主体性への回帰と裁きの心の放棄
このブログでは様々なスピリチュアル的なお話をさせて頂いています。
多岐に渡る内容なので、読んだ方は興味深く感じたり、あるいは戸惑ったりする方もいるかと思います。
とはいえ、本来的にはスピリチュアルの雑学的なお話をしたいわけではなく、究極的に行き着く先は、主体性への回帰と裁きの心の放棄にあります。
このことは何度もブログ記事にてお話してきたことでもあるので、ずっと読み続けてくださっている方にとっては、なじみが深い事柄かと思います。
復習がてら簡略に説明しますと主体性への回帰とは、自らの本当に望む意志に従って生きるということです。
意志はスピリチュアル的には魂を意味しています。
すなわち、魂への回帰を目的としてスピリチュアル的なお話をしているわけです。
魂への回帰がなされるということは、自らが主体的に考え、主体的な意志判断によって生きている状態になるということです。
一方で裁きの心の放棄とは何かといえば、自らの是とする信念のみを認め、それ以外を排斥してしまう狭い了見を手放していこうということです。
ともすると人は自分の考えと異なる人を排斥して、争い、どこまでも終わることのない闘争を繰り返いてしまいがちです。
実際のところ歴史をひも解けば、裁きの心は無くならず、多かれ少なかれ闘争の歴史はいまだ続いています。
なればこそ、裁きの心を手放していくことが出来なければ、段々と私達の生きる世界というものは、荒みきってしまうことでしょう。
言葉にすると簡単ではありますが、とても奥深いテーマでもあります。
逆に言えば、奥深いテーマであることに気付かずに単純に言葉の上での意味、定義に囚われると単なる理想論にすぎないようにも思えてしまうことでしょう。
実際、主体性への回帰や裁きの心の放棄についてお話してきましたが、多くの方が単純に受け止めてしまっているように感じることが多々ありました。
例えば、主体性への回帰に関して言えば、自らの意志で考え行動することが大事ということになります。
そうすると単純に我儘にふるまえば良いかのように思えてしまうかも知れません。
確かに自分の思った通りに行動するならば、ある意味、主体的と言えなくもありませんが、実際にはそうでもないのです。
我儘に自分の思ったことが自分の主体性だと思い込んでしまっていること自体に問題があるのです。
私達が我儘にふるまってしまう時には共通点があり、それは、周囲が見えていないということです。
周囲の環境や状況、関わり合う人たちとの調和をなして初めて私達は幸せな気持ちになることが本来は出来ます。
でも、我儘にふるまう時に幸せを感じてしまっている状態の時というのは、周囲が見えていません。
だから、自分の行動が環境や関係者にどのような影響を与えているのか、分かっていません。
分かっていないからこそ、人に迷惑をかけたり、傷つけたりしても、そのことに良心の呵責や気持ち悪さを感じないのです。
そのような不感症的な状態にある心根の状態というのは、とてもではないですが主体的意志を発揮できているとは言い難いのです。
あるいは、自分がしたいように振る舞っているように見えて、実際には他人から吹き込まれた価値観や世間の常識、思い込みなどで作り上げられた幻想に囚われてしまっている場合も多くあります。
他からの干渉を受けず、本当に魂からの意志で行動するというのは、とても難しいことなのです。
このように主体性への回帰と一口で言っても、単純にはいかないものなのです。
裁きの心の放棄も同じです。
単純に裁かずにいれば良いと考えてしまうと司法というものが成り立ちません。
犯罪を犯しても誰も取り締まらず、誰も裁かなくなれば法律などのルールによって公平性や治安を維持していくことも出来なくなります。
なので、これも主体性への回帰と同様に単純にはいきません。
裁きの心を手放すためには、まず、裁きの心を手放した状態が当たり前の前提として成り立つ社会になっていないと難しいのです。
これは平和主義と似ています。
日本は平和主義を掲げています。
平和主義の考え方はとても素晴らしいことだと思いますが、残念なことに世界でこの理念を掲げているのは日本だけです。
日本だけが平和を唱えていても、他所の国が全く賛同してくれていなければ、簡単には成立しません。
ですから、素晴らしい理念を具象化するための智慧やプロセスがどうしても必要になるのです。
裁きの心の放棄も同じで、単純に司法の放棄や相手の善悪や物事の長短を判断することをやめろというのでは成立しないのです。
なので、調和をめざし、判断をしつつも善悪という対立を超えていくアイデアを探し求めていく、その姿勢が大事なわけです。
このように主体性への回帰も裁きの心の放棄もすぐに実現できることではなく、永遠のテーマであり、そこに原則と意識カーソルを合わせて私達は一歩一歩近づいていく他はないのかと思います。
言葉というものは不完全で、言葉にして理解した瞬間から歪みが生じ始めます。
私達は常にその歪みと格闘しながらも、まっすぐに永遠のテーマに向き合っていく必要があるのかと思います。
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多岐に渡る内容なので、読んだ方は興味深く感じたり、あるいは戸惑ったりする方もいるかと思います。
とはいえ、本来的にはスピリチュアルの雑学的なお話をしたいわけではなく、究極的に行き着く先は、主体性への回帰と裁きの心の放棄にあります。
このことは何度もブログ記事にてお話してきたことでもあるので、ずっと読み続けてくださっている方にとっては、なじみが深い事柄かと思います。
復習がてら簡略に説明しますと主体性への回帰とは、自らの本当に望む意志に従って生きるということです。
意志はスピリチュアル的には魂を意味しています。
すなわち、魂への回帰を目的としてスピリチュアル的なお話をしているわけです。
魂への回帰がなされるということは、自らが主体的に考え、主体的な意志判断によって生きている状態になるということです。
一方で裁きの心の放棄とは何かといえば、自らの是とする信念のみを認め、それ以外を排斥してしまう狭い了見を手放していこうということです。
ともすると人は自分の考えと異なる人を排斥して、争い、どこまでも終わることのない闘争を繰り返いてしまいがちです。
実際のところ歴史をひも解けば、裁きの心は無くならず、多かれ少なかれ闘争の歴史はいまだ続いています。
なればこそ、裁きの心を手放していくことが出来なければ、段々と私達の生きる世界というものは、荒みきってしまうことでしょう。
言葉にすると簡単ではありますが、とても奥深いテーマでもあります。
逆に言えば、奥深いテーマであることに気付かずに単純に言葉の上での意味、定義に囚われると単なる理想論にすぎないようにも思えてしまうことでしょう。
実際、主体性への回帰や裁きの心の放棄についてお話してきましたが、多くの方が単純に受け止めてしまっているように感じることが多々ありました。
例えば、主体性への回帰に関して言えば、自らの意志で考え行動することが大事ということになります。
そうすると単純に我儘にふるまえば良いかのように思えてしまうかも知れません。
確かに自分の思った通りに行動するならば、ある意味、主体的と言えなくもありませんが、実際にはそうでもないのです。
我儘に自分の思ったことが自分の主体性だと思い込んでしまっていること自体に問題があるのです。
私達が我儘にふるまってしまう時には共通点があり、それは、周囲が見えていないということです。
周囲の環境や状況、関わり合う人たちとの調和をなして初めて私達は幸せな気持ちになることが本来は出来ます。
でも、我儘にふるまう時に幸せを感じてしまっている状態の時というのは、周囲が見えていません。
だから、自分の行動が環境や関係者にどのような影響を与えているのか、分かっていません。
分かっていないからこそ、人に迷惑をかけたり、傷つけたりしても、そのことに良心の呵責や気持ち悪さを感じないのです。
そのような不感症的な状態にある心根の状態というのは、とてもではないですが主体的意志を発揮できているとは言い難いのです。
あるいは、自分がしたいように振る舞っているように見えて、実際には他人から吹き込まれた価値観や世間の常識、思い込みなどで作り上げられた幻想に囚われてしまっている場合も多くあります。
他からの干渉を受けず、本当に魂からの意志で行動するというのは、とても難しいことなのです。
このように主体性への回帰と一口で言っても、単純にはいかないものなのです。
裁きの心の放棄も同じです。
単純に裁かずにいれば良いと考えてしまうと司法というものが成り立ちません。
犯罪を犯しても誰も取り締まらず、誰も裁かなくなれば法律などのルールによって公平性や治安を維持していくことも出来なくなります。
なので、これも主体性への回帰と同様に単純にはいきません。
裁きの心を手放すためには、まず、裁きの心を手放した状態が当たり前の前提として成り立つ社会になっていないと難しいのです。
これは平和主義と似ています。
日本は平和主義を掲げています。
平和主義の考え方はとても素晴らしいことだと思いますが、残念なことに世界でこの理念を掲げているのは日本だけです。
日本だけが平和を唱えていても、他所の国が全く賛同してくれていなければ、簡単には成立しません。
ですから、素晴らしい理念を具象化するための智慧やプロセスがどうしても必要になるのです。
裁きの心の放棄も同じで、単純に司法の放棄や相手の善悪や物事の長短を判断することをやめろというのでは成立しないのです。
なので、調和をめざし、判断をしつつも善悪という対立を超えていくアイデアを探し求めていく、その姿勢が大事なわけです。
このように主体性への回帰も裁きの心の放棄もすぐに実現できることではなく、永遠のテーマであり、そこに原則と意識カーソルを合わせて私達は一歩一歩近づいていく他はないのかと思います。
言葉というものは不完全で、言葉にして理解した瞬間から歪みが生じ始めます。
私達は常にその歪みと格闘しながらも、まっすぐに永遠のテーマに向き合っていく必要があるのかと思います。
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