【呪縛観念シリーズ】良い人になるな?

【呪縛観念シリーズ】第二段をはじめたいと思います。

このシリーズの大きなテーマについては、「【呪縛観念シリーズ】呪縛観念とは何か」をご参照頂ければと思います。

さて、今回の呪縛となっているものについて、「良い人にならないといけない」という思い込みについて、呪縛観念を解いていこうかと思います。

「良い人」とは善良な人のことで通常、このような人になることは推奨されることであり、タイトルにあるような「良い人になるな」なんていうことを言うとなんとも反社会的な意見のように思われてしまうかも知れませんね。

でも、誤解のなきようにお話しておきたいのは、私としては、「良い人」には二種類のパターンがあるということをまず知って頂きたいと考えています。

一つは「真の良い人」それからもう一つは、「見せかけの良い人」というのが大きく分けた場合の「良い人」の区分けになるかと思います。

今回、問題にしているのは、「見せかけの良い人」に関してです。

「見せかけの良い人」とは、一言で言うならば、主体性がなく良い人を反射的に演じてしまう人の事を指します。

どういうことかといいますと、例えば、表面的な行動を見るといつだって、人には優しく、品行方正、そしてマナーもしっかりと守るナイスな人、これが「見せかけの良い人」であるといえます。

「なんだ、結構なことじゃないか。何がいけないというのか?」

このような感想を持たれる方もいらっしゃることでしょう。

もちろん、表面的な行動を見る限りでは、とても良いことのように見えますし、実際にかかわった方も、このような人を見れば、「素敵な人だな」と感じることでしょう。

そして、本人自身も「常に善なることを心がけよう」といつも考えているので、概ね善なる心といえるでしょう。

「それなら、益々、良いことじゃないか!」

とツッコミを入れたくなるところではありますよね。

本当に「見せかけの良い人」というのは、一見してはその問題点はつまびらかにならないものなのです。

だから根が深い「呪縛観念」に気づけない場合も多いといえます。

実をいえば、「見せかけの良い人」と「真の良い人」の違いは本当にわずかな差であったりします。

しかし、その差が人生全般に大きく影響をしてくることになるのですね。

では、差とは何であるのでしょうか。

それは、先ほどの説明の中にも現れているワードとして、「主体性」ということが挙げられます。

「主体性」を持って、善行を行い、決して軸がぶれることがない人を「真の良い人」と言います。

「真の良い人」は、自分自身の行動原理の中に常に愛と真心というエネルギーが満ちています。

常に自分に正直に生きながらも、愛と真心という起点からはブレことなくしっかりと自分の行動を主体的に決めることができるのです。

そこには無理はなく自然体であり、自分の意志をねじ曲げる要素がないために、人生を歩む上でも傍から観て負担に見えるような利他の行動も全く苦にはならないのです。

なぜならば、そもそも自分の意志をねじ曲げることなく行動原理の中に愛と真心がしっかりと組み入れられているからなんですね。

ですから、善行を実践すればするほど、本人も楽しくなり、その本音の部分での楽しさが周囲の人にも伝わるため、人気も運気も上がってきたりします。

もちろん、守護霊もそんな人の守護には積極的になります。

よって、結果的に開運も早くなるのです。

一方で、「見せかけの良い人」とは、主体性がなく周囲の反応を見ながら、「こんなことをしたら嫌われるかな?」「これをしてあげたら喜んでくれたりするのかな」と行動を起こします。

一見悪くないあり方に思えますが、主体性がないため、いつだって周囲の状況や顔色、環境で自分の行動原理を変えてしまうのです。

時々、人生の方向性や指針を見失ってしまったとご相談される方も多くいらっしゃいますが、その中の要因の一つとして主体性をなくしてしまっているという要因が考えられます。

繰り返しになりますが、善行をしよう、人に対して愛を向けようというその形や心は素晴らしいことです。

しかし、その行動の起点を自分自身の主体性に基ずく行動原理によらず、周囲の反応に委ねてしまっているところが問題なのです。

主体性を失うとはすなわち船の舵を失いコントロール不能に陥ることになっていることを指しています。

なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。

それは、「良い人にならねばならぬ」という呪縛観念を持っているからにほかなりません。

これは、おそらく、幼少期、あるいはそれ以外でもいえることかも知れませんが、ある「成功体験」によって植えつけられてしまっているケースが多いように思えます。

例えば、子供の頃、非常にワンパクな行動を取ってすごく両親に怒られたとします。

なぜ怒られたのかは理解できないのですが、とりあえず、自分の思うがままにふるまうと怒られてしまう。

そして、おとなしく行儀よく、周囲に気を使い、良い人であろうとすると両親や周囲の大人たちは、「やあ、行儀のよい良い子だね」「しっかりしているね」と良い子だ良い子だと誉めてくれたりします。

意外にありがちなお話ですが、これが続くといつしか自分の中で「行儀よく良い人であれば評価してもらえる」という「成功体験」を生むことになります。

実は、これが呪縛観念の正体です。

あくまで上記は例題に過ぎませんが、「自分の意志を殺し、人の顔色を伺い、喜ばれることをすればご褒美がもらえる」というメンタリティが生まれた瞬間でもあるわけです。

しかし、実際はどうでしょう。

人生とは自分の意志を表現していく場であるともいえます。

神性の表れでもある主体性を表現していく場が現世であるともいえるのです。

しっかりとした主体性を持って生きている人の方が、はっきりいいましても形的にも内面的にもうまくいっているケースが多いといえます。

しかし、上記のような呪縛観念があるとそれができなくなってくるのです。

自分の意志で決めようとすると「そんなことをしたら良い人でなくなる」「人から嫌われてしまう」という不安が発生して、もとの主体性のない自分に戻っていってしまうことになります。

では、呪縛観念を解いてゆくためには何が必要なのでしょうか。

まず、第一に、自分が呪縛されていると認識することが必要になってきます。

「自分はこれでよい」「これが正しいのだ」と思いこみ認識を改めることをしなければ、いつまでたっても呪縛されたままになります。

私がこのようにブログ記事にしている理由は、呪縛に気づいて欲しいからでもあります。

ですから、もし、心当たりがある場合には、自分にとって「良い人」とは何であるのかをもう一度見直して見て頂きたいと思います。

自分の行動原理があり、常に愛と真心に矛盾がない主体性とともにある善行であるならば、素晴らしい人生が待っていることでしょう。

しかし、もし、どこか反応を見てうまく立ち回っているだけなのではないかなと気づいたならば、一度、自分に言い聞かせてみてください。

「良い人になるな!自分の本当にしたいことは何であるのか」と問いかけてみてください。

「良い人にならなければならない」という呪縛が少しずつ解けてくることと思います。


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ジャンル : 心と身体

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責を負えるかどうか

どうしようもなく困りきった時に、さっと現れて庇ってくれる人は、良い人に感じます。
しかし、この良い人である時間がどれだけあるか。
人には、そういう時間が必ず備わっていると思うのですが、まぐれのようにたった一回で終わる人も見てきました。
悪い人ではない、でも良い人とも言い難い。

私は良い人の資質を、どれほどの責任が負えるかどうかだと考えています。
世界中を向こうに回しても、一人を庇い通すことができるか。それだけの強い信念を持ちえるか。

たんぽぽのように、愛に深く根差して生きたいものです。

勉強になりました

はじめまして。
この記事を読んで自分の事だ!と思いました。

自分の意見を押し殺し、いつも相手や周りの迷惑にならないように
それとなく合わせているような感じで生きてきました

そしてその場では、いい人・優しい人と言われるのだけど
後になってやっぱり・・・と意見を変えたりして結果的に迷惑をかけてしまう
常に主体性を持っていれば、もっとうまく作用したであろう事が沢山思い浮かびました

これからは主体性を持って生きて行こうと思います。
良い記事を掲載して頂きありがとうございました!
プロフィール

天心

Author:天心
こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
ブログ記事では、守護霊やスピリチュアル世界に関するお話を掲載してゆきます。

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