FGSの会ブログ通信(Vol5)

~☆~ FGSの会 ブログ通信 Vol.5 ~★~


こんにちは!天心です。


FGS会報メルマガESS第十七号を発送しました!

ブログ読者向けに少しだけダイジェストを紹介します。


◎目次

1.FGSよもやまコラム

2.第十七号の特集(守護霊の系譜 -序章- )

3.不動明王 - 不動悟覚の伝 初級編 ご案内 -



FGSよもやまコラムは、FGSの会の限定のコラムになっています。

今回は、現在の時期がいかなるエネルギーが動くときなのか、なんてことをつらつらとお話しています。

第十七号の特集としては、「守護霊の系譜」シリーズ序章を開始!

守護霊というシステムの謎に迫ります。

不動明王様による不動悟覚の伝の初級編の募集を開始しました!

不動明王様より授けられし霊法の初級編です。

霊法を学べるのはFGSの会ならではの企画でもありますね!


そんな感じでFGS会報メルマガESSの第十七号をリリース済みです。

このメルマガは原則としてFGS基本メンバーの方のみが受け取れる会報メルマガになっています。


ブログ読者の方も、より突っ込んだ学びに参加したいとお考えの方は、FGSの会へのご参加をお待ちしております。


◎FGSの会については以下、URLリンクをご参照くださいませ!

【お知らせ】フレンドリー・ガーディアンズ・スピリットの会



FGSブログ通信からでした!


天心 拝


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取次鑑定のご感想 Part4

守護霊アドバイス、天命・過去世調査などの取次鑑定のフィードバック、ご感想などを日々いただいております。

なかなか、ご紹介できないものも多い中(プライバシーに関する部分も多いので)、いただいたものから、ご紹介可能なものを少し発表してみたいと思います。

今回は遠隔浄霊のフィードバックを集めてみました。


☆遠隔浄霊



~~~~~~~~~


天心さま

本日は本当にありがとうございました。
今日は昼から身体がとてもだるく、眠い状態でした。*1

何と表現していいかわかりませんが、目にも見えないところで、
霊的問題を解消していただき、天心さまのお取次ぎにただただ
驚き、出会えたことに感謝せずにはおれません。

主人についての思い、よく理解できます。
以前、自分は自信がない、両親からも愛されてなく、見方がいない、
と言っていたこともあります。

今後の方向性についても、お示しくださり、ありがとうございました。
霊界を向上させるために、私も努力をしてまいります。
本日は、私のために時間を割いてくださり、遠隔浄霊をありがとうございました。


40代 女性

~~~~~~~~~


天心様

浄霊ありがとう御座いました。

その時間帯、会議に出ていましたが、
途中で眠くなってしまい(笑)
ウトウトしている時に、下半身が泥に埋もれて
いるような感覚がありました。*1
9:43でした。
昨日のブログ記事でお書きになっている
「ノイズ」みたいなものかもしれませんが、
一応ご報告申し上げます。


○○○○については、やはりコイツだったか、という感じです。*2
当たり前過ぎて、あまり意識していませんでした(苦笑)
カトリックの教義を勉強している時に憑いてきた
ものかと思われます。

・・・中略・・・*2

また、自殺者霊人というのは少々意外でした。
小学生の頃から、些細な事で死にたくなる
事はありましたが、深刻なものではないので、
気にしていませんでした。
ただ、昔から、夜寝る時に、翌朝ちゃんと目が
覚めるか不安になる事はしばしばありました。
また、「息ができないような状態」との事ですが、
昔から、睡眠時無呼吸症候群ですが、何か
関連性があるのかもしれません。
あと、不整脈でもないのに、心臓が止まるのではないか、
と意味なく不安になる事もありました。
(過去世で胸を撃たれて戦死したのかと思っていました)

・・・中略・・・*2

今回は、処置/霊界へと送り返し、していただいた
との事ですので、安心致しました。
重ね重ね、ありがとう御座います。

これからは、天命を全うし、守護霊様や直霊魂様
と合一すべく、学びと実践に励みます。

守護霊様、天心様、ありがとう御座いました。


30代 男性

~~~~~~~~~


天心様、二人の遠隔浄霊をしていただき、本当にありがとうございました。
なんだか姿勢がよくなった気がします。笑

まさか憑いていたのが○○だったとはと驚きです。*2
悪意だけの存在とは、聞いただけで恐ろしいです。
いつか私の精神力があまり左右されないほど強くなったら、いろいろ勉強してみたいものです。

この5年苦しい事や試練が続いた為、自分という存在がわからないくなっていました。
自分の選択という選択、全てにおいて自信がなくなっていました。
祓って頂いた今、教えられた通り前向きになる努力を必ずします。そして魂本来の生き生きした感情で過ごしてみたいと思います。
書いていて、胸にじーんと響くものがあります。

守護霊様に感謝します 。

天心様、本当にありがとうございました!!

お元気で。
ではでは


30代 女性



~~~~~~~~~


天心 様


母の浄霊、本当にありがとうございました。


以前、霊能者の方に、兄は 「突然亡くなった為、自分が亡くなった事にも気づかず
浮遊霊のようになっている」 と言われたのですが、
その方に、母は 「ギリギリ成仏している」 と言われていました。


天心様のお返事を読み、納得いたしました。

苦しんではいないものの、決して良い霊界にいたわけでもなかったのですね。


>今までの霊界よりも少し上の気持ちの良い霊界に移動していただきました。


本当に良かったです!

二人の事は、長い間気になっていた事なので、安心しました。

時々お墓参りに行くのですが、その際には、兄にも母にも霊界での修行を頑張るように
祈ろうと思います。


兄に続いて母まで救っていただき、この度は本当にありがとうございました! m(__)m


30代 女性


*1 天心註釈:遠隔浄霊の際に起こる反応です
*2 天心註釈:プライバシーに関わる具体的な内容部分であることと、長めのご感想であるため省略いたしました。



他にも沢山のフィードバックをいただいておりますが、今後、折を見て発表できればと思います。



天心 拝


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釈尊が見た幸せの真相(その3)

釈尊が見た幸せの真相(その2)の記事からの続きになります。

前回はお釈迦様の目線から見た幸せにおいて、欠落している点について指摘してみました。

お釈迦様は現世の実態として苦しみに満ちている状態であることに着眼していました。

そして、苦しみを除けば幸せになることができると考えていたわけです。

そのために何故に現世での苦しみは存在しているのか、そもそも現世に何故に人は生まれてきたのかという点について欠落してしまっていることをお話しました。

お釈迦様は苦しみから抜け出して幸せに至ろうとする考え方であるのに対し、本来的には神界はその苦しみを触媒として、魂の意志を表現していくことを主として意図しています。

なんだかお互いの考え方は矛盾しているかのように思えますが、本当はコインの裏表、あるいは陰と陽のように補完しあっています。

お釈迦様の考え方は基本的には、現世を含めて一切の私達が実体があると認識している存在をことごとく、「空(くう)」であるとみなしています。

「空」とは、何かといえば、一切の実体はなく、その可能性だけがそこにはあるという考え方とでもいえば良いでしょうか。

とても、難しい概念ですがお釈迦様が言いたかったことは、私達が泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりしている対象物や現象というものは、全て実体がないということです。

実体がないものに対して、人はこだわり執着し、その挙句に不幸を感じて、苦しんでいるというわけです。

何故、そのような滑稽ともとれる状態に人は陥ってしまうのかというとそれは無明(むみょう)、すなわち、現世の物事は全てが実体がないということを理解もしていないし、実感としてそれを体得していなからだとお釈迦様は考えたわけですね。

だから、本当は私達が血道を上げて取り組んでいること、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりしていることというのは、実体がないもので追いかけても何かを掴めるようなものではないということをお釈迦様は仏法として教えることで、悟らせようとなされたわけです。

「そんなにこだわって苦しんでいるけど、本当はそんなことで苦しむ必要はないんだよ」

こんなふうにお釈迦様は色んな苦しみに囚われている人に語りかけているわけですね。

しかしながら、これは言わば、演劇の鑑賞中に舞台裏の袖をまくって見せているのと同じことでもあるわけです。

「怖そうな龍がいるけど、本当はただのハリボテだよ」
「みんな、毒を飲んで死んでしまったロミオとジュリエットを見て悲しみの涙を見せているけど、全部、お芝居で本当は死んでなんかいないんだよ」
「ピーターパンが空を飛んでいるように見えて、みんなワクワクしているようだけど、本当はワイヤーロープで吊るされているだけなんだよ」


こんなふうに演劇に夢中になり、怖がったり、ハラハラしたり、悲しみの涙を流したり、ワクワクと胸を躍らせている観客に向かって、我に返そうと必死に説いているのがお釈迦様でもあるわけです。

確かに演劇はお芝居でありフィクションです。

お釈迦様の言っていることは正しいと思います。

そして、演劇の裏舞台を見せつけられてしまえば、あるいは、私達が心を動かされてしまうものに対して真実の姿を開示してしまえば、おそらく見ている私達はきっと演劇の世界から抜け出て我に返ってしまうことでしょう。

しかし、これは、演劇を鑑賞する観客としての正しい姿勢だと言えるでしょうか。

そんなことをしていては、白けてしまいます。

演劇を見るときには夢中になって、その世界に没入して演劇を楽しみ味わうべきだと思うわけです。

こう考えるとお釈迦様のスタンスをそのまま実行すると本来の意図が台無しになってしまう可能性があるということがわかるかと思います。

では、お釈迦様の考え方は問題があるから意味がないのでしょうか。

そうではありません。

逆に言えば、演劇の世界にのめり込むあまり、本当の真実から目を背けがちになってしまうことも私達にはままあります。

ロミオとジュリエットの演劇を見ていつまでも感傷に浸り、二人の悲劇を嘆き悲しんでいたら、自分自身の人生という本筋を忘れてしまいかねません。

観客は演劇を見終わったならば、再び、自分自身の人生へと回帰していく必要があります。

しかし、演劇の世界にハマりすぎるとそれが出来なくなることがあるわけです。

では、どうすべきなのでしょうか。

私達は演劇を見ているという自覚を持ってそれを味わい楽しむという境地を目指さなければならないわけです。

神界の意志、魂の意志へと回帰しつつも、世の中で、あるいは人生で起こる様々な出来事を味わいながら、そこには本来的には実体はないのだ、ただあるのは魂を輝かし表現する場があるのみだという真実を忘れずに生きる。

このことが出来る時、私達はお釈迦様の考えの深いところも理解し、尚且つ神界の意志、魂の意志に反することなく現世を生き抜く道筋を得ることができるのではないでしょうか。

以上、釈尊が見た幸せの真相シリーズの着地点として、述べさせていただきました。

長々とお付き合いありがとうございました!


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釈尊が見た幸せの真相(その2)

釈尊が見た幸せの真相の記事からの続きになります。

前回は、お釈迦様の目線から見た幸せについてお話してみました。

詳細は上記リンクの記事を参照していただくこととして、簡単にサマリーをご紹介しておきます。

私達が幸せと感じる際には何かしら得たいと思う欲求が満たされた時だという認識であるのに対して、お釈迦様は得たいものが得られないという状態の苦しみを除くことが幸せだと考える。

このことが大きな幸せの定義の違いであるということをお話させていただきました。

お釈迦様は苦しみがなくなれば、幸せを阻害するものがなくなるのだから、永遠の幸せを手に入れることができる。

そのように考えたようです。

もちろん、そのような結論に至った経緯としては、この世の法則や道理に気づき、理解し、しっかりと身体で体得したからなのではありますが、結論だけを抜き出すと、苦しみを滅して幸せになろうというのが、お釈迦様の提言であったわけです。

理屈上はとても正しそうな考え方ではありますが、実際問題として、私たちは苦しみの元凶である煩悩を一切消し去って、永遠の幸せを手に入れることはできるのでしょうか。

有り体に言えば、これは中々難しいことだと思います。

そもそも人は生きていれば何かしらの欲求が生まれるものです。

欲求とは生きたい成長したいという意志にも繋がるものだからです。

確かに欲求がなければ、それが得られないという苦しみは生まれないかも知れません。

得たいと思うから苦しいというのは理屈上では正しいことだと言えるでしょう。

しかしながら、もし、煩悩を一切退けて、一切の欲求から自由になった時、私達は幸せになれるかも知れませんが、一つの疑問が残ったままになることになります。

それは、何故、私達はこの現世という苦しみが満ちていることが分かりきった世界に生まれてきたのかという疑問です。

仏教では、カルマと呼ばれる因業によっていかなる世界に生まれるのかが決まると言います。

カルマを超克して、自由になれば、再び、現世に生まれ変わって苦しむこともない永遠の快楽に至ると考えているわけです。

現世に生まれなければ、苦しみもまたない。

これが究極の仏教思想を極めた結論なのかも知れません。

しかし、では、何故、神様はあるいは、宇宙や神界、大いなるエネルギー、なんと読んでも構わないけれど、そういったものはこの現世を作り出したのでしょうか。

超克しなければならないようなものをわざわざ沢山作り出して、結局、それを否定して乗り越えていく。

考えてみるとバカバカしい話だと思いませんか?

残念ながら所謂、仏説ではこういった発想は生まれてこないものでもあります。

そんなことを考えるより、苦しみの元凶を乗り越えて幸せに至ろうというのが、仏説での主張です。

お釈迦様も毒矢の例え話などをして、毒矢が刺さって死にかけている時に色んな理屈を追いかけるより、まず、毒矢を抜いて治療することが先決だと諭しています。

しかしながら、やはり、根本的な疑問は残るわけです。

この疑問を解決するためには、私達は魂というものの性質と向き合わなければならないと思います。

魂とは神界より授けられし、私達の主体的意志を表す存在です。

何故、わざわざ苦しい状況で満ちている現世というフィールドを作り出したのか、それは、ひとえに神界の意志でもあります。

神界の意志とは何か。

あるいは魂の意志とは何か。

それは、どこまでも成長し進化しあらゆる真・善・美を表現し、あらゆる可能性を具現化し広げてゆきたいという意志なのです。

だからこそ、その材料として様々に分化されてバラバラに存在する個があり、あたかも対立するかのような要素が色々とせめぎ合う世界をわざわざ作ってきたと言えます。

この神界の意志から考えるとき、単純にお釈迦様の苦しみを滅して幸せに至るという方法論は不完全であるということが言えるのです。

もちろん、だからといってお釈迦様の考えや悟りが全否定されるわけではありません。

むしろ、もっと深い部分での悟りや咀嚼を持って吟味すると何故、お釈迦様が解脱の法を説かれたのかがわかってきます。

しかし、単純にお釈迦様の論理をそのまま採用してしまうと神界の意志とは真逆の方向に向かってしまいかねないのも事実です。

次回は、神界の意志のあり方とお釈迦様の論理をもう少し見比べて、私達はどのように幸せを追求していくのが良いのかを考えていきたいと思います。


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釈尊が見た幸せの真相

今回は「幸せ」というものを仏教の始祖でもあるお釈迦様の目線からお話してみたいと思います。

私は過去記事では幸せとは感覚であり、形のないものという視点からお話させて頂いてきました。

これも一つの幸せの考え方ではあるわけですが、お釈迦様が考えた幸せとは一体、いかなるものであったのかを知っておくと自分自身の心の中で幸せとは何かを整理する時の役に立つのかと思います。

また、お釈迦様は結構、独特な考え方をされています。

私たちが考える幸せとお釈迦様の考える幸せについて対比して見ることで、仏教では本来的に何を主張しているのかがわかるので一つの学びになるのかと思います。

さて、まず、私たちが「幸せ」と感じるために私たち自身、何が必要と感じているのでしょうか。

おそらく、簡単に言ってしまえば、自分自身が幸せになれると考えている理想像、ないし願望が成就されることではないかと思います。

結婚したい、お金持ちになりたい、美味しいものを腹いっぱい食べたい、人からチヤホヤされたい、名誉が欲しい、権力が欲しい、etc・・・

上げていけばキリがありませんが、ともかく欲しいと願うものが手に入れば人は幸せを感じるわけです。

この点において、あまり大きな反論は出てこないかと思います。

欲しいものが手に入らなくてハッピー!

という方は中々、お目にかからないものです。

誰しも欲しいものは様々に異なりますが、欲しいものがあれば、手に入れたいと願うものですよね。

しかしながら、この「幸せ」に対して、真っ向からアンチテーゼを行っているのがお釈迦様、その人なのです。

お釈迦様の考える「幸せ」とは一体、いかなるものなのでしょうか。

お釈迦様は幸せを逆説的に考えました。

私たちには欲しいもの手に入れたいものが沢山ある。

しかし、どんなに頑張っても手に入らないものの方が多い。

手に入れたいのに手に入らないという状態。

これを「苦」とお釈迦様は定義したのです。

お釈迦様の「幸せ」の定義は、私たち一般的な考え方とは違っていて、「苦」がない状態が「幸せ」であると考えたわけです。

この「苦」をなくしてゆけば、きっと私たちは幸せになれると考えたわけですね。

だからこそ、仏教では基本的に人間の欲求の本質を煩悩と呼び、煩悩を滅却することに務めることが主にあるわけです。

俗世間を捨てて出家したり、質素な生活に甘んじて修行をするのは、基本的に煩悩を捨て去るための一つの方法でもあるわけです。

しかし、これを聞いておそらく、「ちょっと待って!煩悩を捨てなくたっていいじゃない。願望を叶えれば苦は消えて幸せになれるのでは?」という意見が出てくることと思います。

確かにそのとおりです。

私たちは、願望を満たすことで、願望が満たされていなかった状態という「苦」が成立する前提がなくなります。

そうなれば、私たちは幸せになれるはずですよね。

これに対してお釈迦様はこう答えます。

苦が一つなくなったところで、人は次なる煩悩を追いかけて、再び、苦に至ってしまう。

結局のところ、煩悩には際限はなく、煩悩を満たすことで苦を消し去っても、再び煩悩は苦を生み出すように作られている。

お釈迦様はこの際限のない煩悩のスパイラルを十二縁起というプロセスで示されています。

お釈迦様は苦を完全に滅却して、永遠の幸せに至るためには、苦の根源となる煩悩を滅却する以外にないと考えた
わけですね。

確かに煩悩がなければ、欲しい、手に入れたいという欲求が生じません。

欲求が生じないということは、欲求が満たされないという「苦」も生じません。

「苦」が生じないのだから、「苦」は存在しない。

故に「幸せ」な状態が維持されるというのがお釈迦様の基本的な発想であったと言えるわけです。

以上がお釈迦様の目線から見た「幸せ」になります。

さて、お釈迦様の目線から見た「幸せ」は、論理的には正しいように見えますが、果たして神界の視点から見た場合に本当にこれで良いのでしょうか?

その点について次回はお話してみたいと思います。


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霊人が救済される時

霊人が下部霊界で苦しんでいたり、現世と霊界のはざかいで迷っている状態を改善し救済するためには様々な方法があります。

その方法の一つが浄霊というものです。

しかし、浄霊の実態が良くわからないため、なんとなくぼんやりとしたイメージで浄霊などを捉えている方も多いと思います。

そこで少し浄霊の際に霊人が救済されるメカニズムについてお話してみたいと思います。

霊人が霊界で苦しむのは、様々な事情がありますが、大きな視点で見るとそれは負のエネルギーが増大化しすぎて、幸せを感じる正のエネルギーが枯渇した状態であるからだと表現できるかと思います。

つまり、簡単に言ってしまえば、負のエネルギーを除去するか緩和するかして、正のエネルギーを充填して上げると霊界が代わり、そこに絡め取られている霊人も苦しさから救済されるという形になるわけです。

このことを別の言葉で表現すると霊界の移動、霊層の向上させるなどの言葉になるかなと思います。

本当はメカニカルな仕組みがあってなされていることも、そのままの仕組みを単純に表現してしまうと機械的に浄化が行われているように思われるかも知れませんがそうではありません。

そこには血の通った暖かな真心があって出来るものであって、単に技術的な方法論だけでは決してできないものでもあります。

「医は仁術」という言葉がありますが、浄霊というものも実は、技術も必要ですが、それ以上に愛と真心が必要でもあるのですね。

さて、霊人を救済する話に戻りますが、救済されなければならないような霊人は得てして負のエネルギーを抱え込んでいます。

その負のエネルギーを決済しない限りは霊界転換をすることが困難でもあります。

では、どのように霊界転換を行っていくのかと言えば、様々な方法がありますが一番基本となるのは、負のエネルギーを発散するということなんですね。

具体的に言うと、負のエネルギーをどこかで肩代わりして、発散して霊人の重くのしかかっているものを取り除く必要があるわけです。

負のエネルギーを肩代わりしてくれているのは誰かというと浄霊の時にお働きしてくださる神霊神仏、そして取次者です。

だから、取次をする時は大なり小なり何らかのカウンターアタックを受けることになるのですね。

もちろん、これも技術的に回避、緩和する方法もあります。

ただ、やはり、どこかで少しずつ影響は受けてしまうものでもあります。

おそらくこれは、取次者自身も苦しみを理解しないと本当の意味での慈悲や愛は生まれないからなのかも知れません。

痛みがわからないとどこかドライに取次をしてしまい、全てをメカニカルに解釈していつの間にか心が失われてしまうことにもなりかねないからこそ、こういったダメージを受けるように出来ているのかも知れません。

このようなお話をすると良く「苦しみを与えて申し訳ないから、取次を申し込むのは遠慮しよう」と考えてしまう方もいらっしゃるようです。

しかし、こういった発想をされる方には、少し誤解があるようなので、誤解を解くためにもお話をさせていただきたいと思います。

例えば、医者はいつでもどこでも患者と対峙して、治療にあたります。

その時には患者の感染したウィルスに自分も感染してしまうかも知れません。

あるいは、爛れた幹部に触れて、自分も膿にまみれながらも治療をすることでしょう。

もちろん、医者だって人間です。

そういったことをする時にはリスクも発生するでしょうし、キツク感じることもあるでしょう。

しかしながら、患者さんが「お医者様にウィルスを移しちゃ悪いから」「こんな膿だらけの患部を見てもらうに忍びない」なんて思っているとしたら医者はきっと「それが私の使命ですよ。いらぬ心配はしないでください」と言うに違いありません。

自分には手に負えない病気や怪我であれば、別ですが、例え苦しくともリスクが伴おうと、自分の使命において出来ることであれば、果敢に立ち向かうのが医者の本心ではないでしょうか。

なので、取次鑑定でダメージを多少受けるというくらいで、私自身は怯むことはないのです。

霊的ダメージを与えるからとあまり心配しすぎないで頂きたいと思っています。

少し脱線しましたが、霊人が救済される時には負のエネルギーの決済と正のエネルギーの充填が必要というお話をさせて頂きました。

何かの参考になれば幸いです。


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神社でのマナー

先日、箱根神社への参詣をさせて頂きました。

関東の中でも山や森、湖といった自然に囲まれた場所に鎮座する関東総鎮守の箱根の神域はいつ詣でても清々しいものです。

中々、有名な神域でもありますので、詣でる参詣客もそれなりにいらっしゃいます。

山の上の方にありますので、浅草寺のような観光地さながらの騒然とした賑やかさはありませんが、それでも、元箱根のバス停を降りると参詣客の足取りは箱根神社へと向かう姿も見られます。

さて、今回はちょっと皆様にも考えて欲しいなという思いも込めて、先日の参拝時の出来事についてお話してみたいと思います。

私は、様々な神社・仏閣に詣でさせていただいておりますが、箱根神社ももう二十歳の頃くらいよりあしげく通わせて頂いている神域の一つです。

月に一度は時間を作り、電車を乗り継ぎ、バスに乗り、山の上の雄大な自然を感じながら意識を箱根神社に向けながら向かいます。

そして、拝殿につくと本当に様々なお祈りをさせていただいています。

色々あるため、どうしても拝殿でのお祈りの時間は長くなります。

おそらく、他の一般参詣客の方々は、私の姿をみて、「この人そんなに何をお祈りしてるのだろう?」と訝しく思っていることでしょう。

私は、どう思われても全く意には介していませんが、ただ、あまり、他参詣客の参拝の邪魔になったりしないようにあまり真ん中辺でお祈りしないように、かなり端っこの方で細々とお祈りさせて頂いています。

実際には端っこでも、心の中は大神様の大前にいるつもりでお祈りしています。

本来ならば、真ん中で堂々と時間をたっぷりかけてお祈りしたいところですが、神社には様々な参詣客がいらっしゃいます。

ある意味では公共の場とも言える場所ではないかと思うわけです。
(実際には神社を運営する神主さんが主となる場所ではります。)

だから、それなりのマナーとういものを意識しないわけにはいかないのです。

そんな矢先、細々と端っこで邪魔にならないようにお祈りしているとどこからか大音声のお祈りの声が聞こえてきます。

神道系の祝詞、般若心経、色々と音吐朗朗と奏上されている模様。

普段は私はお祈りに集中しているので周囲の人が何をしているかには全く意識を向けていません。

しかし、一般客がいらっしゃる和やかな境内の雰囲気の中、ちょっと異様ともとれる、マニアックな宗教的祈り声に私の意識が現実に引き戻されたのです。

私はちょっとだけ、薄目を開けて、声をする方をチラ見しました。(笑)

私の想像では年配の信心篤い方?といった姿を想像していたのですが、そこでお祈りしていたのは、20代くらいのうら若き女性でした。

二重の意味でちょっと驚きまして(笑)、しばらく呆然として祈りに集中できなくなったのです。

もちろん、神社という神域で祝詞を上げることが、いけないとは申しません。

むしろ、正式なお祈りとしては祝詞も経典もあげることが良い場合も多々あります。

しかし、神社には様々な人が集まります。

結婚式をされる方、七五三のご挨拶に来る方。

宗教的な意味は濃くは持たない一般参詣の方。

色んな方がいろんな事情でお詣りに来ます。

どんな人でも来るもの拒まず、去るもの追わずの自由で大らかなところが神社の良いところでもあります。

そんななかで音吐朗朗、大音声でお祈りをしかも真ん中で行っているとびっくりしたり、ちょっと怖く感じる人もいらっしゃるはずです。

もちろん、お祈りしていた女性に悪気はないと思います。

ただ、一心に真心を込めて、己の信じる作法で真面目にお祈りしているだけなのだと思います。

私は非常にその気持ちはよくわかるのです。

私自身も20代の時は、若気のいたりで、情熱だけで突き進んだこともあります。

それから、大神様に真っ直ぐに向き合いたいという気持ちもよくわかるのです。

でも、やっぱり、少しだけ周囲の参詣客にも気を使った方が良いと思うのです。

とりわけスピリチュアル系の造詣が深まってくると、よく陥りがちなのが、スピリチュアル的信念に準じるあまり、社会性を逸してしまい、周りが見えなくなってしまうという点なのです。

「私はこの神社の神様とは仲良しだから」という理由を述べて、いつも神域のご奉仕をされている神主さんが、おやめくださいと立札などで書いているのに、神社の石を勝手に持ち帰ったり、ご神木に抱きついてみたりされる方もいるようです。

親しみたい気持ちは本当によくわかるのですが、主たる奉仕をされる神主んさんがおやめくださいと言っていることは、如何にスピリチュアル的な信念があるからといっても、それは遠慮すべきです。

箱根神社を始め、有名な神社であればあるほど、様々な人が紹介をしたり、とりわけスピリチュアル系の雑誌や人が紹介することで、多くの参詣客が訪れるようになっています。

色んな人が集まる神域を穢すことなく、仲良く共有していくためには、マナーをわきまえることも必要かなと思います。

なので、私もブログやFGSの会にて神社、仏閣を紹介したり、お祈りの仕方を開示したりしてはいますが、くれぐれも参詣する際にはマナーという意識は忘れないで頂けたらと思います。


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霊的グッズも汚れるとマイナスになる

スピリチュアルに関心のある方ならば、自分の運気を上げたいと願って様々な霊的グッズを身に付けるという場合もあるかと思います。

神社の御札お守り念珠パワーストーン、他、様々な霊的な効果が期待できるツールが世の中には沢山あります。

私たちは思わず、神社でいただいたものざねや、霊的なパワーのあるグッズと聞けば思わず、なんだかありがたい気持ちになってしまうことも多いものです。

しかしながら、霊的グッズというものは必ずしもプラス効果をいつでも表してくれるとは限らないものなのです。

最初は神気に溢れていた神札も、時が立てば穢を受けて、そこから神聖さが失われてきます。

念珠やパワーストーンも利用していれば必ず、穢を受けてくるものでもあるのです。

浄化をすることである程度、リサイクル的に利用することは可能な場合もありますが、やはり、古くなったものは、新しく生まれ変わらせるという意味でも、いつまでも使わない方が良い場合もあります。

特に霊的グッズというものは、その分、霊界と繋がっているものでもあります。

なので、穢れてくるとマイナスの効果も倍増してしまうという部分もあります。

ボロボロの御札をいつまでも神社にお返しせずに掲げていると神気は消えて、今度は逆に怪しげな霊気を持つ存在がそこに掛かってくる場合もあるのです。

こんなことをお話すると怖がらせてしまうかと思い、あまりお話しないようにしてきましたが、昨今では霊的グッズを愛用される方も増えてきているように思いますし、正しい使い方というものを理解しておいたほうが良いと思いましてお話させていただくことにしました。

霊的グッズの替え時という意味では、ちょっとリカバリー不能なほど汚れてしまったなと思う時、あとは直感的にあまり良い感じを霊的グッズから得られなくなった時が良いかと思います。

私も一時期、川崎大師で頂いた水晶のパワーストーンを身につけておりましたが、三ヶ月と立たない内に、邪気でいっぱいになり、はめていると余計に苦しくなるという経験をしたことがあります(苦笑)

まだ、見た目上では使えるように見えるのですが、ちょっとパワーを入れ直ししても難しそうだったので、諦めて外すことにしたのです。

もちろん、私の場合は邪気に敢然と立ち向かわなければならない場面が多いので穢を受ける率が必然として多くなりがちです。

なので、割と早い段階でパワーストーンの寿命が来てしまった部分もあります。

必ずしもパワーストーンの期限が私のケースと一致するとは限らないので、それぞれのケースでご判断していくことが大事かと思います。

今回は、霊的グッズも汚れるとマイナスになるということでお話させて頂きました。


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いつもの自分らしくない

人は時々、イライラしたり、自分では考えられない発想や行動に出てしまうことがあります。

これはマイナスの意味で「いつもの自分らしくない」状態と言えると思います。

いつもの自分ならこんな行動をしない。

こんなことを言ったりしない。

そんな状態になってしまうことも時にはあるのではないでしょうか。

かく言う私自身もいつも同じベストコンディションで居られるわけではありません。

時々、自分らしくないな、おかしいなと感じる状態に陥ることがあります。

そこで問題なのは、そういった状態になってしまうことではなく、その状態が本来の自分の姿だと勘違いしたまま、最終的に自我意識に取り込まれてしまうことにあるのです。

元々、人には正負のエネルギー循環上、どうしても霊波動が乱されやすい時期があります。

また、ある条件下では霊波動が落ちる方向に進むことも多々あるのです。

ずっとベストな状態を維持できれば良いのですが、中々、そうはいかないこともあるものです。

そして、霊波動が落ちると下部霊界からの干渉を受けやすくなったり、所謂、低次元層、霊波長の荒い霊的存在に干渉されやすくなるため、益々、自分らしくない状態に拍車がかかる場合があります。

昨今ではポジティブなスピリチュアルが全面に押し出されて、こういったマイナスのことについては触れられない傾向があります。

もちろん、本来ならば、意識を向けない方が干渉は受けにくくなるので、それは良いことではあると思います。

ただ、最近、思うのは、ともかくポジティブなことだけを見て、ネガティブを見ないというやり方に限界を感じることもあります。

多少の霊波動の乱れなど、ほっておいても回復するケースも多々ありますし、霊的障害などについてお話はしない方が良いのかなとずっと思ってきました。

しかし、実際には、ポジティブ思考、前向き思考、意識を向けないというだけではどうにもならないケースに遭遇することもあります。

昨今のスピリチュアル系では、マイナスなものなどない、それは迷いの産物にすぎないと言い切る方も多く見られます。

確かにそう言い切ってあげたほうが、マイナスに意識が向きにくいよねと最初は賛同もしていたのですが、私自身、今まで経験してきたことや色んな方の悩みの相談を受けたりしている内にそう単純ではないなと思うようになってきた次第です。

意識を向けても向けなくても、下部霊界の干渉を知らずに受けて、自分の中の人格も少しずつネガティブな方向に向かわされてしまっている。

そんな人が向かうべき道がなく、苦しんでいることもあるのではないかと思います。

意識しないでマイナスをやり過ごしていくのが最初の基本的なスタンスとするならば、次なる霊的障害との対峙の仕方は、向き合って、それに対して処置していくことなのではないかと考えます。

そして、その対処の仕方の一環として遠隔浄霊なども取次させて頂いています。

もちろん、それ以外にも方法は沢山あるかと思いますが、今後は少しずつスピリチュアル的なネガティブ要素にも少しずつ言及していく機会を増やしていけたらと思っています。


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【公開質疑応答】効果的な寄付について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、和元様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


効果的な寄付について、質問があります。

以前、ブログの中で、真心をもって神様が降りていらっしゃる神社に寄付をすると、より広い範囲で神様が動かれることにより、より大きく徳を積める、と仰っていましたよね。

今、フィリピンの台風により、被害にあわれた方に、寄付をしたい、と思っています。
通常であるならば、赤十字など、しかるべき機関に寄付した方が直接的な支援になるでしょう。
しかし、もし、しかるべき神社にその旨を祈り申し上げて寄付することにより、より広い範囲で神仏が働かれ、より大きく被害にあわれた方が救われるのなら、神社に寄付したいのです。
どちらが、大きな意味で、効果的な救いとなるのでしょうか。

今後も、全国各地で戦乱、自然災害が頻発するだろうと思います。
その度に、その地に確実に寄付金を届けてくれる機関かどうかを個人で調べて判断するよりも、信頼のおける神社でその旨祈り、寄付した方が安心できて楽なので、質問しました。

よろしくお願いいたします。


【回答】


和元様

ご質問ありがとうございます。

少しご質問の内容を拝見していて、誤解もあるような気もするので、まずは、ご寄付ということの本質についてお話してみたいと思います。

ご寄付というのは、まず現実面においては、何かの活動、あるいは誰か自身を支援する、救援するために行う、布施としての行為だと言えます。

平たく言えば、お金や物を提供して、誰かを(あるいは何かの活動を)バックアップするための行為なわけです。

現実面で効果的なご寄付ということを現実思考で考えてみるとまずは、確実にその支援したい方、救援したい方にその善意の施しが届くということが大前提だと言えます。

それを踏まえて、いかなる方法、あるいは物を寄付するのかとういことも考える必要があるでしょう。

お金が足りていないのであれば、お金で支援する必要がありますし、物資が足りていないのであれば、必要な物資を必要なタイミングで送ってあげるということも必要でしょう。

あるいは物ではなく、人出のような能力やマンパワーが必要となっている状況ならば、そのようなボランティア的な身体を動かしての施しが有効な場合もあるでしょう。

つまり、効果的なご寄付ということを現実面で考えると適したものを適したタイミングで適した規模を確実に行うということが効果的なご寄付だと言えるでしょう。

これがまず、現実思考で考えた際の効果的なご寄付の考え方だと思います。

しかし、ご寄付ということには、現実思考以外にも霊界思考におけるご寄付のあり方というものがあります。

現実思考で行うご寄付に対して、霊界で本当の意味で大きな意義を持つご寄付のあり方についてお話してみたいと思います。

まず、ご寄付というものは、真心を形に表すという一つのあり方だということです。

ここで言う真心とは、二心のない気持ちです。

ご寄付を効果的に行うという気持ちは現実においては、考える必要がありますが、霊界思考、スピリチュアル的な真実からすると実は大きな意味はないのです。

むしろ、どういった境地で寄付をしているのかという点が大事なわけです。

効果的な方法は?と考えてしまった時点で本来的には少し、真心から外れます。

では、真心からのご寄付とは何かというとそういった人為を挟まないで、感謝や愛情だけで心を満たして行う布施のことなのですね。

どうしても効果的な方法は?あるいは、このご寄付はどんな使われ方をするのだろう?などと色々と考えてしまうと段々と心が現実思考に傾きはじめて、真心から離れるわけです。

もちろん、そうは言っても、多少は考えてしまうものですし、全く考えないでするのも、現実思考とのバランスが取れないので、仕方がない部分もあります。

しかし、原則論を言えば、何も考えずに愛情や感謝、その人を支援したい、救済したいという思いが湧き上がった時はあまり考えずにその心のままにご寄付を行う方が霊界思考としては、純なる真心に近くなりますし、そのご寄付の霊界での意味は大きなものとなるのです。

私自身、取次鑑定などで何ゆえご寄付制にしているのかと言えば、ビジネスライクに鑑定料金ということではなく、御相談者と天心との間の真心のあり方、あるいは守護霊や神霊、神仏への真心のあり方をそこで実感し学んで欲しいという気持ちがあるからであります。

通常、人は、お店に行き何か買い物をしていくときに真心を込めることは、あまりありません。

「このお饅頭ください」
「100円になります」
「あっ100円ね!はい(^^)/○」
「毎度有り~(^^)/~」


このやり取りの中では決して、霊界思考における真心のある行為にはなっていません。

単なるビジネスライクな取引のあり方です。

もちろん、それがいけないと言っているのではありません。

私たちが生きていく上でビジネスライクなやり取りというものは、社会を営む上でも必要なことでもあります。

但し、霊界思考における本当の意味での真心のあるご寄付ということになると、ビジネスライクな要素はできるだけ少なくして、人の心と心が行き交い、そしてなるべく純なる気持ちで愛情や感謝の気持ちからする行為になってはじめて、スピリチュアル的なご寄付の意味となるのですね。

なので、取次鑑定は鑑定料金ではなく真心からのご寄付という形になっているのです。

ちょっと脱線したので、話を元に戻しましょう。

ご寄付には現実思考におけるあり方と霊界思考におけるあり方があるということは、お話した通りであります。

これを踏まえた上で、

>今、フィリピンの台風により、被害にあわれた方に、寄付をしたい、と思っています。
>通常であるならば、赤十字など、しかるべき機関に寄付した方が直接的な支援になるでしょう。
>しかし、もし、しかるべき神社にその旨を祈り申し上げて寄付することにより、より広い範囲で神仏が働かれ、>より大きく被害にあわれた方が救われるのなら、神社に寄付したいのです。
>どちらが、大きな意味で、効果的な救いとなるのでしょうか。


の質問について考えてみましょう。

フィリピンの台風の救済のためのご寄付を考えた場合に、赤十字にするべきか、神社に祈祷に詣でとそこで神仏へのご寄付とすべきか。

その答えは両方だと思います。

フィリピンへの人たちの具体的な支援は必要でしょう。

そして、神仏への加護を願い、神社に詣でて、真心からのお玉串をして一心祈願をさせていただく。

現実思考においても霊界思考においても、どちらもカバーする答えかと思います。

私も神社・仏閣に詣でたときに赤十字の募金や東日本大震災の救済基金、その他、障害者などを支援する募金箱が設置されているのを目にすることがあります。

その時は、神社、仏閣にも寄付をしますし、そういったボランティア支援にも寄付をしています。

もちろん、その人なりの諸事情もあり、沢山はできないこともあるかも知れませんし、両方は難しいと思ってしまう方もいるかも知れません。

でも、出来うる限りは私ならばそうします。

どちらが良いか?と頭を働かせているくらいならば、その時の心情にあった自分が込められる真心の限りでご寄付をするのです。

時には現実思考で有効なやり方を考えて寄付をすることもありますし、純然たる真心から行う寄付をする場合もあります。

頭で考えて選ぶ必要はないかと思います。

そして、最後にいかなる行為も愛と真心に帰一していくことで、その境は段々となくなってくるはずです。

どんな行為をしてもそこにご寄付の霊界思考における精神で持って望めば、そこには大きな正のエネルギーが生まれます。

その行為が時には神霊のおわします神域であるときもあるでしょう。

一方でボランティア的な支援活動のときもあるかも知れません。

仕事でやっている行為だって、仕事という気持ちを越えて、実行していくとき、それは寄付しているのと同じことになります。

そのような寄付の精神を理解しておけば迷うことはないと思います。


>今後も、全国各地で戦乱、自然災害が頻発するだろうと思います。
>その度に、その地に確実に寄付金を届けてくれる機関かどうかを個人で調べて判断するよりも、信頼のおける神社でその旨祈り、寄付した方が安心できて楽なので、質問しました。


楽をすることよりも真心を込めて、今できることをしていきましょう。

直接の回答ではないかも知れませんが、これが真の答えとなるかと思います。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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心に残った守護霊からのメッセージ24

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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火沢睽(かたくけい)

背きあうは我見、我執を通さんとする心にあり

調和の真を得る心で望めば

太平和楽の道広がるなり

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反目しあったり、喧嘩して争ったりするのは、結局のところお互いが自分の正義を信じて通そうとするからだと守護霊様は言っています。

大事なことは、自分の中の正義を信じることではなく、本当の真実は何か?という問を忘れないことと、自分の我を通すことを主とせずに真実をお互いに導き出そうとする共通の認識を持てるかどうかにあるということです。

争いになるのは、いつだって自分の見方、自分の感じ方を押し通そうとする時に起こるものだというお諭になります。


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【公開質疑応答】悔しい気持ちは原動力になる?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、めろんぱん様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心さま

こんばんは。
いつもブログ楽しく拝見しております。

質問募集ということで、また応募させて頂きます。

今回は「悔しい」という感情についてお聞きしたいと思います。

私事ですが、最近久々に「悔しい」という経験をいくつかしました。
私は現在夢を持っていて、その夢を叶えるべく努力中の身なのですが、
悔しい思いをして「今に見ていろ!」という気持ちで努力するのは果たして
良いことなのだろうか?と常々疑問に思っておりました。

先日も天心さまが話題にされていましたが、巷の「自己啓発」系の本には
「明るい心で過ごしていないと、良い結果に結びつかない」的なことが
よく書かれてあります。

私も最初それを読んで、悔しいことがあっても見て見ぬ振りをしていたのですが、
でも最近「この『悔しい』っていう気持ちも大切なのでは?」と感じるようになりました。

ですのでお聞きしたいことは
「悔しい、という反骨心を持って、努力するのは良い結果にならないのか?」
「この悔しいという気持ちを持つことで、自分の背後の霊界に何かネガティブな
影響が出てしまうのか?」
ということです。

どうかよろしくお願いいたします。


【回答】


めろんぱん様

ご質問ありがとうございます。

「悔しい」という気持ちというのは、果たしてネガティブポジティブかという問題について少し考えてみたいと思います。

日本語というのはとても難しく、同じ言葉であっても、その中に様々なニュアンスを含むものでもあります。

言葉だけでネガティブかポジティブかというのはとても判断は難しいものです。

一般的には「悔しい」という感情にはネガティブなイメージが付き従いますよね。

通常、「悔しい思いをしたいと思いますか?」と聞かれれば、誰だって「No!」と言いたくなるでしょう。

このことを鑑みれば、「悔しい」と思っている状態というのは、エネルギー的には負の要素を持っていると言っても良いでしょう。

しかしながら、一般には「悔しいという気持ちをバネに頑張る」という表現があります。

「悔しい」気持ちを原動力にして次こそはという気持ちと行動につながっていくことを期待しての表現かと思います。

このような表現が世の中にはあるために、おそらく「悔しい」という気持ちは大事なのでは?という考えを持つ方もいらっしゃると思います。

結果的なお話からすると「悔しい」という気持ちを抱く体験の後に努力して何かの成功をつかむというケースはあるかと思います。

そして、そのこと自体、マイナスであるとは考えてはいません。

このようなことを言えば、「では、やっぱり、悔しい思いをすることは、良い結果に結びつくのですね!」

と思われるかも知れませんね。

しかし、少し、悔しいという気持ちを持っている時の実際の状況を考えてみましょう。

欲しいものが得られなかった。

勝負に負けてしまった。

酷い侮辱を受けて傷ついた。

こんな状況の時に「悔しい」という気持ちは沸き起こりますよね。

では、本当にその後、ポジティブになって悔しさをバネに前を向くのでしょうか。

ちょっと想像してみてください。

おそらくは、悔しくて、泣けてきたり、もう二度と悔しい思いをしたくないと心の中に出来事が刻まれることと思います。

しかし、その後の展開は人それぞれになるのではないでしょうか。

結論から言うと悔しさは、単純には前を向く材料にはならないということです。

悔しい思いをしたくないから頑張るという逆説的な働きによって「悔しい」という気持ちを体験することが、人を前に進めていく力を生むことがあります。

しかし、そのような働きを悔しいという気持ちに期待をするならば、その人の中にもともとのポジティブで前向きな思考をするというメンタリティが必要になるということなのです。

悔しい思いをしたくない。

だから、もう努力したり頑張るのはやめようという方向に向かう人も多々いるものです。

悔しい思いをさせたアイツに復讐してやる!なんていう方向に向いてしまう人だっていることでしょう。

悔しいという思いを如何に昇華していくことができるのかは、その人の心根、すなわちメンタリティに前向きさや明るさが前提として備わっていないと難しいと言えます。

つまり、心根がもともと明るく前向きな境地が定まっている方ならば、悔しいという負のエネルギーを帯びる気持ちすらも正のエネルギーに変えて行けるということなのですね。

悔しさをバネにというと悔しい思いがさぞかし活躍して、成果を出せているかのように誤解しやすいのですが、実際のところは、その方の境地にもよるということなのです。


以上、ご回答とさせて頂きます。



天心 拝


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お神籤の処理の仕方

神社仏閣お神籤(おみくじ)を引いた際に持ち帰ったお神籤はどのように処理したら良いかについてお話してみたいと思います。

お神籤は神社や仏閣でお神籤を結ぶためのに結ぶと思っている方も多いと思いますが、あそこに結ぶのは、実は凶であるもの、あるいは内容があまり芳しくないもの、つまりは祓い清めて欲しいものだけになります。

引いた後は必ずお神籤を結べば良いと思われている節もありますが、そうではないのですね。

吉なる結果のお神籤であれば、持って帰ってお守り替わりにするという方法もあるかと思います。

ただ、そうは言ってもお神籤は保存には適していない作りになっていますし(基本、薄い紙ですからね)、すぐにボロボロになってしまうことでしょう。

また、お神籤に込められた神託の有効期限は厳密に決まっているわけではありませんが、二、三週間から一ヶ月程度です。

それが終われば、また違ったサイクルの運気に変わる場合もありますし、そもそも、霊界事情が変われば、お神籤の内容も有効でなくなってきます。

そのようなわけで、引いたお神籤が用をなさなくなった場合にどうしてらよいか持て余した経験があるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。

一番良いのは、神社に古い御札を収める時にでも一緒に持っていくことですが、お神籤は御札と違い、気軽に引けるものですから参詣する度に引いていきますと結構たまってきます。

家の中が古いお神籤だらけになって、散らばってしまうと、ちょっと神仏に対して申し訳ない乱雑な状態に陥ってしまう場合もありますよね(苦笑)

そこで、お神籤を自分で処理して捨てる方法をちょっとご紹介してみたいと思います。

お神籤といえども、やはり神社の気が宿っていたものなので、あまり邪険にしてしまうのはよろしくありません。

何故、よろしくないかというと、神気の宿っていたものを蔑ろにしているという行為が私たちの心根にインプットされてしまうからです。

お神籤に宿る神気自体はそんなに長く留まっているわけではありませんが、それでも、媒体としてのお神籤を処理する際には、お断りをしてから捨てると良いでしょう。

「まことにて おくりますなり かみのふく いぶきなるかみ もとつにかえる」

このように唱えてから、「もうすでにコレはただの紙キレになった!」と念じて処理すると良いと思います。


以上、お神籤の処理の仕方でした。

ご参考まで。


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【公開質疑応答】下部霊界からの復活はある?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ともたろー様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


現世での行いで負のパワーを多くためてしまった場合、下部霊界に落ちてしまうとの事ですが、下部霊界の底の底まで落ちてしまった人が改心をし、霊界で頑張って修行をした末に向上をして、もの凄い神霊になる例はありますか?

下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等・・・など、そういうイメージがついてしまいますが、死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もあると思われます。

そういう人達が、ただ下部霊界に落ちて終わり・・・では、何となく腑に落ちないと感じました。
よろしくお願い致します。


【回答】


ともたろー様

ご質問ありがとうございます。

ご質問にあるとおり、下部霊界とは負のエネルギーを溜め込みすぎて、霊界の波動が低次元層でかつ、麗しい、清らか、軽やか、明るさ、楽しさ、幸せなどの正のエネルギーからかけ離れてしまった時の霊界をさします。

下部霊界にまで霊界次元、あるいは霊層が下がってしまうと、なかなか、そこから上部霊界に上がるのは困難になってしまうのは事実です。

しかしながら、私たちの霊界事情というものは、常に変動しています。

新説・霊界ストーリーなどでも少しお話していますが、下部霊界であっても、そこから救済して上部に移動するための活動というものが霊界ではあります。

神霊が働き、上部霊界の方へ引き上げるために日夜活動されているわけです。

ですから、以下の

>そういう人達が、ただ下部霊界に落ちて終わり・・・では、何となく腑に落ちないと感じました。

に関して言えば、そんなことはないというのが答えでしょう。

下部霊界にあっても、常に上に向かう機会はあるものです。

但し、現世に生きる人間に比べると霊人である時には、それがなかなかすぐには難しいとも言えます。

ですから、生まれ変わりなどをして現世であがない(霊的な穢を落とすために現世での修行をする)などをする場合もあるわけです。

>現世での行いで負のパワーを多くためてしまった場合、下部霊界に落ちてしまうとの事ですが、下部霊界の底の底まで落ちてしまった人が改心をし、霊界で頑張って修行をした末に向上をして、もの凄い神霊になる例はありますか?

これに関しては、事例としては何とも示し難いところではありますが、可能性としてはないとは言えません。

例えば、同じ負のエネルギーを込め込んだという状況でも、単純にエゴのままに生きて、何ら才能も磨かずに下部霊界にいる霊人は別にして、色んな経験を積み、才能を磨いたけれど、結果的に多くの負のエネルギーを蓄え込んでしまった人などは、負のエネルギーの精算が済めば、その才覚によって、一挙に霊界次元を上昇させることは可能だと思います。

例えば、戦国武将などで非常に学問も出来て、心も磨き上げた方などはいらっしゃると思います。

しかし、戦場では多くの人を殺めて、負のエネルギーも尋常でないものを背負っていて、結果的に亡くなった直後は下部霊界にいるという方もあると思います。

でも、元々の霊格や才覚はずば抜けているので、下部霊界から這い出て、いつしか神霊と呼ばれる次元にまで上がるケースはあるのです。

実は、守護霊の中に武士が多いのも、このようなケースがあるからなのですね。

武士は人を殺めたり、負のエネルギーを蓄えるような行為をどうしてもしなくてはならない場合が多いでしょう。

なので、最初は下部霊界にひっぱられてしまい死後は、そのまま、下部霊界にいて、修行や学びをしなければならないことになります。

しかし、元々の磨き続けた経験値や才覚は、決してなくなるわけではありません。

だからこそ、下部霊界からの脱却も比較的にスピーディにできるのです。

ちょっと、質問からずれるかも知れませんが、如何に学び、心の修養を行い、どのような負のエネルギーにさらされても、リカバリーできる魂の力をつけておくことが大事かという例とも言えるかも知れません。


>下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等・・・など、そういうイメージがついてしまいますが、>死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もあると思われます。

そもそも、「下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等」というイメージは裁きの心がなす評価に過ぎません。

下部霊界も上部霊界もその真意は、自分のあるべき霊的な位置を示す言葉にすぎないのです。

なので、この点は理解しておいた方が良いと思います。

また、「死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もある」というのは、そのとおりかと思います。

ですから、下部霊界にいるのは、何かの罰としてあるのではなく、霊界法則であり、誰かが意地悪してそうなっているわけではないのです。

もう少し、私の過去ブログを読み込んでいただければわかると思いますが、神様や仏様が私たちに罰を与えて、死後苦しめたり、下部霊界に貶めたりするわけではありません。

過ちは確かに、不可抗力として起こしてしまうことはあるでしょう。

誰でも完璧ではない以上、負のエネルギーを蓄えてしまうこともあるものです。

それを裁くことは本来的には誰にもできないことなのです。

しかしながら、霊界の法則というものは厳然と存在し、私たちがその法則に影響を受けている事実は変わりないのです。

もちろん、霊界の法則といっても、霊界そのもののことはわからなくても、私たちはどのように生きるべきか、どうある方が心は豊かになるのかなどは、宗教やスピリチュアル以外のことからも学んだり悟ったりすることはできると思います。

不運にもそういったことに出会う機会がなかったり、出会ったとしても謙虚に耳を傾けることをしなかった場合には、残念ならが霊界法則に従い、下部霊界に引っ張られてしまう場合も多々あるということです。

そして、そういったケースがあることがわかっているからこそ、神霊の霊団たちは、あの手この手で、私たちの心の修養をさせるために動いているというわけです。

以上、ご質問の回答とさせて頂きます。



天心 拝


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エデンの園を立ち去る時

暖かい愛情を一身に受け


何もかもが満たされている


とても幸せで優雅な時間


何も心配はなく


何も不具合はない


母の胸に抱かれていたときの心地


まるでエデンの園にいた時のアダムとイブのよう


でも、僕たちはその楽園をいつか立ち去るだろう


それは、決して神様から追放されたからじゃない


見放されたからじゃないんだ


楽園にずっといたほうが楽しくて幸せに違いない


でも、僕らはあえてエデンの園を立ち去るだろう


僕らは馬鹿なの?


いや、そうじゃないよ


僕たちは成長したかった


僕たちは成長したいから


楽園を出て行くことにしたんだよ


エデンの園はとても楽しくて


かけがえがないほど幸せに満ちていた


それを捨ててでも


僕たちは成長したかったんだ


いつかは愛すべき親の手を離れて


お気に入りだった人形も


フカフカで気持ちの良いベッドの感触も


手放す時がくる


それが魂の芽生えの時


魂が成長するということなんだ


エデンの園は遠くになったけど


その分、僕たちは成長できたかな?


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【公開質疑応答】縄文神の復活について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、Paul様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


質問 : 縄文神の復活について。

詳細 :
最近、縄文神の復活について取り沙汰される事が増えて来たように感じられます。

つきましては :

1. 縄文神は本当に復活しつつあるのでしょうか?
2. 縄文神が復活すると、弥生時代以降の神仏はどうなるのでしょうか?
(弥生時代以降の神仏が否定される訳ではないと思っています)
3. 伊豆能売神様は、天照大御神様と関係がありそうだと思っていますが、どうでしょうか?
4. 瀬織津姫神様は天照大御神様の荒御魂なのでしょうか?
5. ククリ姫様のいらっしゃる白山が、人類発祥の地という説は正しいでしょうか?
6. 宮島には、厳島神社創建前から、大地母神がいらっしゃるのではないかと考えていますが、そうでしょうか?


※差し支えない範囲で結構です。
全部の質問でなく、一部の質問に対する回答でも結構です。


よろしくお願い致します。


【回答】


Paul様

ご質問ありがとうございます。

「縄文神の復活について」ということで、詳細を6つに分けてご質問いただいていますね。

内容が非常に専門的なというか、より突っ込んだ質問であるため、よくよく、熟読させて頂いて、どのように答えるのが良いのかを思案させて頂きました。

6つの質問に完全に回答しようとするととても、一つの質疑応答の記事では収まらなくなってしまいます。

なので、結果、少し、ご質問の趣旨から外れる部分も出てくるかと思いますが、より太極的観点に立った回答をしていきたいと思います。

6つの詳細の質問事項に関しては、その観点で都度、回答できる範囲でお話できればと思います。

では、早速、質問の回答をしていきたいわけですが、その前に前提知識の共有を他の読者の方ともしておきたいと思いますので、簡単に質問にある「縄文神」についてお話してみたいと思います。

「縄文神」とは、簡単に言えば、日本の歴史的な区切りとして表される縄文期以前から祭祀されていた神様のことであります。

また、縄文期が終わり、弥生期に入ってから祀られるようになった神様を「弥生神」と言ったりします。

この「縄文神」「弥生神」という区分けは、あくまで歴史的年代を基準にした分け方であるので、厳密にはそういった区分けが神界の中でなされているわけではありません。

では、なぜ、「縄文神」「弥生神」という呼び方をされるようになったのかと言えば、それは歴史的な時代の大きな転換期が縄文期であり、弥生期であるからです。

簡単に歴史の定説を紐解けば、弥生期とは、日本において稲作農業が始まり、渡来人の文明などがかなり混入して、全く新しい文明が築かれ始めた時期だとされています。

よく日本人は古来より農耕民族などと言われたりしますが、それは遡ると弥生期からになるわけです。

では、弥生期より前の縄文期はどうだったかというと、実は、農耕ではなく狩猟採集がメインの生活スタイルだったと言われています。

なので、私たちが古来から伝わると聞き覚えし文化や文明の礎の多くは弥生期から始まったものが多かったりします。

逆に縄文期の文化文明というものは、以外と謎めいていて、どうだったか定かではないのです。

これは、単純に生活スタイルということだけでなく、崇拝していた神様やスピリット的な存在も縄文期と弥生期では異なることも意味しています。

例えば、私たちの古来より継承している神道という風習があります。

神道は日本古来からの信仰といえば、誰も異議を唱えないし、間違いとは言えないでしょう。

しかし、実際には、私たちが知っている神道というものは、渡来人がもたらしたと思しき、儒教的、先祖崇拝思想、民族を守る守護神信仰、道教的な霊性、仏教に加えて、元々あった日本的な惟神(かんながら)の道(但し、この言い方も本質的には正しいかどうかは微妙)がベースとなり、なりたっています。

そもそも、神道という言葉も最初はありませんでした。

神道の「道」という言葉は道教のタオの思想を継承していますし、元々の語源は易経の風地観の卦の辞説の中に登場する言葉を拝借したものであることは事実であります。

神社に詣でてみればわかりますが、拝殿の両脇に狛犬が鎮まっていますが、あれは唐獅子から来ていますよね。

つまり、中国由来のものでもあるわけです。(とは言っても、狛犬は狼、狐、などバラエティがありますので、全てがそうだとは限りません)

このようなことからもわかるように弥生期とは、様々な神々が習合して、誕生した時代だと言えるかも知れません。

そして、弥生期を境にして、縄文期以前より崇敬されていた神様というものは、段々となりを潜めて、埋没してしまったと言われています。

ご質問にある「縄文神の復活」というのは、この縄文期以前からの神々が復権をしようとするムーブメントが起こっているということを指しています。

このことを踏まえた上で、まず、一つ目の質問に回答したいと思います。

>1. 縄文神は本当に復活しつつあるのでしょうか?

これは、単純に回答すればイエスだと言えます。

但し、縄文神に限らず、埋没した霊統というものが復活していく動きがあるというのが、より正確かと思います。

また、大事なポイントとしては、それは全てが歓迎できるものばかりとは限らないということです。

霊統の復活に際しては、様々な霊物や魔の系統のものも蠢いてきます。

まるでパンドラの箱を明けるがごとく、あるいは水滸伝にある百八の魔星を解き放つがごとく、色々と出てくるものなのです。

そして、時には人を惑わしたり、おかしな方向に導いてしまうものもあります。

ですから、審神をしていかなければ、単純に縄文神の復活というものを手ばなしで歓迎というわけにはいかないのです。

回答をまとめますと縄文神に限らず、様々な霊統は復活したりすることはあると言えます。

>2. 縄文神が復活すると、弥生時代以降の神仏はどうなるのでしょうか?
>(弥生時代以降の神仏が否定される訳ではないと思っています)


縄文神の霊統が復活したとしても、弥生神が否定されるわけでは当然ありません。

そもそも、弥生神とは、縄文期以前より日本の神霊界に広がっていた、習合して、昇華させる惟神(あえていうならば、他に言葉がないので)のフィールドが生み出してきた神々の霊統なのです。

必要があり、その時代時代に誕生してきた霊界あり、神霊達なので、今後もその意義が続く限りは機能し続けると思われます。

単純に縄文神がよくて、弥生神がダメという思想を持つ方もいらっしゃるようですが、これは裁きの心であり、調和の心が欠如しているように思います。

特に気をつけなければならないのは、「我こそは」という裁きの心全開の主張をする霊統を背後に持つ存在には気をつけたほうが良いのかも知れません。

>3. 伊豆能売神様は、天照大御神様と関係がありそうだと思っていますが、どうでしょうか?

そもそもの話をすれば、日本の惟神のフィールドに坐す神々は、根源をたどれば同じものにつながっていきます。

分化の働きにより、様々な個性はありますが、関係がないということはありえないでしょう。

>4. 瀬織津姫神様は天照大御神様の荒御魂なのでしょうか?

確かに天照大神の荒魂を祀る社に同じく瀬織津姫神様はお祭りされています。

しかし、単純に同一ということではないと思います。

瀬織津姫神様は、複合的な魂を持つ神様だと思われます。

>5. ククリ姫様のいらっしゃる白山が、人類発祥の地という説は正しいでしょうか?

少し不思議な言い方になりますが、どの時点の人類かという点にもよります。

これはあまり、詳細を滅多に開示すべきことではないと考えますので、名言は避けますが、人類発祥の地というのは少し違うと思います。

>6. 宮島には、厳島神社創建前から、大地母神がいらっしゃるのではないかと考えていますが、そうでしょうか?


これに関しても明言は避けたいと思います。

ただ、一つ言っておくと必ずしも神社が祀る祭神がその地に坐す神とは限らないといことです。

厳島神社は三女神が祀られる神社ではありますが、それ以上の働きと神霊界があるのは間違いありません。

宮島に関しても同様です。


以上、長くなりましたが、回答とさせて頂きます。



天心 拝


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誕生日と不惑

ほんのりした曇り空を見上げながら、とても混沌とした、これから何かが生まれる前のはっきりとしない様を夢想したりしています。

まるで、古事記にある天地の初めにくらげなす漂える状態を曇り空を見上げて想ったりしています。

本日は、私の誕生日でもあり、私は、こんな混沌とした空色の日に現世に生まれ落ちたのだろうかと想いを馳せています。

質問コーナーに寄せられた質問にもまだ未回答分があって、待っている方には申し訳ないのですが、本日のブログは、またまた、開運コラムとさせて頂きます。

私は、本日でめでたく?40代に突入することになったわけですが、私たちの人生のあり方というものは、ある程度の時期を持ってパラダイムシフトしていくものでもあります。

生まれてから9歳までは、ともかく一心に愛情を受ける、つまり受け取ることがメインになります。

10代からは自らの我(が)というものを形成するために様々なことを感じ、思い、考えていくことに費やされます。

20代は、自我に沿って、ともかく、経験を踏み、自らの血と肉を作っていきます。

自我をコントロールして、さらにその自我を乗り越えていくためにパワフルに動いていくのが20代と言えるかも知れません。

30代は、20代である程度完成した魂をさらにブラッシュアップしていくわけです。

30代というのは、20代の時のような力任せではなく、知性と感性、経験値などを含めてバランスと調和を考えていくことがポイントになってきます。

私の30代を振り返って、果たして、世代に準じた生き方が出来ていたかは、反省の残る点も多々ありますが、今度は、40代に入っていくわけなので、新たなパラダイムシフトが求められてくることと思うのです。

さて、40代はどう生きるべきかを考えてみることにしましょう。

論語の中の言葉で孔子「四十にして惑わず」と述べておられます。

40歳の方を指して「不惑(ふわく)」と呼ぶことの元の意味でもあります。

孔子は40歳にして心が惑わなくなったと主張していますが、40代はやはり、不惑に因んだ生き方をしていく必要があるのではないかと思います。

20代や30代は、まだ、志を求めて自分を練っていく時期であったとも言えますが、40代に入ると、アレコレと迷ったり悩んだりせずに志を一にして揺るがない自分を作っていく必要があるのかも知れません。

そのために何が必要なのだろうかと考えてみると、一つのメッセージを受け取ることができました。

それは、「人は捨てることによりて器なすものなり」です。

思えば、今までは一生懸命に何かを得よう得ようと、がっつきもがいていたところもあったのかも知れません。

より大きく、より沢山のものを求めて、自分を成長する糧としていくことを心がけていたように思います。

しかし、必ずしも多くのものを取り入れることばかりが成長の糧ではないことをこのメッセージは諭しています。

自分が何者であり、今生で何を引き受けて行くのか。

どういった役割を担っていくのかを決めていくのは、得ることではなく、捨てることだと教えてくれているのです。

自分に本当に必要なものが何であるのかを悟り、自分に不要なものは、自然な形で抜け落ちていく。

こういったことを経験し、段々といらぬものが抜けさって、自分が何者であるのかを悟るのが40代に入りやっていくべきテーマなのだということを教えて頂いたわけです。

もちろん、単純に30代、40代と数値上でテーマが割り切れるわけではありませんが、一つの目安として、そういった枠組みがあるということなのですね。

今回の記事は私事がメインとなり恐縮ではありますが、読者の皆様におかれましても、一度、自分の今の求めれているものは何であるのかを考えるキッカケになればと思います。


天心 拝


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【2013年11月度】神田明神への参拝

2013年11月度神田明神月参りをしてまいりました。

毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。

もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。

皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。

丁度、参拝した日は七五三のお詣り客と結婚式をされている行列で賑わっておりました。

喜びごとや行事というものを、こういった形に表すことで、益々に喜びの正のエネルギーは栄えていきます。

私もなんだかウキウキした気持ちで参拝をさせていただくことができました。

良い参拝ができましたことに感謝ですね。


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神田神社 少彦名之大神


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鳥居の向こう

どこまでも

吸い込まれるように

神仙の世界へ


箱根鳥居
箱根神社 鳥居


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【公開質疑応答】正のエネルギーがあっても報われない?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、にゃん様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


身近に徳のある人がおられます。
温厚で優しく、世話好きで、地域の民生委員をされており、
独居老人や生活保護の人やDVを受けたシングルマザーの人たちのお世話をしています。


また、ご主人は経営者で会社の寮に入っている社員の方々のお世話をしています。
寮に入っている社員さんの洗濯をしたり、米を差しいれたり、掃除をしたり、
お金を前貸ししたり、本当に大変です。

通常こういった徳のある人は正のエネルギーを蓄えているので
良いことがおこったり、思わぬ幸運があるはずではないかと思うのですが、
(そういう風に開運コラムに書いていました)
独身時代に貯めたお金をご主人の会社に貸してしまい、
ご自身の預貯金を食いつぶしてしまったり、ご主人の会社も借金を抱えています。

それでも人のお世話をしています。
良い人はお金に縁がないんだなと思う典型です。
スケールは小さいですが、マザーテレサの日本田舎版みたいです。


この世が全てでないので、死んだらそれなりの世界に行けるとしても
この世でも金銭的に困らない生活ができる方が安心だし、心にもゆとりができると思います。
ご本人もお金がないのが悩みです。もう60歳近いのに老後の資金もできてません。

こういった人生の方をどう思われますか?
私は、(この世では)報われてないと思います。
お金も心配ない程度にあって、人助けもできるくらいの方が幸せに決まってると思います。
宜しくお願い致します。


【回答】


にゃん様

ご質問ありがとうございます。

善良な行為を積み重ね、心根が善なる人は正のエネルギーを蓄える。

それが一つの霊界法則であることは何度も繰り返し記事でお話してきた通りではあります。

そう考えると、御質問のある、マザーテレサのごとく人のために善意の行動を取られてきた方は、幸せになって当然であると言えるかと思います。

しかし、一見して、そうなっていないように見えてしまう時があるのもまた事実です。

御質問のケースでは、金銭的に報われていないという点がそのように見える部分であるということだと思います。

確かに、一般常識的に考えれば、お金はあるに越したことはないし、社会である程度、豊かに暮らしていくためには、お金もある程度必要だと思います。

しかしながら、誤解を恐れずに言えば、それは、あくまで、他人の境地から見た幸せにすぎないとも言えます。

正のエネルギーは幸せへの顕現を促すものです。

但し、その幸せの形、そして次元はその人の霊的背景や境地に依存するものでもあるのです。

例えば、マザーテレサは、最後まで最貧国で、孤独な人たちを慰め助けるという一生を送りました。

大きな正のエネルギーを蓄えて霊界へ旅立たれたことも事実です。

霊界ではもちろん、一般人ではありえないほどの霊層に進まれています。

しかし、現実の彼女の過ごした状況をみれば、決して、それに見合うほど、豊かな暮らしがあったわけでも、報われているわけでもないと言えます。

これはおかしいではないか?と思ってしまうかも知れませんが、元々、彼女の魂は、貧しい孤独の人を救うという意志を持って生まれてきています。

その意志はとても次元が高く、所謂、一般的に見た人の幸せから見れば、決して豊かな一生でも、幸せそうにも見えないことかも知れません。

最貧国でいつも苦しんでいる人と共に歩む道は平坦ではなかったことでしょう。

しかし、その人の境地からすれば、自分の本来の魂の意志からのことに人生を捧げられているということは、本当に大きな喜びになっているものです。

マザーテレサがもし、嫌々であるいは信仰上の信念のみで、最貧国の孤独な人たちを慰めていたのならば、あのような一生を送ることはできなかったはずです。

そこに喜びがあり、本当にこれが自分の人生のなすべきことだと思えたとき、人の幸せは計り知れないものなのです。

もちろん、お金もあり豊かな生活も幸せではありますが、その人の次元と境地が上がってくると、そういったことはあまり二の次というか、あまり重要でなくなってくるものでもあるのです。

>身近に徳のある人がおられます。
>温厚で優しく、世話好きで、地域の民生委員をされており、
>独居老人や生活保護の人やDVを受けたシングルマザーの人たちのお世話をしています。


この方もおそらくは、豊かさよりも一番に人の幸せや困っている人を救うことを喜びとする境地を持っている方なのではないでしょうか。

もちろん、老後のお金のことや、将来の不安などもあるのも事実なのでしょうけれど、それ以上に今、行っていることに喜びを持って取り組んでいるのではないかと思います。

そういった方には、正のエネルギーはますますに魂の喜びに関わるもので顕現化されてくるものです。

正のエネルギーは必ずしもお金や豊かさといった次元のことで顕現されるとは限らないものなのです。

むしろ、その人の境地が上がってくると、現世レベルの幸せよりも、より魂レベルの幸せの方にシフトされていくことが多いものです。

これが正のエネルギーが単純にお金や豊かさで現れない理由の一つでもあります。

それ以外に考えられるのは、その人がどれだけ正のエネルギーを蓄えても持って生まれた負のエネルギーや家系からくる因業、何かしらの霊的障害、様々に妨害するエネルギーも存在しているものです。

一見、そんなものを持っていないように見える人も実は、様々な視点で見ていくと負のエネルギーは持っているものなのです。

ですから、単純に正のエネルギーを蓄えているから、全てが完璧な状態になるとは限らないのです。

また、天命を果たすために、本人を成長させて、悟らせるために用意されている苦労などは、正のエネルギーがいくら沢山あったとしても回避できないものもあります。

このように様々な要素が組み合わさって、私達を取り巻く現在の状況というものは作られています。

そういったものを鑑みると、単純に正のエネルギー、負のエネルギーというものも一辺倒には解釈できないということがわかると思います。

もちろん、ご質問の中にある方は、老後の不安や問題も抱えていますが、正のエネルギーを蓄え続けています。

ですから、今後、どうなっていくかは、まだわからない部分はあるかと思います。

今、現実的な面で報われていないから、この先もないと言い切れるものでもありません。

もう少し大きな視点で見ていくと、正負のエネルギーの関係がより理解できるかと思います。


以上、回答とさせて頂きます。



天心 拝


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【公開質疑応答】夢のスピリチュアル的な意味

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心様、いつもお世話になっております。ブログも楽しく読ませて頂いております。有り難うございます。

早速、質問に参りたいと思います。

内容は、‘夢’についてです。眠っている時にみる‘夢’のほうです。

怖い夢や不思議な夢、故人や知らない人と話している夢など、現実では起こっていないけれど、夢の中では起こっていること、
景色も、見たことがないような場所や、行ったことがないような場所。

こういう眠っている時にみる夢というのは、スピリチュアルではどのように考えられるのでしょうか。

スピリチュアルとの関係は深いと思っていますが、すべてが霊界との感応なのか、魂が本当に経験していることなのか、

夢をみたあとに、その内容の意味や理由などを考えていて気になりました。

よろしければ、回答お願いします。


【回答】


光様

ご質問ありがとうございます。

私達は夜眠る際に夢をみることがありますね。

脳機能的には私たちは、夢を見るREM睡眠と夢を見ていない(完全にブラックアウトしている)NONREM睡眠があると言われていて、それを交互に繰り返して、私たちは脳を休めていると聞いたことがあります。

また、夢は私達の脳に収まっている記憶を整理する時に見る記憶の断片であるというようなことも言われているようです。

現実思考だけで考えると夢は脳が作り出す記憶の断片であり、意味はないと考えられてしまいそうですね。

しかし、私達が通常見る夢をスピリチュアル的に解釈すると少し違った見方ができるかと思います。

霊界とは心の窓を通じて感応する世界であるというのがスピリチュアル的な表現方法となりますが、夢もまた心の窓を通して見ている一つの霊的な世界であると言えると思います。

但し、夢で見ているものイコール霊界のそのままの姿であるとは言えないとは思います。

なぜかというと、私達は、通常、様々な霊界からの霊波動の影響を受けています。

現世に生きる以上、現世の荒い波動にも大きく干渉を受けています。

こういった様々なノイジーな波動にさらされて、夢は構成されていることが多いので、夢で見たものがイコール霊界での姿そのものとは言えない部分があります。

もちろん、例外的に一切のノイズを受けず、夢の世界で霊界に接続しているというケースもあります。

所謂、精度の高い予知夢を見たり、霊界での世界をはっきりと感得して夢の世界を通して遊んでいるというケースもあるでしょう。

ですから、夢というものは、霊界との窓口になっている場合もありますが、ノイズも入るため、夢=霊界の姿ではないということです。

それを踏まえた上で、以下のことを考えてみましょう。

>怖い夢や不思議な夢、故人や知らない人と話している夢など、現実では起こっていないけれど、夢の中では起こっていること、
>景色も、見たことがないような場所や、行ったことがないような場所。


こういったものも、一部は霊界の姿を映していますが、霊界そのものの純な姿とは限らないということです。
また、守護霊からのサインや何かを象徴するシンボリックなものとして夢の像に現れることもあります。

ですから、夢にどういった意味があるのか、どのようなものを映し出したものであるのかは、詳しく審神して(解析して判別する)みないと何とも言えないところでもあります。

もちろん、単に現世での生活で気になっていることが夢になって現れている部分もあるので、単純に全てがスピリチュアル的な意味を持っているとは限らないと言えるでしょう。

夢の意味について調べる方法は多岐にわたると思いますが、一つの方法として、守護霊に聞いてみるという方法もあると思います。

「守護霊様。昨夜、○○といった夢を見たのですが、何かの知らせかサインでしょうか。もし何か気づきの必要があるならば、わかるように知らしめ給え」

このような感じにお祈りしてみると、わかりやすいサインで答えてくれる可能性もあるかと思います。

何もないならば、あまり気にする必要はないということが言えるのかも知れません。

あくまで簡単な方法なので完全に掌握はできないかも知れませんが、夢の意味を知る一つの方法としてお試しになられてはいかがかと思います。


以上が回答になります。



天心 拝


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プロフィール

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Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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