疑念と大疑団の違い

物事を探求し、学びを深めていくためには、疑問を持ち、問いかけてゆくことが基本にはあります。

学問という言葉も、問いかけて学ぶと書くとおり、疑問を持つことは、学びを行う上で必須のことであります。

禅宗にも修行を行う上で必要となる三つのポイントがあげられています。

大信根(だいしんこん)、大疑団(だいぎだん)、大勇猛心(だいゆうもうしん)

この三つのうち大疑団は、大きな問題意識を持ち、問いをぶつけてゆくという意義があります。

まさしく、自ら疑問点を見いだして問いかけて答えを見つけてゆこうとする心構えが大疑団であるといえます。

しかし、この大疑団を支えている考え方は、大信根であるといえます。

大信根とは、どこまでも信じてつき従う覚悟を持つことであるといえます。

禅の道でいうならば、禅の道というものへの信頼、信仰、そして、師事するお師匠への信頼。

これがあって、はじめて、問題提起、大疑団というものが定まってくるのです。

大信根があり、大疑団を持つならば、最期は大勇猛心です。

怖じ気心や迷いを払しょくしてどこまでも勇猛果敢に道を極めてゆくのが大勇猛心ですね。

この三つがあってはじめて禅宗では道に入ったと言える状態にあるということがいえますね。

さて、疑問を持って問い学ぶことが大事であることは冒頭でお話しましたが、このことは禅宗の三つのポイントに置き換えるならば、大疑団とうことになります。

しかし、大疑団というものは、得てして一般的には疑念と勘違いをされる傾向にあるように感じます。

例えば、色々と疑問を持つことは、生きている中で多々あることでしょうけれど、大疑団と指すメンタリティと単なる疑念の違いはどこにあるのでしょうか。

それは、疑念を持っている人のメンタリティというものは、基本に愛や真心、そして素直な心というものが欠けています。

ともかく、すべてが疑わしく見えていたり、常に自分をだまそうとしているのではないかと考えてみたり、いつだって「怪しい」という目線でものを見ていきます。

自分の利には敏く、他人のあらを探すことは大好きです。

どこにも愛がなく、素直ではありません。

このような疑念は、何を学ぼうとしても身につきませんし、益々、疑心暗鬼になるだけです。

では、正しく疑問を持って学びを深めてゆくためには、どうすればよいのでしょうか。

言わずともお分かりになるかもしれませんが、大疑団を持つことです。

大疑団と疑念の差は、大疑団の場合、まずは大信根、すなわち、信じる心、素直な心があって初めて成り立ちます。

もちろん、なんでもかんでも信じてしまえというわけではありません。

検証やその前の大疑団を持ち、信じるにたるものを得るために疑問を持つことは必要かと思います。

しかし、心根に基本的な素直さが欠けてしまっていたり、「人を見たら泥棒と思え」といわんとばかりの疑念は、この大疑団とは似て異なるものであるわけです。

信を得るためにまずは問い学ぶ。

これが正しい疑問を持つということかと思います。



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ありがとうございました

天心先生 ありがとうございました。
いろんな方の高次元にむけてのブログにはまってしまい、元の姿勢を忘れておりました。
私は私の信じる道を素直な気持ちで歩んでいきたいと思いました。
疑心暗鬼にサヨナラします。いつも熱いお言葉を感謝しております。

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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
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