思います。

様々な定義はあるかと思いますし、それぞれの人の印象も異なることは承知の上で、私の理解する宗教の定義を述べてみたいと思います。

まずは、WikiPediaにて宗教という言葉を調べてみました。

---WikiPedia「宗教」の頁より抜粋---

宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである

---抜粋終了---

最初の冒頭部分にある「人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念」という部分は、簡単に言ってしまえばスピリチュアリティということになるかと思います。

私達がスピリチュアルというものを探求し研究し実践しているのは、実にこの部分なわけです。

ゆえに宗教とスピリチュアルは似通ったものとして見られる傾向があります。

しかし、この先の定義を読み解けばわかるように宗教はスピリチュアルな要素だけで成り立っているわけではありません。

「その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団」

とありますが、一番重要なキーワードは「社会集団」というところです。

スピリチュアルは霊性、すなわち霊的な根源にある原理原則、あるいは神仏など本質的でコアな要素を指しているわけですが、宗教とは実はそれだけにとどまらず、体系化されて社会的な枠組みや文化的なものまで包含する存在でもあったわけです。

つまり、神仏的な存在を崇め奉ることがイコール宗教ではないということです。

宗教の定義を私なりの式で表すならば以下のような形になります。

宗教スピリチュアリティスピリチュアルの体系化・形式的儀礼スピリチュアルに基づく社会的枠組みの定義

少し抽象的なのでもう少し具体的に例を上げて考えてみましょう。

例えば、イスラム教にはクルアーン(コーラン)という聖典が存在します。

イスラム教は唯一神アッラーを主としたスピリチュアリティを持つ宗教であるわけですが、クルアーンの内容というのは、スピリチュアリティの部分だけが語られているわけではありません。

宗教的な形式的、儀礼的な作法はもとより、イスラム社会を運営していく上での枠組みとなる規則やルールなども記載されています。

他の宗教でも同様で規則や戒律的なものは、その背後には社会的集団生活を維持していくための方便的なものも多くあります。

そういった形式や戒律や儀礼的な作法はスピリチュアリティの範疇を超えて、大抵は国家や政治的な枠組みと合体を試みるようになります。

イスラム社会国家、キリスト教国家、色々とありますが、多くの伝統宗教というものは、スピリチュアルティの追求だけに留まらず、それ以外の生活や社会的集団がうまく運営されていくためのシステムとして機能し始めてきます。

なので、どんな国でも歴史を遡るとイスラム教やキリスト教、仏教や儒教といった様々な伝統宗教と結びついていることがわかります。

例えばアメリカ合衆国なども何だか合理性を追求したお国柄のように見えて、その実はキリスト教がベースにある国家であるということは周知の事実です。

日本はベースに惟神の道があり、そこに仏教や儒教、道教、キリスト教などの様々な宗教が乗っかって出来上がっています。

とりわけ比重的には仏教が大きいようにも思いますが、社会制度的には儒教的な枠組みも多いに見られます。

我々日本人が象徴として奉る天皇陛下は神道の神主の頂点におわします方ですから、やはり日本もまた宗教的なベースがあって国家としての枠組みが作られています。

このように宗教というものは、実は単なるスピリチュアリティだけを追求した存在ではないということなんですね。

そこには、私達の生活の枠組みまでもが宗教的な意味合いで作られているといっても良いでしょう。

例えば私達日本人は非常に潔癖なところがあり、汚いものに敏感です。

不正やアンフェアーに敏感だといっても良いでしょう。

これは神道における穢の思想からくる反応でもあります。

アメリカ外資系の会社では、日本の会社のような人と人との付き合いに応じたなあなあな取り決めでビジネスを進めることはありません。

びっちりと契約を結び、その契約が履行されない時には、取引が停止になるか、裁判で決着を付けられます。

「そこは私の顔に免じて一つよろしく!」というような日本的腹芸は通用しません。

なぜならば、キリスト教国家においては契約は神聖なるものであり、それが反故にされることなど考えられないからです。

元々、旧約聖書、新約聖書の旧約、新約という部分は神との契約という意味なわけです。

なので、文字通り契約は神聖なものなのです。

こういった様々なところで宗教というものから派生した部分は隠されているのです。

宗教とスピリチュアルの大きな違いはここにあります。

宗教はスピリチュアルを含む大きな社会的な枠組みまで作り上げてきたものであるといえます。

そして、スピリチュアルはそこから霊的なコアな部分にスポットを当てることを目的としています。

では、どうして宗教から独立したような形でスピリチュアリティだけが取り上げらるようになってきたのでしょうか。

そこには宗教の持つ独特な欠点に原因があるように思われます。

そのことに関しては次章でお話していきたいと思います。



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【序章】宗教とスピリチュアル

『宗教』

この言葉を聞いて皆さんはどのような感じを受けるでしょうか。

実家にある仏壇を思い浮かべたのでしょうか。

あるいは、十字架に張り付けにされたキリスト像、あるいは聖書などの教典などに描かれる物語でしょうか。

もしかするともっと陰惨な宗教上の歴史を想起する方もいらっしゃるかも知れません。

歴史を遡れば、そこには人類の争い、殺し合った事実から目をそらすことはできません。

そして、その争いの背後には、宗教上の関わりあいがあったりするものです。

例えば、イスラム教の原理主義者は今でも聖戦と信じて自爆テロを行い、多くの人命を奪ったりしています。

あるいは、キリスト教においても、聖書で禁じられた行為を行ったものを殺したりする原理主義的な行動をされる方がいます。

聖地を奪還すると称して、編成された十字軍。

日本でも仏教の宗派が争い、僧侶が武装して戦い争った歴史もあります。

また、昨今では、新興宗教などがシツコイ勧誘活動をしたり、霊感商法と呼ばれる人の不安を煽って脅迫して霊的グッズを購入させるなどの社会的な問題があったりもします。

もっと深刻な例を上げれば、近年に発生した地下鉄に毒ガスを散布して多くの方が亡くなる、傷害を負う事件なども宗教が起こした陰惨な事件の一つですね。

このようなことを述べ連ねていくと「宗教とはろくでもないものだ!」という結論に達してしまう方もいらっしゃるかなと推察いたします。

確かに昨今の風潮として、「宗教」という言葉は嫌われる傾向にあり、明らかに穢れた言葉として認識されるようになってしまったキライがあるように感じます。

宗教という言葉を聞けば、眉をひそめられてしまう。

それゆえに本来は道徳や倫理観の原点としての価値観を教える役割を担っていた宗教の立場は地に落ちてしまっている観があるのが否めない状況に感じるのです。

私達は生きる上で何かを指標としています。

一つには私達の暮らす国家や地域という社会的集合体が取り決めた法律や条例、規則などに乗っ取り、遵守することで社会的人間らしい生き方をしようと心がけています。

しかし、法律や条例、規則というものは大きく二つの視点で形作られているものでもあります。

一つは、出来うる限り社会を効率よく公平になるようにルール付けをしていくことでコントロールする。

もう一つは、社会的な人間としてあるべき姿から逸脱しないための最低限の倫理、道徳を守っていくこと。

これらが法律や条例、規則などが制定される際に考えられている大きな視点ではないかと思います。

もちろん、厳密に言えば法学などで定義されているものとは違うかも知れませんが、少なくとも私達が一般的に誰もが理解できる粒度でお話すればこのようなことになるかと思います。

このことを前提にお話を進めさせていただけば、法律、条例、規則などのルール付けをしていくためには、一つには現状の状況を分析してもっとも効率的かつ公平である内容がどのようなものであるのかを把握すること、そして倫理観、道徳観というものをしっかりと身につけた感性が必要だということです。

古来には祭政一致という言葉にあるとおり、宗教的な祭儀と政治的な社会的な運営は一致していたわけです。

というよりも、本来、この二つは本質的には切り離すことはできないものです。

その理由は先にも申し上げたように宗教とは道徳観、倫理観を示す使命を持っていた重要なものであるからでもあります。

決して、宗教は争いの道具や、悪質商法の手段として生まれたわけではないのです。

宗教的なものの信頼、評価が地に落ちてしまったことにより、それを排除しようとして発生してきたムーブメントが政教分離という考え方でもあります。

この考え方は「宗教が政治に関わると堕落するから」という一応の理由が掲げられていますが、その実は、宗教というものが地に落ちてしまったために穢れたものは排除しようという発想があるのです。

しかし、何度も言いますが、宗教は倫理観、道徳観を教えていく重要なファクターでもあります。

それを排除するということは、私達の生きていくための指標は効率的で公平であるものを追求するものだけから構成されるようになり、人としてどう生きるべきかという部分は欠落していくことになります。

昨今の社会を俯瞰してみていると、どうも倫理観や道徳観という視点はあまり重要視されず、ただただ、私達が便利で効率的に暮らせるということばかりが論じられているように思えてならないときがあります。

なぜ、そのようなことになってしまっているのでしょうか。

このことを鑑みてみるとやはり、宗教というものに対する誤解や認識の歪みが原因の根底にあるのではないかと思い至りました。

そこで、少し退屈なお話になるかも知れませんが、宗教とは一体なんであるのか?

この点について少しずつお話していきたいと思います。

また、よく混同されるのがスピリチュアルと宗教の違いについてです。

この二つについても様々な意見があるかと思いますが、私自身の認識をここでお話することで、私の考えている宗教やスピリチュアルについて表明しておけたらと思います。

まずは序章まで。

次回に続きます。



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守護霊の守秘義務?

守護霊アドバイスなどの取次鑑定を行っているとこんなことをおっしゃられる方がいます。

「守護霊はいつも傍にいるならなんで○○のことや△△なことを知らないのか」

いつも傍にいるという部分はちょっと誤解なのですが、そこは過去記事などを参照していただくとして、上のような感想を漏らす人は、得てして、守護霊アドバイスで守護霊に聞けばなんでも私が情報を得てしまうと誤解している場合が多いものです。

いつも、御相談者のことを見守っているならば、全てを守護霊は知っているはず。

そんな守護霊に何かを訊けばどんなことでもわかってしまうのではないか。

こう考える方もいらっしゃるようです。

しかし、実際のところそうではないのです。

ちょっと想像してみてい欲しいのですが、あなたの周りにいる友人で、あなたのことを慮り、誠意ある態度でお付き合いをしていこうとしている、そんな方がいるとしましょう。

その方は、あなたについて基本的に身も知らずの人からいろんなことを聞かれたとしましょう。

その誠意ある友人はなんでもかんでもペラペラと不必要なことまで喋ったりするでしょうか?

誠意がある人であればあるほど、情報開示は慎重になるはずです。

守護霊とは、基本的にこの誠意ある友人と同じスタンスだということです。

ある程度の守秘義務的なものもあり、なんでもかんでも第三者に教えてくれる存在ではないのです。

もちろん、取次鑑定の場合は、御相談者のコンセンサスが取れている状態でもあり、ある程度、霊界の原則に従ってのことなので、最低限は開示してくれているわけです。

やたらとペラペラと他人に情報をしゃべる守護霊がいたとしたら、それは正式な守護霊としての霊格を備えた存在ではないと言えます。

なので、なんでもかんでも情報開示してしまう存在が力を貸していると、あたかもすごい霊能力が発揮されることがありますが、それはある意味、危険なことでもあるのです。

なんでもかんでもできてしまうことがすごいと思ってしまう風潮もあるため、とてつもない顕現力を見せられるとついつい「おおっ!スゲーっ!!」となってしまいますが、そこが落とし穴であったりもするのです。

ちゃんと筋をわきまえた存在である守護霊は、本人の魂の向上につながらないことの場合は、教える内容も必要最低限に抑える場合が多いのです。

この点がわからないと、霊的存在の正邪の審神(さにわ)ができているとはいえないでしょう。

スピリチュアルな世界への関心が高まってくる時代に突入してきますが、その分、審神することの重要性がましてくるのかとも思います。


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君から始めよう

君から始めよう


誰も見向きもしない


そんな乾いた土地に


最初に鍬を入れる


君から始めよう


誰からも賞賛されなくても


いつも正しく


優しく寛容で


やるべきことをやる


君から始めよう


夢を語り


希望を見出す


明るい灯火を


自ら掲げること


君から始めよう


根気よく


めんどうなことに


じっくりと取り組む


勇気を持つ


君から始めたら


君から世界は変わっていく


君は世界の中心で


君から隣人へと


波紋は広がっていく


どんなに絶望的で


目を覆いたくなる惨状が


君をとりまこうとも


君から始めたら


君から世界は変わっていく


世界を救うヒーローは


変身ベルトをつけた超人じゃない


他の惑星から来た異星人でもない


十字架に張り付けられた人でもなければ


静かに瞑想をしている人でもない


他でもない


君自身なんだ


だから


君から始めよう


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出会いと別れが全てを作る

こんにちは


さようなら


繰り返す


出会いと別れ


誰かとの出会いがあれば


誰かとの別れがあり


別れることによって


新しい出会いもまたある


全ての因果は連続している


だからその因果の一部分を切り取って


しかめつらしい顔をして


論じてみたって始まらない


人間万事塞翁が馬


そもそも始まりも終わりもわからない


流転する世の中だ


ならば、出会いが嬉しく別れが悲しいということもない


現在の自分の有り様は


全ての出会いによって作られて


全ての別れによって作られた


僕たちはこれを繰り返す


これからも


ずっと


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幽霊は映画を観る?

なんだか急に秋口の気配を感じ始めました。

朝方、妙に寒気を感じたりしています。

風邪かな?なんて思うのですが体温計での計測結果は、ばっちり平熱(笑)

やっぱり気温が落ちてきているからなんですかね。

それはともかく、今回は久しぶりに霊障カテゴリのお話をしてみたいと思います。

あまり意識を向けないほうが良いのが霊障というものの本質ではあります。

なので、あまりこのカテゴリのお話をしないようにしてきました。

ただ、今までの経験から、私が積極的にお話しなくても、やはり興味や関心、あるいは自分に霊障があるのではないか?と気になって質問されてくる方もいらっしゃいました。

そう考えると私がだんまりを決め込んで霊障から意識を離していたとしても、結局は語ることになるわけです。

だったら、もう思い切ってブログ記事でお話してしまえ!というちょっとした暴挙にでることにしました!(笑)


ということで、ちょっと怪談めいたお話なんかに感じられてしまうかも知れませんが、苦手な方はスルーしてくださいね。


さて、今回は、私が経験した霊的(どちらかというとマイナスなもの)な体験についてお話してみようと思います。

ある時、映画館でホラー系の映画を見ていたときのことです。

・・・とここで、話の腰を自ら折るようでアレなんですが、先日の記事でも映画の話をしたので、「天心は映画ばかりみて遊んでいるのか!」と思われそうなので言っておきます。

そんなことはありませんからね。(苦笑)


話を元に戻しましょう。


ホラー系のとある映画を見ていたと言いましたが、一般的にはホラー系映画はスピリチュアル的にマイナスの波動を受けるので見ることを推奨されていない傾向がありますね。

私自身も概ねの理屈としては同意しますが、私が見に行く時はある意味で勉強のためです。

つまり、どの程度、ホラー系映画というもののスピリチュアル的な影響があるものなのか、身をもって体験するわけです。

それから、浄霊などをする際にいちいち、マイナスの霊物にビビっていたら話にならないので、自分の肝を練るためでもあります。

なんていうこともありますが、多少、怖いものみたさみたいなものもあったかも(笑)

それはともかく、とある映画館の劇場の後方座席で映画を見ておりました。

映画のクオリティとしては、はっきり言えば大したことはなく、どちらかというと退屈でもありました。

その時は平日だったこともあり、劇場内はほとんど客もいない状態でした。

・・・客もいない状態だったはずなんですがねェ。。

ここでちょっとおかしな事に気づいちゃったんですよ。

気づいちゃった~気づいちゃった~わ~いわいという何かお笑いのネタがあったように思いますが(笑)

前方の誰もいなかったはずの席にチラホラと人影が見えるではありませんか。

最初は誰か後から入ってきたのかな?それとも見間違い?と思ったのですが、よくよく観察するとどうやらそういうことではないようです。

明らかにこの世系の方々ではいらっしゃらないようです(汗)

正直、「おお、○霊が映画見に来てるぅ~!?☆▽(°д°)」と映画そっちのけでビックリしたわけです。

しかも、ホラー系映画の内容を差し置いて、君たちの方が怖いぞ!

いやいや、むしろどちらかというと怖がらせる側の存在の君たちが、怖いもの見てるってどういうこと!?

なんだかわからぬトートロジー(意味不明)

そして、霊的に感覚の鋭い人はお分かりになれると思いますが、こういった場合には大抵、トランスに入ります。

私もご多分に漏れずトランスに入り、身体が金縛り状態、and 強制審神状態。

一体、それらがなんであるのかを見極めるまでトランスから抜けられません。

もちろん、ガンガン、霊的な世界が影響力発揮してきます。

頭もクラクラ、目もぐるぐる回ってきます。

結局、その前列にいた霊達は、不成仏霊で、映画と映画館に残留する低波長のものに引かれてやってきた者たちだということだけはわかりました。

その後は一応、浄霊して綺麗にしましたけれど、途中から映画どころではなくなりましたね(苦笑)

いつも、こうなるというわけではないのですが、この一件からあまりホラー系の映画は観るのを控えるようになりましたね。

映画というものは作り物かも知れませんが、そこから醸し出される霊波長というものは、実際の霊界を動かす場合があるんですよね。

なので、「こんなの作り物でしょ?」と思うかも知れませんが、以外と霊界とリンクしてしまう場合もあるということです。

ということで、皆さんも観るならば良い影響を与えてくれる映画をみましょうね(苦笑)


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オファーは繰り返される

こんにちは!


天心です。

最近はご飯が美味しくてしょうがなく感じています。

暑さも大分和らいできましたので食欲が盛り返してきているのでしょうか(笑)

ちょっと体重が増加傾向にあるのを懸念しています(苦笑)

体重が増えますと血圧やら尿酸値なども気になってきますからね。

ある程度、健康管理は心がけねば!

ということで、守護霊にダイエットの誓いを立てて、質素、素朴な食事を心がけるようにしました。

すると面白いことが沢山起こります。

何が面白いかというと守護霊が奮闘しているなというサインを沢山受け取るのですね。

どういうことかというと、まあ、人間はすべからく誘惑に弱いものです(少なくとも私はそうです(笑))

ダイエットだなんだと最初はいきましていましても、街へ出て美味しそうな香りがしてくれば、つられて食べたくなるし、お腹がギューギューと空腹を主張すれば、慈悲深い私は?「ああ、かわいそうな胃袋ちゃん。待っててね」と言わんとばかり、何かを口に頬張りたくなります(笑)

いやいや、守護霊への誓いはどこへいった?(汗)

最初の崇高な?誓いはどこへやらで、フラフラとレストランに吸い寄せられていきます。

しかし、そこで守護霊の働きが待っていたりします。


レストランに入ろうとしてもお店の人から「いや~今丁度、満席でして1時間以上待ちますけど~?」なんて言われたりします。

諦めて、スゴスゴと歩いていると今度は、コンビニエンスストア発見!

これもまた吸い寄せられるようにお店に入るとそこには美味しそうな肉まんがホカホカしているではありませんか!?

まあ、もう完全に誓いのことなど忘却の彼方、太古の昔の前世の出来事。。

そんな具合にもう我慢できなくて、お店の人に肉まんを所望しようとするとどうでしょう。

「ああ、これまだ、蒸し終わってないから、1時間くらいかかりますよ?」と言われるわけです。

ここまで来るともう、「ああ、守護霊が怒っているな?」と気づきます(笑)

まあ、最初から薄々は気づいていたのですが(笑)、やはり守護霊は止めにかかりますね。

あの手この手でオファーを繰り返し、「ちゃんとせいや!」と知らせてくるのです。

守護霊との交流というと何やら秘密めいた霊的な儀式的なことばかりを思い浮かべてしまうかも知れませんが、実はこうした日常の中での様々なサインを受け止めて、守護霊の諭を得ることも交流の大事なポイントでもあるのですよね。

おかげ様で私も大きくリバウンドすることなく、体重をキープできる食生活を送ることができています。

あなたも今日から守護霊に何か誓いを立ててみませんか?

きっと、繰り返しのオファーを体験するかと思いますよ(笑)


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取次鑑定のご感想 Part2

守護霊アドバイス、天命・過去世調査などの取次鑑定のフィードバック、ご感想などを日々いただいております。

なかなか、ご紹介できないものも多い中(プライバシーに関する部分も多いので)、いただいたものから、ご紹介可能なものを少し発表してみたいと思います。



☆守護霊アドバイス


~~~~~~~~~


お忙しい中、親身にアドバイスをくださってありがとうございました。

元気が出ました。
不和をもたらす思考回路、因縁や運勢に悩まず、もっと魂のチカラを発揮できるように精進しようと思いました。

ありがとうございました!


30代 男性

~~~~~~~~~


天心様

鑑定ありがとうございました。

前ばかりを見るなとの

お話し

なるほどと思いました。

私は福島県に住んでいます。

原発が近く、震災直後は

もうだめだと思いました。

そのせいか、

いつ死ぬかわからない人生なんだから

時間は無駄にできないと

生き急いでいたかもしれません。


ありがとうございました。


40代 男性

~~~~~~~~~


☆天命・過去世調査


~~~~~~~~~


先日頂いた天命の

「○○○○*1

は、まさに今の私に絶対的に必要な内容で驚いています。

・・・(中略)・・・ *2

扱っている商品が時代の先駆けとなるような製品である
ことから戦略的にも市場開拓でも、過去の経験と人間関係
だけではやっていけない世界のものです。

自分が動いている現実に遅れを取っていたのではとても
会社の代表としてはなりたちません。
コンピューターも搭載している電話機ですので、日進月歩に
性能がバージョンアップしていく訳で「臨機応変」にそれに
対応していく覚悟がなければ、全く仕事にならないのです。
驚くほど「的」を得ているというか、私の天命にあった
課題を与えられているというか、びっくりすると同時に
納得もしております。

・・・(中略)・・・ *2

なぜなら、今回の天命を知ることで、私は今自分が置かれている
立場が決して偶然ではない!ことを理解することができたから
です。 魂の成長に一番いい環境にほおりこまれた!そんな気に
なれたことで、何かが吹っ切れたことと今の状況に感謝の気持ちが
湧いてきたからです。

・・・(中略)・・・ *2

しかし、我々もまた一個人としての成功といいますか、納得できる
人生にしたいし、きちんと成功と呼べる成果を出したい!と思って
おります。そのためにも頑張ろう!と思っています。
今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。


50代 女性

*1 天心註釈:御相談者の個人的な天命の具体的内容なので非公開とさせていただきます。
*2 天心註釈:プライバシーに関わる具体的な内容部分であることと、長めのご感想であるため省略いたしました。



他にも沢山のフィードバックをいただいておりますが、今後、折を見て発表できればと思います。


天心 拝


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下位・中位・上位の心

「楽しことがきっとある(来る)」


こう考える心は下位の心


楽しいことが向こうからやってくるのを待ぼうけている


まるで北原白秋の「待ちぼうけ」という詩にあるように


兎が飛んできて勝手に木の根っこにぶつかって


身を捧げてくれるのを待っている


「楽しいことをやろう」


こう考える心は中位の心


積極的ではあるけれど


人生の道すがら


楽しくないこともあるだろう


楽しいことはやるけれど


楽しくないことには尻込みする


では、上位の心とは如何なるものか


いかなるものも「楽しむ境地」にある


待つこともなく


事柄に囚われることもない


あらゆるものと


戯れる


この心こそ


上位の心というものだろう



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供養の歴史と読経

先祖供養という言葉は結構、このスピリチュアルの界隈ではよく聞く言葉の一つだと思います。

それと同時に様々な意見や憶測、「ともかく供養せい!」みたいなことをいう方もいれば、「供養など不要だ!」と言い切る人がいて、結構、意見が分かれる要素があるのが、この供養という事柄のおかれた状況でもあります。

そこで、少し供養について歴史や意義を振り返りつつお話してみようかと思います。

その前に一応、天心の先祖供養などに対するスタンスを述べた過去記事があるので、天心の先祖供養に関する望み方については、そちらを参照してください。

供養について

他にも様々に語っている記事はありますが、ご興味がある方は、先祖供養カテゴリをご参照ください。

さて、供養を考える上で少し、歴史を遡りつつお話してまいりましょう。

昨今では、供養というと亡くなった人間を慰める行為といったニュアンスで捉えられていることが多いように思います。

しかしながら、本来の供養とは、元々は、僧侶などの聖職者に対してお世話をしたり、施しをしたりすることであったのです。

もちろん、これらは亡くなられた方ではなく、生きておられる方です。

供えて養うと書くことから、その有り様は想像ができると思います。

なぜ、僧侶などに対してお世話をしたり、養ったりするという行為が生まれたのかといえば、神や仏に一身と一命を捧げて生きるものをサポートすることは、大変功徳が高い行為であるとされていたからであります。

なぜ供養の功徳が高いのかと言えば、その理屈はおそらくこのようなことだと思います。

まず、相手に対する愛や慈悲、真心からの行為は正のエネルギーすわなち功徳になるということ。

それにもまして、この世に正のエネルギーを充填させるべく聖職としての行いをするものをサポートすることは、単純に慈善行為による正のエネルギーを蓄えることよりも、もっともっと正のエネルギーの醸成を助けることになります。

つまり、同じ供えて養うならば、僧侶のような聖職者が良いだろうという発想が生まれてきたのだろうと思います。

このように亡くなった方ではなく、当初は生きている尊い方をサポートするのが供養のあり方でありました。

ここでおそらく現代の供養と呼ばれる内容とのギャップに気づく方も多いと思います。

このギャップゆえに現代で行われている供養などに対して「あんなものは本来のものと違う。だから不要だ!」と感じてしまう方も多くなるのかな?と感じます。

しかしならが、供養の歴史をさらに進めていきますとこのギャップが生まれるキッカケを作ったあるエピソードに出会います。

そのエピソードとは以下のようなあらましです。

修行に励む仏法僧がある日、亡くなられました。

仏法修行の途上での涅槃への旅立ちです。

まだ、現世で修行を続ける僧達は、亡くなった仲間の修行僧がちゃんと涅槃に旅立てたであろうか?と心配になったといいます。

そこで生き残った僧たちは、亡くなった仲間の僧がちゃんと涅槃に旅立てるように何かできないものかと思案します。

「死んだってあいつは俺たちの仲間だ!」

「仲間がちゃんと成仏できるように俺たちも助けてやろうぜ!」

まるで漫画のルーキーズのような友情劇ではありませんが(笑)、仲間の僧達は一斉に釈尊の教えの説かれた経典を読み上げて、亡くなった僧侶が仏法から離れずにいられるようにサポートしたということです。

これが、亡くなった方への供養を行うことになるエピソードと思われます。

なぜ、葬式や供養の時にお経を読むのかといえば、それは、亡くなった方が仏法から離れないようにサポートしてあげているわけなんですね。

このことから、段々と供養というものが指す範囲が生きている聖職者限定であったものが、亡くなった方にまで拡張されることになったわけです。

今、現代で一般的に認識されている供養とはこのことが源流にあるということです。

でも、「現代の人はお経の意味なんかわからないから読経しても無意味じゃないか?」という意見もあります。

確かに古代パーリー語から漢文になり、日本語発音となった経典を読んだところで意味不明になるという論理は正しいかと思います。

なので、本当は分かりやすい意味で霊界法則などを語りかけて上げる方が良い場合もあるといえます。

しかしながら、そうはいっても読経が意味がないわけではないのです。

なぜならば、読経には、先ほどお話したような亡くなられた方を諭す意味としての顕教的な意味あいと字句の意味を超えた霊的メカニズムを含んだ密教的な意味合いがあるからです。

実はほとんどの読経は今や顕教的な意味合いから、密教的な意味合いに移行してしまっていると考えられます。

ですから、読経が無意味なのではなく、その意図するところが全く表面上で理解されていることと異なるという認識を持つ必要があります。

密教的な意味については、ここではお話できませんが、少なくとも供養というものを考えていく上で、歴史的な流れを追いかけて理解してみるとよくわかるかなと思います。

先祖供養といった場合はご先祖様の霊界での生活や学びを向上させるサポート及びねぎらいというように考えるとわかりやすいと思います。

以上、参考まで。


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心に残った守護霊からのメッセージ20

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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我利我利亡者の溢れる世

棹さす光とは

義であり

愛である

陰徳高きものとは

常に本を務(つとむ)なり

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自分のメリットになること、得をすることばかりを求めてしまいがたいな世の中で、眩い光となるのは、義であり、愛であると守護霊様はいつも言われます。

自分にとって何も報われるようなことではなくても、陰になり日があたらない場所でも、本質である義や愛を忘れない人が本当の意味で「徳」が高いと言えるということを守護霊様から諭された言葉です。

どうしても、人は自分の行動に対する報われるかどうかが気になります。

でも、本質を理解するように努めていくと、周囲からどう報われるかはどうでも良いことに気づきます。

自分が自分に報いること、自分が恥ずかしいと思わぬ態度をとることが大事なのかも知れません。


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マイナスをゼロに

ちょっと恥ずかしいことながら自分の失敗談を交えつつ、マイナスをゼロに戻す大切さということをお話してみたいと思います。

ところで、天心は、松葉か霞を食って生きていると思っている方に言っておきます。

ちゃんと人並みの普通の食事をしてますから(笑)

そんな日常での食事中に起きた失態をお披露目します。(ホントはあまりしたくはありませんが(苦笑))

まあ、食事中といえば、よく小さい頃は親から、ちゃんと気をつけて食べなさいと言われていましたね。

気が散漫になっていると、ご飯を喉に詰まらせたり、テーブルの上のコップの水をこぼしたりするので、注意されるわけです。

子供にはよくありがたいなことなのですが、ついぞ最近、大の大人であるはずの私が食事中にやらかしました。(汗)

何をやらかしたのか少し掻い摘んでお話してみます。

カレーを食べておりまして、もう、本当に平和にのほほんと、よくある食事の場面です。

振り返ってみれば、ちょっと考え事をしていたのと、テーブルの上を片付けず、ごちゃごちゃした状態で食事をしていたのがまずかった。

いやいや、そんなことはどうでもよろしい。

少し空想的な世界に浸りながら、パクパクとカレーを食べていますと、突然、飼い猫が足を噛んできたのです。

虚を疲れて、私は、思いっきり持っていたスプーンを投げ出し、痛みが走った足の方を振り向きます。

そこでさらなる悲劇が襲います。

振り向きざまに何をどうしたのか、机の上にあった紐状のなにか(よく覚えていませんが、多分、ビニール紐みたいなもの)を引っ掛けてしまい、さらにカレーの入った皿を床にぶちまけてしまいました。

もう阿鼻叫喚とは大げさではなく、本当に取り乱して叫んでしまいました(苦笑)

明後日の方向に飛んだスプーン、床にぶちまけられた先ほどまでカレーライスと呼ばれていたもの。

素知らぬふりを決め込み、前足で顔を洗っている猫。

なんじゃこりゃ!?

でございます。(苦笑)

人間というものは突然に起こるハプニングには、思考が停止するという傾向があるようです。

しばし呆然としながら、「なんでこうなるんじゃ~」という思いでいっぱいになっていました。

ぼーっとしながら食べたのが原因か、はたまた、忙しいからといってテーブルの上をちゃんと片付けておかなかったのが悪いのか。。

いやいや、元はといえば、コイツ(猫)が脈絡なく足を噛んできたのが悪いのではないか!?

いろいろ考えがめぐります。

そして、少し冷静になり、「いや、これはなにかサインではないか?守護霊が教えてくれているのでは?」そんな風にスピリチュアル解釈を始めたのです。

そこで、守護霊に聞いてみました。

何故、こんなことが起こるのですか?と。

さて、その答えは後でお話するとして、ここで突然ではありますが仏教説話に話が飛びます。(えっ!なんで話飛びすぎでしょ(笑))

ある時、お釈迦様のお弟子にとても理屈っぽい弟子がいました。

その弟子はお釈迦様の説法を聞きながら、いつも「それはこれこれこういう意味か?」「その根拠はなんなのだ?」「そもそも、その教えはどこから降りてきたものなのか?」と様々な重箱の隅をつつくようなことばかりが気になり、どうしてもお釈迦様の教えを実践するところまでたどり着けません。

何もかもが納得できないと実践する気が起きないとこういうわけです。

お釈迦様はその弟子にこんなお話をして諭ました。

お釈迦様:「例えば今、お前に毒の塗られた矢が刺さっているとしようお前ならどうする?」

弟子:「もちろん、すぐに抜きますとも」

お釈迦様:「そうだろうな。だが、その矢は一体どこから飛んできたのだろう?そして、誰が飛ばしてきたものであろう?また、その塗られた毒の種類は一体なんなのだ?はたまた矢尻についた羽はどんな鳥のものなのだろう?」

弟子:「釈尊よ。そんな暇はありません。矢を抜かなければ毒が回って死んでしまいます」

お釈迦様:「その通りだ。お前はいつも仏法にまつわる様々なことが気になってしょうがないようだが、その意味を全て理解しなければ実践できないというのであれば、それは毒矢を抜かず、そのまま考え込んでいることと同じくらい危険なことなのだよ」

お釈迦様のお話を聞いて弟子は、自分が枝葉のことにこだわりすぎて本質を見失っていたことに気がつかされたのでした。

この説話は、人間はいつもいろんなことに気が散ってしまう存在であるので、本質を見定めて行動することが大事であることを解かれています。

いろんなことが気になってしまっている状態というのは、丁度、自分を見失い、本来の自分らしさが消えてしまっている状態だといえるかも知れません。

つまり、いつもの自分よりもマイナスの状態だということです。

いつもの状態がゼロだとするならば、マイナスの状態を改めて、いつもの自分(ゼロ)に戻ることが、大事だと言えます。

冷静になりいつもの自分を取り戻せば、本質に気づくことができるのですね。

お釈迦様の弟子も諭されてからは、本質に気づき、仏法の実践に勤しんだことでしょう。

さて、ここで再び、カレー事件に話を戻します。

守護霊にカレーをぶちまけるという悲惨なことになっている状態の意味を問うたところ帰ってきた答えとは。。

「さっさと片付けよ。馬鹿者」

でございます。(笑)

そりゃそうですよね。ぐちゃぐちゃになった原因がなんであれ、どんな意味があるのかとか言っている場合ではありません。

やってしまったこと、起こってしまったことは仕方がないことです。

なんで?とか考えている暇があったら、やることをやれ。


その後、床に散乱するカレーをスゴスゴと片付ける天心でありました。


おしまい


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守護霊アドバイスお申し込みのA澤様

こんにちは!


天心です。


9月3日守護霊アドバイスをお申し込みA澤様にご連絡です。(ご本名なので一部、伏字にさせていただきました。)

取次鑑定の結果である1件目を送付いたしましたが、メールエラーで返却されてしまいました。

ドメイン指定などのフィルタリング設定、あるいはアドレス変更など、何らかの事情が考えられます。

一度、メールが届いてないか受信フォルダ、迷惑フォルダなどをご確認頂きますようお願いいたします。

もし、届いていない場合には、ドメイン指定、フィルタリング設定などをご確認いただきまして、ご一報いただけると幸いです。



天心 拝

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【2013年9月度】神田明神への参拝

2013年9月度神田明神月参りをしてまいりました。

毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。

もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。

皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。

9月に入りましたが、まだまだ残暑が続く中の参拝となりました。

しかし、それでも神田明神様のお膝元でご祈願をしていると心も身体も涼やかな気に包まれます。

理屈ではない部分で感応し、そこから大きな力添えを得ることが神社参拝での学びでもあります。

祈りというものも一番誰にでもできる身近な行動です。

そういった行動を重ねていくことで段々と浄化されてくるものもあると思います。

大黒天
神田神社 大黒天


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グラウディングについて

こんにちは!

天心です。

最近、よく感じることとして、世界というものは言葉によって紡がれていくことが多いものだなということです。

いろんな言葉が流行語となったりしていますね。

例えば「いつやるか?今でしょ!」なんかもそうですね!(笑)

この言葉で一躍有名になった予備校の先生もまさかここまで流行すると思って発したわけではないでしょうね。

流行語だけでなく、私達は何はなくともまずは言葉によってコミュニケーションを行おうとするわけです。

だから、言葉というものを理解していくことが、世の中にある様々なものを理解していく最初の切り口になるのかなと思います。

スピリチュアルな世界においても様々な言葉が使われています。

私自身もこのブログでは様々なスピリチュアル用語を使用してお話をしています。

しかしながら、スピリチュアルな用語というものは得てして同じ言葉であっても、それを使用する人によって定義が微妙にあるいは大きく異なることが多いのです。

ですから、その言葉がどのような意味あいで使われているのかを理解することがまずは、必要になってくるのかなと思います。

今回の開運コラムでは「グラウディング」という言葉についてお話していきたいと思います。

実を言えば、私自身はあまりこの言葉を使用してきませんでした。

といいますのは、私がスピリチュアルな世界へと入りはじめの頃にはほとんど聞いたことのない言葉であったため私の中ではあまり馴染みのない言葉であったためです。

しかしながら、昨今のスピリチュアル系の言葉として、中核をなす言葉として「グラウディング」は使われ始めているように思います。

そこで、少し調べてみましたところ、結構、この言葉も状況としては「カオス」な感じであり(笑)、人それぞれによって違いがあるようです。

ただ、その言わんとしているところのニュアンスは概ね了解できました。

グラウディングとは、スピリチュアルにおいては概ね以下のような意味あいで使用されることが多いようです。

一つは、現実社会とのコミット、すなわちスピリチュアルな霊的世界から現世の物理次元への回帰などを意味する場合です。

霊的世界に鋭い感受性をもつ人は、得てして現実感覚が薄れてしまい、地に足がつかない状態となりやすい傾向があります。

そのために放たれた心をスピリチュアルな世界から現実へと回帰させるための技術という見方もあるということです。

あるいは、スピリチュアルな世界と現実とのバランスをとるなどという解釈も成り立つと思います。


もう一つはもう少し限定的な意味で使われていて、地球とのつながりを霊的に深めていくために、足元から霊線を伸ばして接続する技術を意味する場合があります。

より具体的な定義ではありますが、その意味するところは最初に解説したスピリチュアルと現実感覚のバランスやあるいは現世回帰などを行う手法の一つが地球とのつながりを霊的に深めていく行為だといえるのではないでしょうか。

以上が概ねのグラウディングの定義として世の中で使われている意味合いであるようです。

さて、ここで私の見解というか感想を少しお話してみたいと思います。

私が思うにグラウディングとは、本来はもっと本質的な捉え方ができるのではないかと考えています。

といいますのは、多くのグラウディング解釈は地球とのつながりとか、現世へのつながりといういわゆる物理と霊性とのつながりに着目されることが多いように思います。

もちろん、その着眼点が間違っているというわけではありません。

但し、より一歩次元を上げて考えてみるとより本質が見えてくるのではないかと思います。

まず、私が思うにグランディングの本質は「つながる」ということにあるのかと思っています。

そして、「つながる」というのは、何も地球とのつながりだけではないと思うのです。

もちろん、現世すなわち物理空間とのつながりもグラウディングではありますが、霊的な空間とのコミットも一つのつながりでありグラウディングであるといえるのではないでしょうか。

例えば、神社の神主さんを例にとって考えてみましょう。

神社の神主さんはいつも自分の属する神社や神域にてお勤めをしています。

ご祈願をしたり修祓をしたりしています。

私達も神主さんにお祓いしてもらうために神社に行くことがあるかと思いますが、そもそもなぜ、神主さんは私達のことをお祓いすることができるのでしょうか。

それは、一つには神社に降りておられます神様のお力をお借りして取次をしているからだといえますが、もう一つの理由としては、しっかりと神社、神域にグラウディングしているからだといえます。

神主さん自身が神社、神域とグラウディングできていないとその神域からの霊流を引くことができないからです。

なぜ、神主さんが神社に常にいらっしゃる必要があるのかといえば、それは神域を守ると同時に神域とグラウディングする必要があるからでもあるのです。

神主さんと神様との取次を可能にしている場は神社であり神域です。

そして、その場とのグラウディングが可能となって始めて取次が可能となるのですね。

グラウディングの語形変化がグランドであるということからどうしても大地とか地球、一歩及んで考えても物理空間という発想に縛られがちですが、実は大事なのはそこではなく、いずことコミットしているのかという点であるのです。

私はこのコミットのことを広い意味で私は「合一(ごういつ)」と呼んでいます。

この合一は必ずしも大地や地球、現世とのつながり物理空間とのつながりだけでなく、あらゆるものとのコミット、つながりを意味しているのです。

だから守護霊との合一もあれば、ある種の霊界との合一もあります。

神界とコミットすれば神人合一とも呼ばれます。

合一の一つの呼び名がかわり、その方法論や部分的な限定が意味されるようになった形がグラウディングという言葉の真相なのかなと感じました。

グラウディングが大事だとスピリチュアルな世界では叫ばれていますが、その本質はどこにあるのか。

なにゆえなのか。

そのことをしっかりと理解するときに真の意味でその言葉の意図するものを体得することができるようになるのではないでしょうか。

今回はグラウディングという言葉についてお話してみました。

今後もまた、様々なことを対象として考察をしてみたいと思います。


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少しプライベートand感じたこと

こんにちは!

天心です。

この書き出しでスタートするブログ記事はなんだか久しぶりな気がします。(笑)

お知らせなどの場合以外は、全て論述調な感じの出だしが多かったように思います。

あるいはポエムチックだったり、写真と言葉だけのシンプルな記事も多かったですね。

受け入れやすさが人それぞれに違うということもあり、いろんなタイプの記事があったほうが良いと思い、そうしていたのですが、久しぶりに初期の頃にお話していた文調といいますか、感覚で今回は進めてみたいと思います。

今回はちょっとこのブログとしては掟破りのプライベート的なことも少し入れつつのお話となります。

早速ですが、お話してみたいことは、最近、見た映画に端を発します。

「えっ!天心さんは映画を観るのですか?」なんていう質問が来てしまいそうなほど、プライベートなことはお話しないようにしてきたので、おそらく「天心はスピリチュアルなことしかしていない」「霞を食って生きている?(笑)」なんていう誤解をされている方もいらっしゃるのではないかと思い、ちょっとだけプライベートな話題に触れてみようと試みた次第です。

あまりに浮世離れしたイメージを持たれるのも問題なので、それをある程度、払拭するためでもあります。(笑)

もちろん、当たり前のことですが、私にだってスピリチュアル以外の私生活はありますし、映画だってなんだって見ますとも(笑)

他の同時代を生きる方々と同様に日々の生活の中でしょうもないことに落ち込んだり、苦しんだりすることだってあります。

そいういったごく自然な人生の中で導かれていくのが、ある意味での正しいスピリチュアルなあり方でもあります。

なにか特殊なことばかりを行うのがスピリチュアルではなく、しっかりと人生の中でコミットしていくことが大事なわけですね。

なので、私自身も何ら特別なことはなく、皆さんと同じように日常を過ごしているのです。

話を映画に戻しますが、私はお台場でよく映画を見ます。

先日見たのは、ブラッド・ピッド主演「ワールドウォーZ」という題名の映画です。

なんとなくブラッド・ピッドが主演する映画を見るのは久しぶりだなという感じで、取り立てて何か大きな期待をして見に行ったわけではありません。

正直、あまり期待はしていなかったかな(笑)

実際に映画の内容はある意味、意表をつかれた部分もありましたが、ブラッド・ピッドが主演しているという以外には特筆すべき点はないかなと思いました。(別に面白くないという意味ではありません)

もちろん、見る人によって感想は違うので、私の感想はあてにしないでください(笑)

ただ、この映画の中で一つだけ心に残っているシーンがあります。

それは、主演のブラッド・ピッド演じる主人公のジェリー「Z」の謎を解明すべくイスラエルに行った時のシーンです。

ちなみに「Z」がなんであるかは、本編に譲ります。(笑)

さて、件のシーンですが、こんな言葉が語られます。

「10人中、9人の人間が立てた仮説が同じものであるならば、10人目の人間は全く異なる仮説を立てる義務がある」

ちょっと実際のセリフとは異なるかも知れませんが、上のような言葉が出てきます。

この言葉が意味するのは、おそらく大多数が支持するような最もらしい理屈にある落とし穴に気づく足場を残しておけということなのかなと思います。

私も実は同じようなことを考えているときがあります。

世の中で当たりまえとされる理論、確からしく、正しいとされる考え方。

そういったものは、様々な検証を終えてきっと、ほとんどが正しいといえるようなものなのだろうと思います。

でも、そんな理屈にも必ず不確定要素、ほころびが存在する。

気がついてみれば、私もまたいつもほころびを気にして、そこを補うようなことばかりをしていたように思うのです。

スピリチュアルの世界にしても、どう考えても世界の多数派に支持してもらえるとは思えない分野だと思います。

どちらかといえば、いかがわしいと言われ、眉をひそめられてしまうようなことも多い分野でもあります。

本来ならば、もっと多数派で確実性の高い分野を探求したり、研究したりしたほうがおそらくは、より幸せをことも多いのかも知れません。

しかし、私は、そういったものにはどうしても意識が向かないのです。

いえ、もちろん、ある程度は意識はしていますが、それでも、本当に大事なこと、真実というものは、皆が意識していない、光が中々、当たりづらい場所にあるのではないかと考えているのです。

だから、いつだってマイノリティであり、報われることは少ないです。(苦笑)

また、スピリチュアルな世界においても、今はライトでわかりやすく、当たり障りの無いものの方が受け入れられやすい傾向があります。

本来ならば、わかりやすく、受け入れられやすいことだけをしていれば、もっと楽しい内容になるのかも知れません。

でも、私はそれをやりたくないのです。

というかやらせてもらえないというか(笑)

やっぱり、痛くても苦くても、本当に必要になってくるコアな内容を少数の方でもいいのでしっかりと伝えていくことがこれからの時代は大事になってくると思うのです。

見向かれなくても、関心を持たれなくても、偏屈だと思われたとしても、私はきっと映画の中のセリフで言われているところの10番目の人間としての役割を粛々とこなしていくことになるのかなと思います。

なので、このブログも色物として見られがちな部分もあるかと思いますが、この色物が好き!という(笑)稀有な方々を同士と信じて、これからも出来うる限り更新していきたいと思います。


天心 拝


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おおめに見る

どんな人でも完全な存在でない以上は失敗をします。

罪を犯します。

迷惑をかけることもあるでしょう。

理屈で考えれば、失敗や迷惑をかけることは歓迎されないことかも知れません。

しかし、ルールや規範だけで人の心を縛ればそれだけ幸せは遠のくと思います。

特に昨今は、少しでもズレている人間を赦せない人が増えているように感じます。

そんな時に大切なこと、それは、おおめに見るということです。

おおらかな心とは、万事において緩やかでしなやかな対応ができるということなのです。

全てを杓子定規に当てはめて良いか悪いかで判断してしまうといつの間にか心は小さく縮こまることになるでしょう。

失敗しても、罪があったとしても、迷惑をかけられたとしてもおおめに見ることができたならば、きっと心は穏やかでいられるはずです。

汲々として、息が詰まるほど厳密であろうとすれば、どうしたって人の心は死んでいきます。

おおめに見るということを心がけていくと、心も身体も軽やかになります。

おおめに見る。

この心を忘れないでいることができれば、少しだけ人生の違う景色を見ることができることでしょう。



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プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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