なぜ次元をあげる必要があるのか

一生懸命に努力すれば皆幸せになれる。

こんな言葉をどこかで聞いた覚えが私にはあります。

皆さんもどこかで聞いたことがある言葉ではないでしょうか。

でも、この言葉には沢山の矛盾があって、多くの人が首をかしげてしまう事態にもなっています。

どういうことかといえば、そもそも、どんな人だって、皆、大抵は一生懸命に生きているものです。

一生懸命に正しくあろうと、良き善なる人であろうと皆、努力しているものです。

その努力の仕方や表現方法は違うけれど、どんな人でも努力していない人はいない。

にも関わらず、あいも変わらず、世の中には不遇なことや不幸せな状況が渦巻いています。

こういった状況を目の当たりにして、「一生懸命に努力したって幸せになんかならないじゃないか」「正しいことを推し進めたって一向に僕らの生きている社会はよくならないじゃないか」と愚痴をこぼしたくなるのも無理はないかと思います。

皆、一生懸命に努力はしているし、正しくあろう、善なる人であろう、愛あることをしようと思っていても、一向に状況は良くなっているようには見えない。

そう感じてしまう理由について、少しお話してみたいと思います。

まず、今回、お話したいのは、一人ひとりの正しさ、善、愛、美なるものを寄せ集めても、全体の幸せ、というか、本当に幸せにはつながらないということです。

これだけでは、何を言っているのかわからないと思いますので、少し例え話をしてみたいと思います。

ある時、とても真面目な警察官がいたとしましょう。

彼の使命は街の治安を守るために市民に法を遵守させることにあります。

彼自身も真面目な気質でもちろん、法は犯しません。

彼は自分の使命に忠実で、どんな不正も見逃しません。

信号無視している人はないか?自転車二人乗りしている人間はいないか?道路にゴミをポイ捨てしている人はいないか?道路で寝転んで迷惑をかけている人はいないか?

ともかく、法に遵守していない人を常にチェックして、見つけたら問答無用で逮捕して、調書をとり、法に照らして罰則を加えるべく手続きをして上に報告いたします。

彼の仕事は法を遵守させることにあり、彼の行っていることは、彼の使命からすると正しいと言えます。

しかし、彼は法を遵守させることしか頭にはありません。

たまたま、ちょっとボーッとして信号が変わったのに気づかず立ち往生していた車も容赦なく検挙します。

ちょっと、嫌なことがあって飲みすぎてしまい、思わず道路に寝そべってしまった人間も見つけ次第、法に照らして留置所にぶち込みます。

彼の行動は法を遵守させるという警察官の使命としては、正しいと言えます。

でも、街の空気はどうでしょうか。

法は遵守されたけれど、どこかピリピリして活気がありません。

何か間違いを犯したら、即座に逮捕されて刑罰の対象となるので、街の人は戦々恐々として暮らしています。

この警察官は、決して間違ったことはしていません。

むしろ、愚直なまでに自分の使命を全うしているだけなのです。

にも関わらず、街の雰囲気は最悪なものへとなっていきます。

さて、警察官のお話は一旦、横において、今度はある芸術好きのお金持ちのお話です。

芸術作品が大好きなお金持ちの男がました。

その男は、趣味が高じて、大きな美術館を建設することに致しました。

美術館は芸術の殿堂として相応しいものにしたいと考えた男は、彼が日頃、お気に入りにしているアーチスト達を集めて、それぞれの芸術性を活かして、建物の内装を決めさせようと、彼らの好きなようにさせることにしたのです。

皆、偉大なアーチストなので、彼らがそれぞれに力を発揮すれば、素晴らしい美術館が出来上がると考えたわけです。

しかし、いざ、美術館が完成し男が内装を確認してみると、そこにはグチャグチャで混沌とした、なんだかわからない気持ち悪い空間ができていました。

男は気分が悪くなり、思わず美術館を飛び出しました。

美術館の内装は確かに依頼したアートストたちがそれぞれに遺憾なく個性を発揮したものではありました。

ある部分は和風の清楚な感じであり、かといったら、突然、洋風の風体が現れ、一方ではエスニックな感じで問行った感じでまとまりも調和もなにもなく、グチャグチャの混沌と化してしまっていたのです。

さて、長々と例え話をしましたが、何を言いたいかというと、部分的な正しさや部分的な美しさを追求し、寄せあつめても、決して、大きな意味での正しさや美しさなどには、つながらないということです。

仮に個別の正しさ美しさを追求することを「部分善」と名づけたとしましょう。

そして、全体的な調和が取れた正しさ美しさ、ひいては幸せな状態を「全体善」と名づけます。

一つひとつの個がそれぞれの部分善を求めて行動していけば、世の中は調和がとれた全体善が実現するのかというとそうはならないということなのです。

これが、私たちが一生懸命に個別に努力を積み重ねているけれど、一向に幸せを掴めなかったり、社会の状況が良くならないと感じてしまう理由なのです。

では、どうしたら、私たちの行う努力が部分善ではなく、全体善に繋がるものとしてくことができるのでしょうか。

そのためには、次元を上げて物事を発想し、次元の高い太極観にて物事を判じていくことを行わなければならないということです。

個別の視点、個別の努力、個別の幸せを追求しても、本当の意味での全体善にはつながらないのです。

これが次元を上げることが必要である本当の意味なのです。

単純にエネルギーの流れが変わるとか、次元上昇すれば幸せなれると言われる裏側には、きちんとした理由があるということです。

この点を理解しておくことが、今後のスピリチュアルティを探求していく際に必要となるかと思います。


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ありがとうございました。目からうろこの素晴らしい内容でした。早速、家内に読ませてやろうかなと思いましたが、よく考えると後が恐ろしいのでやめました。
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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
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