西洋と東洋の思想の違い(その2)
西洋と東洋の思想の違いからの続きです。
前回のサマリーをご紹介すると、私たちの生活を支えている科学技術は、スピリチュアルと対立するものではなく、実は元々はスピリチュアリティの証明のための一環として発達してきたことをお話させて頂きました。
科学は科学哲学と呼ばれる哲学体系の一つであり、哲学のもともとの始まりは、アリストテレスが提唱した形而上学(けいじじょうがく)にあるということです。
形而上学は、魂や神の存在を証明していく、考えていく哲学であり学問だということです。
以上、前回のサマリーを踏まえてもう少し哲学について踏み込んでみたいと思います。
形而上学は、主に西洋思想の渓流の源として誕生しました。
形而上学がなければ、今の科学もその他諸々の哲学も存在しえなかったとも言えます。
様々な宗教にもそれぞれの思想部分を持っているものでもありますが、キリスト教なども神学として哲学体系を持っています。
神学は非常に複雑で難解な部分もありますが、キリスト教学として今でも学ばれています。
そんな神学も元を正せば形而上学からの流れがなければ生まれなかったかも知れません。
では、形而上学とは如何にして生まれてきたのか。
このことについてなるべく専門的にならないように平たくお話してみたいと思います。
専門的には少し不明瞭で不正確な部分もあるかと思いますが、わかりやすさ優先でお話します。
さて、先程も言いましたように形而上学の祖はアリストテレスであります。
アリストテレスの形而上学とは何かについて踏み込む前にアリストテレスの師匠のお話をしたいと思います。
アリストテレスの師匠とはプラトンです。
プラトンも中々、有名な西洋思想家の一人ではありますが、なぜ哲学の初めはプラトンではなく、アリストテレスの形而上学なのかという点がとても大事です。
プラトンもアリストテレスと同じぐらい有名ですが、二人の思想には根本的な違いがあります。
プラトンは魂や神というものは、超越した世界(これをイデアという)に存在し、その超越した世界から何らかのエネルギーがほとばしり、私たちの住む現実世界を作ったという思想を展開しました。
これはつまり、いわゆる古代宗教などが伝承として伝える神話体系をもとにした信仰などに見られる発想そのものだと言えます。
神話には現実的には不可能、荒唐無稽と言わざるをえないエピソードが沢山、表現されています。
そういった神話伝承を解釈するためにイデアという現実からは遊離した世界があると考えて、現実との矛盾を解消しようとしたのがプラトンの思想の根幹にはあります。
この論法を持ってすれば、例えば、モーゼが海を真っ二つに割ろうと、天照大神が勾玉を噛み砕いて、そこから神々が生まれようと何の問題もありません。
何しろそれはイデアの世界の話であって、現実とは無関係なのです。
この発想はとても便利なため古代宗教では当初、多用されていたようです。
神話に何か矛盾があっても「それはイデアの世界のお話だから無問題(もーまんたい)」というわけです。(笑)
このような状況の中、アリストテレスは「ふざけんなよ!ボケども!!」と言ったかどうかは定かではありませんが(いや言ってないでしょうけど)、真っ向から反対の意志を表明します。
超越した世界の出来事にして思考停止してしまえば、永遠に魂や神について人間が理解することはできない。
そういう気持ちもあったのかも知れませんが、弟子であるにも関わらずアリストテレスは師匠であるプラトンのイデア論を非難します。
現実と神々や魂とは密接に関わりがあるに違いないという発想を生み出したのがアリストテレスであり、形而上学なのです。
はじめて、神話の世界から現実の世界へのミッシングリンクを探し出そうというムーブメントを起こすきっかけを作った方であったからこそ、哲学の祖と言われているわけです。
ちなみに形而上学という名前はアリストテレスが最初に神や魂の世界と現実との関わりを考えた時に提唱した原理に由緒があります。
アリストテレスは、当初、このように考えました。
例えば、大きな樹木があったとして、その樹木は、元々は一粒の種であったわけです。
最初は小さな種でありそこからは大きな樹木になることは想像ができません。
しかし、実際のところはその種には大きな樹木になる源が存在していると考えざるを得ません。
アリストテレスは種の中には大きな樹木になるための設計図が存在していると考えました。
形而上的に樹木が樹木となるためには、その設計図がこの現実世界のどこかに存在していると発想したわけです。
犬なら犬の形而上の設計図があり、人間には人間の形而上の設計図がある。
現代の知識で鑑みれば、DNAなどがこれに当たるのかも知れません。
私たち現代の人間がこうして自然界の秘密を解き明かすきっかけとなったのはこうした現実と魂の世界との接点を見つける形而上学にあることはこうした点を見ていくと明らかになります。
DNAの発見も言わば、人間とは何か魂とは何かと考えた末に起こったことであるとも言えるのです。
しかし、まだアリストテレスの形而上学が提唱された時期は、あくまでスピリチュアリティを基軸にした思想哲学が主であり、現代のように観察と実験によって技術を生み出すといった利益主義的な発想はなかったかと思います。
現代のようにスピリチュアリティと哲学との間に齟齬が生み出されてしまった理由はどこにあるのか。
その点を次回は考えていきたいと思います。
◎クリックご協力ください!

前回のサマリーをご紹介すると、私たちの生活を支えている科学技術は、スピリチュアルと対立するものではなく、実は元々はスピリチュアリティの証明のための一環として発達してきたことをお話させて頂きました。
科学は科学哲学と呼ばれる哲学体系の一つであり、哲学のもともとの始まりは、アリストテレスが提唱した形而上学(けいじじょうがく)にあるということです。
形而上学は、魂や神の存在を証明していく、考えていく哲学であり学問だということです。
以上、前回のサマリーを踏まえてもう少し哲学について踏み込んでみたいと思います。
形而上学は、主に西洋思想の渓流の源として誕生しました。
形而上学がなければ、今の科学もその他諸々の哲学も存在しえなかったとも言えます。
様々な宗教にもそれぞれの思想部分を持っているものでもありますが、キリスト教なども神学として哲学体系を持っています。
神学は非常に複雑で難解な部分もありますが、キリスト教学として今でも学ばれています。
そんな神学も元を正せば形而上学からの流れがなければ生まれなかったかも知れません。
では、形而上学とは如何にして生まれてきたのか。
このことについてなるべく専門的にならないように平たくお話してみたいと思います。
専門的には少し不明瞭で不正確な部分もあるかと思いますが、わかりやすさ優先でお話します。
さて、先程も言いましたように形而上学の祖はアリストテレスであります。
アリストテレスの形而上学とは何かについて踏み込む前にアリストテレスの師匠のお話をしたいと思います。
アリストテレスの師匠とはプラトンです。
プラトンも中々、有名な西洋思想家の一人ではありますが、なぜ哲学の初めはプラトンではなく、アリストテレスの形而上学なのかという点がとても大事です。
プラトンもアリストテレスと同じぐらい有名ですが、二人の思想には根本的な違いがあります。
プラトンは魂や神というものは、超越した世界(これをイデアという)に存在し、その超越した世界から何らかのエネルギーがほとばしり、私たちの住む現実世界を作ったという思想を展開しました。
これはつまり、いわゆる古代宗教などが伝承として伝える神話体系をもとにした信仰などに見られる発想そのものだと言えます。
神話には現実的には不可能、荒唐無稽と言わざるをえないエピソードが沢山、表現されています。
そういった神話伝承を解釈するためにイデアという現実からは遊離した世界があると考えて、現実との矛盾を解消しようとしたのがプラトンの思想の根幹にはあります。
この論法を持ってすれば、例えば、モーゼが海を真っ二つに割ろうと、天照大神が勾玉を噛み砕いて、そこから神々が生まれようと何の問題もありません。
何しろそれはイデアの世界の話であって、現実とは無関係なのです。
この発想はとても便利なため古代宗教では当初、多用されていたようです。
神話に何か矛盾があっても「それはイデアの世界のお話だから無問題(もーまんたい)」というわけです。(笑)
このような状況の中、アリストテレスは「ふざけんなよ!ボケども!!」と言ったかどうかは定かではありませんが(いや言ってないでしょうけど)、真っ向から反対の意志を表明します。
超越した世界の出来事にして思考停止してしまえば、永遠に魂や神について人間が理解することはできない。
そういう気持ちもあったのかも知れませんが、弟子であるにも関わらずアリストテレスは師匠であるプラトンのイデア論を非難します。
現実と神々や魂とは密接に関わりがあるに違いないという発想を生み出したのがアリストテレスであり、形而上学なのです。
はじめて、神話の世界から現実の世界へのミッシングリンクを探し出そうというムーブメントを起こすきっかけを作った方であったからこそ、哲学の祖と言われているわけです。
ちなみに形而上学という名前はアリストテレスが最初に神や魂の世界と現実との関わりを考えた時に提唱した原理に由緒があります。
アリストテレスは、当初、このように考えました。
例えば、大きな樹木があったとして、その樹木は、元々は一粒の種であったわけです。
最初は小さな種でありそこからは大きな樹木になることは想像ができません。
しかし、実際のところはその種には大きな樹木になる源が存在していると考えざるを得ません。
アリストテレスは種の中には大きな樹木になるための設計図が存在していると考えました。
形而上的に樹木が樹木となるためには、その設計図がこの現実世界のどこかに存在していると発想したわけです。
犬なら犬の形而上の設計図があり、人間には人間の形而上の設計図がある。
現代の知識で鑑みれば、DNAなどがこれに当たるのかも知れません。
私たち現代の人間がこうして自然界の秘密を解き明かすきっかけとなったのはこうした現実と魂の世界との接点を見つける形而上学にあることはこうした点を見ていくと明らかになります。
DNAの発見も言わば、人間とは何か魂とは何かと考えた末に起こったことであるとも言えるのです。
しかし、まだアリストテレスの形而上学が提唱された時期は、あくまでスピリチュアリティを基軸にした思想哲学が主であり、現代のように観察と実験によって技術を生み出すといった利益主義的な発想はなかったかと思います。
現代のようにスピリチュアリティと哲学との間に齟齬が生み出されてしまった理由はどこにあるのか。
その点を次回は考えていきたいと思います。
◎クリックご協力ください!

スポンサーサイト