【公開質疑応答】神社参拝と忌み事
こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、慈鏡様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
公開質問 初めてですが ご教示よろしくお願いいたします
友人の お父様が今年1月にご逝去されました
友人とは ある神社へ参拝を予定をしておりましたが 友人は一周忌があければ 神社参拝できるのでしょうか
一説には 鳥居をくぐらなければ 大丈夫と 耳にもしますが
また 最初の参拝には お祓いをさせて頂いたほうがよろしいでしょうか
よろしくご教示 お願いいたします
【回答】
慈鏡様
ご質問ありがとうございます。
確かに神社は穢れを嫌います。
特に神道においては死を穢れと考えます。
古事記神話のくだりで、伊邪那美之命(いざなみのみこと)が亡くなって黄泉の国に行く話があります。
妻の死を悲しんだ伊邪那岐之命(いざなぎのみこと)は、まだ国生みの途上にあることを理由に妻の伊邪那美之命に帰ってくるように黄泉の国まで行き懇願します。
伊邪那美之命は、決して自分の姿を見ないことを条件に帰ることを約束しますが、伊邪那岐之命は、この約束を破り妻の姿を見てしまいます。
その時、目にした妻の姿は醜く変わり果て、以前の妻の姿とは違ったのです。
驚いた伊邪那岐之命は、一目散に逃げ出し、約束を破られ辱めを受けた伊邪那美之命は恐ろしい姿で、怒り狂い追いかけてきます。
ざっと古事記神話のくだりを簡略化して紹介しましたが、今のお話で登場する黄泉の国は、穢れた世界を表しています。
伊邪那美之命は、死の穢れを受けたため黄泉の国に行ったわけです。
このことにも、神道の考え方には、穢れを嫌う風潮が現れていますね。
また、先の神話のくだりの続きには、伊邪那岐之命が妻の追手から、逃れた後、小戸(おど)の阿波岐原(あわぎがはら)にて禊祓いを行います。
穢れた状態にしておくのを嫌うからこそ、伊邪那岐之命は禊祓いしたわけです。
このことから、神道では穢れを嫌い、穢れた場合は禊祓いをして綺麗にするという習わしがあるわけです。
さて、ご質問に話を戻しますと忌み事があった場合、神道では穢れと認識するので穢れた状態で清らかな神域に詣でるべきではないという発想になるのは当然なのかも知れません。
しかし、先の神話にもあるとうり、穢れても禊祓いをすれば良いわけです。
その意味では、身内に亡くなられた方があったとしても、お祓いを受ければ問題はないと言えるでしょう。
ただ、それだと表面的なことだけで、本質的な意味がわからなくなるので、もう少しだけ、掘り下げてみたいと思います。
そもそも、何故、神道が穢れを嫌うのかと言えば、清浄化された霊的な空間を大事にするからです。
もちろん、霊的空間は目に見えませんし、物理的空間のことではありません。
なので、物理的な力により壊されることはありません。
しかしながら、霊波動の乱れには弱いという特長があります。
霊波動が乱されることで、霊的空間は壊れるのですね。
さて、では、霊波動が乱れる場合はどんな時なのでしょうか。
様々なことが考えられますが、要は心根が大きく乱れる時です。
やはり、身内が亡くなられた場合は、大きく悲しみにくれてしまいます。
だから、そのような時には、霊波動は乱れやすいのです。
何故、忌み事が穢れとされるのかと言えば、大きく心根が乱れるからです。
そのような大きな霊波動の乱れがある時には、神域の霊的空間を壊さぬように参詣を控える慣習が出来たのではないかと思います。
なので、結論を言えば、忌み事があっても霊波動が清浄化されていれば、参詣しても神社を大きく穢すことにはならないと思います。
あくまで一つの基本的な見方としては以上のようになります。
以上、回答とさせて頂きます。
天心 拝
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友人の お父様が今年1月にご逝去されました
友人とは ある神社へ参拝を予定をしておりましたが 友人は一周忌があければ 神社参拝できるのでしょうか
一説には 鳥居をくぐらなければ 大丈夫と 耳にもしますが
また 最初の参拝には お祓いをさせて頂いたほうがよろしいでしょうか
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【回答】
慈鏡様
ご質問ありがとうございます。
確かに神社は穢れを嫌います。
特に神道においては死を穢れと考えます。
古事記神話のくだりで、伊邪那美之命(いざなみのみこと)が亡くなって黄泉の国に行く話があります。
妻の死を悲しんだ伊邪那岐之命(いざなぎのみこと)は、まだ国生みの途上にあることを理由に妻の伊邪那美之命に帰ってくるように黄泉の国まで行き懇願します。
伊邪那美之命は、決して自分の姿を見ないことを条件に帰ることを約束しますが、伊邪那岐之命は、この約束を破り妻の姿を見てしまいます。
その時、目にした妻の姿は醜く変わり果て、以前の妻の姿とは違ったのです。
驚いた伊邪那岐之命は、一目散に逃げ出し、約束を破られ辱めを受けた伊邪那美之命は恐ろしい姿で、怒り狂い追いかけてきます。
ざっと古事記神話のくだりを簡略化して紹介しましたが、今のお話で登場する黄泉の国は、穢れた世界を表しています。
伊邪那美之命は、死の穢れを受けたため黄泉の国に行ったわけです。
このことにも、神道の考え方には、穢れを嫌う風潮が現れていますね。
また、先の神話のくだりの続きには、伊邪那岐之命が妻の追手から、逃れた後、小戸(おど)の阿波岐原(あわぎがはら)にて禊祓いを行います。
穢れた状態にしておくのを嫌うからこそ、伊邪那岐之命は禊祓いしたわけです。
このことから、神道では穢れを嫌い、穢れた場合は禊祓いをして綺麗にするという習わしがあるわけです。
さて、ご質問に話を戻しますと忌み事があった場合、神道では穢れと認識するので穢れた状態で清らかな神域に詣でるべきではないという発想になるのは当然なのかも知れません。
しかし、先の神話にもあるとうり、穢れても禊祓いをすれば良いわけです。
その意味では、身内に亡くなられた方があったとしても、お祓いを受ければ問題はないと言えるでしょう。
ただ、それだと表面的なことだけで、本質的な意味がわからなくなるので、もう少しだけ、掘り下げてみたいと思います。
そもそも、何故、神道が穢れを嫌うのかと言えば、清浄化された霊的な空間を大事にするからです。
もちろん、霊的空間は目に見えませんし、物理的空間のことではありません。
なので、物理的な力により壊されることはありません。
しかしながら、霊波動の乱れには弱いという特長があります。
霊波動が乱されることで、霊的空間は壊れるのですね。
さて、では、霊波動が乱れる場合はどんな時なのでしょうか。
様々なことが考えられますが、要は心根が大きく乱れる時です。
やはり、身内が亡くなられた場合は、大きく悲しみにくれてしまいます。
だから、そのような時には、霊波動は乱れやすいのです。
何故、忌み事が穢れとされるのかと言えば、大きく心根が乱れるからです。
そのような大きな霊波動の乱れがある時には、神域の霊的空間を壊さぬように参詣を控える慣習が出来たのではないかと思います。
なので、結論を言えば、忌み事があっても霊波動が清浄化されていれば、参詣しても神社を大きく穢すことにはならないと思います。
あくまで一つの基本的な見方としては以上のようになります。
以上、回答とさせて頂きます。
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