人は他人にイエスの影を見る(その2)

人は他人にイエスの影を見るからの続きになります。

前回は、私たちの人生における人との関わりあいについてお話させて頂きました。

私たちはいつの間にか人を物として見てしまっているところがあることは前回のお話で明らかに致しました。

「素晴らしい人と出会いたい」という気持ちの裏側には自分自身に都合のよい人を求めているという心情が隠されていることを指摘したわけです。

人には人の立場や事情があり、物ではない以上、物格化して考えてしまうところに真っ当な人間関係など築きようもないことは明白です。

では、私たちが人との関わりあいを考えていく上でどのようなことを吟味していかなければならないのかについてお話していきたいと思います。


◇◇ 人は他人にイエスの影を見る ◇◇


さて、突然に話が飛躍しますが、皆様の多くはイエス・キリストをご存知かと思います。

日本においてはキリスト教徒の割合は多くはないかと思いますが、年間行事の慣習としてクリスマスがあります関係上、少なからずイエス様のことはご存知のことと思います。

流石に細かいキリスト教の教義はわからなくても、なんとなくのイメージとしてイエス様を見ていることと思います。

聖書にかかわる有名な一説を取り上げてみれば、「汝、右の頬を張られたら左の頬を差し出せ」「神の子、イエスは私たちの身代わりとなり血を流し罪を贖ってくださった」などの内容の言葉が出てきます。

つまりは、一般的なイメージとしてのイエス様はとんでもなく素晴らしく良い人だといえるでしょう。

何しろ、殴られるようなことがあっても、復讐したりせず、むしろ、相手の思うままに委ねるがごとき精神性、さらに、私たちに代わって血まで流して罪を贖ってくださるわけです。

なんて、素晴らしい人なんでしょうか。

多くのキリスト教に入信されている方は、イエス様のこれほどの良い人ぶりにほれ込んだという部分も多いのではないでしょうか。

もちろん、かなりデフォルメした解釈をしていますが、概ねの核心はついていることと思います。

イエス様はもはや人間を超越して神の子、いや神として崇められるようになっています。

しかし、もし、生身のイエス様が現在の自分の信者からの見られ方を知ったとしたらどう思われたでしょうか。

時々、夢想します。

私がもし、イエス様の立場だったらきっと「おいおい、ちょっと待ってくれよ。勝手なこと言わんでくれや」と思ったことでしょう。

イエス様といえど、この世で生きていらした時には、色々と思うところもあったでしょうし、立派な方であったはずですから、内省したり、自らを研鑽したりする日々を送っていたはずです。

決して、自分は超越した存在で、完璧な存在だから、皆の身代わりになるべく全てをなげうつために生まれてきたとは考えていなかったと思います。

結果的にイエス様は多くの人の信仰のシンボルとして沢山の希望を残してくださったわけですが、全ての人間を都合よく助けてあげようなんて考えていたとは到底思えません。

そうです。

イエス様に限らず、私たち人間は自身の不完全性を理解し、その中で内省し研鑽し、少しずつでも成長すべく努力しながら生きているのです。

そんな人間がひしめき合う世の中が現世というものなのです。

このような真実を理解してみると自分にとって百パーセント完全に都合のよい理想的な人間などいるはずがないということがわかるはずです。

「私の伴侶はだらしなくて困る」
「うちの上司はいつも部下に責任を擦り付ける卑怯な人です!」


こんな風に自分と関わる人間に対して不満を持つ方もいらっしゃることと思います。

しかしながら、自分にとって理想的で都合の良い人がいない以上、さもありなんなのです。

ここで以前、立ち読みしたある本に掲載していたことをご紹介してみたいと思います。

本のタイトル、細かい内容は忘れてしまいましたが、ある有識者に相談者が質問をして回答するというQA的な内容でありました。

その本の中である20代の女性がこのような質問をされていました。

かいつまんで内容を整理すると、その女性には親友がいたのですが、その親友がある時、陰で自分の悪口を言っていたことを知ってしまったというのです。相談者の女性は親友だと思っていたのにがっかりしてしまったそうです。

相談の趣旨としては、その親友について今後、どうすべきかということで、許すべきか、それとも付き合わないで縁を切るべきかを悩んでいるということでした。

残念ながら有識者の回答内容は忘れてしまいましたが、私はこの相談を読んでどのような回答があり得るだろうかと考えてみたのです。

そして、至った結論は以下になりました。

相談者の女性が親友を許すべきか、縁をを切るべきかということに関しては、実はどちらでもいいと思うのです。

悪口を言われたことが許せないならば、縁を切ってしまうという決断も決して間違いではないでしょう。

もちろん、許してあげるという判断も良いとは思います。

しかし、ここで大事なのは、その相談者の女性の今後の考え方にあるのです。

おそらく、この女性は親友を許した場合、二度と自分の期待を裏切らない、理想的な親友像であることを期待していることでしょう。

自分の悪口を人に言うなんてことは二度としないでほしいと思うことでしょう。

しかし、すごく残酷なことを言ってしまえば、きっと、親友はいつかは同じことを繰り返す可能性はあることと思います。

なぜならば、人間は皆、ほころびを持ち、至らないところ、傷を持つ存在だからです。

キリスト教の信者の方が敬虔な気持ちで祈り向かうイエス様のような人はいないのです。

嘘もつけば、時には悪態が口をつくこともあるのが人間なのです。

人は誰でも他人にイエス様のごとき理想的で完璧なものの影を追い求めてしまいがちです。

親友なんだから、私の悪口を言うなんておかしい。

親友なんだから、いつでもどこでも完璧に理想の友達でいてほしい。

こう思うものでもあるのです。

しかし、それはできない相談なのです。

では、この女性は親友に対してどうすべきなのか。

先にも言いましたが、親友と縁を切るのも許すのもどちらでもいいのです。

ただ、人と人との間柄というものは、不完全なもの同士が絡み合いながら織りなすものなのです。

つまり、人との関わり合いにおいて、大事な点は、相手の不完全さを受け入れることができるかどうかにあるのです。

私がもしこの相談者の女性に回答を返すとするならば、あなたが親友のいいところ悪いところを含めて受け入れることができるかどうかが、今後の対応のヒントになるのではないかと伝えたことでしょう。

この相談からも分かるように人は常に自分の理想とあるべき正義に当てはめて考えてしまいます。

当てはまらないと悩むわけです。

他人にイエス様のごとき人であってほしいという気持ちがある以上は、人間関係はより難しく実り難いものになってしまいます。

しかし、自分自身が他人に対してイエス様のごとき気持ちで許す愛で向き合う時、人間関係という悩みの多くは解決へと向かうのではないでしょうか。



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そうですよね。皆、完全な存在じゃない、問題や悩みが起きるのは当たり前で、大切なのはそれぞれ自身がそれを受け入れて、じゃあどうするかって改善や新しい創造を生み出していくことだと思います。

No title

他人を裁くことなく、「被害を被った」と憤慨したり悩んだりしている自我意識からできるだけはなれることですかね。

どうもありがとうございました!

親友

すごく分かりやすく、物事の考え方や捉え方を書いて下さっていて、すごく頭の中のハテナが解消されて助かっています。ありがとうございます。
今回の内容で、不完全な人を受け入れるという言葉が出ていましたが、それを受けて、親友というものは、どういう存在なのか分からなく、コメントさせて頂きました。

優劣?合う合わない?は皆が不完全であれば、どこを見て、合うな〜と思うのでしょうか?思いっきり好きになれるのでしょうか?好きになっても次の瞬間は嫌いになっていたりします。自分の問題でしょうか?やだなと思ったら関係を絶ってしまったので、分からなくなってしまったのかもしれません。

人との関わり方、自分を大切にすると自分勝手の違いも分からず、ハテナが増えて困っています。

解答を頂けたら、幸いです。
宜しくお願いします。
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こんにちは!天心と申します。
守護霊アドバイス等の取次鑑定を行っています。
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