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霊界は自由?

大分、霊界について詳しく述べてきたつもりですが、それでもまだ語り尽くせないのが霊界の実相であります。

新説・霊界ストーリーでは、なるべく臨場感を持って、霊界の存在を感得して頂きたいという思いがあるので、私が感得したものを物語風にご紹介しているわけです。

それでも、中々、全てを語りきることができないので、様々な角度から、霊界の実相に迫るべくお話をさせて頂いています。

霊界は、心の世界であるということは、基本事項として、何度もお話してきました。

霊界が心の世界ということは、思ったことは何でも実現してしまうのでしょうか。

基本的には、思ったことが実現するのが霊界の法則の一つでもあります。

では、霊界は自由であるのでしょうか。

残念ながら全てが自由になるわけではありません。

なぜかといいますと、人の心には観念と呼ばれる、心に制約を加えるものが存在しているからです。

観念とは「観」ている「念」と書きますが、文字通り、今の心に漂う念を観じているから観念なんですね。

つまり、自分が今、思っている念に執着して、それを見続けているからこそ、本来は柔軟な自在性に満ちた霊界であるはずが、制約を自ら加えて不自由なものにしてしまっているといえます。

もう少し平たくいえば、思いこみ、こうであらねばならない、こうあるべき等という硬直した考え方を持っている場合、それがまさに観念なのです。

私は、本当に繰り返し、口が酸っぱくなるくらいに、霊界を変えてゆくことが、現実界の様々な事象をコントロールしていく基本であることをお話してまいりました。

このブログを以前からずっと読んでらっしゃる方はおわかりかと思いますが、霊界からのフィードバックが現実の世界に影響を与えています。

だから、霊界を変えてゆくことが、現実を変えてゆく一つの手段となるわけです。

しかし、中々霊界というものは、変えずらいものでもあります。

それはなぜか。

観念の存在が自由な霊界変動を邪魔してしまうからです。

主に観念とは、人生の中で体験したことや教育されたこと、あるいは何かの偏った思想のある話を聞いたり、それを信じたりすることで、発生してきます。

一番大きな影響を与えているのは家庭環境であり、次に学校、その次は会社などの組織ではないかと思われます。

家庭環境においては、両親や家庭の事情により、躾や教育方針が違います。

もちろん、それは良いのですが、大事なこととして、自分の家庭でのルールは絶対的な真理ではないということを理解していない場合があるということです。

学校教育にしても、会社での常識、当たり前なこととして処理されていることも、絶対的な正義ではありません。

例えば、「行儀よくしなさい」「汚いものを障るんじゃありません!」「騒がないで!」などと良く子供を躾をする姿がありますよね。

もちろん、場合によっては行儀よくさせなければならない時もありますし、やたらと汚いものを障られて病気になってもいけません。

静かにすべき場所でギャーギャー騒ぐのを許してしまっては、マナー違反というものです。

しかし、常に行儀よくするのが正義なのか。汚いものは触れないのがいつもいいのか。静かに黙々と過ごすのが良いことなのか。

時には杓子定規な考えを捨てて、本音で語り合いふるまうことが大事な場合もあるでしょう。

汚いからと言ってふたをするのではなく、泥んこになって、そんなこと気にしないで遊ぶような経験も必要な場合もあります。

全く元気のない、生きているか死んでいるのかわからないような子供というのも不気味です。(笑)

元気にはしゃぎまわる姿こそが子供の本性であるともいえるでしょう。

絶対的な正義はないのです。

絶対的な尺度もないのです。

全ては流れゆく状況の中で、都度、最善とは何かを考えならば柔軟に対応していく。

これが、人間の持つ自由な心の本性であるといえるのです。

しかしながら、私たちには、生まれてから現在に至るまで、ありとあらゆるシーンで、観念を持ってしまうような出来事に遭遇しています。

強烈な失敗体験や何か嫌なことを言われたり、怒られたりしたことで、これは「やってはいけないこと」「こうすると嫌な目にあう」などの思い込みが発生してしまうのです。

もちろん、これらの体験からの解釈は正しく機能する場合もあるでしょう。

友達と殴り合いのケンカをしてしまい、後々で気まずい思いをした経験から、暴力やケンカは良くないと反省するのは概ね正しく機能しているといえます。

でも、もし、友人が明らかに人の道に踏み外すような行為をしようとしていたらどうでしょう。

ケンカはよくないからと何も言わずに事なかれを決め込むのがよいのでしょうか。

こういう場合は、しっかりと正しい道に引き戻してあげるのがよいわけです。

もしかしたらケンカになったり、騒乱になったりしてしまう可能性もありますが、本当に相手のことを考えるならば、躊躇してはならない時もあるのです。

もちろん、これはあくまで例え話なので、現実的にはそう単純に割り切れないかも知れません。

ここでいいたいのは、観念とは、心がしばられる状態であるということを理解して欲しいのです。

一つ一つの事象を追いかけても結論はでないかも知れませんが、少なくとも自分の思い込みの可能性を疑ってみる。

こうすることで、観念をはずすことができます。

また、もうひとつの観念を外す方法があります。

それはしっかりと勉強するということです。

中途半端ななまかじりな知識や理屈で勉強を止めて、「人生こんなもの」というしたり顔で、学問する心を放棄してしまうからこそ、観念が出来上がってしまうのです。

中国古典などを紐解けば、古来、為政者は論語や中庸、大学、春秋、易経といった様々な古典を読んで学問を怠ることがないようにすべきであると記されています。

為政者などは、常に大局から観て国を治めて、民を愛し、指導していくことが求められていました。

だからこそ、誤った観念で国をおさめられては、大変なことになるわけです。

様々な古典を読み、偏りなく、君子としての道を学ぶことが要求されていたわけです。

自分の小さな経験や体験にとらわれず、観念をつけないためには、大局からの視点で記された古典を読むことが一番効果的であったということなのでしょう。

私たちは為政者ではないかも知れませんが、人生を観念で縛られずに自由に生きるためには、勉強が不可欠です。

そして、何よりも霊界の自由度を高めるためには、勉強して自分の観念を飛び越えるくらいの度量の深さを身につける必要があります。

このブログも多様な観点から説明させて頂いています。

その理由は中途半端に霊界とはこんなもんだと思いこんで観念を作ってほしくないからです。

観念を作れば、霊界はとてつもなく不自由なものになってしまいます。

だから、このブログも最新記事だけちょっと読んでわかったような気になると危険です。(笑)

いつの間にか観念で縛られてしまうことになりますからね。

それを防ぐためには、常に勉強です。

古典を読んだり、様々な書籍を偏りなく読んで学ぶこと。

もちろん、体験、経験も大事です。

しかし、全てを体験、経験できない以上、先人の残した書物を謙虚に学んでいくことも大切です。

というわけで、私のこのブログもバックナンバーを含めてこれからもお読み頂けると幸いです。(さりげなく宣伝(笑))

今回は、霊界と観念についてお話させて頂きました。

お付き合い頂きありがとうございました!


天心 拝


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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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