【公開質疑応答】死後の再会について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、まり様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


いつも楽しくブログを拝見させております。
新説霊界ストーリーの記事を拝読させていただきますと、
死後の世界のイメージが持てます。
死んだあと、死後の世界にゆき、次に生まれ変わるまでの間に、
先に亡くなった人と、再びあったり、
今世での出来事を互いに語り合ったりすることはできるのでしょうか・・?
子どもっぽい質問で申し訳ありません。
ですが、今世での別れが、一時的な別れで、
また再びめぐり合うことができ、
「あのときはああだったね」などとお話できたら
いいなぁと思うのです。
もしも、ご回答していただけるような内容でしたら、
教えていただけたら、嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


【回答】


まり様

ご質問ありがとうございます。

>死んだあと、死後の世界にゆき、次に生まれ変わるまでの間に、
>先に亡くなった人と、再びあったり、
>今世での出来事を互いに語り合ったりすることはできるのでしょうか・・?


今生で仲良い人や家族、親戚などの方と果たして死後に再会はあり得るのかということですよね。

霊界というものは、同じ霊波長のもの同士が霊界共有を行って、同一の霊界に籍を置く法則があります。

ですから、同じ霊波長であれば、死後の再会はあり得ると思います。

但し、現世とは違い、霊界のみの存在となっていくと、その人の本質的な性質があらわになってきます。

進むべき道や行きたい方向性などの違いも明白になってきます。

ですから、単純に現世で仲が良かったから再会できるとは限らないものです。

また、再会するといっても現世と同じような感覚での再会とは限りません。

現世では物理的制約、空間的制約によって、同じ物理層に暮らしていても、亡くなればそれぞれの霊的な位置に戻っていきます。

現世のような縁側のふちに肩を並べて語らうというようなコミュニケーションであるとは限らず、念と念の交わりや、意志と意志の交流のような、次元の異なるあり方になってゆくことも多いです。



以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】守護霊からのメッセージの受け取り方

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、和元様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


私は、まだ守護霊様から言葉としてメッセージを受け取れず、まわりの現象からメッセージを受け取っています。
自分の聞きたいこと、知りたいことをお祈りした後、メッセージを読み取ろうと、ふと目に入るもの、起こる現象、人の言葉を、注意深く観察しています。
しかし、どれがメッセージなのか、正しい答えなのか、見分けがつかないのです。
何かが目に入ると、「これはメッセージかも!」と思う。
ふと人と話すと、「守護霊様が人を使って言わせているのかも!」と思う。
転んだりしても、「いったいどういう意味が?」と思う。
問題は、どれが答えなのか判断できない、ということです。
      
特に、いろんな人からいろんなことを言われたり、本を複数読んでどの本も解釈が分かれていたり、前見た現象と後に見た現象からまったく逆の答えが導かれたりすると、いったいどっちがメッセージなんだ?
そもそも、どちらもメッセージじゃないのかな?
いや、自分で考えろってことかな?
どれもメッセージじゃないのでは?
と迷ってしまいます。
      
質問して、答えを受け取ろう、と思うとき、どのように正しいメッセージを受け取ったらいいのでしょうか。
メッセージである現象、とメッセージでない現象の違い、というのはあるのでしょうか。


【回答】


和元様

ご質問ありがとうございます。

>私は、まだ守護霊様から言葉としてメッセージを受け取れず、まわりの現象からメッセージを受け取っています。
>自分の聞きたいこと、知りたいことをお祈りした後、メッセージを読み取ろうと、ふと目に入るもの、起こる現象、人の言葉を、注意深く観察しています。
>しかし、どれがメッセージなのか、正しい答えなのか、見分けがつかないのです。


守護霊からのメッセージはサインという現象を通してのものが確かに多いかと思います。

ただ、どれが守護霊からのメッセージなのかと迷われているということは、少し力が入りすぎている場合が多いといえます。

メッセージの受け取り方を理屈だけで体得するのは難しいのですが、あえて理屈で説明するならば、力を抜くということです。

「守護霊のメッセージはどれなんだ!?」と血眼になって探している状態はとても力が入りすぎている状態だといえます。

力が入りすぎるとサインが現れても気づけないことが多いです。

なぜならば、守護霊のメッセージを受け取るのに良い状態はリラックスしていることだからです。

だから、メッセージを受け取るときにはリラックスすることを心がけます。

メッセージを得よう得ようと思えば思うほど力が入り、メッセージは受け取り難くなります。

かといって、全く何もしなければ良いのかというとそれもまたダメなのです。

このあたりのことは、理屈を超えた体得なので説明が難しいですが、ヒントを言えば、まず、守護霊に目いっぱい語り掛けます。

その後、一度、その事柄から離れてみます。

それでも、すぐにはメッセージやサインの解釈ができないこともあります。

その場合はもう一度、守護霊に同じことを語り掛けます。

多少、角度を変えた再質問という形でも良いと思います。

大事なことは、短期的に焦って答えを得ようとしないことです。

質問の内容によってもすぐには回答が得られない場合もあるのです。

だから、単純に目の前で起こる現象すべてを無理やりメッセージとして受け止める必要はないのです。

メッセージとしてのサインである場合には、いくつかの特徴があります。

一つは何度も繰り返し目の前に現れる物事。

これは同じ言葉を繰り返し聞いたりする場合もあれば、同じニュアンスを含む現象を複数、目撃するなどのケースもあります。

いずれにせよ繰り返される現象の場合は守護霊のメッセージである可能性が高いといえます。

但し、繰り返しになりますが、力を抜いてリラックスしていることが前提です。

なぜならば、あまりにも力が入っていると自分自身のこだわりの心がサインを受け止める感性を殺してしまうことになるからです。

「メッセージを受け取る」とあるようにメッセージは受けるものであって、得ようとするものではないのです。

受動的なある種の心境を作り出さないと難しいのですね。

なので、出来る限り力を抜いたほうが良いです。

また、何が正しく何が守護霊からのメッセージなのかを正確に知るには審神(さにわ)の知識が必要ですが、簡単に概ね間違わない方法としては、サインを受け止めたときの心の感じ方に注意してみると良いと思います。

守護霊からのメッセージの場合は心のストンと入り、深く納得できます。

心に幸せな感覚が広がることもあります。

こういった感覚を頼りに判断してみるのも良いと思います。

アレコレと守護霊からのメッセージなのか?と迷っている状態の時に現れた現象の場合は一応、保留として、心にとめておき、ある時、府に落ちる瞬間が本当にメッセージやサインを受け止めたといえるのだと思います。



以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】磨いて育つ才能(実力)について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、sweet様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


いつも楽しくブログを拝見しております。


持って生まれる才能や、磨いて育つ才能(実力)について質問です。

アスリートであれ、アーティストであれ、その他の職業であれ、それぞれ人には持って生まれた才能と、ある意味努力ではどうにもできない限界があると思います。たとえば野球をしている人がどんなに一生懸命たくさん練習をしても、誰もがイチロー選手や、田中選手みたいになれるわけではありません。

もちろん一流になるためには人一倍の努力が必要なのは当然でしょうが、その結果世界のトップレベルの実力を身に付ける人と、そうでない人、そこまでのワールドレベルではなくても、例えば「どうしてもアイツには適わなくていつも二番手」という人など。アーティストなら世界や歴史に名を残す人と、小さなコミュニティの中で活躍する人、全然芽の出ない人など、それぞれが持って生まれる才能や、磨いて育つ才能の大きさ・限界は、どのように決められているのでしょうか?

みんながより大きな成長と活躍を目指して頑張っても、実際にそのレベルになれるのはほんの一握りだけです。その一握りの人たちだけが「生まれてきた目標に到達できる人」というのなら、この世界はあまりにも厳しすぎると思うのです。ほとんどの人がある時点で「諦め」たり、「方向転換をし」たりするわけですから、そこにも、到達する人たちと同等の、同じような価値のある生きる目的や本質があるという事なのでしょうか?


【回答】


sweet様

ご質問ありがとうございます。

人にはそれぞれ才覚があり、それを磨くために様々な努力をしますね。

その中でも、磨けば磨くだけ能力が高まる人を才能があるといい、特別視する見方もあります。

とりわけ、大きくメディアで取り上げられたり、注目の集まる場でその才能が認められることで、スターのような存在が生まれるわけです。

今回のご質問に回答していくにあたり、二つのことを踏まえる必要があります。

一つは、才能が発揮される条件、今一つは成功の定義です。

まず、才能が発揮される条件なのですが、一つには人にはそれぞれ性格があるように魂にも性質があります。

同じように努力しても、結果が異なり、その後の脚光の浴び方も違ってくることがあります。

その理由の一つとしては、自分の魂の性質に見合った方向性や事柄で努力をしていると才能は伸びやすいという傾向があるようです。

これは、本来は誰にも当てはまることで、誰かが特別な人間で、他の人間は凡夫だということではありません。

誤解を恐れずに言えば、誰でもスターダムにのし上がるくらいの才能は持っているものなのです。

自分の魂の性質に心から気づき理解している人は、その方向に自然と向かい、才能を伸ばします。

しかしながら、そこに気づけない人は、少しずれた方向で努力しているために才能が思ったほど伸びないという結果になることが多いということです。

もちろん、これは単純に魂の方向性を知れば才能が伸びるという話ではありません。

心の底から理解し、気づかないとダメなのです。

では、なぜ、気づける人と気づけない人がいるのかと言えば、一つにはスピリチュアル世界における霊界のねじれや歪みなどにも原因があると思います。

素直に魂の道につながるような霊界を背景に持つ人は、自分の魂の性質は何だろう?などと考えなくても自然とその方向性を見つけます。

一方で、いくら頭で考えてみても霊界やその人の追うカルマや因業がそれを邪魔して見えなくなっている状態だと何が魂の性質に見合っているのかが見えなくなるものなのです。

ですから、大きく才能を伸ばす人と平凡で終わる人との差異の一つにはこういったことがあります。

それでは、大きく才能が伸びる人は霊界の歪みが少なく、才能が伸びない人は霊界が歪んでいるということになってしまうのでしょうか。

そうではありません。

才能ということでもう一つ注意すべきは成功の定義です。

才能が伸びる、あるいは才能があるといわれる状態ということを考えたとき、その基準を大抵の場合、いわゆる結果の成功度に求められることが多いのが世の常です。

有名になったり、大金を稼げるようになったり、権威的なものから認められたりといったことが成功の定義と思われている節があります。

しかし、スピリチュアル的に見た成功とは、こういったことではありません。

あくまで魂の性質に沿った生き方をしているかどうかが成功の基準なのです。

但し、現実的な側面を見てみると魂の性質にあった方向性で努力して才覚が大きく磨かれたとしても、世間的な脚光を浴びることもなく、大金を手にしたり、認められることもない場合も多々あります。

それは才能がないからではなく、単にその時代や状況においての評価基準にたまたま一致していないだけです。

どんなことも才能足りうるものですが、それが成功に結び付くかどうかは、時代の状況によります。

例えば、野球で脚光を浴びる選手は棒状のもので飛んでくる球体のものを叩いてできるだけ真っ直ぐ遠くに弾き飛ばすと認められます。

「野球とはそんなものではない!」と野球ファンからは怒られてしまいそうですが、野球というスポーツが知られていなかった、あるいはまだ発明されていなかった江戸時代にプロ野球の選手がボールを木の枝で遠くに弾き飛ばしたとしても誰もほめてくれなかったと思いまし、お金にもならなかったことでしょう。

「そんな暇があったら野良仕事でも手伝え!」とげんこつの一つもくらわされたかも知れません。

このことを考えれば、どんな才能も時代の状況、環境によって成功としての結果に結び付くのかが決まるということは必然です。

一方、今は認められていなくとも時代や状況が変われば、才能が認められることだってあるはずです。

ですから、本来は誰にも大きく伸ばせるはずの才能は眠っているといえると思います。

成功するかしないかという視点で見てしまえば、スピリチュアル的な意義における才能を磨く意味を見失ってしまいます。

大事なことは魂の意志するところを表現していくこと。

その時に威力を発揮していくのがスピリチュアル的な視点で見た場合の才能の意味になります。

なので、イチローには才能があるけれど、他の結果が振るわない人には才能がないということにはならないのです。

スピリチュアル世界の人物で言えば、イエス様もお釈迦様も孔子も生きていた時代にはそれほど脚光は浴びませんでした。

その時代においては異端であり、成功者とは言えません。

イエス様も迫害されて主だった弟子の中にも裏切り者が出る始末です。

お釈迦様も当時はお弟子はいましたが現代のような世界宗教足りうる巨大な影響力と尊敬を得る存在ではありませんでした。

孔子も生きていた時には結局、どこにも仕官することなく人生を終えました。

しかし、死後には国の制度として採用されるほどに孔子の思想は認められています。

このことを考えれば、現時点での成功、失敗では才能というものは測れないものだといえるでしょう。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】慈悲と「かわいそう」の違いは何?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、和元様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


慈悲の心、とかわいそう、という気持ちの違いがぴんときません。

慈悲の心、は正のエネルギーを生み出すように思えますが、かわいそう、という気持ちは負のエネルギーを生み出すように思えます。

誰もが幸せな満たされた状況において、慈悲、は抱きにくい感情です。
人が慈悲の心を抱くとき、というのは大体、何か悲惨な事件を見聞きした場合が多いのではないでしょうか。

そのような事件を目にし、耳にした時、私はいつも真っ先に「かわいそう」という感情を抱きます。

「ご家族はどんな気持ちだろう」「なんでこんなことに」
ショックのあまり沈み込むことも、怒りにふるえることも、あります。

その時の自分の気持ちを客観的に見つめると、なんとなく暗い気持ちなのです。
前向きになれない。

東北の震災のときも、確か先生は、あまり負のエネルギーを出さず、前向きに復興を祈り、できることをやりましょう、という内容の記事を書いてくださいました。

しかし、多くの方の悲しみは、共感、同情する慈悲の心であったのでは、と思います。
      
同情し共感し我がことのように心を痛めること、と慈悲、とは違うのですか。

悲しむべき事件を見聞きしたとき、どのような感情を抱くように努力することが、正のエネルギーを生み出すことになるのでしょうか。


【回答】


和元様

ご質問ありがとうございます。

>慈悲の心、とかわいそう、という気持ちの違いがぴんときません。

とのことですが、「感情」という点において、二つの言葉の意味するところは同じかと思います。

慈悲の心の発端は「かわいそう」という感情から始まります。

和元様もご質問において例として挙げられているように東日本大震災が起こった際には、皆、亡くなられた方、家族、親族、近しい友人などを亡くされた方、家屋、財産に仕事すべてを失って途方に暮れる方、本当に不幸な方を沢山、目の当りにしたわけです。

その時には多くの方が、「かわいそう」と感じたことでしょう。

確かに「かわいそう」と思うことは、他人の不幸や悲しみに同調する行為なので、正負のエネルギー的には負のエネルギーに近く発展的なエネルギーだとはいいがたいことでしょう。

しかしながら、慈悲ということを感情という側面だけで捉えてしまうと、本当の意味が見えなくなります。

慈悲と「かわいそう」の違いは感情的な違いではなく、その後の行為によって異なります。

さて、元々、慈悲という言葉は仏教で使われている言葉です。

慈悲の心の発端は、お釈迦様にその鍵があります。

お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開かれてとても、幸せな境地に立たれていました。

一切の苦から解放されて、永遠なる涅槃寂静の境地です。

このような境地は中々、簡単には体得できないだろうとお釈迦様は考えていました。

そこへ梵天(ブラーフマン)がやってきて、「どうか衆生にもその悟りの境地を開き、苦しみから救ってあげてほしい」と頼まれます。

お釈迦様は自分の悟った境地に至る難しさを理解していたため、最初はこの申し出を辞退いたします。

しかし、それでも何とか衆生を救ってやってほしいと頼まれて、お釈迦様は意を決して、菩提樹の下での瞑想を解き、すっくと立ち上がり、難解で得難い仏法を説いて回るべく、行動を開始したのです。

この時、お釈迦様を決意させたものはおそらく「苦しむ衆生がかわいそうだ」という感情だったと思います。

しかし、お釈迦様がもしここで「ああ、衆生は苦しんでいてかわいそうだな。大変だね」と思っているだけで、菩提樹の下で瞑想を解き、立ち上がるということをしなかったならば、単なる一時の同情で終わったことでしょう。

もし、お釈迦様が仏法を説くという行動をとらないで終わったならば、負のエネルギーを醸成しただけのことになっていたと思います。

でも、お釈迦様は立ち上がり、その後、衆生を導き始めたのです。

これが本当の慈悲の心というものなのです。

かわいそうという感情はあくまで発端に過ぎず、その後、いかなる行動でそれを示されるのかが、慈悲と「かわいそう」を分ける分岐点なのです。

だからこそ、

>東北の震災のときも、確か先生は、あまり負のエネルギーを出さず、前向きに復興を祈り、できることをやりましょう、という内容の記事を書いてくださいました。

とあるように、かわいそうで終わらずに、できることをしましょう、負のエネルギーを出すだけで終わらせずにいましょうと書いたのです。

単なる同情で終わらせず、正のエネルギーに転換できることは何でも行っていく。

こうする態度が正のエネルギーを醸成していく鍵になるのではないかと思います。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】違和感はどこから来る?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、しろまる様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心様

こんにちは。初めまして。
少し前からブログの方にお邪魔させております。

既出でしたらお時間をとらせてしまって申し訳ありません。
今回、お訊きしたいと思ったのは『違和感』についてです。

よく、『違和感を感じる』とか、『(背後から)視線を感じる』と言われていることがありますよね?
あれはどこで感じとっているものなんでしょうか?
背中でもないし、頭でもないし、況してや目でもないしと思いまして。
また、あの空気のような感覚はなんなんでしょうか?
怖くはないんですけど、気になると言いますか…。

スピリチュアルと関係ないので申し訳なく感じていますが
可能ならば、ご回答くだされば嬉しいです。


【回答】


しろまる様

ご質問ありがとうございます。

>よく、『違和感を感じる』とか、『(背後から)視線を感じる』と言われていることがありますよね?
>あれはどこで感じとっているものなんでしょうか?
>背中でもないし、頭でもないし、況してや目でもないしと思いまして。
>また、あの空気のような感覚はなんなんでしょうか?


時々、感じる違和感というのは、誰しも一度は経験したことがありますよね。

でも、違和感の正体が何であるのか、そもそもどこで感じているのか、はっきりしないことがあるかとは思います。

私達が何かを感得する場合は、主に五感によってそれを捉えます。

皮膚感覚や香り、味わい、音声、ヴィジョンなどですね。

では、これら五感以外には感得することはないのでしょうか。

私達の感覚は五感以外にももう一つあります。

それは、第六感とも呼ばれたり、霊感と呼ばれたりする感覚です。

この感覚は、五感からの入力による情報と異なり、感覚的質感があいまいです。

なので、触覚的だったり、嗅覚的だったり、聴覚的だったり、視覚的だったりとハッキリしないのです。

もちろん、個人差によって霊感が五感的に置き換わったりすることもありますが、ハッキリしない理由は以上のようなものです。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】結婚後の先祖供養について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ゆっち様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


天心 様

いつもブログを拝見させていただいております。

今回初めて長年の疑問を質問させていただきます。

<質問>

「先祖」というのは自分の父・母方の直系のほかに嫁ぎ先の(旦那の)方も自分の先祖にあたるのでしょうか。
いわゆる霊線でつながっているご縁だというのはわかります。
結婚後は、「先祖供養」といえば嫁ぎ先のお墓をお参りすることになりますし。
両家ともできればよいのですが、事情があり嫁ぎ先の方しかお参りできない場合、直系の先祖はどう思っているのでしょうか。

どうぞよろしくお願いいたします。


【回答】


ゆっち様

ご質問ありがとうございます。

>「先祖」というのは自分の父・母方の直系のほかに嫁ぎ先の(旦那の)方も自分の先祖にあたるのでしょうか。


傍系の先祖ということになりますね。

>結婚後は、「先祖供養」といえば嫁ぎ先のお墓をお参りすることになりますし。
>両家ともできればよいのですが、事情があり嫁ぎ先の方しかお参りできない場合、直系の先祖はどう思っているのでしょうか。


確かに直系、傍系とさかのぼっていけば、それこそ先祖は沢山繋がっていることになりますね。

それらのご先祖様をすべて供養したり、お墓参りするのは大変だと思います。

というよりもほとんど不可能かと思います。

ですから、一つの基準といては、自分に一番近しい先祖を中心に供養していくのが良いのかと思います。

今回のご質問のケースで考えれば、結婚後、姓が変わり、いわゆる伴侶の家系に籍を入れるということになった場合には、一番、近しいのはやはり籍を入れた先のご先祖ということになります。

もちろん、結婚前の実家の家系も大事ではありますが、実家の家系のご先祖様も基本的には、墓守、供養は跡継ぎがするという考え方を持っている場合がほとんどです。

ですから、結婚して籍が移った子孫に対しては、「まあ、仕方ないよね」といった感情を持っていることが多いと思います。

但し、これは一つの見方であり、ご先祖様と一口に言いましても様々なご性格の方もいますし、ご生前の時代も異なり価値観も微妙には違います。

なので、一概には言えません。

もし、実家の家系の方の供養やお墓参りが出来ていないことが気になるのでしたら、具体的な正式な供養や現地に行ってのお墓参りは難しくとも、ご先祖様に対して語り掛けて、事情がありできないことを申し訳なく思っていることや感謝の気持ちなどを伝えていけば、喜ばれるとは思います。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】発達障害のスピリチュアル的意味

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、ともたろー様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


アスペルガー症候群などの発達障がいについて。

身体的な障がいは、見た目で分かりやすいため、物質的な生きにくさはあるものの、周りの気遣いが得られやすいし、自分自身も生き方を定めやすいと思います。

一方で、発達障がいと言われる脳の障がい、特にアスペルガー症候群は、知能に問題のない自閉症のため、周りも自分自身でも分かりにくいと思われます。

ひょんな事から、アスペルガー症候群の方達の「生きにくさ」の苦悩を知り、調べたりしました。

それを見て、そうとは知らずに、アスペルガー症候群と思われる方の言動に振り回され、傷付いて悩む周りの人も不幸ですが、一番気の毒なのは、本人であると思いました。
凄まじい試練(学び)だと感じます。

アスペルガー症候群を例に取りましたが、見た目では分からない発達障がいというものが存在する理由があれば、スピリチュアルな視点から教えて頂きたいと思いました。

どうぞよろしくお願いいたします。


【回答】


ともたろー様

ご質問ありがとうございます。

確かに見た目にはわかり難い障害を持つ方の生きにくさというのは、筆舌に尽くし難いものがあるのかと思います。

中々、理解してもらえない辛さということもありますね。

現実思考で考えると本当に苦悩の多い障害だといえるでしょう。

しかしながら、スピリチュアル的な視点、霊界思考で考えると少し異なった見方が出来るかと思います。

発達障害という言葉から、現実思考的には、病気や欠損していると見てしまいがちですが、スピリチュアル的には障害ではありません。

もちろん、発達障害の方が現状の社会で、生きずらいのは事実です。

しかし、だからといって彼らが、所謂、健常者よりも劣っていると考えるのは間違いです。

少なくともスピリチュアル的には彼等は、次世代の可能性を持った新人類的な存在でもあります。

ただ、現時点の社会環境は、彼らがうまく順応しずらい状況であるため障害という位置付けにされてしまうだけなのですね。

例えば、現時点で一般的に健常者と呼ばれ、いわゆる「普通」と目される人であっても、過去何百年かタイムスリップした世界につれていかれたら、もはや、その人は普通ではなくなります。

しかし、その人は何か欠落しているのかと言えば、そうではなく、本質的には極めて普通だと言えるでしょう。

ですから、今の世の中で障害と言われていることも、時代が進むと全く障害ではなくなる可能性があるということです。

では、なぜ、現状の時代環境、社会環境とマッチしない人が生まれてくるのかと言えば、それはスピリチュアル的において、人間が次なるステージに進むためのサインでもあります。

発達障害を持つ方々の心境から言えば、とても生きずらい途轍もない試練と感じているかも知れませんね。

また、それを受け止める現時点の社会環境に順応して生きる人の目線から見てもそう感じてしまうことでしょう。

しかし、スピリチュアル的な視点において考えた場合は、発達障害を持つ方々の中には、自らの天命のテーマとして、新たなる時代の狼煙をあげる役割を担っている場合があります。

だから、彼等は単純に気の毒な障害を持つという位置付けだけで見るのは、スピリチュアル的には誤りだと言えるでしょう。

もちろん、現時点の社会環境は彼等にとって辛いものには変わりはないので、現実思考としては、偏見をもたずフォローしていく体制は必要不可欠だと言えるでしょう。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】亡くなった親族は守護霊?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、かな様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】

天心様

いつもblog楽しみに拝見させていただいております。
早速ですが守護霊様について質問したいと存じます。

TVやメディアなどで守護霊様が見える方が相談者に対して『亡くなった御祖母さんが守護霊としてついていらっしゃいますね』とか『亡くなったお父様が、、』とか言っているのをよく目にするのですが、守護霊様は一人じゃないというのは理解しておりますが武士や僧侶など、いろんな階級のいろんなお姿をした守護霊様と同時に、亡くなった身内の方も同時に守護霊としてついていてくれたりはするのでしょうか?

私はとてもおばあちゃんっ子でしたので、亡くなったおばあちゃんが私を見守り守護霊でいてくれたらいいな、、なんて勝手に思ったりしています。

教えていただけると嬉しいです。
よろしくお願い致します。



【回答】


かな様

ご質問ありがとうございます。

守護霊という言葉は、スピリチュアルの世界ではよく使われますが、その意味するところ、定義は人により様々にあります。

例えば、内なる真実の自己を守護霊と呼び、守護霊は自分の分身的な存在であるとする考え方もあれば、単にその人の霊的背景に存在している霊のことを守護霊と呼んでいるケースもあります。

私にとっての守護霊とは、相応の霊格、霊覚を持つ、ある程度次元の高い存在と定義しています。

このように守護霊といいましても、いろんな定義があるわけです。

それを踏まえた上で、亡くなられた身内が守護霊になる可能性はあるのかと言えば答えはYesです。

しかしながら、その場合は、その身内の方がご生前に相当の霊的精進を遂げられていて、霊格、霊覚がしっかりと高まっている方であることが最低条件としてあります。

これ以外にも細かい点はあるのですが、上記を最低限クリアできていないと守護霊にはなれないということです。

では、単純に亡くなられた方は現世に遺る身内を守護しないのかと言えば、そうとは言い切れません。

守護霊とは異なる立場で身内を守護することはありえるでしょう。

ですから、単純に霊が守っているという視点で考えた場合、亡くなられた身内の方がついているのを霊視して、「亡くなられたお祖母様が守護霊ですよ」と表現される方はいると思います。

かな様のお祖母様が現在、霊界でどのような活動をされているのかは、わかりませんが、ご生前、かな様と親しかったことを考えれば、なんらかの形で守護して下さっている可能性はあるかと思います。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】神社参拝と忌み事

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、慈鏡様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


公開質問 初めてですが ご教示よろしくお願いいたします
友人の お父様が今年1月にご逝去されました
友人とは ある神社へ参拝を予定をしておりましたが 友人は一周忌があければ 神社参拝できるのでしょうか
一説には 鳥居をくぐらなければ 大丈夫と 耳にもしますが 
また 最初の参拝には お祓いをさせて頂いたほうがよろしいでしょうか
よろしくご教示 お願いいたします


【回答】


慈鏡様

ご質問ありがとうございます。

確かに神社は穢れを嫌います。

特に神道においては死を穢れと考えます。

古事記神話のくだりで、伊邪那美之命(いざなみのみこと)が亡くなって黄泉の国に行く話があります。

妻の死を悲しんだ伊邪那岐之命(いざなぎのみこと)は、まだ国生みの途上にあることを理由に妻の伊邪那美之命に帰ってくるように黄泉の国まで行き懇願します。

伊邪那美之命は、決して自分の姿を見ないことを条件に帰ることを約束しますが、伊邪那岐之命は、この約束を破り妻の姿を見てしまいます。

その時、目にした妻の姿は醜く変わり果て、以前の妻の姿とは違ったのです。

驚いた伊邪那岐之命は、一目散に逃げ出し、約束を破られ辱めを受けた伊邪那美之命は恐ろしい姿で、怒り狂い追いかけてきます。

ざっと古事記神話のくだりを簡略化して紹介しましたが、今のお話で登場する黄泉の国は、穢れた世界を表しています。

伊邪那美之命は、死の穢れを受けたため黄泉の国に行ったわけです。

このことにも、神道の考え方には、穢れを嫌う風潮が現れていますね。

また、先の神話のくだりの続きには、伊邪那岐之命が妻の追手から、逃れた後、小戸(おど)の阿波岐原(あわぎがはら)にて禊祓いを行います。

穢れた状態にしておくのを嫌うからこそ、伊邪那岐之命は禊祓いしたわけです。

このことから、神道では穢れを嫌い、穢れた場合は禊祓いをして綺麗にするという習わしがあるわけです。

さて、ご質問に話を戻しますと忌み事があった場合、神道では穢れと認識するので穢れた状態で清らかな神域に詣でるべきではないという発想になるのは当然なのかも知れません。

しかし、先の神話にもあるとうり、穢れても禊祓いをすれば良いわけです。

その意味では、身内に亡くなられた方があったとしても、お祓いを受ければ問題はないと言えるでしょう。

ただ、それだと表面的なことだけで、本質的な意味がわからなくなるので、もう少しだけ、掘り下げてみたいと思います。

そもそも、何故、神道が穢れを嫌うのかと言えば、清浄化された霊的な空間を大事にするからです。

もちろん、霊的空間は目に見えませんし、物理的空間のことではありません。

なので、物理的な力により壊されることはありません。

しかしながら、霊波動の乱れには弱いという特長があります。

霊波動が乱されることで、霊的空間は壊れるのですね。

さて、では、霊波動が乱れる場合はどんな時なのでしょうか。

様々なことが考えられますが、要は心根が大きく乱れる時です。

やはり、身内が亡くなられた場合は、大きく悲しみにくれてしまいます。

だから、そのような時には、霊波動は乱れやすいのです。

何故、忌み事が穢れとされるのかと言えば、大きく心根が乱れるからです。

そのような大きな霊波動の乱れがある時には、神域の霊的空間を壊さぬように参詣を控える慣習が出来たのではないかと思います。

なので、結論を言えば、忌み事があっても霊波動が清浄化されていれば、参詣しても神社を大きく穢すことにはならないと思います。

あくまで一つの基本的な見方としては以上のようになります。

以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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神様のドングリ- マモリギ その6 -

はじめて読む方は神様のどんぐり- はじまり -からお読みください。

-----------------------------

神様のドングリ- マモリギ その5 -からの続き。

マモリギを守ろうと、戦車とマモリギの間の坂道に立ちはだかるドリ。

そのドリをリスたちや猿が説得しています。

でも、ドリの決意は変わりません。

マモリギを打ち倒す計画を止めさせるべく坂道を一歩ずつ進むドリ。

一方で丘の上では、ドリの後を追いかけてきたバリスの姿がありました。

・・・ ◇◆ マモリギ その6 ◆◇ ・・・

バリスは丘の上につくと動物たちの騒めきに嫌な予感を感じました。

集う動物たちの間を抜けながら、進んでいくと急に道が開けました。

その向こうには険しい顔をした兎の姿があります。

一体何があったというのか。

バリスは開かれた道を兎に向かって進んでいきます。

「お前がバリスか!」


兎は尊大にバリスに問いかけます。

「そうです。一体何があったのですか。。?」

「何があったのかだと?悠長なことを言っている場合ではない!」

兎はますます、声を荒げて、バリスに詰め寄ります。

「お前のところのドリとかいう山猫が我らの計画を邪魔しているのだ!」

兎の言葉を聞いて、再びバリスの顔色が青く変わります。

飛び出ていったドリの後を追うようにしてやってきたバリスでしたが、どうやら悪い予感は的中したようです。

「ドリはどこに・・?」

バリスが問うと兎は、不機嫌そうに丘の下を指さします。

バリスはやはりそうか・・と心でうなずきました。

今回のマモリギを打ち倒す計画に談判するだけならば、もっと近いバリスが通ってきた道で来れば良かったのです。

しかし、ドリはあえて、自分の身をていしてでも、マモリギを守ろうとしているのです。

計画をドリに教えればこうなることはバリスには分かっていたのです。

でも、言わずにはいられませんでした。

バリスは兎の方を向き直り言いました。

「もう、止めにしませんか。(汗)十分に神様のドングリも取れたじゃないですか・・?」

バリスは、ともかく事態の解決を図るべく、苦し紛れに兎の説得を試みました。

「馬鹿を言うな!メフィス様の命令を無視できるものか」

兎は取り付く島もありません。

それでも、必死でバリスは食い下がります。

「こんなことしなくっても、俺が頑張って神様のドングリを沢山見つけて見せます。なんなら、俺の取り分も差し出してもいいです」

「ふん!貴様ごときが踏ん張ったところで何になる。貴様の取り分など雀の涙。そんなもので、補いきれるか!」

「でも、でも・・・」

「もういい!」

兎は堪忍袋の緒が切れたといわんとばかりの叫び声をあげると大岩を乗せた戦車の方を向きました。

戦車を転がす係りを命じられている動物がはじかれたように兎の方を見ます。

「発進させろ!あのデカぶつの樹を打ち倒すのだ!」

兎はそう指示すると戦車の係りをしている動物は少し震えながら、戦車を支える留め金の部分とそれを固定している紐の部分を見つめています。

紐を断ち切れば、戦車はマモリギに向かって大岩を乗せて発進してしまいます。

もう誰も止めることは出来ません。

「どうした!早くしろ!!」

兎は凄みながらせっつきます。

「でも、道の途中に山猫が・・・」


「構わんからやれ!!!山猫一匹、この大岩が蹴散らしてくれる。これが動けばどうせビビッて逃げるに決まっている」

兎にさらに険しい顔で睨まれて、戦車の係りの動物はプルプルと震えながらも意を決して、ロープにかじりつきました。

「待って!待ってくれ」

バリスは叫びますが、動物がかじりついたロープは段々と細くなり、今にも断ち切れそうです。

ロープの繊維が一本、また一本と切れていきます。

そして、最後の繊維が小さく音を立ててちぎれると、戦車を固定していた留め金が勢いよくはずれました。

戦車は大きな音を立てて、丘を下り始めるのでした。


・・・続く

神様のドングリ- マモリギ その7 -へ続く


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【公開質疑応答】稲荷信仰について

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、真透様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


質問内容:稲荷神社について、お伺いします。
私は稲荷神社は、苦手でお参りはしません。理由は雰囲気が怖いのと、礼を失すると報復される心配があるからです。

最近は、いろんな本や雑誌で、霊能を持った方が、稲荷神社のご利益を謳って参拝を勧めていますが、マイナス面には触れていないものが見受けられます。
天心様は稲荷信仰をどう見ておられますでしょうか。


◯また、神社・仏閣にお参りした際、賽銭箱に小銭だけ入れて、自分で祈願した場合、あまり御利益を頂いた感触は得られません。

きちんと神主さんや、お坊さんに御祈祷をして頂いた時は、神仏に動いて頂いた感触が得られました。

やはり小銭だけで、簡単にお参りした場合は、神仏は見ておられるだけなのでしょうか。
もしくは、軽くお祓いをして下さるなどということはあるのでしょうか。


【回答】


真透様

ご質問ありがとうございます。

まず、>天心様は稲荷信仰をどう見ておられますでしょうか。とのことですが、結論から言えば、信仰は各人の自由だと思っています。

ですから、基本的には何を信仰するのかについては、私は特に言及はいたしません。

ただ、折角、稲荷神社やその関係についてご質問頂いたので、若干、触れてみたいと思います。

そもそも、稲荷神社は、全国の社の中でトップを誇る多さですね。

街を歩けば、小さな祠に狐の像が置かれていたり、沢山の鳥居が並んでいたりするのを見かけることも多いのではないでしょうか。

狐の像が置かれていることが多いのと、お稲荷さんという通称で親しまれ、油揚げを使ったお寿司のことをそう呼ぶことからも(狐は油揚げが好きという説があります)稲荷神は狐だと思っている方も多く見られますが、実は、そうではありません。

狐は眷属であり、本来、お祭りされているのは、一柱には宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と言いまして、五穀豊穣などを司る神様だといわれています。

京都の伏見稲荷神社などが本社となっています。

一方で、仏教系のダキニ天と神仏習合して祀られている稲荷神もあります。

豊川稲荷神社などはそうですね。

そう考えると稲荷神と一口に言いましても色々あるわけです。

さて、一説では稲荷神は五穀豊穣の神様なので、いわゆるご利益と直結している部分もあります。

江戸時代中期には花柳界を中心に爆発的な人気を誇っていた時代もあったようです。

稲荷神社の鳥居は沢山並んでいて、旗も沢山並んでいることが多いですが、これは神徳を受けた人が奉納したものだといわれています。

つまり、それだけいわゆるご利益があるということを意味しているわけです。

真透様がご指摘されているように上記の理由から参拝や信仰を進める方もいるのかも知れません。

最初にも言いました通り信仰は自由なので、最終的な判断は各人がすればよいと思っています。

ただ、多くの方がご利益を求めて詣でる神社というのは、どうしても低次元層の波動で穢されてしまう傾向があります。

稲荷神社に限りませんが、どうしてもこれは宿命的なものなのかも知れません。

さらに言えば、ご利益的な効果が強いということは、より現世への顕現化が強いということの表れですが、それだけある意味では低次元層に近くなってしまいます。

例えば、稲荷神社を奉じている方々がもっと大きな理想や希望をもって信仰していて祀っているならば、問題はないのかも知れませんが、見ている範囲では商売繁盛や目先のメリット的なものを求めて社をたてているケースが多いように思います。

ですから、やはり稲荷神社に限りませんが、どこの神社に参拝するにせよ、その辺りの心構えということが大事なのかと思います。

>私は稲荷神社は、苦手でお参りはしません。理由は雰囲気が怖いのと、礼を失すると報復される心配があるからです。

基本的には気持ち悪く感じたりする神社は避けておくのが無難かと思います。

神霊は報復はしませんが、その神社についている眷属神や霊物はこれの限りではないからです。

次元が高くなればなるほど、現世での振る舞いは問題にされませんが、現世に近い次元層の存在になればなるほど、人間などに近い感情を持つ存在となってきます。

宇迦之御魂神が報復をするということはありませんが、その社についている眷属神や霊物が感情を害した時に何かマイナス的な事が起こってしまう可能性はあるのかと思います。

ご利益を求めることは悪いことだとは思いませんが、あまりにも目先的なことや自己の利益ばかりを祈願する姿勢が強いと霊波動も低次元層に下がってくるため、神霊に感応する前に眷属神や霊物と感応してしまう可能性もあるので、そういう意味では注意が必要なのかも知れません。

>◯また、神社・仏閣にお参りした際、賽銭箱に小銭だけ入れて、自分で祈願した場合、あまり御利益を頂いた感触は得られません。

ご利益があるかどうかは、その祈願者のその時の状況、資質もありますし、単純にお金の大小で決まるわけではありませんが、やはり、小銭を放り込んでお祈りするよりも、きちんと神主さんに祈祷してもらい、お玉串として形式を整えてそれなりの金額をする方がより真心がこもります。

真心がこもればその分、神霊の心を感動させるわけですから、それだけご利益も出やすくなるのかも知れません。

ただ、先ほどの稲荷神社の話にもつながりますが、ご利益中心になってしまうと自分自身の霊波動も低次元層になってきます。

そうなれば、やはり、マイナスな波動も受けやすくなりますし、結果としてご利益からも離れていくのかなと思います。

ですから、お玉串の金額の大小や、神主さんにお祓いしてもらうという形だけに着目するのではなく、その行為と真心が一致するところを求めていくのが良いのではないでしょうか。

その意味で、賽銭箱に小銭を入れてのお参りが悪いとは言えませんし、神主さんにお祓いしてもらえば、単に効果があるということではないといえるでしょう。


以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【公開質疑応答】日本は神国?

こんにちは。

天心です。

公開質疑応答を行っていきたいと思います。

質問をお寄せくださったのは、通広様です。

全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。

たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。


【質問】


<質問>
日本は神国であると言われています。

それは正しいと思いますが、日本だけが神国なのでしょうか?

それとも、地球上には他にも神国があるのでしょうか?

そもそも、「神国」とはどのように定義出来るのでしょうか?

(神国でない国々よりもどこが優れているか)



以上、宜しくお願い致します。


【回答】


通広様

ご質問ありがとうございます。

>日本は神国であると言われています。

世の中には様々な考え方がありまして、おっしゃられる通り、日本は神の国だとしている思想もありますね。

それは宗教的なイデオロギーとしても、とりわけ神道系の思想で日本を特別視する考え方でもあります。

実際に日本が戦争に負けるまでは、日本は神の国であるという正義のもと国家として一丸となっていた時期もあります。

日本の霊性という視点は、確かに日本は神国であるといえるのかも知れません。

しかしながら、それは単なる日本は特別な国だとか、他の国よりも優位に立つという意味ではありません。

日本は、八百万の神々が機能し、民が神と調和する国という意味で神国だといえるということです。

どういうことかと言えば、日本は常に神と人とが融和しながら運営されるお国柄だということです。

どのような国にも宗教性はあり、神なるもの、神聖なる存在を抱えています。

そういう意味ではどの国も神国です。

ただ、日本人の場合は、論理性よりも非論理性、超克的なあり方よりも、調和的なあり方という点で、他の国と違います。

例えば、日本は万世一系と言われる天皇を戴く皇室があります。

何となく天皇は日本の象徴というイメージを持っている方もいらっしゃると思いますが、それだけではありません。

太古の昔から現在に至るまで一系による(紆余曲折はあったにせよ)統治が続いている国は日本しかありません。

どの国も何度も国家の滅亡を経験し、その都度、新生し、非常に激変を迎えながら今の姿になっています。

日本にももちろん、変動はあったわけですが、それでも天皇家という存在が統治体制を続けているというのは、ほとんど奇跡的なことだといってよいでしょう。

なぜ、このように奇跡的な状況が続いているのかと言えば、日本人が古来から神性というものを大事にしてきた証でもあります。

理屈で考えれば、力の強い者が統治して、いつでも状況は覆っていくのが自然のような気もします。

しかしながら、日本人の意識としては、常に神の働きにならい、神を克服するのではなく、融和し調和する道を選ぶようにしてきたのです。

それがなぜ天皇の統治と結びついたのかと言えば、天皇とは単なる統治者ではなく、天と地を結ぶ神主の役割をする存在であったことに理由があります。

天皇という人を崇めたのではなく、天皇という神主を通して、いつでも神と向き合って生きてきたのが日本人なのですね。

如何なることがあっても、天皇を通じ、日本人は神との交流を果たしてきました。

誰が強いかということではなく、常に神と向き合いながら大事なことは決めてきたということです。

ですから、日本では血なまぐさい(他の国と比べた場合)闘争というのは、比較的少ないのです。

論理と超克(神との対立)を思想の糧にして生きてきた他の国と比べるならば、日本はまた独特な霊性を持っているといえるのではないかと思います。

少なくとも、単に日本は特別で他の国よりも優位であるという意味における「神国」ではなく、日本の思想や文化の中に息づくものの中に「神国」といえる働きがあるのではないかと思います。



以上、回答とさせて頂きます。


天心 拝


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【第六弾】質問募集

こんにちは!

天心です。

久しぶりに質問募集をいたしたいと思います。

個人的なご相談や鑑定、取次は別途、守護霊アドバイスなどを行っているので、純粋なご質問ということで、かつ私が答えられる類のもの、それから、回答することで皆様の学びとなりそうなものに関しては、ブログで回答を発表してみたいなと考えています。

この機会に公開質問をお寄せいただければ幸いです。

応募条件は、以下のようなものを考えています。

・冷やかしや不真面目、ふざけ半分な内容ではないこと
・個人的な愚痴や不満など他意や批判的な内容は受付いたしません
・プライベートなご相談ではなく、純粋な疑問やご質問のみ受付します
・今までブログで掲載した内容で答えがでていると想われるものは対象外とします。
・すべての質問に回答はできないことがあります。
・公開質問なので、応募頂いた内容はブログ上で公開してしまいます。
・いつ頃回答できるか、あるいは回答として取り上げられるかどうかはお答えできないのでご了承ください


とりあえず、このような感じで考えております。


【ご質問応募方法】

件名:公開質問応募

お名前:公開されても良い名前(ハンドル名でも可能) 
※ハンドル名とはネット上でのみ使用する仮の名前のことです。(以前、質問されたので念のため記載)

ご質問:なるべく質問の趣旨がわかるように記載してください。


応募先:tensin.session〇gmail.com ※〇を@に変更して使用してください。


【募集期間】

とりあえず、2014年6月30日までを区切りとして締切りたいと思います。

状況によっては延長するかまたは、途中で締め切る可能性もあります。


以上、お知らせでした。


天心 拝


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臨死体験と霊界(その2)

臨死体験と霊界の続きになります。

前回は臨死体験というものが如何なるものかということについてお話させて頂きました。

一般に臨死体験にまつわるイメージや幻覚体験との違いなどについて述べてきました。

臨死体験には、様々な体験が付随しますが、その体験と霊界との関わり、なぜ、そのようなことが起こるのかについてスピリチュアル視点からお話してみたいと思います。


◇◇ 臨死体験と霊界 ◇◇

人は死に臨むときに様々な不可思議な体験をすることは前回述べた通りですが、何故このようなことが起こるのでしょうか。

臨死と言っても死んだわけではありません。

死に限りなく近づいているのですが、完全なる死を迎えてはいません。

このことから旧来の死後の世界という観点でみれば、死んでいる状態における体験ではないために臨死体験はあくまで幻覚の一種に過ぎないと結論づけられてしまいそうです。

しかしながら、前回のお話でもしたように臨死体験と幻覚体験は、明確な違いがあります。

詳しくは前回記事を読んで頂くとして、臨死体験の起こるメカニズムについて考えてみましょう。

まず、ここで大事なポイントとなるのは、霊界はいわゆる死後の世界とは異なるということを理解しておくことです。

この点については、当該ブログの過去記事でも色々とお話してきたので、読んで頂ければ納得いただけると思います。

初めて読む方のために少しだけ解説しておくと、霊界は亡くなった後に行く世界というよりも、こうして生きている間もずっと私達は霊界に暮らしているものであり、霊界と現世とはある意味で表裏一体のような部分があるということです。

正確にいうとまた少し違うのですが、分かりやすく理解するために現世が表面的な外面的世界だとすると霊界は裏側の内面的な世界であるといえます。

内外ともに同時に併行しながら私達は生きています。

現世に生きながらも裏側では霊界で生きているといえるのです。

私達が「死」と表現しているのは、外側の世界の区切りであり、内側の世界では終わりはありません。

外部的世界が終ると内部的世界のみの存在となります。

これをスピリチュアルにおいては霊、あるいは霊界に旅立った状態と定義しているわけです。

実際のところは、もっと複雑な事情が絡みますが、あえて単純化すると以上のようになります。

さて、では、臨死体験について以上を踏まえて考察してみましょう。

まず、私達が現世で生きる上で霊界と現世とをどうやって隔てているのかについて考えてみる必要があります。

先ほども言いましたように私達は現世という外部的世界と霊界という内部的世界を同時に生きています。

しかし、私達にとって通常、世界とは一つなのです。

ですから、現世と霊界を同時に生きているなどと言われても「そんなバカな!?」という反応が返ってくるに違いないのです。

そして、概ね私達、現世に生きる人間は現世という世界がすべてであり、認識している世界とは現世という物理世界のことだけなのです。

同時に霊界に生きていようと、私達が通常で感じている世界は現世のみということです。

なぜ、このようなことになっているのかと言えば、私達は現世と霊界がごちゃまぜになると現世で生きていくのが難しくなってしまうからです。

本来、私達の生きている現世には「霊」は存在しないことになっています。

多くの人は「霊」を感じることも見ることも、触ることも出来ません。

霊が何かを語りかけてきてもその声を耳にすることはありません。

だから、いないのと一緒なのですね。

そして、現世でのルールとしては「霊」は存在しないという方向で運営されているのです。

例えば、病院に行って「霊が私に干渉してくるんです」と言いますと、医者は「情緒不安定なのですね。お薬を出しておきましょう」と処方箋を出されておしまいです。

裁判においても「霊」なんて言おうものならば精神鑑定の必要があるとされて、取り合ってもらえないことでしょう。

このように現世においては、「霊」という尺度で物事が図られることは少ないといえます。

少なくとも大筋のルールの中で認められることはないということです。

このことを鑑みれば、なぜ、私達が現世に生きる上で物理世界と霊界とが隔絶されているかがわかると思います。

霊界が見えてしまうということは、近代社会に生きる私達においてはマイナスに働くため、私達は徐々に霊性を封じて、現世と霊界との間に壁を作ったのですね。

もちろん、壁と言っても、物理的な意味でのものではなく、意識上の壁です。

この壁が存在するおかげで、私達は通常は現世と霊界との混同をすることなく、ある意味で安定的に生活することが出来ています。

但し、この意識上の壁は個人差があり、壁が薄い人は、時々、霊界が透けて見えることがあるのです。

このような体質の方を霊媒体質、霊感体質という言葉で表されることがあります。

また、意識上の壁である以上、それは意識改革によって超えることもできます。

霊的能力を開花させるためにこれらの意識上の壁を超えるための技術などを使う人もいるわけです。

いずれにせよ、良くも悪くも意識の壁が現世と霊界を隔てているということは間違いないと思います。

さて、臨死体験に話を戻しますと、意識上の壁が壊れる瞬間というのは、いくつかありまして、その中でも単純なのは、死んでしまうパターン、あるいは死に近づくくらい肉体が弱まっているパターンです。

意識上の壁は現世と霊界とを隔絶させるためにあるわけなので、一方が崩れると存在意義をなくし消滅するのです。

すなわち肉体が滅びると現世上の意識が崩れて、霊界上の意識が際立つので意識の壁が消滅します。

肉体が死に近づき、限りなく現世上の意識が崩れ始めて、バランスが取れなくなり、霊界上の意識が際立つと意識上の壁は薄くなってくるのです。

つまり臨死体験とは、意識上の壁が極度に薄くなり、普段は見えないはずの霊界が見えてしまう状況にある体験であるといえるでしょう。

かなり簡略化した説明になってしまいましたが、臨死体験とは何かということについて考える参考になればと思います。


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臨死体験と霊界

霊界事情については様々な考察とそれに付随するお話をして参りました。

霊界とはいかなるところ、あるいは存在なのかという部分において基本となる考え方はかなりお話できたようにも思っています。

故・丹波哲郎氏などが大霊界という映画を発表されてから月日が流れていますが、あの頃に持たれていた霊界のイメージと私がブログでお話いている霊界のイメージは大分、異なってきていると思います。

霊界というもののとらえ方も時間がたてば変わってくるものでもあります。

だからこそ、これで良しと思わずに探究していくことが大事なわけですね。


◇◇ 臨死体験とは何か ◇◇


今回は臨死体験について考えてみたいと思います。

臨死体験とは、死に臨む体験ということで、主に生死の境をさまよった経験の中で、体験した出来事を指す言葉です。

死に臨むといっても、厳密には死んだわけではありません。

限りなく肉体的な生命活動が低迷し、死というものに近い状態です。

そのような肉体的極限状態の時に起こる現象に霊界を垣間見るというものがあります。

良く聞く体験談としましては、「お花畑が見えてきた」「三途の川のほとりを歩いていた」「清々しい光の中に入った」「神々しい存在と出会った」などなどです。

体験自体は人により内容が異なるものの、共通している部分もあったりすることから、臨死体験者は亡くなられた後に行く霊界を垣間見ているのではないかというのが臨死体験の通説です。

もちろん、このことには反論もありまして、臨死体験自体を「幻覚の産物」「朦朧とした意識が夢を見せていただけ」あるいは、「臨死体験者が嘘をついている」などという意見もあるようです。

確かに臨死体験は個別的体験であるため、その真を客観的に問うことは難しいかも知れません。

幻覚じゃないか?と言われれば、そうかも知れないと思ってしまうこともあるかと思います。

ここで、少し面白い本をご紹介いてみたいと思います。

知の巨人と言われるほどの知識や教養を持つことで有名なジャーナリストの立花隆氏が書き上げた「臨死体験」という本があります。

少し古い本ではありますが、私が読んだ時にはハードカバーで辞書ほどもある分厚本で、上下巻2冊セットで書店で並んでいました。

残念ながら私は上巻の9割までしか読めていませんが、この本の中には興味深いことが多々書かれています。

元々、臨死体験というものを扱っている本の潮流は極論が多く客観的に検証している人があまりいなかったように思います。

私がこの本に興味を持ったのは、、どちらにも偏らず、あくまで客観的に真を問う姿勢を貫いて書かれている点でした。

当時、臨死体験というと問答無用で死後の世界はあるという論調のスピリチュアル系のお話か、その反面で、臨死体験など出鱈目で嘘っぱちであるという唯物史観的な発想のお話しかなかったように思います。

どちらも極論という域を出ずにいたため、この本にはとても興味をそそられたわけです。

さて、この本の中に興味深いことが述べられています。

それは臨死体験と幻覚体験の違いについてです。

LSD、麻薬、覚せい剤などのドラッグを使用したり、病的なことが原因で発生する幻覚体験について収集したデータと臨死体験について収集したデータを比較すると大きな違いがあることがわかったのです。

簡単にまとめると幻覚体験の場合は、内容が支離滅裂で、体験者は非常に気持ち的にも不安定で不快な気分を味わうことが多いようです。

それとは異なり臨死体験の場合は内容は非常に筋が通っており、見てきた内容も非常にクリアであることが多いようです。

そして、何よりも心地の良い体験が圧倒的に多いようです。

違いはそれだけではなく、幻覚体験の場合は、心身ともにマイナスダメージが大きいのですが、臨死体験者はその後は心身が爽快となり、人生観やものの見方考え方が変わったりすることが多いようです。

このようにデータでみると幻覚体験や臨死体験は似て非なるものであることが分かります。

では、臨死体験をしている時にスピリチュアル的には何が起こっているのでしょうか。

次回に続きたいと思います。


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【2014年6月度】神田明神への参拝

2014年6月度神田明神月参りをしてまいりました。

夏日の暑さですが、まだ梅雨入りしていませんね。

汗をかきかき、月参りをご奉仕させて頂きました。

今月も神田明神のご神徳が弥増すように祈念して参りました。

また、毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。

もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。

皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。

今月も元気に過ごして頂ければと思います。


天心 拝

kanda_kigankusi_hounou.jpeg

神田神社 祈願串奉納



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神様のドングリ- マモリギ その5 -

はじめて読む方は神様のどんぐり- はじまり -からお読みください。

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神様のドングリ- マモリギ その4 -からの続き。

世界一の大きさを誇る樹木であるマモリギ。

その下には動物たちが恋焦がれる神様のドングリが沢山埋もれているかもしれない。

そんな思惑の中、登場したのは、大岩を頂く物々しい姿の戦車。

兎はこの戦車があればマモリギを打ち倒すことができると自信たっぷりです。

しかし、そんな思いをよそにマモリギと戦車との間に割って入る動物の影がありました。

・・・ ◇◆ マモリギ その5 ◆◇ ・・・

ヒステリックに叫ぶ兎を尻目にリスが数匹、すばしっこい足で影へと近づいていきます。

良く見ると影の正体はどうやら山猫ようです。

息を切らせながら、マモリギと戦車との間の道を登ってきています。

「ちょっとキミキミ!こんなところを歩いていたら危ないよ!」


リスたちは山猫の周りをちょろちょろと小走りに回りながら、山猫に声をかけました。

山猫は歩みを止めずに「あなたたちに酷いことをさせようとしているものに話があるの」と言いました。

リスたちはそう言われて少し困った顔でお互いを見ます。

「マモリギのことだね。キミの気持ちもわかるけど、誰も逆らえないよ」


リスたちは、山猫を説得しようとなんとか声をかけるのですが、山猫の歩みは止まりません。

ずんずんと一歩一歩、丘の上へと向かっていきます。

「たとえどんな力のあるものの命令だからってこんなこと許せない!マモリギはこの世界に暮らす動物たちを今まで守ってくれていたのよ?どうしてこんなひどいことができるの!」

今度は一瞬歩みを止めて、山猫はとても悲しい声で叫ぶように言いました。

「そうかも。。でも、でも、この道は危ないんだ。これから大きな岩を乗せたのが、転がり落ちてくるんだ。」


リスたちは懸命に山猫を説得します。

丘の上では兎がまさに暴発しそうなくらいに喚き散らし、他の動物たちがなだめている姿が見えています。

そのうち、飛んでもない行動にでそうな雰囲気です。

「何をもたもたしているのだ!リスどもは!!」


兎は不機嫌が頂点に達したかのように叫びました。

これから伝統あるマモリギを打ち倒そうとしていること。

そして、自分の作った道具の威力を試したくてうずうずしているようです。

「だいたいなんなんだあの山猫は!」


今度は不機嫌の矛先を道をふさぐ影であった山猫に向けます。

「あれは・・・バリスのとこのドリじゃな」


猪は目を細めて、山猫を見据えて言いました。

「バリス?ああ、新参者の山猫か。アイツのとこのものか。この始末はとってもらおう!」


兎は言うとバリスを大きな声で呼びつけました。

しかし、呼応するものはありません。

「バリスは一度、用があるとかで住処に戻るといっとったなあ」


猪はおっとりと言いながら、バリスの様子が少し変であったのを思い出していました。

おそらく、バリスはドリに今回のマモリギの件を黙っているわけにはいかず、話したのだろう。

猪は何となく今の状況が生まれた事態を理解しました。

「どいつもこいつも俺様の足を引っ張りやがって!」


兎はますます不機嫌となり、誰でもいいからバリスをここへ連れてくるように動物たちに命じました。

「おい、お前。丘の下で邪魔をしている山猫に伝えてこい。後、少しだけ時間をやる。それまでに道をあけろ。さもなくば、この大岩を乗せた俺様の作品が嫌でも道を開けさせるであろうとな。」


兎は尋常でない険しい表情で猿に言いました。

猿もこれはまずい感じだと察知して、急いで丘を下っていきました。

このままでは、マモリギだけでなく、動物たちの中にも巻き添えで死ぬものがでるかも知れません。

「おい、お前ら何やってんだ!そろそろヤバいぞ!兎のヤローあのデカぶつを転がすつもりだ!」


猿は大急ぎでリスたちとドリの間に入り、言いました。

「ともかく、一度、ここを離れよう!」


リスたちは懸命にドリを説得します。

しかし、ドリは首を横に振ります。

「私は絶対にここをどかない。マモリギは私が守ります。」

ドリは力のこもった声で言いました。

「無茶だよ!キミはどれだけあの戦車が大きいか知らないだろう?ぶつかったら死んじゃうよ!!」


リスたちは悲鳴を上げます。

「こいつらの言う通りだぞ」


猿もリスたちに加勢するように言いました。

「たとえあんたが、命を張って止めようとしたって、あのデカぶつは止められない。無駄死にしるだけだぜ?」


猿は、ドリを優しく諭すように言いました。

しかし、ドリの決心は変わりません。

「巻き添えにしたりはしない。もう、あなたたちは逃げて」

ドリはそういうとマモリギと戦車との間の進路をふさぐ形でまた丘を登り始めました。


丘の上では、そのやり取りを遠巻きに見ながら、イライラのピークに達する兎の姿がありました。

「あいつらは一体、何をやっているんだ!!雁首並べて馬鹿ばかりめ!!」


兎の癇癪に他の動物たちは、とばっちりを受けたくなくて、皆、黙っています。

そんな中、どこからか、兎に声をかける動物がいます。

「なんだ!くだらない報告だったら承知しないぞ!!」


案の定、とばっちりを受けつつ、おずおずと「あの、、バリスを連れてきました」
と声がします。

そして、動物たちは一斉に振り返ると道を開けます。

そこには、山猫のバリスが青い顔をして立っていました。


・・・続く

神様のドングリ- マモリギ その6 -へ続く

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