2013年もお世話になりました!

こんにちは!

天心です。

本年も大晦日を迎えてしまいましたね。

二度と帰ってくることのない2013年という一年ではありましたが読者の皆様は、どのように過ごされましたか?

私は一年、またまた、やっとこさ駆け抜けたという塩梅で、やりたかったことの半分もできていないように感じます。

でも、もう2013年は返っては来ません。

できなかったこと、やり残してしまったことは来年には必ず成就したい!そんな気持でいっぱいです。

今年を振り返って思うことは、月日は有限、自分は一人ってことです。

どんなに頑張っても月日は勝手に流れていくし、自分一人でやれることには限界があるということです。

それでも何とかやっていかねばなりませんが、少しずつでもご縁のある方との交流を増やしていきたいなと思っています。

FGSの会のメンバー向けには、来年早々にもあるものを提案して頂こうかと考えています。

そのある物とは、今は秘密です。(笑)

ちょっとした参加型の企画になる予定です。

その時には振ってご参加くださればと思っています。

まだ、FGSの会のメンバーではない読者の方は、より深い学びをしていこうとお考えの方はメンバー募集は随時行っていますので、ご参考までに下記URLをご参照ください。

http://syugorei.blog24.fc2.com/blog-entry-122.html

それでは、今年も一年、ブログをお読み頂きましてありがとうございました!

拍手、コメント、数々のお寄せ頂いた質問コーナーでのご質問を下さった方々、本当にありがとうございました!

来年もこの守護霊が導く!スピリチュアル世界のブログを皆様の人生での何かしらの糧にして頂けたらこれ以上の幸いはありません。


皆様の良き年越しをお祈り申し上げます。



天心 拝


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西洋と東洋の思想の違い(その4)

西洋と東洋の思想の違い(その3)からの続きになります。

前回は西洋思想の潮流をたどりどのような考え方の変遷があったのかなどを三回の記事に渡りお話させて頂きました。

源流を遡ればプラトンのイデア論あり、アリストテレスの形而上学あり、そして、現代の利益主義にも繋がっていくであろう科学の発展やそれにともない私達の生活、人生に直接的に関わることにのみ注力がいくようになる流れを作った実存主義哲学などについてお話をして参りました。

今回から表側の思想としての西洋思想の流れを踏まえた上で、東洋思想の流れについてお話していきたいと思います。

まず、東洋思想についてお話を進めるにあたり、西洋思想とはいかなる特質を持っていたのかについて考えてみたいと思います。

おさらいすると西洋思想の哲学的な始まりはアリストテレスの形而上学にあることは過去三回の記事にてお話しましたのでおわかり頂けてると思います。

形而上学は魂や神々の世界の存在証明などを考えていく哲学であり学問体系です。

つまり、曖昧模糊とした神話の世界を論理的に証明して見せようとしたわけです。

このことを鑑みれば、西洋思想の特徴としては、「証明」ということに重きが置かれていることがわかると思います。

魂は本当に存在するのか。存在するならばどこにどのように存在しているのか。

そして、何ゆえに存在しているのか。存在を認識するためにはいかなる方法があるのかなどを考察していくことに哲学の本懐はあるかと思います。

どこまでも証明にこだわるという特質が西洋思想の根本にはあるのですね。

この証明にこだわるという姿勢が科学を初め様々な副産物を生みだし私達の生活に利用されたりするようになりました。

元々は魂や神々といった目に見えない、人間の手にはあまるであろう存在の証明のために始まった学問ではありましたが、その結果の恩恵を私達はしっかりと享受しているわけです。

こう考えると私達の生活そのものが実は西洋思想の潮流の中にあるということがわかります。

しかしながら、これはあくまでも表側のお話でもあります。

表面的な生活、法律や政治や経済といった目に見える仕組みにおいては西洋思想から来る流れは私達の生活に密着したものだと言えるでしょう。

但し、私達の裏側の部分はどうでしょうか。

すなわち心や習慣、何を大事にしているのか、何を矜持として生きているのか等については、必ずしも西洋思想の流れにあるとは限らないと思います。

例えば、典型的なものは、穢れの思想などがあります。

最近ではレストランに行くと使い捨ての割り箸ではなく、通常の木材やプラスチックで作られた複数回、洗って使うタイプのお箸が置かれている店も多くなってきました。

経済面、資源のリサイクル、効率などを考えると、使い捨ては非効率でもあり自然に優しくない部分もあるため、段々とリサイクル可能なお箸を採用するお店が増えてきています。

さて、西洋思想的な哲学的思想で考えれば、限りある資源を有効に使うということ、殺菌すれば衛生面でも問題はなく、自然にもおそらくは優しいことでもあり、経費削減にもつながるリサイクルのお箸です。

何も問題がないように見えますが、中にはとても嫌がる人が多いのもまた事実なのです。

西洋思想的に論理的に考えても問題がないリサイクル箸を嫌がるその内部には何があるのか。

それは、穢れの思想です。

穢れとは物理的な意味での汚れや不衛生とは違います。

もちろん、被っている部分もありますが、本質的には異なります。

汚れは物理的に不具合があり、見た目上の美意識に反するもの、および、肉体的な病理に関係性のあるものを指します。

物理的、肉体的に具合が悪いから、汚れを綺麗にしましょうというわけです。

しかしながら、穢れの場合は、主に物理面を含む、精神的、感覚的な歪みやねじれを意味しています。

穢れを言霊解釈すると「気枯れ」ともいわれるように「気」「枯れる」状態を指します。

「気」
とは感覚でもあり、瑞々しかった感覚が枯れ果てて、ぱさぱさした感受性になり下がってしまう状態を穢れというわけです。

リサイクル箸は論理的に考えれば、確かに衛生面や経済面、資源効率面などにおいて合理的かもしれません。

しかし、お箸というもっとも自分の手足の次くらいに活用しているものを自分が使うことによって穢れが生じてしまうという発想がリサイクル箸を嫌がる人の心の根底にあるのですね。

今回のお話ではリサイクル箸が良いか悪いかを論じるつもりはありません。

ただ、良いと感じる悪いと感じるその感性の奥には西洋思想の潮流と東洋思想の内面的な充実を重視する考えの違いがあるということを知って欲しいわけです。

これは表と裏が一体であると同じように西洋思想が優れていて、東洋思想は非効率ということではなく、また、西洋思想は人間の内部を理解しない論理だけの冷たい発想だということでもありません。

西洋思想と東洋思想は共に表側と裏側の関係であるということです。

最初にも言いましたが、西洋思想は私達の表面的な生活の豊かさや充実を与えてくれることになりました。

しかし、それだけでは片手落ちだということです。

真に豊かに、本当の充実を目指すならば東洋思想の裏側を理解していく必要があるということです。

次回はもう少し東洋思想の内容に踏み込んでいきたいと思います。


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西洋と東洋の思想の違い(その3)

西洋と東洋の思想の違い(その2)からの続きになります。

前回は西洋思想の渓流となった形而上学、そして、提唱したアリストテレスについてお話させて頂きました。

アリストテレスは、プラトンの弟子でありましたが、プラトンの提唱するイデア論を潔しとせず、魂の世界と現実の世界のつながりについてこだわりました。

今までなんとなくおとぎ話の世界のような認識であることが一般的であった魂の世界についてはじめて、具体的に考察していこうというムーブメントにつながるきっかけを作ったのもアリストテレスでありました。

アリストテレスの形而上学を皮切りに発展していく哲学の体系の中に科学があり、科学が私たちの生活を豊かにしていくとともにスピリチュアリティに対する関心が薄まっていったということもあるかと思います。

しかし、アリストテレスの提唱した形而上学はあくまでも魂や神々の存在の証明であり探求であったはずです。

それが何故、利益主義的な思想へと潮流が傾いていったのでしょうか。

それに関しては諸説はあるかと思いますが、哲学史上で一つの大きな転換期が再び訪れたことに端をを発しているように思います。

それは何かと言えば、実存主義哲学の誕生です。

実存主義哲学の代表的な哲学者を上げればキルケゴールやニーチェ、他にも多々います。

この実存主義哲学とは形而上学とは何が違うのかというと、形而上学は魂とか神々の世界とかどちらかというと抽象的で自分自身の日々の生活とは乖離した世界を求めるものでありました。

少しドライな言い方をすると日々の生活や自分の中での問題に直接の回答を与えてくれないのが形而上学から実存主義哲学が生まれるまでの間の哲学のあり方でした。

探求している内容は高尚なものでも、実生活、人生において役にたたない哲学にいかなる意味があるのか。

このような発想が生まれてきたことが実存主義哲学の誕生につながったようです。

実存主義哲学とは、一般化された真理追求や高尚な次元の探求を飛び越えて、一人ひとりの息づく人生や生活に密着した内容を探求していこうというムーブメントです。

より、現実や個人に近づいたものの考え方をするようになったものと言えるかと思います。

このように哲学もまた、段々と私たちの生活、個人の心情に答えてくれるものへとシフトして行ったのです。

個人や実生活に近づくということは、段々と魂や神々といった抽象性の高い高次元の発想から現実的な利益の高い具象化された低次元の発想へと移行するようになってきました。

実存主義哲学者のキルケゴールも若かりし時、友人に向けた手紙の中で「私には一般化された真理など必要ない。私のための私に必要な真理を探求したい」といった旨の内容を書き記しています。

同じ実存主義哲学者のニーチェに至ってはもっと痛烈で「神は死んだ」とまで言ってしまっています。

もはや、魂だの神だのはいらないと公言しているわけです。

明らかに実存主義哲学の台頭は、社会のスピリチュアリティの希薄化に多大な影響を与えたことは間違いないと思います。

私たちの生きている社会はその潮流の中で存在していると言えます。

現代社会の中でどうしてもスピリチュアリティが希薄化してきていますが、これは西洋思想における考え方の転換が大きな理由であると言えます。

さて、ここで当該シリーズの記事の最初にお話させていただいた、スピリチュアルの表側と裏側の話に戻りたいと思います。

西洋思想がより現実ベースに傾いたことにより私たちの考えることは専ら利益的なことに終始するようになりました。

そのためスピリチュアリティはますますに希薄化していき、私たちの魂の意志は曇るようになってしまったとも言えます。

今一度、表側からスピリチュアリティを復興させていくためには、西洋思想的なアプローチでより魂と神性の探求へと回帰していく必要があるかとは思います。

もちろん、それは単なるプラトンのイデア論やアリストテレスの形而上学に戻ろうという話ではありません。

物事は流転していくものですが、単に同じスタートに戻るのではなく、今までの経緯を踏まえた上で新たに生まれ変わった魂の探求や神性の追求をしていくムーブメントを起こしていく必要があるかと思います。

これが表側からのスピリチュアリティへの向き合い方かと思います。

さて、三回にわたり表側のすなわち西洋思想的な観点からのスピリチュアリティの変遷を考察してきました。

西洋思想におけるスピリチュアルがあるならば、その一方で東洋思想におけるスピリチュアルがあります。

表側の歴史を辿ってみる必要があるかと思います。

西洋と対比しながら東洋思想のスピリチュアルを追いかけてみたいと思います。

次回に続きます。


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西洋と東洋の思想の違い(その2)

西洋と東洋の思想の違いからの続きです。

前回のサマリーをご紹介すると、私たちの生活を支えている科学技術は、スピリチュアルと対立するものではなく、実は元々はスピリチュアリティの証明のための一環として発達してきたことをお話させて頂きました。

科学は科学哲学と呼ばれる哲学体系の一つであり、哲学のもともとの始まりは、アリストテレスが提唱した形而上学(けいじじょうがく)にあるということです。

形而上学は、魂や神の存在を証明していく、考えていく哲学であり学問だということです。

以上、前回のサマリーを踏まえてもう少し哲学について踏み込んでみたいと思います。

形而上学は、主に西洋思想の渓流の源として誕生しました。

形而上学がなければ、今の科学もその他諸々の哲学も存在しえなかったとも言えます。

様々な宗教にもそれぞれの思想部分を持っているものでもありますが、キリスト教なども神学として哲学体系を持っています。

神学は非常に複雑で難解な部分もありますが、キリスト教学として今でも学ばれています。

そんな神学も元を正せば形而上学からの流れがなければ生まれなかったかも知れません。

では、形而上学とは如何にして生まれてきたのか。

このことについてなるべく専門的にならないように平たくお話してみたいと思います。

専門的には少し不明瞭で不正確な部分もあるかと思いますが、わかりやすさ優先でお話します。

さて、先程も言いましたように形而上学の祖はアリストテレスであります。

アリストテレスの形而上学とは何かについて踏み込む前にアリストテレスの師匠のお話をしたいと思います。

アリストテレスの師匠とはプラトンです。

プラトンも中々、有名な西洋思想家の一人ではありますが、なぜ哲学の初めはプラトンではなく、アリストテレスの形而上学なのかという点がとても大事です。

プラトンもアリストテレスと同じぐらい有名ですが、二人の思想には根本的な違いがあります。

プラトンは魂や神というものは、超越した世界(これをイデアという)に存在し、その超越した世界から何らかのエネルギーがほとばしり、私たちの住む現実世界を作ったという思想を展開しました。

これはつまり、いわゆる古代宗教などが伝承として伝える神話体系をもとにした信仰などに見られる発想そのものだと言えます。

神話には現実的には不可能、荒唐無稽と言わざるをえないエピソードが沢山、表現されています。

そういった神話伝承を解釈するためにイデアという現実からは遊離した世界があると考えて、現実との矛盾を解消しようとしたのがプラトンの思想の根幹にはあります。

この論法を持ってすれば、例えば、モーゼが海を真っ二つに割ろうと、天照大神が勾玉を噛み砕いて、そこから神々が生まれようと何の問題もありません。

何しろそれはイデアの世界の話であって、現実とは無関係なのです。

この発想はとても便利なため古代宗教では当初、多用されていたようです。

神話に何か矛盾があっても「それはイデアの世界のお話だから無問題(もーまんたい)」というわけです。(笑)

このような状況の中、アリストテレスは「ふざけんなよ!ボケども!!」と言ったかどうかは定かではありませんが(いや言ってないでしょうけど)、真っ向から反対の意志を表明します。

超越した世界の出来事にして思考停止してしまえば、永遠に魂や神について人間が理解することはできない。

そういう気持ちもあったのかも知れませんが、弟子であるにも関わらずアリストテレスは師匠であるプラトンのイデア論を非難します。

現実と神々や魂とは密接に関わりがあるに違いないという発想を生み出したのがアリストテレスであり、形而上学なのです。

はじめて、神話の世界から現実の世界へのミッシングリンクを探し出そうというムーブメントを起こすきっかけを作った方であったからこそ、哲学の祖と言われているわけです。

ちなみに形而上学という名前はアリストテレスが最初に神や魂の世界と現実との関わりを考えた時に提唱した原理に由緒があります。

アリストテレスは、当初、このように考えました。

例えば、大きな樹木があったとして、その樹木は、元々は一粒の種であったわけです。

最初は小さな種でありそこからは大きな樹木になることは想像ができません。

しかし、実際のところはその種には大きな樹木になる源が存在していると考えざるを得ません。

アリストテレスは種の中には大きな樹木になるための設計図が存在していると考えました。

形而上的に樹木が樹木となるためには、その設計図がこの現実世界のどこかに存在していると発想したわけです。

犬なら犬の形而上の設計図があり、人間には人間の形而上の設計図がある。

現代の知識で鑑みれば、DNAなどがこれに当たるのかも知れません。

私たち現代の人間がこうして自然界の秘密を解き明かすきっかけとなったのはこうした現実と魂の世界との接点を見つける形而上学にあることはこうした点を見ていくと明らかになります。

DNAの発見も言わば、人間とは何か魂とは何かと考えた末に起こったことであるとも言えるのです。

しかし、まだアリストテレスの形而上学が提唱された時期は、あくまでスピリチュアリティを基軸にした思想哲学が主であり、現代のように観察と実験によって技術を生み出すといった利益主義的な発想はなかったかと思います。

現代のようにスピリチュアリティと哲学との間に齟齬が生み出されてしまった理由はどこにあるのか。

その点を次回は考えていきたいと思います。


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西洋と東洋の思想の違い

私たちの生活を支える様々な科学技術

そして、私たちが拠り所とする色んな決まりごとやロジック。

日々、私たちは思考しながら様々な出来事の意味を理解し、咀嚼しながら生きています。

私たちが生きている社会はとても複雑でそこに生きる人たちは諸々の事柄に思いを馳せて、考えなければ生きては行けません。

私たちは社会で生きてゆくためにも様々な教育を受けたり、時には自ら学んだりしながら適応しています。

そもそも、私たちの周囲にある社会とはいかなるものなのか。

私たちが無条件に当たり前に享受している社会というシステムはどういった背景を元に生まれてきたのか。

この点を少し考えていきたいと思います。

実は私たちが今の社会に至るまでには様々な変遷がありました。

その変遷の根幹を見つめ直すと表面裏側歴史があることに気づきます。

何が表面で何が裏側なのか、一言では表現することは難しいかと思います。

そこで、少しずつ順を追ってお話を進めてみたいと思います。

まず、私たちの社会が出来上がる発端となった根源にはスピリチュアルティがあります。

今の科学万能で経済やら政治やら、色んな娯楽や趣味、現実本位の発想をする方が多い世の中を見ていると、とてもそうは思えないかも知れませんよね。

でも、これは事実なのです。

これだけ言っても、おそらくスピリチュアル系の人間が言っている戯言だと思われてしまうかも知れません。

なので、何ゆえに私たちの社会を作り出してきたものがスピリチュアリティであると言えるのかについて順を追って説明してみたいと思います。

さて、私たちの社会が形作られた発端にはスピリチュアルティがあると言いましたが、その部分を大きく分けると西洋的なものと東洋的なものがあります。

これが実は先ほど申し上げた表面と裏側の違いでもあります。

西洋的な思想は主に表面を意味し、東洋的な思想は主に裏側を意味しています。

まだ、何が何だかわからないと思われるかも知れませんが、とりあえず、今はそんなものだと心に留めて置いていただければと思います。

これからお話していくのは、まずは西洋的な思想の根幹を探っていきたいと思います。

その前に少し考えてみて欲しいのは私たちの今現在の社会システムを支えている重要な要素は何であるかということです。

細かいことを上げていけば色々とありますが、私は、やはり科学だと思うのです。

私たちの便利で豊かな生活を支えているのは、なんだかんだ言っても科学技術でもあります。

こうしてブログを書いたり、お話したりできるのはインターネットという科学技術があるおかげでもあります。

科学技術は昨今ではもはや、ついて行けないほどのスピードで発展を遂げています。

私たちの寿命も科学技術の力で人生50年と詠われた時代よりも長寿になっています。

昔ならば、病気になっても加持祈祷を行ったり、自然治癒を期待する意外には方法がありませんでした。

そのため、若くして命を落とす人も多くいたことでしょう。

しかし、様々な身体や自然の有り様が解明されてくるに従って、科学は医学を発展させて、不治の病と言われた病気も治癒することができるようになったのです。

このことにより、科学に対する私たちの信奉は深まっていきました。

逆に言えば、スピリチュアリティに対する関心は薄れていくことにもなったのです。

では、科学はスピリチュアルティを拠り所とすることよりも優れているということなのでしょうか。

実はここに根本的な誤解があるのです。

私たちは科学とスピリチュアルとを対立したものだと思ってしまいがちです。

科学とスピリチュアルを対立した関係で捉えてしまうと多くの誤解や争いを産んでしまいます。

では、科学とは一体いかなるものであるのでしょうか。

実は、科学とは元々は科学哲学と呼ばれる哲学体系の一つであったのです。

哲学とは基本的に物事の真理を理解するために様々な観察や実験、そして論理的考察によって解を導きだす学問でもあります。

そして、哲学は様々なジャンルがあるわけですが、一番、根本の哲学とは何かといえば、形而上学(けいじじょうがく)にたどり着くことになるのです。

形而上学を最初に提言したのは、アリストテレスでもあります。

そして、形而上学とは何かと言えば、すなわち、「魂の存在、神の存在の探求」をテーマにした哲学であり学問でもあるのです。

先程も言ったように科学は科学哲学という哲学の一体形として生まれてきました。

科学哲学は、自然現象や様々なこの世の現実的作用を探求し考察していく中で、魂や神が存在するのか、あるいはいかなる存在なのか、どこに存在するのかなどを探求する学問体型の一つだということです。

これは一般的に捉えられている科学のイメージからすると意外に思われるかも知れませんね。

私たちはなんとなく科学とは私たちの生活を便利にしたり豊かにしてくれるためのものというイメージを持っていますが、実際のところは違うのです。

例えばインターネットも今は私たちの生活の様々なシーンで便利に活用されていますが、元々は軍事目的で作られたものでもあります。

戦略上、情報を守るために情報の分散化を図り、一箇所のコンピュータが破壊されても、情報が失われないように保守することが最初の目的でもありました。

しかし、昨今は軍事目的に限らず、個人個人のプライベートな生活を豊かに変えるために活用されてもいるわけです。

このことからも、本来的な目的というものは、段々と忘れられてしまう傾向にあることがわかると思います。

科学も実はスピリチュアリティを否定するために発展を遂げてきたわけではなく、その使命はスピリチュアリティの証明にあったと言えるわけです。

このことを踏まえた上で次回へお話を続けていきたいと思います。


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大掃除と禊祓い

年の暮れ。

そろそろ大掃除に取り掛かるご家庭もあるのかなと思います。

我が家も恒例の年末大掃除を本日から実施予定です。

とはいえ今年は故あって先年ほど徹底した掃除ができそうもありません。。

でも、水回りであるお風呂場、トイレ、洗面台、お台所はしておきたいものです。

水回りは水気が貯まる分、邪気も溜まりやすいところでもあります。

後で、できればエアコンのフィルターの掃除ですかね。

昨今、寒さが厳しいのでフル回転のエアコンであります。

なかなかフィルターの掃除がマメにできていないので、このタイミングを逃さずやりたいものです。

さて、掃除と言えば、衛生面を保つことも大事ですし、見た目においてもキレイにすることで、気持ちの良い住環境を整えるということも大切です。

ただ、スピリチュアル的な掃除の意義は、やはり、掃除をするという行為を通して自分自身の内部を禊祓いして清めていくということがあります。

表面的に考えれば、掃除は掃除をした箇所がキレイになるだけのことのように思えるかも知れませんね。

しかし、本当は掃除という行為を通して、自分自身の霊体も禊祓いされているものでもあるのです。

なので、床を拭いたり、窓を拭いたり、部屋の空気を入れ替えたり、戸棚の中身を整理したりすることで、自分の内部もキレイになり、整理されて禊されていくわけですね。

床を拭いていることを通して自分の魂も磨いているというイメージでしょうか。

実際のところ、窓を拭くときには自分の魂の窓を拭いていると思いながら行うと自分の魂が磨かれていくことになります。

部屋の空気を入れ替えるときも同じように自分の内部がスッキリと邪気が出ていき、神気が流入しているとイメージすると本当にそのような気の入れ替えができたりするものです。

掃除だから部屋がキレイになれば良いのだ!と考えるのではなく、自分自身の魂が磨かれていくのだ!というイメージを持つことが大事です。

同じように掃除をするのでも、イメージ一つで行っている事柄の意義が百八十度変わってきます。

年末の大掃除も私たちにとっては、かけがえのない魂を向上させる学びと行いの一環になるわけですね。

日常の一つひとつを単なる行いにせず、その行動が常にスピリチュアル的な意義のあるものへと変えていく発想の転換をすることで、いつでもどこでもスピリチュアルな生き方ができるようになるということです。

是非、試してみてください。


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クリスマスに動く霊界

今日はクリスマスですね♪

といっても日本ではあまりクリスチャンの方は多数派というわけではありませんが、それでもイエス様の誕生日とされるこの日には、なぜか心を動かされてしまいますね。

それは、もちろん、クリスマス商戦に向けて、様々な経済的効果を狙って、頑張ってらっしゃる方々がいるからということもあるでしょう。(笑)

商店街もどこもかしこもクリスマスムードを醸していますし、モミの木のクリスマスツリーや電飾で煌びやかに彩られたイルミネーションもどこかクリスマスの臨場感を上げることに一役かっていると言えますよね。

もともとクリスチャンが(欧米に比べて)少ない日本でこれほどクリスマスが根付いているのには色んな理由はあると思います。

今回はちょっと霊界思考でその理由を考えてみたいと思います。

日本では少ないクリスチャンも世界レベルでみると宗派の違いを考慮せずキリスト教というククリで集計すると約20億人いるそうです。

全人類の総人口が約70億人ですから、概算で3分の1程度がクリスチャンということになります。

これってすごいことですよね。

それだけの人の思いがイエス様の教えを起点に凝結していると霊界思考では考えられるわけです。

相当な大きな霊界が形作られているのが想像できると思います。

日本人のクリスチャンがいくら少ないとしても、世界レベルでこれだけ大きな思念の凝結した霊界が形作られるとやはり影響力は侮れないということかと思います。

もちろん、キリスト教に限らず、大きな思念の凝結により形作られた宗教的霊界は他にもあります。

例えばイスラム教は約15億人の信者がいますので、その影響はなぜ受けないのかという疑問もあります。

おそらく、それに関しては、霊的縁起が日本人と薄いからだと思われます。

やはり、日本は欧米の影響を強く受けていますから、その分、そちらの方の縁起が強くなっている、つまり霊線のつながりも濃くなっているということなのかなと思います。

日本人の親和性から言えば、神道や仏教の方が上なので、私たちの生活の上で現れてくるイベントとしては、こちらの方が大きいのがわかると思います。

初詣、初宮参り、七五三などを始め、お寺で催される縁日や盂蘭盆会などの先祖供養、いろいろ目白押しですよね。

その中で多くの日本人が唯一、キリスト教の霊界に強く感応する日がクリスマスだと言えるのではないでしょうか。

クリスマスケーキにサンタクロースと賑やかな街並みの中で楽しむ最中に少しだけ、キリスト教とは何か、イエス様は何を思い、願い、祈ったのか。

ちょっとだけ考えてみる日にしてみてはどうかとも思います。

そういう意味では私も今回の記事は、クリスマスについての霊界思考のいける考察をお話してみました。


それでは良いクリスマスを!


天心 拝


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アーメン

アーメン


汝は主と共にあり


償いきれぬ罪も


許したもう


許しの愛は遥かなる


主の身許より現れて


いかなる罪人も救いたり


裁きの心は打ち捨てて


荒野を彷徨う罪人も


許して救う今日の日に


汝の心の罪人も


許せや許せ今こそは


愛の心を胸に抱き


許せや許せ人許せ


イエスのごとき心持て


汝を鞭打つその罪を


許して祈れ今日の日は


許す愛なりキリストの


真の心をたたうべし


アーメン


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【公開質疑応答(番外編)】法難システムの乗り越え方

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答の募集時期ではありませんが、読者の皆様に共有しておきたい内容でもありますので、急遽、今回、質問の回答をしてみたいと思います。

質問は和元様からになります。

皆様にとっても大事なお話なので是非、お読み頂きたいと思います。


【質問】


天心先生、このところ毎日、ブログを読ませて頂いています。

不動悟覚の伝も始まったことですし、しっかり霊的修練を積もうと学び始めた矢先、体調を崩しました。

振り返れば、過去にも、頑張り始めると頭痛がおきる、ということが多々あり、その度に大事をとって早く寝て翌日回復、の繰り返しでした。

昨日、決意と感謝の念から、江ノ島神社参拝を計画しておりましたが、前日に風邪の前兆と思われる喉の痛みがあったので、やはり大事をとって延期しました。
明日、参拝予定なのですが、今日は午後から急に鼻水、熱っぽい感じがして、明日の参拝も無理そうです。

法難システムだろう、とは思うのですが、体調不良という形でくると、どう乗り越えればいいものか、迷ってしまいます。

大事をとって休めば、結局乗り越えていないので、再びチャレンジする時に再び法難システムが発動するのではないか?
無理して乗り越えれば、体を壊し、生業を休まざるを得ないのではないか?

根性がなく、法難システムを乗り越えた!という経験がなかったように思えるので(~_~;)、乗り越えたらどうなるか、どう、乗り越えたらいいのか、アドバイス頂けると嬉しいです。

機会があれば、ブログで取り上げて頂けたらなあ、と思います。

質問を募集していらっしゃらないのに、質問してしまい、すいません。

寒いので、先生もお体をお大事に(>_<)

和元


【回答】

法難システム。

これについては度々、ブログ記事でも触れてきました。

法難システムがいかなるものかについては、詳細は法難システムの正体(その1)をご参照ください。

簡単に説明をしますと法難システムとは、何か夢や志を持って進もうとするとき、それを阻害する働きが起こること、反作用のことを指しています。

例えば海外留学をして英語力をつけて、海外の企業で働きたい!という目標を立てたとしましょう。

そうすると急に体調不良になったり、周囲に反対されたり、その目標へ向かうのを阻止されるような出来事が起こることが多々あります。

これは人生における一つの法則でもあり、誰にでも起こることでもあるのです。

おそらく、この記事を読まれている方も身に覚えがあることと思います。

この法難システムを乗り越えることが、私たちが魂を成長させていくための一つの試金石でもあります。

法難システムを乗り越えられない程度の思いでは、本当にその目標や志を実現して構わないのか?というセーフティシステムでもあります。

なので、法難システムがあってもそれを積極的に乗り越えていくことが大事なわけです。

熱意が試されているということでもあります。

しかしながら、そうは言っても、どうしても法難システムの反作用がキツすぎて乗り越えられない!という悲鳴も聞こえてくることがあります。

今回のご質問も乗り越えたいという気持ちがあっても、どうしても挫けてしまうということなのかと思います。

そこで、法難システムを乗り越えていく方法論をいくつかお話してみたいと思います。

まず、法難システムは実現化するにあたりOKかNGであるかを図る試金石でもあります。

ですから、しっかりと絶対やってみせる!という気持ちを持つことは前提として必要です。

それから、法難システムという存在があることを知ることです。

ただ訳もわからずに酷い目にあっているという認識を持つのと「これは法難システムだ」と気づいているのとでは、立ち向かう際の意識が違ってきます。

自分に降りかかっていることが法難システムだと認識することも大事なことです。

これらのことは、まず基本として理解しておいて欲しいと思います。

ここから先の方法は、具体的な対策になります。

まず、法難システムを独りで乗り越える必要はないということです。

私たちには折角、守護霊という頼もしい存在がついているのですから、しっかりと頼るべき時には頼るべきです。

法難システムに気づいた瞬間からしっかりと何度も守護霊にお祈りをして乗り越えられるように語りかけを行いましょう。

一度や二度ではなく、何度もお願い申し上げることが大事ですね。

守護霊にお祈りや語りかけをしましょうと口が酸っぱくなるほど言っておりますが、おそらく、しっかりと時間をかけて何度も具体的に語りかけているという方は少ないのではないかなと思います。

私自身もここぞというときには本当に長い時間、何度もお祈りします。

そうすることで法難システムに立ち向かう追い風が吹いてきます。

自助努力だけで乗り越えようとすると潰れてしまうことも守護霊の加勢があれば乗り越えることができるはずです。

意外とあまりやってない方も多いのではないかと思います。

やっていても、ちょっと祈ってみた、話しかけてみた、その結果、そのうちやらなくなるという程度で終わってしまうケースも多いように思います。

なぜ、こう思うのかといえば、私自身、真剣に守護霊に向かって、何度も試行錯誤して、しつこいぐらいお祈りをして行った結果、少なくともどうしょうもない結果に終わるという経験をしたことが一度もないからです。

そこまですれば必ず何かしらのが浮かび上がってくるものです。

逆に言うとそこまでしないから解も何も得られないまま、法難システムが越えられないという結果を甘んじることになるのですね。

ですから、とことんまで守護霊と付き合ってみてください。

それから、結構、重要なことなのですが、法難システムに遭遇してからアレコレと対策を練ったり守護霊へのお祈りをしても間に合わないことも多いのです。

例えば、ご質問の内容からで言えば、江ノ島参拝を計画した瞬間からもうお祈りをして、その当日まで、そして無事に参拝が終わるまでずっと守護霊にお祈りをしていくのが良いわけです。

なぜならば、法難システムにも霊界の法則が適用されます。

すなわち、法難システムが現世に具体的な形となって顕現化するためにはタイムラグがあるということです。

つまり、江ノ島参拝を計画した段階から霊界では法難システムが準備されます。

そして、実際には時間をかけて具象化されて、江ノ島参拝の当日に体調不良を起こさせるという現象が顕現化されます。

顕現化されてしまったものを覆すのはとても難しい部分があります。

しかし、顕現化する前の段階から守護霊の加勢をお願いしておけば、霊界で法難システムが形作られる段階で、守護霊がいろいろと動いてくれたりするわけです。

結果として、現実には法難システムらしい障害もあまり感じずに乗り越えていけるようになるわけです。

この原則がわかっていると大分、法難システムを乗り越えやすくなるかと思います。

だからこそ、普段からの守護霊へのお祈り、語りかけは重要になってくるのですね。

このことは質問者様に限らず、全ての読者の方に知っておいて欲しいことでもあります。

いつも法難システムに邪魔されて目標や夢を頓挫させていたという方は、よくこのことを振り返って見て欲しいと思います。


天心 拝


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アメーバ「なう」で【一日一言】を開始します

こんにちは!

天心です。

土曜日の午前中から失礼します。

今日からアメーバ「なう」で【一日一言】をつぶやきます。

といいつつ、つぶやきできない日や二言以上になる日もありますが(笑)

宜しかったらフォローしてみてください。


ではでは。



天心 拝


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逆説!裸の王様

裸の王様という童話は皆さんご存知の方も多いと思います。

かいつまんでストーリーをおさらいしておくと、ある日、王様は世界で一番、美しくてイケてる衣装を求めて、仕立て屋に作るよう命じます。

仕立て屋は、色々と思案しますが、その時、ちょっとした悪知恵を思いつきます。

そして、王様に最高のお召し物ができましたよ!仕立て屋は伝えるのです。

しかして、王様が意気揚々と仕立て屋を呼びつけて、最高の衣装を見せてみよと命じます。

仕立て屋は言いました。

「この衣装は愚か者には見えぬように作られた世界に二つとないものです。王様ともあろうお方が見えぬはずはございません。まさかお見えにならないわけではございますまい?」

この言葉に王様の心は不安と羞恥でいっぱいになりました。

王様には衣装が全く見えなかったからです。

王様は、どうしても自分が見えていない愚か者だと思われたくなくて、「うむ、立派な衣装の仕立てご苦労であった」とあたかも見えているかように振る舞い、嘘をついたのです。

周囲にいた侍従や側近たちも見えていない自分の恥ずかしさと、王様に下手に忠告して不興を買うことを恐れて何も言いません。

かくして、王様は仕立て屋の嘘にまんまと乗せられて、裸のまま見えない衣装をまとって(まとったつもりになって)、城下町へと外遊しに出かけます。

街ゆく人は裸の王様を見て、ビックリしますが、誰もそれを指摘できません。

やはり、王様の不興を買うのと自分が馬鹿だと思われたくない気持ちが勝って、誰も真実を言おうとしません。

この物語のオチとしては、最後に純真な子供が、「王様は裸だ!」と叫ぶことで、周囲の大人たちが自分らの面子や不興を買うことを恐れる情けないメンタリティを直視させられるという寓話として終焉を迎えます。

さてさて、長々と童話の説明などをしてしまいましたが、今回の記事のテーマは「裸の王様」逆説で考えていきます。

この物語からは子供は純真で大人はあざといという、純粋真っ直ぐさだけが礼賛されてしまうような趣がどこかにあります。

確かに純粋さは大切ですが、純粋さとは未熟さのことでもあります。

私は、愚か者には見えない衣装実は存在すると思っています。(笑)

「ええっ!なんだよそれ」

と顔をしかめつらしくされる方もいらっしゃるかと思います。

もちろん、これはメタファーです。

いかなるメタファーかというと、私たちは子供の頃は、現在の自分ほど世の中の様々なことが理解できてはいません。

親の保護下にあり、そこから見える小さな範囲でしか物事を見ることができません。

しかし、段々と成長し、視界も広がり、世の中の広さを知れば知るほどに今まで見えてこなかったものみえてくることになります。

私たちは学び、経験し、前を向いて進むごとに見えないものが見えるようになってくるのです。

子供の頃に限らず、今の自分にはまだまだ見えていない様々な真実が世の中には沢山あるということです。

見えない真実こそ、まさに「愚か者には見えない衣装」の正体なのではないかと思うのです。

私たちは自らの未熟さを知り、それを克服していくたびに見えてくる様相を味わう旅を続けています。

純粋さだけの子供に留まらず、あざとい大人になるのではなく、真の成長を遂げていくことに大きな意味があるのではないでしょうか。

今回は寓話である裸の王様を逆説的に見た場合の私たちのあり方について考えてみました。

王様は裸だと言える純粋さも持ちながら、まだ見えぬ真実を見出していく旅を続けていくことができればと思います。


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心に残った守護霊からのメッセージ26

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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心地良いものばかりではならぬ

汝を走らせるものは

泥沼のごとき不浄の中にある

嫌うなよ

---------------------------------

心地良いものばかりを求めて、汚いものから遠ざかろうとしていた傾向にあったとき、戒められて諭された内容です。

良いもの気分がいいものだけを取り入れていると、結局はそこに安住して、本当の魂からの幸せはつかめないということなのかも知れません。

泥を嫌がらず、泥を糧として進むことが現世に生きる意義の一つなのかも知れません。


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声を上げよう

産声


僕たちはオギャーという第一声のもとこの世に誕生した。


それからというもの


僕らはいつでも声を上げてきた


不安な時


痛くて泣きそうな時


声を上げて叫んできた


嬉しい時の奇声、歓声


そして、世の中を変えようとする声


人をいたわる優しい声


声をかけられるだけで独りじゃないと思えた











大きな声も小さな声も


この世の中はいろんな声で満ちていて


いろんな声が


人を救ったり


世の中を変えたり


新しいものを生み出す原動力になったりする


もっと声を上げよう


心で思いを濁らせないで


もっと声を上げよう


きっとその声は


素敵な明日を作っていく


皆の声がきこえてくる


その先に明るい未来はあるのだと信じて


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FGSの会ブログ通信(Vol6)

~☆~ FGSの会 ブログ通信 Vol.6 ~★~


こんにちは!天心です。


FGS会報メルマガESS第十八号を発送しました!

ちょっと、ご報告がおそくなりましてすいません。(汗)

年の瀬の忙しい時期ではありますが、そんな忙しさに負けまいと、既に第十九号も鋭意、執筆中であります。

さて、今回もブログ読者向けに少しだけダイジェストを紹介します。


◎目次

1.FGSよもやまコラム

2.第十八号の特集(【FGS会員限定!】音声セミナー(御魂の恩頼(ふゆ)の取り入れ方))

3.お知らせ(不動悟覚の伝 初級編 募集締切迫る!)



FGSよもやまコラムは、FGSの会の限定のコラムになっています。

今回は、今年のスローガンの見直し、今年の反省などしております。

ちょっと気が早いかも知れませんが、一年を振り返り内省するタイミングかもと思っています。


第十八号の特集としては、第十七回音声セミナーです。

御魂の恩頼(ふゆ)の取り入れ方というテーマでお話しています。

そもそも、御魂の恩頼(ふゆ)ってなんだろう・・?って思った方は、なかなか興味深い話になっているかと思います。

不動悟覚の伝(初級編)の最終募集の告知を行っています。

でも、この記事がアップされている現在は、既に霊法伝授会がスタートしていますけどね。(笑)


そんな感じでFGS会報メルマガESSの第十八号をリリース済みです。

もし、メンバーの方でまだ、メールボックスを確認していない方は、要確認ですよ~

このメルマガは原則としてFGS基本メンバーの方のみが受け取れる会報メルマガになっています。


ブログ読者の方も、より突っ込んだ学びに参加したいとお考えの方は、FGSの会へのご参加をお待ちしております。


◎FGSの会については以下、URLリンクをご参照くださいませ!

【お知らせ】フレンドリー・ガーディアンズ・スピリットの会



FGSブログ通信からでした!


天心 拝


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コックリさんはなぜ危険か(おしまい)

コックリさんはなぜ危険か(その4)からの続きになります。

前回は、帰神術の表面的条件、ソフト面を踏まえながら、再度、何故、コックリさんの交霊術が危険であるのかについてお話させて頂きました。

簡略にまとめておくと、コックリさんには、帰神術のような安全に交霊を執り行うためのシステムがないということ、それから交霊を行う人間の霊格や経験、知識的な未熟さ、そのために高次元の神霊を降ろすことは困難であるということなどを理由として説明させて頂きました。

前回までで一応の今回の「コックリさんはなぜ危険か」シリーズの主要なテーマはお話できたと思っています。

ただ、最後に総括として、正しい霊的存在との交わり方や安全な交流の方法について少しだけ触れておきたいと思います。

このブログを最初からお読みいただいている読者の方はよく理解されていると思いますが、私はこのブログの記事でいたるところで守護霊との交流を勧めています。

守護霊とは「霊」という文字が語尾についているように霊的存在であります。

守護霊との交流というのは、ある意味で守護霊との交霊だということもできるかと思います。

そうなると、コックリさんが危険である理由で述べたようなことが、守護霊交流にも当てはまるのではないかと思われるかも知れませんね。

確かにある意味で同じように霊と交流するので、同じような危険がやはりあることは否めません。

但し、守護霊交流に関しては私は、全く心配はしていませんし、問題が起こったこともありません。

何故、守護霊交流は心配なく、問題が起こらないのか理由を説明してみたいと思います。

まず、私のブログでは守護霊とはいかなる存在であるのか、どういった心構えで守護霊と交流すれば良いのかかなり詳細に具体的にお話させて頂いています。

コックリさんのようにやたらとどんな霊でもいいから交流しようという話ではありません。

明確に次元の高い神霊とはいかなる存在かを明示した上で、意識カーソルが高次元層に向かうように仕向けているのがこのブログの使命の一つでもあります。

闇雲に霊と交わろうとすれば、確かに危険かも知れませんが、明確にいかなる存在であるのか、その存在の肝となる意志がいかなるものかが理解できていれば、少なくともあまりにも酷い低次元層に意識が向くことはないのです。

だから、まずはこのブログをよく読んで守護霊とはいかなる存在であるのかをしっかりと理解し学んだ後ならば問題がないのです。

「でも、本当の守護霊かどうか判別する審神者がいないから騙される可能性があるのでは?」

このように思う方もいらっしゃると思います。

しかし、これも大丈夫です。

なぜならば、これもまたブログで語ってきたことでもありますが、いかなるメッセージを受け取ったとしても、それを鵜呑みにしないという原則を守れば、そうそう、振り回されることはないからです。

詳しいことは過去ブログを読み返して頂ければわかると思いますが、守護霊からのメッセージをどれだけ受け取ろうとも主体的意志を持って人生を生きている人ならば、決して道を踏み外すことはないのです。

守護霊と交流をしていて、例え低次元層の霊が降りてきたとしても、主体的意志さえブレずにいることができれば、問題が起きることはないのです。

もちろん、安全に守護霊との交流を図っていくためには、より多くのことを学んでいく必要はあります。

そのためにFGSの会などを設立して深い学びの場も作っているわけです。

遊び半分、興味本位とは違う、しっかりとした霊界、霊的存在との交わり方を学びながら、自分自身の霊格、霊覚を向上させていき、魂の成長を促していく。

これこそが本当の高次元層の神霊たちが望むことでもあります。

そういった正しい志を持って交流を行い、いつでも謙虚に学ぶ姿勢をなくさなければ、決して危険なことは何もないのですね。

以上のことを持って、今回のシリーズの総括とさせて頂きます。

長々とまたお付き合い頂きましてありがとうございました!


天心 拝


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コックリさんはなぜ危険か(その4)

コックリさんはなぜ危険か(その3)からの続きになります。

前回は、帰神術の三人の神職の役割について、ソフト面から何が求められているのかについてお話させて頂きました。

単純に三人よれば文殊の智慧とばかりに、人数だけ集まっていれば帰神術を行えるわけではないということを理解して頂けたかと思います。

ひもろぎ役、降神を行う役を担う神職には、それ相応の霊格が求められること、審神者(さにわ)には霊格もさる事ながら、百般の知識、経験に精髄していることが求められることなどをお話しました。

こららのお話を通して細々としたことはともかく、帰神術についての概要はほぼ説明できたと思っています。

これを踏まえた上で、今一度、コックリさんの交霊術について考えてみましょう。

帰神術においても三人で執り行うことをお話しましたが、この点はコックリさんにも共通しているように見えます。

しかしながら、コックリさんの場合は、特に役割があるわけではありません。

ただ、友達同士で興味のある者が集まり、行うだけです。

つまり、帰神術における安全に交霊を行うというシステムがコックリさんにはありません。

帰神術においては、全てに役割があり、それを行う者は、それぞれに使命を心得ています。

帰神術を執り行う者は万全を期して、交霊に当たるのに対して、コックリさんをするときには単に霊を呼び出して何か聞き出そうということしか考えられていないのです。

だから、何か問題が生じた時にこれを解決する手段も仕組みもないのです。

まず、この点がコックリさんが危険であるという理由の一つです。

もう一つは、ソフト面からの理由です。

帰神術においては、三人のそれぞれの役割を担う人間にはそれなりの資質が必要でありました。

神霊は見合った波動を持つ神籬(ひもろぎ)にしか降りてこない。

これが交霊における重要なファクトであります。

面白半分、興味本位でどんなに高次元なあるいは、霊格の高い神霊を呼ぼうと思ってもそれは不可能だと言えます。

ましてや聞きたい内容が「クラスの○○ちゃんは誰が好きか?」とか「△△が欲しいけど手に入れられますか?」とか、内容が自分本位、興味本位、次元性の高さも気品もあったものではない質問をすることがほとんどです。

こうなってくると正しく神霊が降りてくるはずもないわけです。

これが第二のコックリさんが危険な理由です。

第三は察しが良い方はお気づきだと思いますが、もしもの場合に対処できる知識、経験があるものがいないという点です。

厄介なのは、霊感が強いと呼ばれる霊感少年、霊感少女がコックリさんの音頭を取って行っている場合です。

大抵、そういった霊感があるというものが自分の拙い経験だけで、霊界の有り様を判断し、勝手に思い込んでいるケースが多いものです。

そうなると本当に問題が起こったときに対処できるどころか、余計に事態を悪化させてしまいかねないという点があります。

そもそも本当に霊界の知識と経験があるならば、決して霊界をおもちゃにしたり、面白半分で交霊を試みるなんてことはしないはずなのです。

何事も正しくその意義を理解し、周到な準備をして執り行うのが本当に霊格が高く、知識や経験が豊富であるという証でもあるわけです。

中途半端な霊感を頼りに霊界や霊的存在に間違った方法で干渉することほど危険なことはないのです。

これがコックリさんが危険である第三の理由です。

他にも危険な理由がないわけではりませんが、大きなポイントはこの三つかと思います。

ここまで、コックリさんが危険な理由についてお話してきました。

では、危険だから一切、霊界や霊的存在には干渉せず交流しないほうがよいのか?

と思ってしまった方もいらっしゃるかと思います。

しかし、このシリーズの記事中でもお話した通り、私は霊界や霊的存在との交流自体を否定していません。

むしろ、正しく交流していくことが私たち自身の霊格や霊覚の向上にはとても重要なことでもあります。

次回はその点のことも含めて、当該シリーズの総括をしていきたいと思います。


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コックリさんはなぜ危険か(その3)

コックリさんはなぜ危険か(その2)からの続きになります。

前回は、交霊術のメカニズムをお話するために神道的な交霊術の一種である鎮魂法・帰神術帰神術について説明をさせて頂きました。

帰神術を行う祭には基本的には三人(なんし二人)の斎戒沐浴した神職が、それぞれの役割を担うこと、それから、その役割となる、ひもろぎ役、審神者(さにわ)、琴を弾いて神霊を勧請する役(審神者が兼任の場合もあり)があることを説明しました。

一応、それぞれの役割についての説明や帰神術を行う祭の表面的な条件についてはお話できたかと思います。

今回は、もう少し帰神術のソフト面、つまり、神霊が降りてくるための条件についてお話してみたいと思います。

三人の神職がそれぞれの役割を担うことで、帰神術のお膳立ては揃ったと言えますが、それだけでは、真に正しい帰神術の環境が揃ったとは言えません。

なぜならば、誰でも彼でも帰神術を行えば、神霊が降りてくるというわけではないからです。

次元の高い神霊、邪な意志を持った霊物ではなく、霊格と清々しい霊波動を持った存在が降りてくるためには、きちんとした法則性があるからです。

それは何かと言うと「神霊は見合った波動を持つ神籬(ひもろぎ)にしか降りてこない」という法則です。

もう少し詳しく説明しますと、そのひもろぎ役となっている霊媒の持つ神職の霊格、霊覚に応じたものしか取次ができないし、神霊は降りては来てくださらないということです。

どんなに高次元で繊細な素晴らしい神霊を勧請しようと思っても、そのひもろぎ役となる神職の霊格が低かったり、あるいはその時の状態の波動が下がっている時には、高次元の神霊は降りてこれない、あるいは、降りてきても完全には取次することができないと言えるのです。

巷では天照大神(あまてらすおおみかみ)が降りてきて神示をくだされたとか、倭姫命(やまとひめのみこと)がメッセージをくれたなどと言われる方もいらっしゃいますが、その方の霊格や普段からの行い言動、品格がそれに見合っていないようなケースも時としてあります。

こういう場合は、ほとんどのケースで、全く別の霊物が降りてきている可能性が高いと言えます。

そういったことを審神者(さにわ)という役割の方が見破っていく、判断していくわけですが、そもそものひもろぎ役の神職が神霊を下ろすに見合った霊格がなく、普段からメチャメチャな生活をしている場合には審神以前に神霊が降りてくるはずがないということです。

また、神霊を勧請する役の神職も重要ではあります。

いくら人を育成し導く使命を持った神霊だとは言え、呼ばれればハイハイと気軽に降りてくるわけではありません。

やはり、それなりの霊格の神職が真剣に勧請するからこそ、お出ましになってくださるわけです。

気軽に何かペットか何かを呼び寄せるような感じで呼んでみたところで、降りてくるはずがないのですね。

この点も帰神術におけるとても重要なソフト面での条件になります。

それから、先ほど少し触れましたが審神者が降りてきた神霊をきちんと判定して、間違いなく神霊からのメッセージを正しく引き出せるかどうかという点も大事です。

審神者はそれなりの経験と知識、根本的な審神の基本をマスターしている必要があります。

帰神術においては百般の分野に精通していないと審神を行うのは難しいと言われてもいます。

このあたりの詳しい話はブログでは出来ませんが、少なくとも、経験、知識がそれなりにある審神者の存在が帰神術の際には必須であるということです。

以上が帰神術のソフト面の重要な要件になります。

次回はこれらのことを踏まえた上で、何故にコックリさんが危険であるかについて再度、お話していきたいと思います。


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コックリさんはなぜ危険か(その2)

コックリさんはなぜ危険かからの続きになります。

前回は小中高で周期的に流行るコックリさんについて簡単に説明をしてみました。

コックリさんが危険だという説は、以前から存在していたこと、そして、その理由は低級霊と呼ばれるあまり宜しくない霊的存在から憑依を受けてしまう危険性があるということでありました。

これだけでも危険だとすることはできますが、そもそも、コックリさんをはじめとする交霊術とはいかなるものであるのか。

そのメカニズムについては、あまり今までのスピリチュアル的な警鐘の中では触れられてこなかったように思います。

そこで、今回は交霊術というか、交霊のメカニズムについてお話してみたいと思います。

最初に言っておくと私は霊的存在や霊界と呼ばれるフィールドとの交流自体を危険だとみなしているわけではありません。

本来、人は知っていようといまいと霊的存在、霊界との交流を持っているものでもあるからです。

なので、わざわざ、交霊術などという不可思議な儀礼にこだわらなくても霊的存在や霊界との交流を果たすことは可能だと言えます。

その方法はとりあえず置くとして、まずは、コックリさんのメカニズムを説明するにあたり、神道的な霊法の一つにある鎮魂法・帰神術についてお話してみたいと思います。

一般には聞きなれない言葉かも知れませんが、多少の神道の流れを勉強されている方は、よく知っているか、あるいは耳にはしたことがあるかと思います。

これは、平たくいうと神道家である本田親徳(ほんだちかあつ)という方が提唱した神霊界との交霊法の一つであると言えます。

もちろん、本来的にはもっと深い意義があるのですが、今回は交霊術という側面に限定してお話を進めていきます。

鎮魂法と帰神術は本来は別の霊法ではありますが、鎮魂帰神などと一緒にセットで呼ばれることもあります。

鎮魂法とは魂を鎮めたり、活性化させていく霊法、帰神術は、神がかりを意図的に起こして神霊と交流する霊術になります。

交霊という観点で考えると帰神術が交霊術に当たるかと思います。

では、帰神術とはいかなるものなのかをお話してみたいと思います。

帰神術は、基本的には三人の潔斎沐浴して清々しい状態となった神職が行います。

この三人にはそれぞれに役割があります。

一人は、神霊を下ろす触媒としてのひもろぎ役を努めます。

神霊との取次には人間を介さないとできませんから、その役目を担う存在が必要であるわけです。

二人目は、審神者(さにわ)と呼ばれる存在です。

これは、私も度々、ブログ記事の中で審神(さにわ)という言葉を使っていますから聞き覚えがある方もいらっしゃるかと思います。

審神とはひもろぎ役に降りてきた神霊の正邪を判別したり、質問をしてメッセージを引き出す役割になります。

私はもっと審神という概念には広く次元の高い解釈を持って受け止めていますが、ここではあくまで帰神術における審神の役割をお話しています。

審神者は、ひもろぎ役の霊媒に降りた神霊を判定し時には、邪なる存在であった場合には退去させたり、霊縛などをして好き勝手にさせない処置を行う重要な役割なのです。

そして三人目は琴をを引いて、神霊をひもろぎ役の霊媒に下ろす役割です。

三人目の役割は審神者が担い、二人で行う場合もあります。

これが三人の役割の概要になります。

この帰神術の仕組みは非常によくできています。

ひもろぎ役の霊媒が怪しげな霊物に仮に憑依されてしまっても、審神者がこれを監視しているので、問題があってもすぐに対処できるというわけです。

巷では霊媒というと一人で全てを行っているケースもあるかと思いますが、深いトランスに入ってしまうと霊媒自身が自らをコントロールできない状況に陥る可能性があるわけです。

ですから、審神者という役割が非常に重要でもあるわけですね。

別の言い方をすれば、審神者がいてくれることで、霊媒は安全に神がかり状態になることができるということです。

これが帰神術を行う際の体制となります。

次回は、今回のお話を踏まえて帰神術を行う際の前提条件となることなどをお話していきたいと思います。


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コックリさんはなぜ危険か

久しぶりに霊能力カテゴリのお話をしてみたいと思います。

霊障カテゴリと双璧であまり語るのが気が進まない分野でもあります。

霊能力という言葉も色々と誤解を招き続けている響きを持っているので、あまり使いたくないのですが、それに反して、興味を持っている方も結構いらっしゃるのも現実です。

あまりスルーを決め込むと様々な部分的な情報や興味本位のみで語られる情報に惑わされてしまう方もいると思い、今回は思い切ってお話してみたいと思います。

テーマは「コックリさんはなぜ危険か」になります。

これから詳細のお話をしますが、これはやってみてくださいという意味ではなく、基本としてやると危険ですよという意味です。

ですから、決して面白半分やそうでなくても実践はしないようにしてください。

念を押したところで話を進めていきます。

コックリさんとは、結構、周期的に小中高の学校でなぜが流行する交霊術の方法です。

なぜ周期的に流行するのかはよくわかりませんが、必ず、集団ヒステリーや教室にいた生徒が狂乱状態になったりするという事件が周期的に耳にいたします。

そもそも、コックリさんは、紙の上に平仮名の五十音を並べて、その上に五円玉などをおいて、霊的な存在にコンタクトをとり、メッセージをもらおうという方法であります。

紙の上に書くのは五十音以外もアルファベットを加えるパターンや五円玉ではなく鉛筆や他のものを代用することもあります。

そして、基本的に三人ひと組で交霊を行います。(場合によっては二人で行う場合もあります)

交霊に成功すると五円玉(ないし鉛筆や代用品)が紙の上の文字を通してメッセージをくれるという寸法になります。

勝手に五円玉が動き出し、文字を辿るようになる不思議な現象に興味をそそられた、まだ未熟な若者たちが自分たちが何をしているのかもわからずに霊界をおもちゃにしているわけです。

それだけでも、私は今、お話をしていて身の毛がモゾモゾとよだつ感じがするくらいです。

さて、コックリさんが危険であるというお話は実は私がことさら言う必要も本来はないくらい、昔から言われていることでもあります。

その理由は実にシンプルで低級霊、あるいは危険な意志を持った霊物を呼び込んでしまう可能性が高いからだと言えます。

危険な霊物を呼び込んでしまった場合、憑依を受けて運気が下がったり、最悪、精神に異常をきたしたりするケースもあります。

このような警鐘は結構、以前からなされていることであり、私などが改めてお話する必要はないかなと正直、思っておりました。

しかしながら、昨今では、霊的な交流というものが以外と軽い感じで受け止められて、誰でも気軽に交霊を試みたりしてしまうことが増えてきたように思います。

そして、いくら「低級霊に惑わされる危険がありますよ」といってみても、「私は大丈夫」「騙されないようにすればいいんでしょ?」などと鷹をくくって試みる人がいるのも現実にはあります。

ですから、単純に低級霊からの憑依などの危険だけを説いても、実感がわかず何が危険なのかよくわからないため、間違った霊とのアプローチをしてしまう人が後を絶たないように思います。

そこで、交霊の実際のメカニズムなどを説明しながら、何故、「コックリさんは危険」なのか、そして、危険ではない交霊とはいかなるものなのかをお話していければと思います。

次回に続きます。


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習慣を改める

私たちの自我意識は一日にして出来上がったものではありません。

私たちが自分自身が何者であるのかを決めるまでには様々な体験学習積み重ねられてきた結果でもあります。

「ローマは一日にしてならず」という諺がありますが、自我意識も長い年月をかけて作り上げられてきたものでもあります。

何が好きで何が嫌いか。

誰に興味を持ち、誰を驚異と思うのか。

自我意識には自分はいかなる人間であるかという定義が沢山、集められています。

私たちは時として今の自分というものを大きく変えて、全く違った自分になってみたいと夢想します。

そして、大抵は夢想に終わることが多いものです。

もちろん、努力をして自分という人間を変えようとする人もいます。

しかし、大抵失敗することが多いのです。

なぜならば、一瞬で自分を大きく変えてしまおうと考えてしまうことが原因にあります。

自我意識は、自分が自分らしくあろうとする働きを持っています。

今まで積み上げてきた自分という名の定義をある意味で原理主義的に守ろうと動きます。

自分自身(あるいは自分自身を定義している環境、状況)を大きく変えようとすると必ず、それを阻止しようと働き始めます。

このため、一瞬で大きく自分を変えようとすると自我意識の抵抗に合い、その試みは失敗に終わるわけです。

では、どうすれば自我意識の抵抗をかいくぐり自分自身を変えていくことに成功することができるのでしょうか。

それは、自我意識のある特性に注目することで実現が可能となります。

自我意識は大きな変化には非常に大きく反応し大きな抵抗を試みようとします。

例えば会社勤めを長年していた人が急に明日から退職して裸一貫で漁師になろう!なんて思ったとしましょう。

会社勤めとはまるで違う漁師という仕事です。

生活も人間関係も一変します。

そうなると自我意識は自我の危機と判断してものすごい抵抗を始めます。

具体的には不安で不安でたまらないような気持ちにさせたり、漁師になったらどんな酷い目にあるかといったリスクなどの情報が沢山入ってくるように仕向けたりします。

結果として、そんな冒険はできないという結論になり、明日からもやっぱり同じような会社勤めの日々が始まるわけです。

では、どうやっても会社勤めの生活から漁師として生きる人生にシフトすることは不可能なのかというとそうではありません。

自我意識には、大きな変化には敏感でも小さな変化には疎いという特質があります。

つまり、小さい変化は自我意識から見過ごされがちだということです。

ここに着目すれば、自ずと解決方法は見えてきます。

いきなり明日から会社をやめて漁師になるのは難しくとも、週末だけ漁師の真似事をしてみるというのならば、自我意識の抵抗は小さくて済みます。

あるいは漁師とまでいかなくても、釣り堀で魚を釣ってみるとか、漁師になるための情報を集めてみるとか、小さなアクションを起こしていくのです。

そうすると自我意識は小さなことなのであまり抵抗せずにスルーしてしまうのです。

ここで大事なのは小さなことを継続していくことにあります。

小さなことというのは大きなインパクトはありません。

なのでイキナリ自分自身を大きく変えることはありません。

それゆえに自我意識も反応せずにスルーしてしまうわけです。

しかし、小さなことを少しずつ行って、ちょっとずつステップアップしていくとそれが習慣化してきます。

習慣化すると今度は自我意識は、習慣化していることは自我意識の定義として取り入れようと働きます。

結果として自我意識は新しい自分という定義を取り入れることになるため、自我の内容が変更されることになるわけです。

こうして少しずつ自分というものを変えてゆくことができます。

自我意識の定義に加えられるための条件の一つに習慣化されていることが挙げられます。

知らぬ間に習慣化してしまっていることが自分が自分らしくあるための重要な要素であると自我意識が認識する時、自分という人間が変わる瞬間でもあるということです。


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デカルトの見た夢

我思う故に我あり

誰でも一度くらいは耳にしたことがある言葉だと思います。

これは、ルネ・デカルトという近代哲学の父と呼ばれる方の言葉です。

デカルトという名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

なので、以下、デカルトで統一します。

さて、デカルトは「方法序説」などの著作が有名ではありますが、彼は基本的に懐疑主義という立場をとり、疑って疑ってそれでも疑いようがないものは真実であるということを言っています。

疑いようのない真実を組み合わせていけば、必ず真理を得ることができると考えたわけです。

もっとも、このデカルトの懐疑主義は後世にて様々な批判を生むことになりましたが、それでも、真理へと向かう一つの方法論を展開しているとして、近代哲学の重要な基礎を作ったとも言えるわけです。

ちなみに「我思う故に我あり」の言葉も、いろんなものの存在を疑ってみた結果、疑いを持っている自分という存在はどうやら間違いなく存在するらしいということを表しています。

長々とデカルトについてお話しましたが、今回のお話は実は、あまりデカルトの思想・哲学の突っ込んだ内容とは関係がありません。(笑)

「なんだよ。それ!」とお叱りを受けそうですがご容赦ください。

それを期待した方、大変、申し訳ないです。

今回、お話したいのは、デカルトがどうやったら真理を導きだすことのできる学問体系を作り出せるかと悩んでいた時に訪れたサインについて紹介してみたいと思います。

哲学者というと全てが理詰めで観念的であり、あまりスピリチュアル的なこととは無縁のように思いますが、実はデカルトはあるスピリチュアル的な体験をしているのです。

あるとき、デカルトは夢を見ました。

向かい風が吹く砂漠のようなところを歩いていると一軒の家を発見します。

そこで風が収まるまで休もうと家を目指して歩き出します。

家の前に着くと家の主人が出てきて「あちらにいくとメロンがもらえるそうですよ」と言われます。

えっ?メロンなんだよそれ。意味不・・・とここでデカルトは夢から覚めます。

そしたら次の瞬間、家の中に稲光のようなものがピカピカと差込、その直後、机の上がスポットライトを浴びたかのように光っています。

机の上を見るとその上には2冊の本が並んでいました。

一冊は辞書でもう一冊はラテン詩全集でした。

デカルトはなんだよこれ、意味不・・・と思っていると突然、ラテン詩全集が開き、開いたページに「我いかなる生の道をゆかん」と書かれていました。

そして、もう一冊の辞書の方もページが開き、そこには「肯定」という文字と「否定」という文字が書かれているページでありました。

そして、デカルトはまた夢から覚めました。

「またしても夢かい!」デカルトがそう突っ込んだかどうかは定かではありません。(笑)

しかし、デカルトはこれら夢を単なる夢だとは思いませんでした。

「きっとこれは神の啓示である」

こう感じたデカルトは夢でみたことを整理して咀嚼し始めます。

夢に出てきた二冊の本。

辞書はおそらく学問の知識が結集したものを表しているに違いない。

このようにデカルトは解釈しました。

もう一冊のラテン詩全集は、かつて古代ギリシャの哲学者達は詩で哲学を語り合ったと言われていることから、「哲学」というキーワードが重要なのではないかとデカルトは考えました。

二つの本が並んでいたということは、学問的知識と哲学的手法を融合させよという神の啓示に違いない。

デカルトはそのように結論づけたようです。

そして、辞書に書いてあった「肯定」「否定」は、学問的知識と哲学的手法を融合するにあたり、肯定できるものと否定できるものをしっかりと見極めるという理念を持つ必要があるというお諭しであったと受け止めたようです。

デカルトが自分自身の学問哲学体系を持つにいたったキッカケは実は観念によりロジックを組み合わせた結果ではなく、夢のお告げが始まりだったわけです。

このエピソードは私たちが守護霊や神霊からサインを受け取るときの参考になるかと思います。

サインは象徴として現れるという典型的な例だと言えます。

観念的な哲学者にしてその中心にはスピリチュアル的な体験というものが関係しているということで、今回はとりあえてみました。

何かの参考になればと思います。


P.S

ところで、メロンが貰えるという夢はなんだったんでしょうかね。

デカルトさん、そこは華麗にスルーですか。(笑)


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心に残った守護霊からのメッセージ25

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。


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出し惜しみをせず

全てを出し切ること

全てを出し切った後に

神智、霊智は訪れるなり

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ともかく最初は手加減することなく、自分がやれるだけのことをやることが大事だということです。

後のために力をセーブしておこうとか、このアイデアは勿体なから使うのはやめておこうとか、しみったれたことは考えない。

自分の中にある全てを出し切った後に、パッと現れてくる智慧や追い風のような手助けが神仏のさずけてくれる智慧でもあり、証でもあると守護霊によく諭されます。

何事も全力を出し切ることで、自分の限界を超えた何かが出てくるというお諭しでした。


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芸達者芸に溺れる

芸達者芸に溺れる

一芸に秀でた人というのは、その一芸によって身を立てることが可能になります。

芸は身を救うともいい、そのため、ますますに自分の持つ一芸を磨こうと精進していくことになります。

しかしながら、あまりにも自分自身の持つ一芸に拘泥してしまうと、その一芸が身を滅ぼす役割を果たす危険もあるのです。

それを表した言葉が冒頭で紹介したものです。

一芸とは必ずしも芸に関係するものでなくても、一つの何かに拘泥し、それだけを頼りに全てを紐解こうとすると失敗する恐れがありますよという意味が込められていると私は思っています。

私たちの生きている世界には様々な分野があり、それは人が様々な多様的な視点から物事を判じてきたことを物語っています。

何かの一分野が全てを表していることはなく、全ては一つの偏った方面から見えてくる景色に過ぎないということです。

理屈を大事にする人は、理屈が通らないと納得しません。

理屈を通すことに命をかけて、それがなされなければ誤りとして受け入れないという傾向があります。

感性を重視する人は、自分の心に響かなければ、全く関心を示さないという、感受性に振り回されてしまうところがあります。

歴史と伝統を重視すれば、新しいまだ評価が未確定の分野には眉をひそめて遠ざかるかも知れません。

革新や可能性だけを追い求めると、今度は改革に邪魔になる伝統や歴史は排除すべきだという考えになるかも知れません。

経済活動だけに囚われれば、瑞々しい人間の人情や風情は、非効率という名のもとに忘れられていくことになるでしょう。

感情や人情だけを大事にしすぎると足元の生活が揺るぐことになるかも知れません。

霊性を重視しすぎれば、科学の進歩は遅れ、科学を重視すれば霊性は否決される。

いかなる視点、いかなる分野も全ては森羅万象から出てきた一つの視点であり、偏りのあるものだということを知らなければ、いずれかは「芸達者芸に溺れる」状態になることは必然であると言えるでしょう。

偏った全ての分野、全ての視点は己の心の次元を高く持つことで中庸のもとに統合されていくことになります。

でも、現実はあいも変わらず、裁きの心で互いの良さを認められずに反発しあっている状況にあると言えます。

芸達者芸に溺れることなく、次元上昇を果たせる人になりたいと思う今日この頃です。


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【2013年12月度】神田明神への参拝

2013年12月度神田明神月参りをしてまいりました。

毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。

もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。

皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。

いよいよ、今年の最終月に入りましたね。

冬の様相というには、まだ暖かさも仄かに残る感じで、本格的な寒さはこれからといったところでしょうか。

本当に今年もお世話になりっぱなしの神田明神です。


人形(ひとかた)も奉納して歳末の罪穢れをお祓い頂きましょう!


kanda_syomen_torii.jpeg

神田神社 正面鳥居


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ゆっくりと

傷ずついたなら


少し腰を下ろして休んだらいい


悲しいことがあったなら


気の済むまで泣くといい


頭にくること


憤って


地団駄踏んで


悔しがって


落ちてる小石を蹴飛ばした


そんな日があってもいい


人生はそんなことの連続で


そんなことの連続の中で


僕たちは答えを探し続けていく


したり顔で


悟ったような顔しないで


今日はゆっくり休んで


思いっきり泣き叫んで


鬱憤を爆発させて


そして、後で自分の至らなさを知って


反省したら


また、前を向こう


強がらなくていい


弱くてもいいから


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プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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