誕生日と不惑
ほんのりした曇り空を見上げながら、とても混沌とした、これから何かが生まれる前のはっきりとしない様を夢想したりしています。
まるで、古事記にある天地の初めにくらげなす漂える状態を曇り空を見上げて想ったりしています。
本日は、私の誕生日でもあり、私は、こんな混沌とした空色の日に現世に生まれ落ちたのだろうかと想いを馳せています。
質問コーナーに寄せられた質問にもまだ未回答分があって、待っている方には申し訳ないのですが、本日のブログは、またまた、開運コラムとさせて頂きます。
私は、本日でめでたく?40代に突入することになったわけですが、私たちの人生のあり方というものは、ある程度の時期を持ってパラダイムシフトしていくものでもあります。
生まれてから9歳までは、ともかく一心に愛情を受ける、つまり受け取ることがメインになります。
10代からは自らの我(が)というものを形成するために様々なことを感じ、思い、考えていくことに費やされます。
20代は、自我に沿って、ともかく、経験を踏み、自らの血と肉を作っていきます。
自我をコントロールして、さらにその自我を乗り越えていくためにパワフルに動いていくのが20代と言えるかも知れません。
30代は、20代である程度完成した魂をさらにブラッシュアップしていくわけです。
30代というのは、20代の時のような力任せではなく、知性と感性、経験値などを含めてバランスと調和を考えていくことがポイントになってきます。
私の30代を振り返って、果たして、世代に準じた生き方が出来ていたかは、反省の残る点も多々ありますが、今度は、40代に入っていくわけなので、新たなパラダイムシフトが求められてくることと思うのです。
さて、40代はどう生きるべきかを考えてみることにしましょう。
論語の中の言葉で孔子は「四十にして惑わず」と述べておられます。
40歳の方を指して「不惑(ふわく)」と呼ぶことの元の意味でもあります。
孔子は40歳にして心が惑わなくなったと主張していますが、40代はやはり、不惑に因んだ生き方をしていく必要があるのではないかと思います。
20代や30代は、まだ、志を求めて自分を練っていく時期であったとも言えますが、40代に入ると、アレコレと迷ったり悩んだりせずに志を一にして揺るがない自分を作っていく必要があるのかも知れません。
そのために何が必要なのだろうかと考えてみると、一つのメッセージを受け取ることができました。
それは、「人は捨てることによりて器なすものなり」です。
思えば、今までは一生懸命に何かを得よう得ようと、がっつきもがいていたところもあったのかも知れません。
より大きく、より沢山のものを求めて、自分を成長する糧としていくことを心がけていたように思います。
しかし、必ずしも多くのものを取り入れることばかりが成長の糧ではないことをこのメッセージは諭しています。
自分が何者であり、今生で何を引き受けて行くのか。
どういった役割を担っていくのかを決めていくのは、得ることではなく、捨てることだと教えてくれているのです。
自分に本当に必要なものが何であるのかを悟り、自分に不要なものは、自然な形で抜け落ちていく。
こういったことを経験し、段々といらぬものが抜けさって、自分が何者であるのかを悟るのが40代に入りやっていくべきテーマなのだということを教えて頂いたわけです。
もちろん、単純に30代、40代と数値上でテーマが割り切れるわけではありませんが、一つの目安として、そういった枠組みがあるということなのですね。
今回の記事は私事がメインとなり恐縮ではありますが、読者の皆様におかれましても、一度、自分の今の求めれているものは何であるのかを考えるキッカケになればと思います。
天心 拝
◎クリックご協力ください!

まるで、古事記にある天地の初めにくらげなす漂える状態を曇り空を見上げて想ったりしています。
本日は、私の誕生日でもあり、私は、こんな混沌とした空色の日に現世に生まれ落ちたのだろうかと想いを馳せています。
質問コーナーに寄せられた質問にもまだ未回答分があって、待っている方には申し訳ないのですが、本日のブログは、またまた、開運コラムとさせて頂きます。
私は、本日でめでたく?40代に突入することになったわけですが、私たちの人生のあり方というものは、ある程度の時期を持ってパラダイムシフトしていくものでもあります。
生まれてから9歳までは、ともかく一心に愛情を受ける、つまり受け取ることがメインになります。
10代からは自らの我(が)というものを形成するために様々なことを感じ、思い、考えていくことに費やされます。
20代は、自我に沿って、ともかく、経験を踏み、自らの血と肉を作っていきます。
自我をコントロールして、さらにその自我を乗り越えていくためにパワフルに動いていくのが20代と言えるかも知れません。
30代は、20代である程度完成した魂をさらにブラッシュアップしていくわけです。
30代というのは、20代の時のような力任せではなく、知性と感性、経験値などを含めてバランスと調和を考えていくことがポイントになってきます。
私の30代を振り返って、果たして、世代に準じた生き方が出来ていたかは、反省の残る点も多々ありますが、今度は、40代に入っていくわけなので、新たなパラダイムシフトが求められてくることと思うのです。
さて、40代はどう生きるべきかを考えてみることにしましょう。
論語の中の言葉で孔子は「四十にして惑わず」と述べておられます。
40歳の方を指して「不惑(ふわく)」と呼ぶことの元の意味でもあります。
孔子は40歳にして心が惑わなくなったと主張していますが、40代はやはり、不惑に因んだ生き方をしていく必要があるのではないかと思います。
20代や30代は、まだ、志を求めて自分を練っていく時期であったとも言えますが、40代に入ると、アレコレと迷ったり悩んだりせずに志を一にして揺るがない自分を作っていく必要があるのかも知れません。
そのために何が必要なのだろうかと考えてみると、一つのメッセージを受け取ることができました。
それは、「人は捨てることによりて器なすものなり」です。
思えば、今までは一生懸命に何かを得よう得ようと、がっつきもがいていたところもあったのかも知れません。
より大きく、より沢山のものを求めて、自分を成長する糧としていくことを心がけていたように思います。
しかし、必ずしも多くのものを取り入れることばかりが成長の糧ではないことをこのメッセージは諭しています。
自分が何者であり、今生で何を引き受けて行くのか。
どういった役割を担っていくのかを決めていくのは、得ることではなく、捨てることだと教えてくれているのです。
自分に本当に必要なものが何であるのかを悟り、自分に不要なものは、自然な形で抜け落ちていく。
こういったことを経験し、段々といらぬものが抜けさって、自分が何者であるのかを悟るのが40代に入りやっていくべきテーマなのだということを教えて頂いたわけです。
もちろん、単純に30代、40代と数値上でテーマが割り切れるわけではありませんが、一つの目安として、そういった枠組みがあるということなのですね。
今回の記事は私事がメインとなり恐縮ではありますが、読者の皆様におかれましても、一度、自分の今の求めれているものは何であるのかを考えるキッカケになればと思います。
天心 拝
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