災厄をなるべく回避する方法

こんにちは!

天心です。

先日、11月22日の夜に長野県で大きな地震がありましたね。

震度6弱だそうで、長野市など他地域などでは、被害が出たようです。

不幸中の幸いといえるのは、亡くなった方は出ていないことですね。

とはいえ、避難生活を送られている方が100名以上いらっしゃるとのことで、冬の時期だけに気温は厳しく、雪が降ると寒さを凌ぐのが厳しい状況とのことです。

それまでの被災状況の復興が望まれます。

いち早くの復興を願うばかりです。

自然災害というのは、中々、人為的には百パーセント避けることは難しいところではあります。

地震以外にも台風、竜巻、大雨、ウィルスの蔓延に土砂災害、色々なリスクとの隣りあわせで私たちは生きています。

自然災害に絶対に合わないという道を選択をすることは難しいですが、少しでも災厄を回避する方向に向かわせることはできます。

その一つの方法論としては、なるべく、負のエネルギーを蓄積させないということです。

負のエネルギーと単純に言いましても、様々な次元層に分けることが出来ます。

例えば大きな災厄に見舞われやすい地域というのは、ある程度、負のエネルギーが蓄積されていたものが、噴出する時期に来ていると考えることが出来ます。

多かれ少なかれ、国家や地域単位で見ると負のエネルギーは蓄積されている部分はあるのですが、その噴出する時期やされ方などは異なることが多いようです。

小出しに出るのか、一挙に出るのか。

自然災害なのか人災なのか、それとも他のマイナスの形で現れるのか。

色々あるわけですが、これらを私たちの個人的な努力のみで回避するのは、難しい部分もあります。

多少、霊界事情に介入する方法はなくもありませんが、それだって限界はあるものです。

国家や地域などの次元の枠組みにおける負のエネルギーの顕現化を回避することが個人レベルで難しいならば、災厄に対いて私たちはどうすることも出来ないのでしょうか。

そうではありません。

例えば、地震災害などに見舞われた時にその災害の影響をどの程度受けるのかは、個人の持っている負のエネルギーの蓄積度合にかかっているからです。

つまり、大きな枠組みの次元における負のエネルギーの影響をどの程度受けるのかは、個人の持つ負のエネルギーの度合に関係するのですね。

日ごろから負のエネルギーの蓄積が少ない人は、例えば大きな地震や災害があったとしても、比較相対的に見た場合、大分、軽減されることが多いのです。

個人レベルでの負のエネルギーの蓄積が非常に高く、命数が尽きかけている時期である場合は、最悪、災厄をきっかけとして亡くなられる方もいらっしゃいます。

しかしながら、大きな災害があったとしても、個人レベルの負のエネルギーの蓄積が少ないと「生きているのが不思議なくらいの大きな災厄だったのにかすり傷程度の被害で済んだ」といったような結果に落ち着くことになるのですね。

もちろん、機械的に負のエネルギーを算出したりすることは出来ませんし、もっと複雑なメカニズムが働くので実際のところはこれ程、単純な話ではありません。

でも、大枠の意味においては、個人レベルの負のエネルギーが私たちの人生で遭遇する状況の形を作っている一因であることは確かなようです。

では、どうすることが負のエネルギーを蓄積させないことへと繋がるのでしょうか。

それは、いくつかの方法が考えられると思います。


1.根本的な自我意識の改善
2.こまめな穢れの浄化
3.積極的な正のエネルギーの蓄積
4.守護霊の導き強化による霊流を受ける
5.霊格、霊覚の向上による次元上昇



他にも細かく言えばありそうですが、大体、このようなものがありますね。

1.根本的な自我意識の改善

これは、負のエネルギーを蓄積しやすい自我意識の状態を修正していきます。

ネガティブ思考や常に暗いものの考え方、想念を抱きがちな自我意識の定義を変えていくことで負のエネルギーの蓄積を回避していきます。

2.こまめな穢れの浄化

負のエネルギーは自覚的な意識によってのみ生み出されるわけではありません。

私たちの意識していない無意識の世界においても様々なマイナスを生み出している存在がいます。

霊障や因業、邪気などにさらされているとどうしても負のエネルギーを勝手に呼び寄せてしまいます。

なので、こまめにこれらを除去していくことも負のエネルギー回避には有効かと思います。


3.積極的な正のエネルギーの蓄積

負のエネルギーの蓄積を阻止することばかりが、災厄を回避する手立てではありません。

負のエネルギーが多いならば、それを上回るくらいの正のエネルギーを蓄積していけば良いのです。

正のエネルギーとは、自分が明るく楽しい気持ちを持つことで生成することが出来ます。

ただ、それ以上に他人を幸せにして正のエネルギーを生成する手伝いをしたり、幸せな人の気やエネルギーを受けることで自分自身の正のエネルギーも高まります。

人を支援したり、多くの善なる影響を与えている存在を支援したりすることも正のエネルギの充填に役立ちます。

正のエネルギーが蓄積されてくると守護も強化されてくるため、災厄の回避に有効に働きます。

何より正のエネルギーが強まってくると負のエネルギーを蓄積しにくくなるという部分もあるのです。


4.守護霊の導き強化による霊流を受ける

忘れてはいけないのが守護霊の存在です。

守護霊は基本的に災厄に関しては、どんな状況であっても緊急出動しています。

ただ、日ごろから守護霊との霊線が強く結ばれている人と存在すら知らない人とでは守護霊の働きが有効に機能するかどうかに天と地ほどの違いがあります。

よく守護霊がついているのになぜ、災厄に遭遇する人がいるのかという疑問を持たれる方がいらっしゃいますが、守護霊といっても完全ではないので、最後はその人の持つ霊力や感応力、どれだけ日ごろから守護霊とのコラボレーションが出来ているのかなどによっても結果が異なってきます。

単純に守護霊がいるから大丈夫とういことではないのですね。

だからこそ、日ごろからの守護霊との付き合い方が重要でもあるのです。


5.霊格、霊覚の向上による次元上昇

自分自身の霊格、霊覚によっても負のエネルギーの影響は変わってきます。

どんなに負のエネルギーがあったとしても、その負のエネルギーを乗り越えられるだけの霊格、霊覚を得ていれば、問題はないのです。

1~4のお話というのは、結局のところ、この5番目の方法に帰結されることではあると思います。

自我意識を改善するのも、穢れを祓うのも、正のエネルギーを生成したり、守護霊との交流を深めるのも最終的には自分自身の霊格、霊覚の向上につなげていくためでもあるのです。

だから、最終的に5番目を目指していくことが結果的には災厄を回避する究極的な方法になるかと思います。

特に天からの使命やお役がある方は、集中的に守られる傾向があります。

もちろん、一概には言えないのですが、少なくともまだ生きて果たすべきお役がある人はそれを全うするために神霊たちも終結してくれたりするものなのですね。

ですから、自分自身の向上がなにより災厄を回避するための方法だと言えるのではないでしょうか。

あくまで参考まで。


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迷惑をかけない生き方よりも

日本人の美徳の一つには奥ゆかしさがあるかと思います。

しかし、時として奥ゆかしさがその人の成長の妨げになっているケースに出くわすことがあります。

いつでもどこでも奥ゆかしい人というのは、人から(特に日本人からは)好かれやすい性格だとは思います。

しかしながら、気を付けないと人生の本義から外れてしまう可能性があるのです。

人生の本義とは言わずと知れた魂の向上です。

「奥ゆかしいことがなぜ魂の向上や成長の妨げになるのか?」

と疑問に思われるかも知れませんね。

確かに奥ゆかしさは美徳であるがゆえに皆、こぞって賞賛し、万が一にもマイナスに働くなんて思いもよらないことなのかも知れません。

そこで、少し奥ゆかしさの持つ問題点について考えてみたいと思います。

奥ゆかしさとは別の言い方をすると人に対する気遣いでもあり、人様に迷惑をかけてはいけないという発想が裏側に隠れています。

人に迷惑をかけてまで自分の意志を貫くことを潔しとしない気風が奥ゆかしさの中にはあるます。

よって、奥ゆかしい人は必ずと言って良いほど、人に迷惑をかけることを嫌う傾向があるということです。

「人様に迷惑をかけないのは当たり前ではないか?」

このように思うかも知れませんね。

確かに出来れば大きな迷惑をかけることなく、物事を進められるならばそれに越したことはないかも知れません。

しかしながら、良く考えてみるとこれはほとんど不可能なことでもあるのです。

人は生きているかぎり大なり小なり周囲の人に迷惑をかけてしまう存在だからです。

私たちが誕生したことで、両親や祖父母などには必ず負担をかけています。

私たちが成長していく過程で様々な第三者の手を必ず煩わせることになるのは宿命的なことでもあります。

どんなに奥ゆかしく生きようと、迷惑をかけまいと気を使ってみても、どうしたって迷惑をかけてしまうのが私たち人の性でもあるのです。

もちろん、気づかいや、迷惑をかけずに気を付けることが意味がないと言いたいわけではありません。

人としての最低限のマナーや気遣いは必要なことではあります。

しかし、それでも、あまりにもその気質が過ぎれば、消極的になってしまうのが、奥ゆかしさに隠れた問題点でもあるのです。

どんなに気を使ってみても迷惑をかけることは不可避であるのにあまりにも潔癖に人の手を煩わせることを恐れてしまうといつしか何を行うにも気が引けてしまい、ついには成長しようという意欲までなくしてしまうことになるでしょう。

それでも、「話はわかるけど、やっぱり人に迷惑をかけるのは気が引けるよ」

こんな風に考えるかも知ませんね。

確かに人に迷惑をかけてしまうのは気が引けます。

しかし考えてみてください。

なぜ、私たちの日々、使う言葉には感謝を意味するものがあるのでしょうか。

それは、私たちが日々、迷惑をかけていてもそれを大目に見て受け止めてくれている人たちがいるからでもあります。

大目にみてくれてありがとう。

こういう気持ちから感謝の言葉はあるのですね。

時折、感謝をすることはいいことだとばかりに、やたらめったら感謝することが励行される風潮に出会うことがありますが、本当は何故に感謝するのかを理解して感謝することが大事なのです。

それは、迷惑を受け止めてくれる、大目に見てくれるからこそ、私たちは果敢に成長するために挑戦していくことが出来るのです。

そのことに感謝なのです。

感謝の「謝」とは「謝る」という字を当てています。

人様に対して申し訳ない気持ちは同時に「ありがとう」という気持ちの裏返しなのです。

だから私たちは私たちが迷惑をかけている分だけ成長しなければなりませんし、そのことに対する感謝をしなければいけないということなのです。

ただ漫然と迷惑をかけないで消極的に生きる事より、私たちの住む世界の在り様を理解して勇気を持って成長し、そして感謝する日々を送ることの方が本当はより健全な生き方であるといえるのではないでしょうか。

私自身、多くの方に迷惑をかけまた多くの方に大らかな気持ちで受け止めて頂いて今日まで生きています。

このことに感謝をしつつお話を終わりたいと思います。


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思考の源流をたどる

人は理由もなく行動するわけではありません。

必ず何らかの理由があって行動しています。

何らかの理由というのは、必ずしも自明であるとは限りません。

あるいは、必ずしも意識的であるわけでもなく、原因となるものが無意識に沈殿している可能性もあります。

一見、なぜそのような行動を取るのか不可解に思えることでも、その行動の原因は人の思考の中に隠れています。

人は必ず何かを行動する際には、何らかの思考をしているものです。

もちろん、思考といっても意識的なものばかりではなく、無意識的なものも含まれます。

何にせよ思考が行動の原因になっているのですね。

では、自分自身の行動を変えたいと願うならば、思考を変えれば良いということになるのでしょうか。

半分はその通りだと思います。

多くの自己啓発や宗教などでも思考を変えれば行動が変わり、現状も変わっていくと説いています。

現状を作っている行動を変えていくためには、思考のあり方を変える必要があることは確かです。

しかしながら、実はこれだけでは不十分なのです。

なぜならば、思考もまた、何らかの理由があって思考しているものだからです。

良く心は物理的な制約がなく自由なのだから簡単に思考も変えられると考える人がいますが、実際にはそうでもありません。

物理的な制約がない思考という活動も実は、あるものにより掣肘を受けていることがあります。

思考もまた行動と同じようにその思考に至る発端となる要因を見つけ出さなければ、変えることは出来ないものなのですね。

では、ある思考を生み出す源流となっているものとは一体、何であるのでしょうか。

それは、心の中に溜まった思考のパターンでありフレームでもあるといえます。

別の言葉で言えば、観念であり、霊的に表現すれば霊界の歪みであり、穢れでもあります。

この思考のパターンやフレーム、観念や霊界の歪みによって私たちの思考は自由を失っている状態にあるといえるのです。

思考を変えて行動を変え、そして現実の状況を変えていきたいと願うならば、変えるべき思考の源流に心を砕く必要があるといえるでしょう。

では、その思考の源流を探るためにはどのような方法があるのでしょうか。

それは、ある思考に対して「自分はなぜそう考えるのか?」と自問してみる必要があります。

実際には人は自分の為した行動に対して、「なぜこんな行動をしてしまったのだろう?」と自問する人は多くいます。

しかし、自分がなぜそのような思考をしているのかを問いただしてみる人は少ないように思います。

行動にも思考の結果という理由が存在するように思考にもまた、なぜ、そのような思考に至るのかという理由があるものなのです。

その理由を追及するために思考の源流をたどっていくという行為が是非とも必要であるのですね。

なので、自分自身の行動を変えて状況を変えていきたいと思うならば、自分の思考の源流はどこから来ているのかを探究してみるのが良いのかなと思います。


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全体から見た不完全と個としての完全

こんにちは!

天心です。

本当は、霊界からのジャミング作用についてのお話をするつもりで記事を作成していたのですが、知らぬ間にブログ記事作成ページのセッションが切れていて、見事に下書きが消えました。(;゚Д゚)

まあ、そんなことも時にはありますよね。(笑)

でも、もう一度、書き直す気分にはなれないので、今回は全く異なるテーマで話をしたいと思います。

私たちは完全な存在であるか、不完全な存在であるかというテーマでお話をしてみたいと思います。

さて、いわずもがな、私たちは完全な存在ではありません。

皆、何かしらの偏りを持って生まれてきています。

生まれた瞬間から偏っているといっても過言ではないでしょう。

何しろ、男に生まれれば女としての性質からは離れて男側の性質に偏ります。

生まれた国や文化によっても偏りが当然ありますね。

生まれた国が一緒でも育つ家庭が違えば、またそれぞれに偏りが生まれます。

こうして、色んな要素を起点として観察していくと、人は生まれながらに偏った存在であることが宿命ずけられていることは明白です。

このように考えれば、人は完全な存在であるのか不完全な存在であるのかは、論じるまでもないように感じます。

当然のごとく、不完全であるという結論が自明であるかのように思います。

しかしながら、これはあくまで全体性、誤謬なき存在という意味で考えた場合において、偏っているというだけのことです。

人を個別の存在として視た場合は、一つひとつの部分としては、完全であるという考え方も出来るのではないでしょうか。

つまり、私は私として完全であり、あなたはあなたとして完全であるといえるのではないかということです。

私たちは何かと比較して評価する時、必ず偏りが発生してしまいます。

偏りがあるがゆえに完全性を失ってしまうといえるでしょう。

男と女を比較するから、それぞれに足りない欠落した点が浮かび上がってきます。

アメリカ人であることとロシア人であることを比べてみたり、日本人であることと中国人であることを比べてみたりすることで、評価をしようとするからそれぞれの欠落する点が浮かび上がり不完全性が目についてしまうわけです。

自分自身の不完全性を克服したいならば、この比較して評価するあり方をやめるしかありません。

自分の人生と他人の人生を比較してみたり、自分の所有しているものと他人の所有しているものを比較してみたり、余計な評価心を動かすから自分の不完全性が浮かび上がり、がっかりしてしまうわけです。

私たちは全体性から見た場合には不完全でも、個々人としては、誰一人、不完全である人間はいないといえるのではないでしょうか。

だからこそ、どんな人生を歩んだとしても誰の人生が素晴らしくて誰の人生は価値がないなどということは本来は誰にも言えないのではないかと思います。

自分は自分に与えられた完全なる人生を歩む。

こう思えれば無用な悲愴感やマイナス感情に支配されることはなくなるのではないでしょうか。


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【超略解シリーズ】 老子 -天地は仁ならず-

こんにちは!

天心です。

【超略解シリーズ】としまして、早速、老子道徳経の内容についてお話していきたいと思います。

初回は二度にわたり、老子序章として、概略をお話してきました。

まだ、読んでない方は、そちらを最初に読まれてから、当該記事を読まれることをお勧めします。

【超略解シリーズ】 老子 -序章-
【超略解シリーズ】 老子 -序章2-


それでは、老子道徳経の解説に入っていきたいと思います。


◆◇ 天地は仁ならず ◇◆


【原文(書き下し)】

天地は仁ならず、万物を以て芻狗(すうく)と為す。
聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)を以て芻狗と為す。
天と地との間は、其れ猶お槖籥(たくやく)のごときか。
虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず。
多言は数々(しばしば)窮(きゅう)す、中を守るに如かず。


【超意訳】

天地の働きには人間が思っているような思いやりの心なんてありはしない。
天地の働きというものは、あらゆるものを区別せず、まるで藁でつくった犬の人形のように取り立てて思い入れもないように扱うものだ。
このため天地の働きと合一した聖人にも思いやりの心などというものはありはしない。
聖人が政(まつりごと)を行う時には天地の働きと同じように万民を藁で作った犬の人形と変わらないように扱うだろう。
天と地が働き生み出されているこの世界は、例えるならば風の通り向ける空間のようなものだ。
何もないように見えて、実際には無限に尽きることのないエネルギーが空間に満ち溢れている。
余計な言葉や論理を使って天地の在り様に逆らえば、行き詰ってしまう。
天地の働きに任せることが大事なのだ。


【超解説】

え~と、この章の前半はかなりえげつなく聞こえることをさらっと言っています。
天地の法則には人間が思っているような思いやりの心、即ち「仁」の徳などないと言っています。
これは、仁義礼智信などの五徳を修めて聖人への道を説く儒教へのあてつけという見方もあります。
儒教では、思いやりの心である仁の徳を一番、大事な要素として説いています。
義理の心も礼節も智慧も信頼関係も最後は仁に行き着いてこそ意味があると考えているのです。
思い遣りの心を磨いていけば、徳の高い聖人になれるよというわけです。

しかし、老子はこれを一蹴します。
繰り返しになりますが、天地の働きに仁などないと老子は主張するのです。
例えば、私たちは海で魚を獲ってお腹を満たすことがあります。
これは海が育んだ魚という幸を頂いて生かされているという側面が私たちにはあります。
海も生み出された魚も全ては天地の働きによってもたらされたものです。

「天地は恵みをくだされた!私たちは愛されている♪」と考えれば、天地にも仁があるような気がいたします。
しかしながら、海はいつでも幸を私たちに与えてくれるわけではありません。
3.11における大震災などでも経験したように津波が発生すれば、私たちは命を奪われることがあります。
漁の最中にサメに襲われれば、これもまた命を失うこともあるでしょう。
果たして天地の働きとは仁であると言い切れるのか。

このような命題を老子は投げかけると同時に、回答として、「仁などない」と言い切っているのです。
天地の働きとは、人間の考え出した哲理や思想で図れるものではないというのが老子の主張するところです。
ここまでは、まだ、話の筋としては納得できる部分もあるかと思います。
しかし、この後、さらに老子はとんでもない主張をいています。
天地に仁がないのだから、聖人にだって仁など不要である言っているのです。

つまり、天地が万物に対して行うように民に対しても同じように扱えといっているわけです。
藁の犬の人形のように民を扱え。
聴こえようによってはとんでもないことを主張しているように感じます。
現代社会でもし政治家がこんな発言をすればたちまち炎上、バッシング、議員職を辞任に追い込まれることでしょう。
どう考えても、国民に対して思いやりのかける態度が望ましいなどという考えを受け入れられるはずもありません。

前半部分だけ読むとおそらく、老子とはトンデモナイ奴だと思われて、本も捨てたくなることでしょう。
しかしながら、後半をしっかりと読んで意味をきちんと咀嚼すると老子の真にいわんとしていることがわかるようになります。
後半部分では、天地の働きについて触れています。
天地の働きというのは、私たちの住む世界には一見して何もないように見えて実はあらゆるものを調和させるためのエネルギーとして存在していることが分かります。

天地の働きは常に融和して、私たちの暮らしも含めて調和へと導いてくれるエネルギーを持っています。
ただ、私たちの言葉や論理というものが、そのエネルギーを制限してしまっているといえます。
本当は無限で尽きることのないエネルギーであるのに私たちが余計なことをすることで有限のものにしてしまっているということです。
だから、制限となる壁を取っ払い、無限のエネルギーを受け入れよう!

というのが老子の主張の骨子にはあるのです。
老子にとっては仁という考え方も所詮は人間が考え出した不完全で道のエネルギーを阻害する壁であると感じたのかも知れません。
決して、人を物のように扱え!という部分が本質にあるのではなく、「不完全で無限のエネルギーの受け入れを阻害する壁となる人為を捨てろ」ということに本質があるのかなと思います。






以上、老子道徳経の超略解になります。

何かの参考になれば嬉しく思います。


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実況中継で妄念を祓う

妄念とは妄りに念ずると書きますが、やたらと想像力の翼をはためかせるとマイナスになることもあります。

あちこちと四散する心の状態では、物事を成し遂げるのに不都合が生じます。

想像力も統御できて初めて、その力を十二分に活用することが出来るものです。

想像力は両刃の剣で、正しく使えば自分自身に活力を与えてくれますが、間違えると余計な不安や恐怖心、迷いの心を産み落とす結果となります。

そして、妄念に取りつかれると中々そこから脱することが出来なくなり、益々に良からぬ方向へ引っ張られてしまうことでしょう。

例えば、上司に酷く叱責を受けて、ショックを受けて動揺してしまったとしましょう。

気分は最悪で、自分が無能でどうしょうもない人間であるかのような考え方に取りつかれてしまっています。

これからも失敗続きになりそうで、また上司に嫌味の一つも二つも言われるのではないかと恐れています。

こんな時には、ほっておくとドンドンと妄想が膨らんでいき、遂には自分は箸にも棒にも引っかからない劣悪な人間だという妄念に取りつかれるようになるでしょう。

妄念に取りつかれてしまうとそこから脱するのは難しいものです。

イジけている時に慰めの言葉をかけられたとしても、逆に馬鹿にされているかのように受け取ってしまったりすることで、却ってマイナスに働くことがありますが、それも妄念のせいでもあるわけです。

では、妄念に取りつかれたらどうしょうもないのでしょうか。

そんなことはありません。

妄念から脱するための方法としての瞑想法をご紹介してみたいと思います。

名付けて、実況中継瞑想法です。

この瞑想法は別に座禅のように座っている必要はありません。

瞑想という言葉から目をつぶって行う形を想像するかも知れませんが、それも必須ではありません。

立っていても座っていても寝転んでいても別に構いません。

いつでもどこでも、どんな時でも行うことが出来ます。

大変、便利な瞑想法です。

どのように瞑想を行っていくのかというと、重要なポイントとしては、今の自分の感じていること、状況、状態を観察しながら言葉にするということです。

言葉にすると言っても、口に出す必要は別にありません。

胸の中で思っているだけでも良いのです。

それでは、先ほどの例を用いて、具体的な瞑想の流れを説明してみたいと思います。

上司に叱られてショックを受けて動揺しているというシチュエーションです。

まずは、「ああ、自分、上司に叱られてるな」「叱られて動揺している」「今にも叫び出して穴があったら入りたいと思っている」という具合にシチュエーションや思っている状態を言葉で説明していきます。

まるで、実況中継のアナウンサーになったつもりで解説していきましょう。

「さあどうする?へこまされているぞ。このまま黙っているのか?それとも自分の言い分を主張するのか?」
「おおっと!どうしたことか、黙ったままだぞ俺。なぜ黙っている?なぜ黙っている俺!?」
「これは、妙な言い訳をすれば余計に不興を買うことを見越しての戦略なのか」
「どうやらやり過ごす判断を俺はした模様。果たしてその結果は・・??」


こうして言葉にしていくと途中で馬鹿馬鹿しいと思えてくるかも知れませんがそれは良い兆候です。

馬鹿馬鹿しいと感じるくらい自分の気持ちや感じていること状況、状態を言葉にしていくのが良いのです。

なぜならば、妄念とは、客観性の欠如が原因にあるからです。

自分の作り出した想念の世界にどっぷりつかりこむから妄念から抜けられなくなるのです。

なので、あえて、自分の気持ち、状況、環境、感覚を客観視して、客観的に表現してみることで、客観性を取り戻すことが出来るようになります。

客観性を取り戻してくると自分がクヨクヨと思い悩み葛藤していることが馬鹿馬鹿しく感じられてくるものでもあるのです。

そうなった時、妄念から抜け出ている自分を発見することになることでしょう。

いつでもどこでも、どんな時でも行える瞑想法なので、是非、試してみてください。


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それは今、起こっていることですか?

突然、不安に襲われたり


今やっていることに虚しさを覚えてしまう時


良く考えてみてください


その不安や虚しさをもたらしているものは


それは今、起こっていることですか?


本当に今、目の前で起こっている出来事なのでしょうか?


私達は今、目の前で起こっていることに精一杯になって取り組むべきです


なのになぜか、目の前で起こっていることではないことに心を奪われます


心というものは、翼が生えていて


気が付くと


思い思いの世界へと


旅立ってしまいます


心の旅先が


地獄であろうと


天国であろうと


戻って来るべき


住まいは


今、あなたがいるところです


あなたの不安や虚しさが


今、起こっていることと関係がないならば


心を今すぐ


自分のあるべき場所に


帰還させることが大切です


不安や虚しさに襲われたら


それは今、起こっていることですか?


自分に問いかけてみてください


その瞬間に


心を今に


取り戻すことが出来る事でしょう


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足跡を残し続ける

心身脱落(しんじんだつらく)

脱落心身(だつらくしんじん)



曹洞宗の開祖である道元禅師が見性成仏した瞬間を表した言葉です。

読んで字のごとく、身体も心もすっかりと抜け落ちて、一切の不要なものがなくなり、己の中の仏性が目覚めたことを道元禅師が自覚した境地を表しています。

道元禅師には足元にも及ばないことを自覚しながらも、私も昨今では、自分の中からいらないものが抜け落ちていくような感じを覚える今日この頃です。

本日で私は41歳の誕生日を迎えました。

何人かの方からはお祝いのバースデーメッセージを頂きました。

この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました!

まだまだ、若いなんて言われることもありますが、それでも、十代、二十代の頃とは、境地として随分と変わってきました。

若かりし頃は、煌びやかなものに惹かれたり、無限に続くかのように感じていた人生の先々に対して想いを馳せていましたが、今は、一日一日が愛おしく、大切に感じることが多くなりました。

一日も無駄に出来ない。

一日でも多くの足跡を残していきたいという気持ちが大きくなってきています。

今生ということを考えれば時間も命数も限りあるものです。

だから無駄に出来る日は一日もないのですね。

先々のこと。

過去のこと。

そんなことに囚われている時間が惜しいのです。

今一番自分にとって重要なことは何だろう?

このように自問しながら一番大切なことからドンドン実行していきたいと考えています。

足跡を残し続けることだけが、私に出来る全てであると思うのです。

それがどのように評価されるかなんて、とりあえずは脇に置いておけば良いことなのです。

もちろん、評価されれば嬉しい限りだけれど、いつも嬉しいことばかりが人生ではありません。

どんなことでも人生に起こりうることは学びの糧として、次の足跡を付けていきたい。

そんな風に思っています。

どこまで足跡を残し続けることが出来るのか。

それだけを考えていく所存です。


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負けないで

勝つことなんて


考えなくったっていいんだよ


負けなければ


いつか勝つのだから


勝つことばかり考えると


勝てなかった時に


ぽっきりと心の芯が折れてしまう


負けないで


諦めないで


しぶとく


図太く


生きて行けばいい


華麗な勝利や


カッコいい生き方なんて


ずっと続けられるものじゃないさ


負けない戦いは


華麗でもないしカッコよくもない


でも


負けなければ


明日に希望をつなぐことだって


できるはず


負けないで


負けないで


今日も一日


負けないで


生きていこう


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【2014年11月度】神田明神への参拝

2014年11月度神田明神月参りをしてまいりました。

澄み切った堅固な神気が満ちる昨今、今月も月参りをさせて頂きました。

気持ちも澄み切り、心機一転、新たな境地で参詣に臨むことが出来ました。

FGSの会メンバーをはじめ、ブログ読者の方や関わり合った全ての方の幸せを祈念させて頂きました。

また、毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。

もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。

皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。

今月も元気に過ごして頂ければと思います。


天心 拝

kanda_chozusya.jpeg
神田神社 手水舎



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プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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