許す愛とエデンの園のメタファー

こんにちは!

天心です。

今日はクリスマスイブということで、キリスト教的な世界観に基づくお話しをしてみたいと思います。

キリスト教においては、イエスの許す愛が基本的な教条として据えられています。

教条を簡単に説明すれば、信仰によって罪は許されるという意味合いです。

本当はもっともっと複雑な神学と呼ばれる体系を理解しないとキリスト教の全体像はつかめないのですが、あくまでスピリチュアル的な核心部分はここにあると確信しています。

さて、ここで許す愛について考えるにあたり、はっきりさせておかなければならない項目があります。

それは、「罪」とは何か。「許し」とは何かということです。

「罪」は積み上がっていくものという意味合いもあるのですが、ここでは「罪の意識」と考えるとわかりやすいと思います。

別の言い方をすれば良心の呵責、そのものが罪の意識であり、その意識が堆積していくことで、不動的に良心の呵責を抱き続けている状態が罪であるといえます。

つまり、罪とは、前提として良心があり、物事に対して苛まれる状態を作り出せるだけの知性がなければ、負うことが出来ません。

負うことが出来ないという言い方は、不思議な感じに聴こえるかも知れませんが、実際に罪を負うことが出来るのは、無条件ではないのです。

例えば、ライオンが羊を襲って、生きたままその肉を喰らったとします。

とても残酷な出来事ではありますが、ライオンに罪があるのかといえば、ありません。

何故ならばライオンには良心の呵責を覚えることはないからです。

良心の呵責を覚えるほどの知性がないということです。

優しい草食動物の羊を襲って喰らうライオンは原始的に罪を犯しているのではないか?と考えてしまう人もいるかも知れません。

しかし、罪というものが罪の意識である以上は、ライオンは罪を負うことはないのです。

さて、ここで旧約聖書に描かれるエデンの園の出来事について考察してみましょう。

エデンの園はヤハウェに管理されていて何一つ欠けることのない楽園です。

完全な理想的状態というメタファーです。

そこには、アダムとイブが暮らしています。(本当はもう少し詳しいくだりがありますが、割愛します。)

エデンの園には食べてはいけないとヤハウェに禁じられている果実がなる樹があります。

この果実は自我のメタファーとされることが多いですが、もう一つの意味として知性という言い方もできます。

この果実をアダムとイブはヤハウェの言いつけを守らずに食べてしまい、結果、エデンの園を追われることになります。

このくだりの記述の中では、アダムとイブは元々、素っ裸で暮らしていたのですが、果実を食べて知性が備わったことで、羞恥心を会得して、自らの格好に恥じ入る気持ちを持ち始めたとあります。

アダムとイブが知性を手に入れたことで、理想的な神との合一状態が破られて、神と人という二元的な見方をするように(あるいはできるように)なってしまったわけです。

何が正しくて何が悪いことなのかもわかるようになったのですが、そのため、分別する知恵がつき、間違いという認識にたどり着くことで罪の意識を覚えるようになったというのが、エデンの園から立ち去るアダムとイブの物語が示すメタファーになっています。

つまり、知性がない時には罪を認識することもないので、罪はありませんでした。

知性がつき罪を認識できるようになり、人間の祖先たるアダムとイブから続く子孫にもそれは受け継がれていくようになりました。

罪を認識できるようになってしまった(即ち知性を得てしまった)ことを原罪と呼ばれています。

原罪があるがゆえに人は、常に罪の意識に苛まれるようになったわけです。

この原罪を超えるためには、信仰により元の理想的状態(エデンの園)へ回帰する必要があります。

しかし、一度、得てしまった知性を放棄することは出来ません。

そこで、考え出されたのが「許し」という救済方法です。

罪の意識は許されることによって、解消されます。

許されなければ永遠に罪は罪として意識の中に残り続けます。

元々は実体のないものであり、意識上の歪みであり、ねじれでもあります。

それを正す絶対的な権限を持つ神が許しを行うという点がキリスト教の核心部分にはあるのかなと思います。

さて、ここまで罪や許しについてお話ししてきましたが、一点、釈然としない部分を覚える方もいるかも知れません。

それは、罪は罪の意識、即ち、良心の呵責を覚えるだけの知性がなければ、存在しないという点です。

これは、例えば、全く良心のかけらも持たない人間が所謂、社会通念で罪と呼ばれる規範の逸脱を行ったとしても罪にはならないということを暗に示唆してしまっています。

良心を持たなければ、罪がないというならば、良心を持たぬものの逸脱した行為は罪ではないのか。

結論から言えば、罪とは言えません。

但し、良心を持たぬことは罪を負うということ以上に悲しむべきことではあります。

何故ならば、知性も持たず良心もない人間というものは、人の皮をかぶった獣と変わらないということです。

人は皆、罪を負うことで人として生きていくことが出来ます。

それ故に罪により苦しむ人も多くいます。

しかし、本当は罪を負うことよりも、罪を負えないほどに次元層が低下してしまうことほど恐ろしいことはないのです。

許される罪があるということが、人の証明であるならば、私たちは皆、罪があっても内省し、そして許されて次のステップへと魂の向上を進めていくことが人の生きる在り方なのかも知れません。

今日はクリスマスイブ。

多くの人の罪が許されることを祈りたいと思います。


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